2015/04/20

地べたの現代史『ツリーハウス』

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『ツリーハウス』角田光代(文藝春秋/2010)を読む。
じつは先週、図書館から借りて、立て続けに読んでいたのは、ほとんどが鴻巣友季子さんの書評集『本の森 翻訳の泉』にあった本だ。
『夏目家順路』『末裔』そして本書『ツリーハウス』。いずれも女性作家による二代、三代にわたる家族の年代記である。同時に地べたからみた現代史という感もある。もちろんいまどきの小説だから、時間の流れは複雑で、現在と過去が入り組んで、ややこしく進行するけれど、単純化すれば、祖父や父が死んで、残された家族が、故人の知られざる過去をいろんな角度から発見しながら、自分自身のルーツをたどっていく、というスタイルをとっている。

なかでもこの『ツリーハウス』は、いちばん長いこともあって、読み応えがあった。奥付によれば、「産経新聞大阪本社夕刊にて2008年10月4日から2009年9月26日まで毎週土曜連載」とのこと。ためしにざっと文字数を計算すると、原稿用紙にして800枚くらいの作品だから、まあ、そんなに長いというほどではないが、もっと長いのを読んだような満足感を得られる作品だな。

神武建国の五族協和という理想やら、疲弊した農村から満州に行って真面目に開拓すれば、一人十町歩の土地が手に入るなどという、偉いさんらのうまい演説に乗せられたわけではない。男は、ただ漠然と、果てのない大地や広い世界に憧れて満州移民の開拓団に応募した。

キャバレーの女給になったら絵描きの客に口説かれた。狭い日本にゃ住み飽きた、一緒に満州へ行こうと誘われた。はじめての男だった。ふと満州に行ってもいいかと思った。貯めていた給金で二人分の費用を出して、東京駅で待ったが、男はもらった旅費を着服して逃げた。怒りも悲しみもなかった。列車に乗り、船に乗り、大連から新京に向かう列車のなかで、飴玉みたいな橙色の太陽が地平線に沈むのを見て、そうかわたしはこの景色が見たかったんだと女は思った。

新宿のさえない中華料理屋「翡翠飯店」のルーツを辿っていくと、この男と女とに行き着く。どちらも、ただぼんやりと不確かなものに憧れ、しかし、ほとんどは流されるままに生きて世に翻弄された昭和の日本人の底辺のふたり。
その子供達は団塊の世代。そして孫達はいまのニート世代。
この三つの世代が、それぞれあるときは60年安保の喧騒や、またあるときはベトナム反戦の新宿騒乱を背景に、またあるときは漫画家志望の青年の交友やオーム真理教の出家騒ぎなどを背景に描かれる。新聞の三面記事や、いまはあまり見かけないが昔はよくあったグラフ雑誌のモノクロ写真が頭に思い浮かぶ。

題名のツリーハウスは、実際に物語の中で登場人物たちによってつくられるものでもあるのだが、もちろんこの翡翠飯店の大家族のハウスのありようを象徴するものでもある。風通しがよく、うるさい干渉もうけず、気晴らしにちょっとあがって昼寝をしたり、漫画を読むにはたのしい場所だ。だからといって、これをほんとうの住処にできるわけもない。おれたちは根無し草なんだ、ここは根無し草が、根無し草らしいやり方で、なんだか家みたいなものをつくっているけど、これはほんとうの家じゃない、ツリーハウスみたいなもんなんだ、という思いが伝わってくる。
しかし、根があるように見えて、けっきょく人間というのは、みんな根無し草じゃないか、というさめた感慨もわいてくる。
意外に爽やかな読後感でこれはオススメ。


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2015/04/19

笑える不条理小説『末裔』

絲山秋子『末裔』(講談社/2011)を読む。
ある日、帰宅すると鍵穴がなかった。白いペンキを何度も塗り直した木製のドア。ドアノブを支える真鍮製のプレートの、いつも鍵を差し入れていたその場所に、あるはずの鍵穴がない。そんなバカなことがあるはずがないと、鍵でつついても、指でなぞっても、丸の下にスカートを穿いたかたちの鍵穴は消えて、のっぺりとした金属の板があるばかり。

