2012/01/27

オリンパスの充電器について

引っ越し準備のどさくさに、オリンパスのE-330というデジタル一眼の充電器が行方不明となったため自分のカメラが使えない。(実際は使えるのだが、バッテリー残量が減っているのでこれをゼロにしたくない)
仕方がないので必要な写真はiPhoneで撮っている。まあ、こっちのほうがクラウドで母艦のiMacのアルバムに自動的に追加されるので便利ではあるのだが、やっぱりこれは、という被写体はちゃんとしたカメラで撮りたいんだなあ。
もう一度、荷造りの段ボールなどを改めて、充電器が出てくればいいのだけれど、なにせ要らない周辺機器やそれに接続のアダプターや充電器類がたくさんあったので、それらに紛らせて処分している可能性も高い。
この機種の電池の型番はBLM-1で、オリンパスのサイトにあたるとこの電池に対応する充電器は型番BCM-2であることがわかる。ところが、恐れていたように、すでにこの型番の充電器は販売されていないんだなあ。
充電器なんてただの付属品のようにぞんざいに扱ってきたが、よく考えると、これがないと致命的だ。せっかくのデジカメ本体も交換レンズもただの粗大ゴミになってしまう。

オリンパスのサポートセンターに電話して調べてもらったところ、以下のようなことがわかったので、同じようなトラブルに見舞われた方の参考に、ここに記しておきます。

E-330用の充電器(BCM-2)の生産はすでに終わっており、メーカーに注文してももう入手できないので、対策(オリンパスの提案)は以下のとおり。

いまの電池(BLM-1)をまだ使いたいなら、量販店や流通のほうでこの充電器の在庫がないか問い合わせる。運良く見つかればそれを買えばよい。ただしネットオークションにもこの型式は見つからないので、流通在庫を見つけるのはなかなかむつかしいように思う。ちなみに当時の定価は6300円。
いまの電池をつかうことをあきらめれば、後継の電池(BLM-5)とその専用充電器(BCM-2)をセットにした商品(定価9870円)があり、この電池がE-330でも使える。残念なことに新しい充電器で古い電池を充電することはできない。
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E-330を買ったのは2006年の6月だから、いまの電池は5年半使ったことになる。回数を記録してはいないが、かりに月2回充電していたとすると、充電回数は(わたしはたいがいは残量警告が出てからフル充電するくせがある)132回。後継の電池(BLM-5)の仕様によれば充電回数は500回とありますから、古い電池も同等の性能とすると、まだ寿命の3割も使っていないことになる。しかし、まあ5年半は使ったわけだし、この際、電池も新しいものに買い替えてもいいとあきらめる考え方もある。

すべては引っ越し荷物の再点検後のことだけれども。

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2012/01/20

Pinterest は面白い

Pinterest は、インターネット上のあらゆるイメージを、クリック一つで取り込めるサービス。いろんな雑誌のかっこいい写真をスクラップするような感覚で楽しめる。
Flickr の Fav もいいのだが、たくさんお気に入り写真を集めても、分類ができないのがいまひとつだった。
ファッションにしても、仕事にしても、先になんらかのイメージを自分の頭の中につくっておくと、スポーツのイメージトレーニングと同じように、いろんなアイデアや工夫を思いつくことができるようだ。
女性にわりと人気があるというのも、うなづける。

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2012/01/14

猫の皿

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煮魚の食べ方がきれいだと、ときどき褒められる。遠慮のない家族には、むしろあきれられる。ほら、猫も食べるところがないだろ、なんて威張るのだが、よく考えると、この頃のペットとやらの飼い猫は、ご飯の残りなんか食べてないんだろうな。

むかしは猫は自然に家に居着くものだから、勝手に土間にいるものというくらいで、座敷に上がったりしようものなら、こっぴどく叱られるのがふつうだった。いまから思えば、猫といえどもたんに愛玩の対象ではなく、鼠とりや残飯処理という役目があって、それなりに役に立つから家に置いてもらっていたのだろう。とくにご飯の残りは、猫がガシガシたべることで、一種の生ごみのディスポーザーになっていたのだと思う。循環型の暮らしの一角を猫も占めていた、というとちと大げさかもしれないけれど。

