2014/06/07

意外な人物像『カント先生の散歩』

『カント先生の散歩』池内紀(潮出版社/2013)を読む。
なにをどうまちがっても、余生で『純粋理性批判』なんてものを読むことは絶対にないので、この本を読まなければ、カントという人がどういう人であったかなんてことは知らないままだっただろう。まあ、知ったからといって、どうということはないのだけれど、無知による先入観をくつがえされるのは、いつだって新鮮で楽しい。

カント先生の意外な素顔——

その一。
その哲学は、薄暗い書斎の深い孤独な思考によって生み出されたものではなくて、ケーニヒスベルク(バルト海の真珠!)に居を構えたイギリス人商人ジョセフ・グリーンとのおしゃべりによって生まれた。この二人は「形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した」(p.61)。『純粋理性批判』にはグリーンと対話しその批判を受けなかったものは一行もない、とのちにカントは語った。

その二。
カントは生涯独身だったので、食事に招待されることがありがたかった。しかし陰鬱な哲学者では毎回ディナーに招かれることはあり得ない。カントは話術に巧みで、下々のドイツ語にも通じており、座を盛り上げてくれる、貴族や大商人にとってつねにありがたい客であった。

その三。
カントは、ケーニヒスベルク大学哲学部の学部長を三度、大学の総長を二度つとめた。世俗的な駆け引きにおいて、決して敵たちにひけはとらなかった。フランス大革命のあとの欧州のハイパーインフレで多くの金持ちや貴族が没落していくなかで、大局的な将来予測から賢明な投資をして晩年にはアカデミズムの住人にはあり得ないような資産を築いていた。

池内さんの文章は例によってシャープだが、そのまなざしはあたたかい。


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2014/06/04

暗くて深い川『女のいない男たち』

村上春樹の『女のいない男たち』を読む。
〝男と女の間には〟ではじまる「黒の舟歌」を連想したのはわたしだけか。なんだか老大家の円熟した芸を見せられてるみたいだなあ、などと思ったが、よく考えれば、この作家が昔風の文壇にいれば、まさにそういう大御所の巨匠になっているはずである。
いや、わたしが知らないだけで、じっさいにそう呼ばれているのかもしれないけれど。もしかしたら。

「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」の6篇で、ふたつの作品に共通する場所(ジャズのLPレコードをかけているバー)がでてくるが、連作というほどのつながりはない。もっとも、「まえがき」を読むと、これらがあるやっかいな情念を共通のモチーフにしていることがわかる。
読了した後で、もう一度、この「まえがき」を読むと、なにがどうというのはむつかしいのだが、なんとなく言わんとするところは、わかるような気もしないではない。
まあ、例によってするする読めるけれど、ちょっと(精神の)胃にもたれる感じもあって、個人的にはあんまり好きになれないな。


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2014/06/02

タイムトラベルはいつも切ない『11/22/63』

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スティーヴン・キングの長編で訳者が白石朗とくれば、これはもう安心保証付きみたいなもんである。だからもちろん大いに楽しんだ。面白かった。堪能した。
しかし、傑作かと問われれば、残念ながらいまひとつかなという感想。

1945年8月15日という日が日本人にとって説明不要であるように、1963年11月22日は、アメリカ人にとっては、J・F・ケネディの暗殺の日として記憶に刻み込まれているのだろう。わたし自身のかすかな記憶にも、実験中の衛星中継で流れた白黒のニュースの映像が焼き付いている。
本書の「著者あとがき」によれば、キング本人は、積み上げれば自身の身長ほどになる関連書籍を渉猟した上で、真相は退屈なウォレン調査委員会の報告がまちがいないだろうという立場である。すなわち、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯説。まあ、これについてはわたしには、知識が欠けているので適否は判断しようがない。ただ、本書のなかで描写されるオズワルドの横顔は、なるほど暗殺者はこうして生まれるものかもなあ、というリアリティがあった。もう細かい内容は、すっかりこぼれ落ちたが、ジェームズ・エルロイの『American Tabloid』の断片にも通じる。