そんな不条理な場面から、この中編小説ははじまる。

目覚めると虫に変身していたというほどの不条理ではないが、鍵穴が消えてしまったために、自分の家から閉め出された区役所の職員が、仕方なしに町を彷徨していると、占い師に呼び止められて、亡くなったあんたの奥さんに子供の頃に助けてもらったから、とビジネスホテルに案内され、しかしあとで荷物を取り行くとそのホテルは見つからず、近所の人に聞いてもそんなホテルのことは誰も知らない。電車で大嫌いな犬を連れた女と口論をしていたはずが、気がつくと知り合いが横にいて、やだなあ、電車ではスリッパ履かなきゃ、条例違反ですよ、男はブルー、女はピンクですからね、なんておかしなことを言う——

まあ、一種の怪奇譚とも、幻想小説とも言えなくはないが、この展開、なんだか馴染みがあるなあ、とよく考えてみると、カズオ・イシグロの『The Unconsoled』を思わせるのだ。するすると話が進むが、どこか現実とずれている感じ。ただし、こちらのほうは、現実の世界がぬるぬるとコントロールを失って、果せない仕事に焦りだけが積み上がっていく夢魔の世界に入り込んだような恐怖感はない。どちらかというと、ばかばかしい、少々さびしいけれど気楽な世界である。
それに主人公は、つぎつぎに出くわす不思議に翻弄されはしても、それなりに世故に長けた初老の公務員であることが明らかで、語り手の正気を疑わざるを得ないような不安定さはどこにもないから、たぶん、この世界が自体がかなりへんなんだろうなあ、と読者は考えて、まあいいか、と読書を楽しむことができそうである。
好きなタイプの小説だ。
作者はたぶんそうではないとわたしはにらんでいるが、一番おかしいのは、あれこれ繰り出される主人公の犬嫌いの描写。大いに笑えます。

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2015/04/16

『夏目家順路』

朝倉かすみ『夏目家順路』(文藝春秋/2010)を読む。

夏目清茂、七十四歳。北海道の小さな町で生まれ育った。家庭は複雑というほどでもないが、六人家族で、両親と清茂、そして年の離れた兄(前妻の子)夫婦とその子供が一つ家に生活していた。兄の子供は政夫といって、清茂とは同い年である。兄の子どもだから、清茂が叔父、政夫は甥になるが、互いに名前で呼び合い、幼いころは仲がよかった。長じるにつれ気が合わなくなったのは、政夫がしょっちゅうしょうもない嘘をつくせいだった、と清茂は思う。

父がなくなり、その後添いだった母が他家に嫁いだのは、清茂たちが国民学校に上がる前のことである。兄の家族に養ってもらったが、裕福な家ではなかったから、高校に行けるのは跡取りの政夫だけであるのは当然と、清茂も心得ていたし、そもそも勉強ができるのは政夫で清茂は出来がよろしくなかった。とはいえ、腹の中ではなにかくすぶるものがあった。

中学校をでると札幌のブリキ職人の住み込みになったが、五年間の徒弟の年季にプラス一年のお礼奉公がすんでも手間賃をくれない。ある日、日頃の親方への不満が爆発して、一人作業場を飛び出す。
「おれには、からだがある。頑丈なやつだ。飯さえ入れれば、なんぼでも動く。」

こんなふうに小説は始まるのだが、最初のオハナシ(八編の連作短編小説の形式になっているのね)で、この夏目清茂が飲み屋で倒れ、病院に搬送されて死んでしまうのであります。
というわけで夏目家の葬儀を軸に、清茂とつながる人々が、それぞれの語りで今と昔を行き来するのが小説『夏目家順路』。つまり順路は葬儀の案内看板である。

華やかな名声はないが、葬式に町内会長が弔辞くらいは読んでくれる。人もうらやむような資産はないが、なんとか持ち家くらいは手に入った。人並みに子供も孫もいるが、中年時代に女房には逃げられた。まあ、世間的にはさえない人生。底辺とはいわないが、重要な人物でも、一目置かれる人間でもない。こう説明すると、我ながら「はあ、つまらないねえ」と思ってしまうのだが、ところがどっこい意外にこの小説、面白い。

もともと小説というのは、国際関係だの政治経済だの社会構造だのといった高尚なことを論じる大説に対して、人間のとるにたらない、きわめて個人的なあれこれを書き連ねた小さな説である。市井の中卒のブリキ職人を中心に据えても、いくらでも面白い小説は書けてしまうのだ、ということが見事にわかって爽快な作品。

作者は昭和三十五年生まれ、四十三歳の時に北海道新聞文学賞、四十四歳で小説現代新人賞、四十九歳で吉川英治文学新人賞を受賞と、奥付の著者紹介にある。文章は達者で安心して読める。なかなかいい作家だとみた。

