2016/12/15

ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』

Img_0585_1

ヒラリー・マンテルの16世紀の英国史を描いた『ウルフ・ホール』と『罪人を召し出せ』(ともに早川書房、宇佐川晶子訳)は、卑しい身分からやがてヘンリー八世の寵臣として絶大な権勢を誇る身分に登りつめたトマス・クロムウェルが主人公。いろんな小説を読んできたが、これほど魅力的なキャラクターは滅多にない。ミーハーのわたしはすっかり夢中になって、早速、両方のペーパーバックを手に入れたが、これが思いの外の難物で、『Wolf Hall』だけで、読み上げるのにほとんど1年がかりとなった。

我流の英語で多少ヨタヨタしながらも、たいていの小説なら、2、3週間もあれば十分なのだけれど(その気になればであって、最近は寝つきが良すぎてそうはいかないけど)、この作家の場合は一読しただけではなかなか容易に意味が取れないのですね。

ひとつは人称代名詞がちょっと曖昧で、うっかり気をぬくと、別の人の動作や描写のつもりで読み進め、全然違った解釈をしてしまったりするということがある。少し大げさだが、源氏物語の文体を連想したりもする。基本的に 'He' で始まると、それはクロムウェルだという約束を吞み込むのがコツのようだ。

また、風景や歴史の叙述はけっこう饒舌なくせに、いざ肝心なところでは、言わずもがなの説明は一切しないという、ある意味不親切極まりない文体なので、たぶんこういうことだろうけど、果たして自分の読みが正しいのかどうか、途方にくれるような気持ちもときどき起こる。雲の動きに誘われて、どんどん見知らぬ土地に入って行って、結局道に迷うような感じとでもいうか・・・

だから、今回は、すでに読んだ宇佐川晶子氏の訳と逐一突きあわせながらの精読である。一度は読んでいるとはいえ、さすがに細部は覚えてないので、再読で思わぬ発見が多い。年をとるとだんだん同じ本を何度も読むということが面白くなる。

たとえば——
と以下のことを書くのは少し迷った。実は誤訳のことに触れることになるからだ。だから、まずそのことを書く前に、この翻訳はたいへんな力技だっただろうとその苦労に謝したいと思う。上に書いたように、道に迷って途方にくれたときに、翻訳に当たって、ああ、そういう意味か!と自分の不明を恥じるとともに、的確な日本語訳に舌を巻くことの方が(当然)圧倒的に多かったのである。

さて、たとえば、の続きだが、小説の後半で、クロムウェルが息子を連れて、ハットフィールドを訪ねるところ。ヘンリー八世の頼みで彼の二人の娘(キャサリン妃の娘メアリとアン王妃との間に生まれた、このときはまだ赤子のエリザベスですが)の養育をしている館へ向かう途中です。

実はクロムウェルは9歳か10歳の頃にこの館を訪ねたことがあった。史実かどうか知らないが、クロムウェルの叔父はモートン枢機卿お抱えの料理人で、枢機卿がこのハットフィールドの領地に籠ると、はるばるロンドンからこの館に向かったものだ、という昔話を父親が息子に聞かせているという場面です。

まず、翻訳から

・・・・わたしが九つか十だった頃、ジョンおじさんは上等のチーズやパイといった食糧のたくわえを積んだ荷車に、わたしを乗せたものだった。そうやって追いはぎにあう場合にそなえたわけだ」
「護衛はいなかったの?」
「おじさんは護衛の身を心配したんだ」
「誰が護衛を守るの?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」
(『ウルフホール(下)』p.320)

原文はこうです。

..... and when I was nine or ten my uncle John used to pack me in a provisions cart with the best cheeses and the pies, in case anybody tried to steal them when we stopped.'
'Did you not have guards?'
'It was the guards he was afraid of'
'Quis custodiet ipsos custodes?'
'Me, evidently'
'What would you have done?'
'I don't know. Bitten them?'
(p.549)