だが、読了されたされたみなさんからは、いやそうじゃなかろう、本書の紹介をするなら、全然別の切り口が必要じゃないか、と責められるだろう。たしかに、本書は現代史のうんちくを得るためのオハナシじゃないのですね。ではなんであるか。ズバリ、これは「ある愛の歌」なんですなあ。

そして、ここが、まさにわたしが残念ながら傑作とまでは言いかねると評するゆえん。だってね、タイムトラベルに男と女の愛をからめれば、これは過去のこのジャンルの定型といってもいいくらい、切ないものになるにきまっているんだなあ。
せっかく、キングらしい、果断さでタイムトラベルものの掟破り(歴史を変更することを目的とした時間旅行)をしたんだもの、それではすこしロマンチックが過ぎると言うものでは・・・。


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2014/05/20

キュートな「タイピスト」

ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』によれば、現在のキーボードの配列は、タイプライターが作られた当時、隣接したキーが絡まないように、わざと打ちにくく並べたのだそうですが、フランス映画「タイピスト」のなかに、まさにその早打ちのトラブルが出て来て面白かった。

この映画、見ている途中で、ははあ、これは「麗しのサブリナ」と「マイ・フェア・レディ」へのオマージュだな、とわかる仕掛けで、どちらの映画もお気に入りのわたしは、見ていてとても楽しかった。
時代の設定は1958年だそうですが、クルマとか、ドレスとか、キッチンのインテリアだとか、じつにいい雰囲気。ファッションというのは不思議なもので、いま80年代の映画で、たとえばファラ・フォーセットなんかが出てくると(リアルタイムで見てたときはすごくいいと思ってたのに)、うえー、なんて格好悪いんだ、と思わず赤面するのに、60年代の半ばくらいまでの、フォーマルな装いは、いいセンスだなあ、と惚れ惚れする。

ヒロインのローズを演じたデボラ・フランソワが可愛らしい。何度でも見たくなるいい映画だと思います。これもオススメ。

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2014/05/10

大統領の料理人

フランソワ・ミッテランはフランス大統領を14年にわたって務めた大物政治家。社会党の第一書記でもあり、当初は大企業の国有化政策を積極的に押し進めた社会主義者でありますね。

何回目かのサミットのとき、このミッテラン大統領がドイツのコール首相と、たまたまトイレで並んでおしっこをしたんだそうですな。するとコール首相がやたらに巨体をひねって、ナニを隠そうとする。

「ねえ、ヘルムート、なんでそんなに見られるのを嫌がるのかね?」

すると、コール首相がこう答えた。「いや、フランソワ、だってキミは大きなものを見るとすぐ国有化しようとするからね」

——というジョークとはなんの関係もありませんが、「大統領の料理人」という映画がとても面白かったので、ググってみたら、実話がベースで、この大統領はミッテランだったんだそうな。

映画では、大統領はエリゼ宮の、宮廷料理然とした豪華な料理に反発し、子供の頃に祖母が食べさせてくれたような素朴だが本物の家庭料理を求めている。古い料理本のレシピを暗唱できるほど、食に対するこだわりがつよく、秘書官が真っ青になり、将軍が激怒しても、分刻みのスケジュールのなかで、女料理人と食べ物の話で、予定を狂わせる。いやはや、フランス人てやつは・・・。(笑)

映画に出てくる料理がほんとうに美味そうでため息が出る。おすすめ。

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2014/04/26

『ジャック・リッチーのあの手この手』

『ジャック・リッチーのあの手この手』ジャック・リッチー/小鷹信光編(早川書房/2013)を読む。短編というより日本で言うところのショートショートといった軽い読み物。
テイストは都筑道夫によく似ている。EQMMの常連作家だったから、都筑道夫はとうぜんよく知っていたはずだが、影響を受けたということはないだろう。都筑道夫のほうが上手である。
すべて本邦初訳の23篇。
ちょっととぼけたミステリーも悪くないが、意外に面白いのが、SF、怪奇小説仕立ての作品。悪魔の持ちかける「三つの願い事」をどう捌くかや、地球に迷い込んだ宇宙人の拘束からどう逃れるか、人食いソファーのオハナシなど。
まずまず楽しめる1冊。