「猫の皿」という落語がある。わたしが持っていたのは、志ん生のレコード。
こんな噺だ。

骨董屋のなかに店を構えず地方をぐるぐる回って出物を見つけ、江戸に帰って高く売るという連中がいて、かれらのことを旗師というそうな。
あるときそんな旗師が茶店で一服しようとすると、へっついさんの傍らに猫が寝ている。じっと見ているとそこに皿が置いてあるのだが、その皿が「高麗の梅鉢」と言う、実にすごいような皿。まず江戸の物持ちでもこれが十も揃う家はないくらいで、一枚放しても三百両に羽根が生えて飛んで行くという逸品。
ははあ、知らねえんだ。知らねえから猫の皿なんかにしてやがる。知らねえてえのは恐ろしいもんだね。
というわけでこの旗師、茶店の爺さんに、カミサンが可愛がってた猫が死んでしまったが、この猫が生き写し、ぜひこの猫を三両で譲ってくれろと談判。
そんな毛の抜けかけた汚い猫に、三両なんてめっそうもないという爺さんに、いいんだ、いいんだ、おお、可愛いねぇお前は、ほら俺の懐に入んなと、無理矢理三両渡すと、そうだついでにこの皿ももらっていくぜ、宿屋にも猫に皿を使わせるの気の毒だからな、なんて言って、ひょいと皿を取ろうとする。
すると、この爺さんが、いえお客様その皿はいけません、こっちのをお持ちなさいと他の皿を棚から出してくる。いや、猫ってのは、皿が変ると餌を食べなくなる、こっちの使いかけのやつでいいよ。
するとこの爺さん、いや、お客様はご存じないことだが、この皿は高麗の梅鉢といって、まず江戸の物持ちでも十は揃わん、一枚だけでも手放せば三百両が羽根が生えても飛んで行くというようなお皿でしてな、家に置いてもおけんのでこうやって毎日茶店に持って来るんです、と言うのである。
へえぇ、そらあ、おらぁ知らねえから、つい言っちまったが、そうか、そうかよ、そんなら仕方ねえな、——おいこら、引っ掻くな、この畜生、ひえぇ、ひどい毛抜けだよこいつぁ。——しかし、親父、そんな高けえ皿なら、なんでそんな大事なもんを猫の皿なんかにしてやがんだよ、と旗師がぼやくと、茶店の爺さん、にやりと笑って、なにこうしていると、ときどき猫が三両で売れます。

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2012/01/08

「Facebookページ」というもうひとつのアカウント

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Facebook を始めると、当然ながらFacebook の個人アカウントをもって、インターネット上で実際の人間関係に基づくいろいろな交流ができることは誰でも知っていると思う。
だが、Facebook にはもうひとつ、この個人アカウントをもつ人が管理人となって運営できる「Facebookページ」アカウントとでもいうものがあって、これが自営業を目指す者にとってはなかなか魅力的である。もっとも、魅力的に見えることと、実際に商いの役に立つかどうかは、当然ながら別のことで、過度の幻想はもたないほうが無難ではあるだろうけれど。

この「Facebookページ」というのは、わたしが使い始めたころは、たしかファンページと呼んでいたと思うのだが、そのときは仕組みがどうもよく理解できなかった。いや、仕組み自体は単純で、誰でも開設運営ができるのだが、個人アカウントとどう使い分けるのかが、よく見えなかったのですね。
ところが、いざ会社を辞めて、なんとかフリーで食って行く方法を見つけようと、ない知恵を絞っていると、この「Facebookページ」というのは、じつによく、するすると理解できる。なるほど、これでマーク・ザッカーバーグが億万長者になったわけだよ、こりゃ自営業者の魔法の杖だわ、とほとほと感心した。

Facebook というのは、ご承知のように、基本的に実名でなければならないし、「友達」というつながりは、原則としてリアルな世界の知り合いであることが求められている。いわゆるネットの匿名同士のコミュニケーションからみると、きわめて閉鎖的な世界でありますね。しかし、この「Facebookページ」というのは、この狭い安全地帯に籠った個人アカウントの人が、同時に自分の探している「お客さん」に直接語りかけることのできるラジオ局をもつようなイメージなんだと思う。面白いね。