問題はもちろん「おじさんは護衛の身を心配したんだ」という箇所である。これは、本当に上手の手から、の一例かなあ。

ひまだったら、Quis custodiet ipsos custodes でググって見てください。
山下太郎のラテン語入門というサイトに以下のような説明がありました。

「誰が見張り人自身を見張るのだろうか」と訳せます。
ローマの風刺詩人ユウェナーリスの言葉です(Juv.6.347-348)。
ローマ諷刺詩集 (岩波文庫)
ペルシウス ユウェナーリス 国原 吉之

ただしこのページの日付は2015年1月10日となっていますので、翻訳作業の時にネット検索してもヒットしなかったのは残念ですね。

たぶん、こうなるのではないでしょうか。

「護衛はいなかったの?」
「その護衛だよ、おじさんが心配してたのは」
「ミハリハ・ダレガ・ミハル・ノカ?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」

ちなみにこのシリーズ、最終的にはクロムウェル三部作となる予定らしいが、(第三作 The Mirror and the Light はまだ刊行されていない)なんと第一、第二作ともブッカー賞を受賞しています。BBCがテレビシリーズにしているらしいので、コスチュームドラマ大好き人間としては、NHKにはぜひ頑張って買って放映してもらいたいところ。

保存保存


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/01

ホッファーその他

Img_0421『はじめての短歌』穂村弘(成美堂出版/2014

「ということは、短歌においては、非常に図式化してしていえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。」たいへんよくわかる短歌の「からくり」。ただし、わかったからといって誰でも詠めるわけではない。たとえば、こんなインパクトのあるやつ。

三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり   本多真弓


『短歌ください その二』穂村弘(KADOKAWA2014

おもしろい、ということと、詩情とが絶妙にマッチしているという歌は少ない。この企画の場合、どうしても前者に比重がかかって、かつての糸井重里の万流コピー塾みたいな感じになる。一例——


ジャージ着た七三分けの先生に服装検査される屈辱  (麻倉遥・女・27歳)


『波止場日記 労働と思索』エリック・ホッファー/田中淳訳(みすず書房/2014

「始まりの本」というみすずの新しいシリーズの一冊。この企画、広告では「すでに定評があり、これからも読みつがれていく既刊書、および今後基本書となっていくであろう新刊書で構成する」とある。ただホッファーの魅力を伝えるには、この本が最適なのかどうか、ちと疑問ではあるけれども。

学校教育を受けず、渡りの農務労働者、砂金堀り、サンフランシスコの沖仲士として稼ぎながら、行く先々の図書館で本を読むという人生を送ったホッファーが、自分の思索について書くことができるのではないか、と初めて思いついたのは、モンテーニュのエセーを読んだことがきっかけだった。1936年の冬、砂金堀の山中で雪に閉じ込められたホッファーは、エセーを三回通して読んでほとんど暗記してしまったという。そしてこの16世紀の貴族が語っているのはつまるところ自分(ホッファー)のことだと悟った。モンテーニュを読もうとその本を持って行ったのではない。雪の山中で身動きできなくなった時のための本だから、ただ分厚くて活字がぎっしり詰まった本ならなんでもよかったのである。

ホッファーらしい文章とは次のようなもの。


自由に適さない人々-自由であってもたいしたことのできぬ人々-は権力を渇望するということが重要な点である。p.191


文明の誕生は新たな問いの挑戦なしには考えがたいけれども、アジアの文明はひとたび成立すると、問い以前にすでに答えがあるかのように機能した。

西洋の伝統の外では、権力を自然と同等視し、自然の大洪水の前に頭をたれるごとくに暴政の前に頭をたれる傾向がある。p.226



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/11/24

モンテーニュほか

Img_0412

『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』保苅瑞穂(講談社学術文庫/2015)