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2015/04/13

モンティ・ホール問題再び

もう2年ほど前になるが、このブログに数学のモンティ・ホール問題について書いたことがある。三つの選択肢のひとつだけが正解で、残る二つは不正解。解答者は、これにしますと選択をしたあとで、残りのふたつのうちの不正解はどちらか教えてもらえる。その上でもういちどだけ選択を変えるチャンスがあたえられる。この場合、最初の選択を変えたほうがいいのか、堅持したほうがいいのかという問題である。くわしいことは以前の記事に書いたように、結論は最初の選択を捨てて、やり直したほうが2倍確率が高まるというもの。《こちら》

イアン・マキューアンの『甘美なる作戦』を読んでいたら、このモンティ・ホール問題が登場した。主人公はケンブリッジの数学科を(劣等生で)出て、1972年にイギリス情報部の下級職員に採用された美女。新進の有望作家を、本人も知らないままに西側陣営の有利な言論を発信する大物に育てようという作戦の工作を任せられて作家に近づくのだが、本気で惚れてしまうというダメスパイであります。

モンティ・ホール問題は、数学のかわった議論はないかと訊かれた彼女が教えてやって、やっと理解できた作家がよろこんでこれをネタにした短編小説を書くのだが、それが成立しないというふうに展開する。

小説家が書いたのはこういう話だ。
妻の浮気を疑った男が外出する妻を尾行してホテルにまでやってくる。エレベーターの表示から妻が男と居るはずの階はわかった。ところが、そのフロアには三つの部屋がある。401と402と403。

男は迷った末に、中に妻がいるのは三分の一の確率だから、とりあえずどれでもいいからドアを蹴破って踏み込もうと、401号室のドアを選んだ。蹴ろうとしたちょうどそのとき、403号室のドアが開いて、赤ん坊を抱いたインド人の夫婦が出てくる。

そこで建築家であり、数学にも強い男は考える。最初に蹴破ろうと選んだ401号室が正しい確率は三分の一。のこる二つが正解である確率は三分の二。いまやこの三分の二のうちの一つが空き部屋になったわけだから、402号室が確率三分の二となったわけだ。「確率論の厳密な法則はどんな場合にも揺るがないから、ばかでもなければ最初の選択にしがみつくことはないだろう」そして男は402号室に飛び込んで、裸の男に平手打ち、妻には冷たい軽蔑の視線を与えて離婚の手続きを始めるためにロンドンに引き上げる・・・

ところが、この草稿を見せられた数学科卒の主人公は、これはまずい、短編の中の男の考えは数学的に成立しないので、けっきょく小説家はまったく理解してなかったのだ、と焦る。責任は説明が不十分だった自分にもあると対案を手紙で書き始めるのであります。

さて、これはかなりややこしいですね。なんで、これはダメなのか。
理由は、インド人夫婦がどの部屋から出てくるかというのはまったくの偶然で、モンティ・ホール問題の司会者の不正解の告知はそうではないというところにあるらしい。

つまり小説ではたまたまインド人夫婦は403号室から出てきますが、かれらが401号室から出てくる可能性だって当然あるわけですね。その場合は、短編の寝取られ男の選択は残るふた部屋の五分五分。だから、同じように、たまたま403号室が空き部屋になったとしても401号室と402号室のどちらにふたりがいるかはまったく同じ確率になる——ということだと、わたしは一応理解したのだが、完全に納得はできておりません。最初の選択後の不正解の告知が偶然によるものだったら確率は二分の一だけど、同じ告知であってもそれが偶然ではなく定められた手順によるものだったら確率は三分の二に跳ね上がるようにみえますものね。なんか騙されたような気がする。量子力学の観察者効果を聞いた時のようなモヤモヤ感がある。

マキューアンも、たぶん、実際にこういう短編をつくって専門家に、ああ、これはね、ダメなんだ、なんて言われたに違いないとわたしはにらんでおります。(笑)

ところで、『甘美なる作戦』のほうは、なかなか楽しい小説ですが、ラストはどんでん返しというほどでもないね。ああ、やっぱりそうきましたか、とマキューアンのファンなら最初から予想ができる。それよりも、いまから考えると冷戦というのはいいものだったんだなあ、と対テロ戦争なるものの渦中にある時代から見ると、そう見える。(もちろん見えるだけで、本質は同じであることはわかってますけど)それは、ちょうど映画「ゴッド・ファーザー」のころはよかったと、映画「悪の法則」を見ながら思うのにちょっと似ているかもしれない。