ちなみにわたしの「Facebookページ」は【こちら】。どうぞご来訪くださいませ。

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2012/01/06

最後の城の跡地

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あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、福岡県豊前市の千束というところに千束八幡神社というのがありまして、わたしにも縁のある土地なので、お参りをして参りました。南無八幡大菩薩というくらいで、神仏習合で日本全国に広がった、「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」、といった体のまあ言ってみればどこにでもあるようなありふれた八幡社なのでありますが、秋の奉納の薪能舞台もあるなかなかちゃんとした聖域であります。また、じつはここはちと面白い場所でもある。
明治維新のとき長州藩が小倉小笠原藩と戦をしますが、これで城を焼かれた小笠原が日本で最後の城を築いた場所なんでありますね。築城は明治三年、翌年には新政府の廃城令で取り壊された短命の城でもある。
以下、神域内の説明板から——

旭城跡(千束城)

千束八幡神社の敷地とその周辺が城跡です。江戸時代には現在の豊前市と新吉富村の一部は新田藩と呼ばれる小倉藩小笠原氏の支藩でありました。
藩主の居城は、領内になく小倉城下の篠崎にありましたので、篠崎藩とも呼ばれていました。

慶応二年(一八六六)小倉藩と長州藩との戦いで、小倉城、篠崎邸ともに焼け落ちたため、当主の小笠原貞正は、小倉藩主小笠原富千代丸とともに田川郡香春に逃れました。

その後貞正は領内の当郡に来て安雲(新吉富村)の光林寺に入り、明治二年(一八六九)、塔田原と呼ばれていたこの地に居館を構えることにしました。ここにはかつて多くの古墳があり、その古墳の石を使って石垣を築き、明治三年(一八七〇)に完成して、旭城と名付けられました。

しかし時代は明治の新政府によって激動の時を迎え、明治四年(一八七一)の廃藩置県さらに廃城令が出される中、築城間もない旭城はその使命を終えます。短命であったこと、そして全国で最後に築かれた城と言う意味で、歴史にその名を残した城でもあります。
現在も城跡である千束八幡神社の周辺には多くの石垣が残されており、当時の名残をとどめています。

豊前市教育委員会

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2011/12/24

松本幸四郎の俳句、松たか子の俳句

幾千の木漏日いだき山眠る  錦升

日経新聞の連載「私の履歴書」、今月は松本幸四郎が書いているのだが、今日の分はとくに面白かった。
1942年生まれの高麗屋が俳句を始めたのは二十代後半からということなので、句歴はざっと四十年以上になる計算だ。俳号は錦升。
最初の手ほどきは母親からお受けになったという。(このお母様が諸事にわたってすぐれたかたであったことが連載の冒頭に熱心に語られていたことも印象深い)母親の師匠は、その父(つまり幸四郎の祖父)である中村吉右衛門である。吉右衛門の俳句は、このブログでも以前、取り上げたことがある。(こちら

新聞をお読みになっていない方もおられると思うので、以下は今回の文章の引用――

祖父の句に「雪の日や雪のせりふを口ずさむ」というのがあった。中学生のころは、功成り名を遂げた名優がコタツにあたりながら詠んだ風流な句というような感じしかもっていなかったが、父の死をみとって大阪の襲名披露公演に戻る機中、ふいにその句が口をついて出た。実は自分が今出ている舞台で、雪のセリフをしゃべっていることに気がついたのである。祖父のその句は雪が降っても、親が死んでも、舞台でセリフをしゃべっている役者の宿命を詠んだものだったのだ。

役者というのは、毎日の肉体労働で心身へとへとになっているものだから、こういう短い十七文字くらいしか最後にはしゃべれない、つまりは役者松本幸四郎の労働句なんだよ、と韜晦しながらも、セリフはしゃべっていない時のほうが難しい、俳句はその一瞬の間を教えてくれる、という言葉にはさすがに説得力があるね。

ちなみに松たか子も俳句を詠むのだそうな。

打ち出して銀座は薫る月の道

オフィーリアを勤め終えての帰路に詠んだ句だという。いいですね、これ。

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2011/12/10

コールラビ

名前が面白くて一度聞いたら忘れられない。
人生にくたびれたウッディ・アレンが女友達に「ラビに電話しなさい」なんて言われている場面を勝手に想像してしまうが、もちろんぜんぜん関係ない。(笑)
もともとはドイツ語「Kohlrabi」。
「Kohl」はキャベツ、「rabi」はカブを意味しているらしい。英語のサイトでは別名を「turnip rooted cabbage」ともいうと書いてありますね。和名もいちおうあって「カブカンラン(蕪甘藍)」。まんまでありますな。
そういえば前のドイツ連邦共和国首相のヘルムート・コールさんが、たしかこの「Kohl」だったっけ。キャベツ首相。なかなかかわいいね。