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2014/04/22

軽快にして骨太『卵をめぐる祖父の戦争』

『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳(早川書房/2010)を読む。

オハナシの舞台は1941年の夏からおよそ900日続いたレニングラード包囲戦。
ドイツ軍による砲撃や空襲もさることながら、補給路を完全に断たれた大都市には飢餓が広まり100万人ともいわれる市民が死んだ。飼い犬に続き、街からすべてのネコが消えたので、ひとときネズミはよろこんだが、たちまちかれらも食い尽くされた。いよいよ食べるものがなくなると、肉はもうあれしかない。道ばたの親子の屍は、尻のところだけ切り取られて放置されている・・・

そんな街に残った十七歳の少年レフが、死んだドイツの落下傘兵を見に行って、ナイフを分捕り、装備品のフラスクの酒を仲間とまわし飲みしていたところをロシアの兵隊に捕まってしまう。夜間外出禁止令違反の上に、いかに敵からとはいえ略奪行為の最中だ。とっくに裁判なんてものはなくなった。即刻銃殺を覚悟したら、ネヴァ河畔の悪名高い<十字>という監獄にぶち込まれ、そこで出会ったのが赤軍の脱走兵コーリャである。

脱走したんじゃない。自分の卒論「ウシャコヴォの『中庭の猟犬』考——現代社会学的分析のレンズを通して」を守ろうとしたんだよ。え、ウシャコヴォを知らないって?なんと学校教育のレベルもここまで低下してしまったか。「ふたりが初めてのキスを交わした小屋には、まだ鼻をつく子羊の血のにおいが漂っていた」これが冒頭の一行だ。もっとも偉大なロシアの小説だという者もいる。それなのにきみは聞いたこともないとはな・・・。

のっけから軽快なテンポで、ふたりの卵探しの冒険が始まる。こんな悲惨な包囲戦のさなかになんで卵探しなのかといえば、秘密警察の大佐の愛娘の結婚式にどうしてもケーキが必要だからだ。レニングラード中探しても卵はない。あるとすれば、ドイツ軍が制圧している郊外の農家だろう。しかたがない、行こうじゃないか。でも弾はドイツ軍からも赤軍からもパルチザンからも飛んでくる。いやはや、ばかばかしさのまっただ中での犬死覚悟の弥次喜多珍道中である。

途中でパルチザンの女狙撃手が合流し、最後の大勝負はナチのアインザッツグルッペンの少佐とのチェス試合。
さてここで、聞き慣れないアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)という言葉が出てきましたね。本書の中にこういう説明があります。

六月以降、ロシア人はドイツ語の特別授業を受けており、その結果、あっというまに何十ものドイツ語が日常生活の語彙にはいり込んでいた。パンツァー(戦車)、ユンカース、ヴェーアマハト(ドイツ国防軍)、ルフトヴァッフェ(空軍)、ブリッツクリーク(電撃戦)、ゲシュタポ。その他もろもろの大文字で始まる名詞。アインザッツグルッペンという言葉を初めて耳にしたときには、そのほかの言葉のような邪悪な響きはなかった。十九世紀のつまらない喜劇に出てくる気むずかしい会計士の名前のように聞こえた。それが今ではもう少しも可笑しな名前ではなくなっていた。新聞記事やラジオの報道、伝え聞く噂であれこれ知った今ではもう。アインザッツグルッペンはナチスの死の部隊だ。正規軍や武装親衛隊、ゲシュタポの中から厳選された——残忍なまでの有能さを持つ純血のアーリア人から選ばれた——殺人者集団だ。ドイツ軍が他国に侵略するときには、アインザッツグルッペンが実戦部隊のあとに続き、戦域が確保されると、自分たちの標的を狩りにいく。共産主義者にジプシー、知識人、それにもちろんユダヤ人。