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2014/10/05

ぞけさって誰よ

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NHKの新しい連続テレビ小説「マッサン」で蛍の光を歌うシーンがあった。小学生のころ、この歌詞の「あけてぞ/けさは/わかれゆく」のところがわからなくて、てっきり「あけて/ぞけさは/わかれゆく」だと思っていた。メロディーもそういう切れになってるしさ。そうか、そうか、スギの戸を開けて「ぞけさ」というヒトが別れ行くんだと思っておった。昔から、ひとにものを訊ねることが嫌いで、我流で間違ったことを覚えるという悪いくせがあったのであります。ほんとに、もう、ぞけさって誰よ。(笑)

向田邦子の「眠る杯」ですな。

むかしなにかで書いたような気もするが、仰げば尊しにもあるね。「おもえば/いととし/このとしつき」の「いと疾し」を「愛おしい」という意味だと勘違いし、「いまこそ/わかれめ」の「こそ——め」の係り結びを、割れ目と同じように「別れ目」だと思っていた。いや、この歌、もしいまでも卒業式なんかで歌う学校があったらいまの女子高生なんかぜったい、「ちょー、別れ目」と思っているに違いない。「め」は意志を表す「む」の已然形なんて言っても、「やばっ」てなもんだよなあ。

などと、むかしはモノをしらざりき、みたいなことを書いているが、じつは、今日の今日まで勘違いしていた歌詞があったので、恥ずかしながらご披露します。wikiで金比羅さんのことを読んでいたら、「こんぴらふねふね」という例の唄がのっていた。

こうあります。

こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ

わたし、これ「お池」だと思っておりました。金毘羅さんのおもちゃの船を、子供が小さな池でふうふう息を吹いて走らせてる光景だと思い込んでいた。いやはや、お笑い下さいませ。(笑)

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2014/09/25

読書灯のこと

父が入院したので交代で付き添うことが多くなった。
もっとも穏やかに眠っている間は、とくにすることもない。ちょうどいい読書時間なのだが、夜中はさすがに薄暗い。しばらく、小さなマグライトを読書灯にしていたが、ふと思いついて、夜間飛行や深夜バスの乗客向けの商品があるはずだとネットで探すと、写真のようなパネル式の読書灯がAmazonにありました。980円と値段も手頃。
アクリルの透明なパネルを頁の上において、3つのLEDランプでパネル全体を明るくして、下の文字を読むと言う方式です。

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使用してみての感想をご参考まで。

  • 真っ暗な部屋より、すこし薄暗い(けれど本は読めない)というくらいの場所に適する。
  • 電池(単4三本)をいれても軽いので読書の邪魔にはならない。
  • 発光するランプの光がもうすこし均等になればよい
  • パネルのくもりや小さな疵が発光させると目立つ。わたしの場合は裏表はあきらめて、ましな片面だけを使っています。
少々値段は張っても、パネルの材質をスマートフォンの硝子程度にし、光源をもうすこし均等にパネル内に照射するような製品がほかにあれば、文句なく「買い」ですね。
まあ、値段が安いので、これはこれで十分な性能ではあります。


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2014/06/07

意外な人物像『カント先生の散歩』

『カント先生の散歩』池内紀(潮出版社/2013)を読む。
なにをどうまちがっても、余生で『純粋理性批判』なんてものを読むことは絶対にないので、この本を読まなければ、カントという人がどういう人であったかなんてことは知らないままだっただろう。まあ、知ったからといって、どうということはないのだけれど、無知による先入観をくつがえされるのは、いつだって新鮮で楽しい。

カント先生の意外な素顔——

その一。
その哲学は、薄暗い書斎の深い孤独な思考によって生み出されたものではなくて、ケーニヒスベルク(バルト海の真珠!)に居を構えたイギリス人商人ジョセフ・グリーンとのおしゃべりによって生まれた。この二人は「形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した」(p.61)。『純粋理性批判』にはグリーンと対話しその批判を受けなかったものは一行もない、とのちにカントは語った。

その二。
カントは生涯独身だったので、食事に招待されることがありがたかった。しかし陰鬱な哲学者では毎回ディナーに招かれることはあり得ない。カントは話術に巧みで、下々のドイツ語にも通じており、座を盛り上げてくれる、貴族や大商人にとってつねにありがたい客であった。

その三。
カントは、ケーニヒスベルク大学哲学部の学部長を三度、大学の総長を二度つとめた。世俗的な駆け引きにおいて、決して敵たちにひけはとらなかった。フランス大革命のあとの欧州のハイパーインフレで多くの金持ちや貴族が没落していくなかで、大局的な将来予測から賢明な投資をして晩年にはアカデミズムの住人にはあり得ないような資産を築いていた。