畑で大きくすると、その姿がユーモラスで、わたしはなぜかこれを見るとウーパールーパーを連想する。収穫はだいたい野球のボール大が目安のようなので、先日、採ってかみさんに料理してもらった。皮を剥いてさっとソテーしたものと、賽の目に切ったものをスープの具にして試してみたが、ほんのり甘みがあってなかなかおいしい。まあ、お味のほうも、いかにも「カブカンラン」という、そのまんまの感じであります。近所のイオンなどではあんまり見かけたことがないが、わりと作りやすい野菜だし、美味しいので、うちの農園のスタメンにしてもいいかも。

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2011/12/08

当尾の里の冬

最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、——ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。

堀辰雄『大和路』

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昨日はいいお天気だったので、京都府加茂町は当尾(とうのお)まで紅葉を見に出かけました。クルマを走らせれば半時間くらいのところであります。
ここには浄瑠璃寺というけっこうなお寺がありまして、冒頭に引用した堀辰雄が訪れたのは春ですが、秋から初冬にかけても紅葉が池に映えてなかなか素敵です。ちょっと不便なところにあるので、それほど人も来ませんし、なにより拝観料をとっていないのが好感がもてます。でも、お庭の手入れもあるし、本堂や三重塔は国宝ですから維持管理も大変なのではないかとそれはそれで余計なことを考えたり。(笑)

ちょっと前のNHKの紀行番組で、夜、この本堂の阿弥陀如来様のライトアップされたお顔が鏡のような池に映っているシーンをやってました。池を挟んで本堂を眺めても深い庇でお顔は拝せませんが、池に目を転じるとありがたい極楽浄土の仏様が映っているという仕掛けなんですね。むかしから建築というのは舞台演出でもあった。

浄瑠璃寺のお参りをすませると、今度は山道を、はあはあ、言いながら登って岩船寺というお寺に参ります。
このあたりはそのむかし平安から鎌倉にかけて浄土信仰の一大修行地でしたから、山道のここかしこに石仏が点在しています。当尾は、鎌倉時代の文献には「塔尾」として出てくるそうですね。浄土信仰の伽藍や塔の多い尾根といった意味だったと思われます。
ところどころに無人の野菜や漬け物の直売所があって、鰹節の缶の蓋にピッグバンク風の切れ目があって百円玉を入れるようになっております。ダイコンのゆず漬けを買って帰りましたがたいへんおいしゅうございました。

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2011/11/28

キッチンガーデンと産直販売

今回は宣伝。

今年いっぱいで32年のサラリーマン生活にピリオドを打って、来年から農業を営むことにします。
営農のかたちは土づくりを基礎とした有機農業です。ただし、不耕起自然農法とか無農薬栽培といった麗々しいうたい文句は避けて、とりあえずは自家消費用のものと同じ育て方をした野菜を販売していくことにします。

専業農家でも大量出荷用の畑と自家消費用の畑を分けていることが多いのはご承知だと思います。自家消費用の畑では、化学肥料もあまり使いませんし、少々、虫が食うことがわかっていても最初から最後まで農薬に頼ったりはしません。これらは見た目が悪くて売り物にはなりませんが、安心して口にできますし、味もこっちのほうがよかったりするのですね。
「いや、むしろそういう種類の野菜が欲しいんだよね!」というお客さんもなかにはいらっしゃることを知っていますので、そういう方にご注文いただいてご自宅にお届けする野菜農家を始めようと考えているわけです。

わたし自身がこれまでそうでしたが、都会暮らしの人でも、田舎の実家から米や野菜や果物などをときどき宅急便で送ってもらっているご家庭もあると思います。幸いにそういう田舎がある人ばかりでもありませんから、もしよろしければ我が家の農園(小田農園里山野菜という名称をもう考えています)を田舎がわりにしていただこうというわけです。