いやあ、この悪役が、また悪い奴なんだな。なんとしてでも殺せ、こいつだけは、とすっかり熱が入ってしまう。骨の太い娯楽小説として堪能できました。
ところで、もっとも偉大なロシア小説、ウシャコヴォの『中庭の猟犬』のことはもちろん物知りのみなさんはよくご存知でしょうね。これと、チェスの勝負とのふたつが、わたしのつぼに見事にはまりました。(笑)

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2014/04/18

ポストモダンのミステリー『二流小説家』

『二流小説家』デイヴィッド・ゴードン/青木千鶴訳(早川書房/2011)を読む。
先に結論を言えば、ミステリーとしてはつまらない。ミステリの形式を利用した小説として読むならば面白い、という感じ。

主人公ハリーは、コロンビア大学で学位を二つとって、大学院進学希望者の必須テストで言語800点という秀才のくせに、あんまり上品とはいえない雑誌類に、SM小説、ハードボイルド、SF、ヴァンパイアものなどを、それぞれ別のペンネームで書き分けて食いつないでいるさえない小説家である。
金に困って、一応、経歴だけは立派なので、金持ちの子女が通う高校に家庭教師の売り込みに行ったら、クレアという女子高校生をまかされるが、すっかり女の子に足元を見透かされて、勉強を教えてやるはずが、作家業のエージェントごっこの道具に成り下がっているという設定。そこそこの作家としての野心がないわけでもないが、あんまり長いこと、濃いジャンル小説ばかり書いてたので、いまさらブンガクに色気をだすのも気が乗らない。
そんな主人公のところに、10年ばかり前に全米を揺るがした猟奇連続殺人の死刑囚から事件の告白のライターになってほしいという打診がくる。独房で愛読していた雑誌の「いけないアバズレ調教相談」なんてコーナーのライターがハリーだったからというのでありますね。まだ若い美女たちの頭部だけが見つかっていない、凄惨な連続殺人事件の真相を犯人がハリーだけに話して、出版してもいいというのだ。
実現すれば、ベストセラーは約束されている。

遺族には、もうそっとしておいてくれと詰め寄られ、担当のFBI捜査官には圧力をかけられてやる気がなくなったハリーは、「やるのよ!」と言うクレアに、こんなの引き受けたら死ぬまで傷痕が残る、とぼやく。

「死ぬまで残る傷なら、すでに負ってるじゃない。以前の職業はポルノ雑誌のライターだった。いまは高校生の期末レポートを代作している。亡くなったお母さんの扮装をして、ソフトSMのヴァンパイア小説を書いている。(中略)こう言っちゃ悪いけど、いまのあなたは負け犬よ。だからこそ、今回のことはあなたにとって大きな転機になる。おそらくは最後の転機にね。」

というわけで、ハリーが死刑囚に会いに行くと・・・てな展開であります。
本書のどこかに書いてあったと思うのだが、小説で難しいのは、最初の部分でも、最後の部分でもない。真ん中がいちばん難しいのだ、というのが二流小説家の主人公の意見。たしかに本書(ハリーがはじめて自分の本名で書いた「小説」がこの本、というメタフィクションなのね)も、まさにそのとおりで、読んでる途中は、ほんまに面白い。
ハリーが書き分けているジャンル小説が、ところどころに挟まれているのが、読ませる。ペンネームてのはやはり大事だなあ。(笑)


  • セクシーSF『惑星ゾーグ——さまよえる愛奴船』T・R・L・バングストローム著
  • 濡れ場の多いハードボイルド『四十二番街の裏切り』J・デューク・ジョンソン
  • ソフトSMヴァンパイア小説『深紅の闇が迫る』シビリン・ロリンド・ゴールド著

しかし、娯楽ミステリーも、とうとうここまできちゃったんだなあ、と嘆息。

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2014/04/15

花子とアンのこと

NHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」のヒロイン一家とその周囲の農民の様子に違和感を覚えるという意見もある様子。つまり、このドラマ、最初のほうは子供も大人もみんななんだか薄汚いのね。貧困と見た目の薄汚さを安易に結びつけてんじゃないの、というお怒りらしい。
これ、半分はあたってると思う。だって、ちょっとわざとらしいもんね。子供だってみんな栄養状態よさそうなのに、顔だけほこりまみれにしたってねえ。(笑)