池内さんの文章は例によってシャープだが、そのまなざしはあたたかい。


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2014/06/04

暗くて深い川『女のいない男たち』

村上春樹の『女のいない男たち』を読む。
〝男と女の間には〟ではじまる「黒の舟歌」を連想したのはわたしだけか。なんだか老大家の円熟した芸を見せられてるみたいだなあ、などと思ったが、よく考えれば、この作家が昔風の文壇にいれば、まさにそういう大御所の巨匠になっているはずである。
いや、わたしが知らないだけで、じっさいにそう呼ばれているのかもしれないけれど。もしかしたら。

「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」の6篇で、ふたつの作品に共通する場所(ジャズのLPレコードをかけているバー)がでてくるが、連作というほどのつながりはない。もっとも、「まえがき」を読むと、これらがあるやっかいな情念を共通のモチーフにしていることがわかる。
読了した後で、もう一度、この「まえがき」を読むと、なにがどうというのはむつかしいのだが、なんとなく言わんとするところは、わかるような気もしないではない。
まあ、例によってするする読めるけれど、ちょっと(精神の)胃にもたれる感じもあって、個人的にはあんまり好きになれないな。


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2014/06/02

タイムトラベルはいつも切ない『11/22/63』

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スティーヴン・キングの長編で訳者が白石朗とくれば、これはもう安心保証付きみたいなもんである。だからもちろん大いに楽しんだ。面白かった。堪能した。
しかし、傑作かと問われれば、残念ながらいまひとつかなという感想。

1945年8月15日という日が日本人にとって説明不要であるように、1963年11月22日は、アメリカ人にとっては、J・F・ケネディの暗殺の日として記憶に刻み込まれているのだろう。わたし自身のかすかな記憶にも、実験中の衛星中継で流れた白黒のニュースの映像が焼き付いている。
本書の「著者あとがき」によれば、キング本人は、積み上げれば自身の身長ほどになる関連書籍を渉猟した上で、真相は退屈なウォレン調査委員会の報告がまちがいないだろうという立場である。すなわち、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯説。まあ、これについてはわたしには、知識が欠けているので適否は判断しようがない。ただ、本書のなかで描写されるオズワルドの横顔は、なるほど暗殺者はこうして生まれるものかもなあ、というリアリティがあった。もう細かい内容は、すっかりこぼれ落ちたが、ジェームズ・エルロイの『American Tabloid』の断片にも通じる。

だが、読了されたされたみなさんからは、いやそうじゃなかろう、本書の紹介をするなら、全然別の切り口が必要じゃないか、と責められるだろう。たしかに、本書は現代史のうんちくを得るためのオハナシじゃないのですね。ではなんであるか。ズバリ、これは「ある愛の歌」なんですなあ。

そして、ここが、まさにわたしが残念ながら傑作とまでは言いかねると評するゆえん。だってね、タイムトラベルに男と女の愛をからめれば、これは過去のこのジャンルの定型といってもいいくらい、切ないものになるにきまっているんだなあ。
せっかく、キングらしい、果断さでタイムトラベルものの掟破り(歴史を変更することを目的とした時間旅行)をしたんだもの、それではすこしロマンチックが過ぎると言うものでは・・・。


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2014/05/20

キュートな「タイピスト」

ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』によれば、現在のキーボードの配列は、タイプライターが作られた当時、隣接したキーが絡まないように、わざと打ちにくく並べたのだそうですが、フランス映画「タイピスト」のなかに、まさにその早打ちのトラブルが出て来て面白かった。

この映画、見ている途中で、ははあ、これは「麗しのサブリナ」と「マイ・フェア・レディ」へのオマージュだな、とわかる仕掛けで、どちらの映画もお気に入りのわたしは、見ていてとても楽しかった。
時代の設定は1958年だそうですが、クルマとか、ドレスとか、キッチンのインテリアだとか、じつにいい雰囲気。ファッションというのは不思議なもので、いま80年代の映画で、たとえばファラ・フォーセットなんかが出てくると(リアルタイムで見てたときはすごくいいと思ってたのに)、うえー、なんて格好悪いんだ、と思わず赤面するのに、60年代の半ばくらいまでの、フォーマルな装いは、いいセンスだなあ、と惚れ惚れする。

ヒロインのローズを演じたデボラ・フランソワが可愛らしい。何度でも見たくなるいい映画だと思います。これもオススメ。

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