販売の仕方はまだ検討中ですが、ネットショップを使うのがいいかなと漠然と考えています。ブログやメールで土づくりや野菜たちの生育、収穫の様子などを見ていただくことができますし、ネットショップなら購買者による格付けや感想もきちんと掲載されますから、正直な農業経営をやれば安心してお客様になっていただけるのではないかと思っています。
一種の産地直送ですから送料がかかりますが、都会のスーパーの価格を参考に、ほぼ同等の値段で販売したいと考えています。つまりお近くのスーパーで買うとたとえば2000円くらいの分量の野菜を、同じ2000円でお届けする。送料は生産者であるわたし持ちですが、その分は農家の庭先価格よりは高く買っていただけるわけですから、農家のわたしも購入してくださる消費者もお互いが納得できるのではないかな、と思うのですね。

営農の場所は山口県美祢市という典型的な中山間地域です。
今回、小さな山といくらかの田畑を引き継ぐのですが、とりあえず手始めに耕作するのは1反3畝(約1300平米)くらいの畑です。その一部は、むかしから、そしていまもわたしの家の食卓を賄うキッチンガーデンです。もちろん家族が食べるだけですから、ごく一部しか畑に使っていないのですね。大部分は余っていますので、コスモスなどの景観植物の畑になっています。もう10数年そういうかたちでしたから地力はそう悪くないと思います。(まあ正確な土壌診断をしてみないとなんともいえませんが)
そこをいまのキッチンガーデンと同じようなやり方で、産地直売用に広げていこうと思っているのであります。基本的に露地栽培ですが、そのうちハウス栽培もできるようにして、多品種の季節野菜を混植したいと思います。

こういうあまり大きくない圃場で多品種の栽培を行うというのは、農業経営にとっては不効率なんですが、畑の土壌の健全さを保つ上では有利な面があるんですね。広大な農地で特定の野菜を何年間も大量に作り続ける単作農業、いわゆる名産地の土壌は連作によってじつは消耗しています。傷んだ土壌は病害虫の発生をもたらしますが、これを抑えるために化学的な薬品で土壌消毒をし、化学肥料などでなんとか地力を保っているわけです。
ところが面白いことに、農業的には肥沃という言葉とは無縁のように思える東京や大阪で、地産地消で多品種の野菜をうまく作り続けている農家の土壌などは、こういう大規模な名産地の土壌よりはるかに健康で安全安心であるという皮肉な状況が現にあります。
都会に作物を大量に送るという役割が、じつは地方の農家の土壌の荒廃につながっているわけで、こういう面からも、小さなファミリー・ファームこそが有機農業にもっとも適していることがわかります。

うまくいくかどうか正直、わからないのですが、スティーヴ・ジョブズも、「キミの心と直感に従う勇気を持つんだよ。心と直感は、キミが本当は何になりたいか、ちゃんとわかっているんだから」と例のスタンフォード大学のスピーチで言っておりましたね。

つまりは、そういうことである。はい。

だんだんと農園開設の様子など、書き込んでいくつもりですので、引き続きご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

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2011/11/18

北村薫の「円紫さんと私」シリーズ

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注文している本が届かず手元に読む本がなくなったので、しかたなく敵の本棚を偵察して、手頃な通勤の友を借り出す。
選んだのは北村薫の「円紫さんと私」シリーズ。

デビュー作の『空飛ぶ馬』の初出が1989年で、いちおうこのシリーズのラストと思われる『朝霧』が1998年ということなので10年がかりの作品群だが、わたしは読むのはこれがはじめてだった。
北村薫の本は『詩歌の待ち伏せ』の上下巻と『続・詩歌の待ち伏せ』を以前読んだことがあるので、はじめての作家ではないが、本業のミステリ小説のほうまでは手がまわらなかったのであります。

五冊どれも面白いが、いちばん完成度が高いなあと感心したのは最後の『朝霧』に収録された三つの短編(「山眠る」「走り来るもの」「朝霧」)だ。ただし、この一冊だけ読めば十分かというと、やはりダメで、『空飛ぶ馬』『夜の蝉』『秋の花』『六の宮の姫君』と読み進めてきてはじめて良さがしみじみと身に染むのではないかと思う。

気に入ったのは、もうひとつあって、じつはカバーの絵である。
高野文子が描く「私」の成長がこうして並べてみるとなんとなく了解できるような気がするのであります。ショートカットの女の子が気になるという男心かな。剛力彩芽とかさ。(笑)
最後の雪かき長靴スタイルにはすこしずっこけるが、まあ、これはこれで「私」らしいのかもしれない。

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