ただ、このドラマのテロップを見ると、農民の藁仕事の指導とか時代考証担当とかの名前もでておりまして、いくら水呑百姓だって顔は洗っただろうし、それなりの身繕いはしてたんじゃないのかというのは、たぶん間違い。おそらく、本当はテレビよりもっと薄汚かっただろうと思う。
リアルじゃないと言われたら、時代考証の人は、こんな写真をいくらでも出してきて、だってホントにこうだったんだもの、と説明するだろうなあ。

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まあ、ただ、あくまで朝のドラマですからねえ。ちょっと汚すぎるのではないかという気はしますなあ。

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2014/04/13

『俳句の詩学・美学』から二題

『俳句教養講座第二巻 俳句の詩学・美学』(角川学芸出版/2009)を読む。尼ヶ崎彬氏の「俳諧のレトリック 余情・やつし・本歌取り」という文章が示唆に富む。たとえば日本の詩歌の流れをこういうかたちで切り取った一節——。

まず漢詩・和歌は「雅」の文芸(現代風に言えば「芸術」)として公認され、上流階級や知識人の必須教養であった。その和歌の形式や技法を借用して生まれたパーティー・ゲームが連歌である。二条良基が「当座の興」と言ったとおり、その場かぎりの座興である。中世に連歌が和歌をしのぐ隆盛を見たのは、この気軽な娯楽性のためだと言える。その連歌を和歌に並ぶ風雅の文芸に引き上げたのが宗祗らであった。するとシリアスになってしまった連歌の重苦しさを嫌ってか、連歌師の中にふたたび娯楽を主眼とする一派が出てくる。即ち俳諧連歌である。これは「俳言」つまり「俗」な言葉を用いて、滑稽を身上とする。
この軽快な通俗文芸が流行すると、こんどはこの俳諧連歌をふたたび風雅な文芸に昇華させようという試みが出てくる。松尾芭蕉である。彼の発句こそ、今日私たちが「俳句」と呼ぶものの原点である。と、こうして見ると、俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。

この方は、学習院女子大学の美学がご専門の先生らしいのだが、(Wikipediaによる。本シリーズには執筆者のプロフィールが載ってなくて不親切)短い文章ながらシャープな論考でありますね。

もうひとつ、この巻で面白かったのは櫂未知子氏の「無季俳句をどう読むか」で、内容もよく腑に落ちるものでしたが、意外だったのはこんな話。

しんしんと肺碧きまで海のたび   篠原鳳作

俳句の好きな方なら、無季俳句といえばまずこの句がうかぶだろう。ところで、この句について大輪靖宏氏が次のようなアンケートをとったらしいんですね。(「俳句の基本とその応用」角川学芸ブックス)

  • 季節を感じない
  • 春を感じる
  • 夏を感じる
  • 秋を感じる
  • 冬を感じる

さて、みなさんはどうでしょうか。わたしはこれ夏以外にないじゃん、とまず思ったのね。
アンケートは俳句とは無関係の二十代の男女104名の回答を得た。
それによると。季節を感じない人——0名。春——2名。夏——35名。秋——0名。冬——67名。

櫂さんによれば、この句を夏の景として読む(俳人の感覚ではそうなる)のは、じつはあとから植え付けられた部分がかなりあるかもしれないという。なるほど、そういえば、この句と中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」を並べた解説をよく目にしたような記憶があり、草田男のほうは季語は秋ではあるが、8月7日頃からは秋だから実質的には夏の海の情景として想起されるのだろう。いずれにしても真っ青な海と船尾から一直線に伸びた航跡(わたしのイメージだが)は、夏以外にはないと思っていたのだが、先入観を排して素直な気持ちで「しんしんと肺碧きまで海のたび」を読むと、むしろ冬のイメージが湧くというのは面白い。


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