「エセー」を読むと、モンテーニュという人は、穏やかな日常を驚くほど大切にした人だという印象が強く(そして事実そのとおりだが)、この人が血みどろの宗教戦争の時代に生きた人だということをつい忘れる。本書(素晴らしい一冊)を読むと、そういう陰惨な内戦の只中にあったからこそ、ささやかな、日々の喜びを自分の館や領地の中に見出していたことが理解できるような気がする。モンテーニュの立場は旧教の側であることを明確にしていたけれど、何より人間の理性を重んじる思想家だった。新教であれ旧教であれ、宗教の名を借りた蛮行に対してはこれを非難した。当時どのような人間が跋扈していたのか。今と変わらない。以下本書よりエセーの一部引用。

その人間と言うのは、最悪の歪曲を行いながら自分は改革に向かっているとか、間違いなく地獄堕ちになるような明白この上ない原因を作っておきながら自分は救済に向かっているとか、あるいは神の庇護のもとに置かれている国や権威や法律を覆したり、母親の手足を引き裂いて、その肉塊を旧敵にやって齧らせたり、兄弟の心の中に親殺しの憎悪をたっぷり詰め込んだり、悪魔と復讐の女神に助けを求めたりしながら、自分は神の言葉の神聖この上ない慈悲と正義の手助けができるのだ、と本気で信じている人間のことである。

『ガリヴァーの帽子』吉田篤弘(文藝春秋/2013)

クラフト・エヴィング商會のことはぼんやりとしか知らない。本書の中では表題作である「ガリヴァーの帽子」、「イヤリング」、「ものすごく手のふるえるギャルソンの話」が良い。星新一のショートショートを少し優しくしたような感じとでもいうのかな。趣味の良い作家として覚えておこう。

『珈琲挽き』小沼丹(講談社文芸文庫/2014)

小沼丹の名前を初めて知ったのは、随筆でも小説でもなく、林語堂の『則天武后』の翻訳家としてであった。林語堂は米国でこれを英語で発表したから、英文学が専門の小沼が訳したのでありますね。本書の中に、この翻訳にまつわる話が出ていて、興味深い。ちなみにもらった「幾許かの金子」は一晩で飲んで「たちまち消えて跡型かも無かった」とありますね。出版社の事は「或る本屋」としているが、これはみすず書房ですな。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/11/09

『密造人の娘』ほか

『密造人の娘』マーガレット・マロン/高瀬素子訳(早川書房/2015)
これは面白かった。ミステリとして、フーダニットの要素もきちんと押さえた上で、登場人物やアメリカ南部の空気をじっくり描いて、重くなりすぎず、軽薄にもならずのバランスがなかなかよろしい。1992年のアメリカ探偵作家クラブ賞、アンソニー賞、アガサ賞、マカヴィティ賞の4賞を取った作品だそうで、翻訳も1995年には同じ訳者で出ていた(ミステリアス・プレス文庫)のを新版にして再び上梓したもの。埋もれさせるには惜しいということだろうか。ただし、手に取ったのは、たまたまカバーのイラストが気に入ったからでありました。なんだかコミックっぽい絵柄がいいじゃないですか。

Img_0399

『九死一生』小手鞠るい(小学館/2013)
はじめて読む作家。文章もうまいし、ストーリーも巧みだが、いまひとつひきこまれるパワーがない。奥付の著者紹介を見ると、ほぼ同世代。恋愛観にしても、死生観にしても、親近感を覚えるけれども、逆にそれが、だからどうしたの、という物足りなさにも通じるのかもしれんな。

『ウエストウイング』津村記久子(朝日新聞出版/2012)
これまたはじめての作家。「最寄り駅であるターミナル近くの、廃線になった貨物レーン地下の長いトンネルを抜けると唐突に現れる」四階建て地下一階の椿ビルディングの西棟に寄り集まる人々のゆるいオムニバス風のオハナシ。ターミナルというのは、具体的に書かれてはいないが、ほかの記述から大阪駅だろうと思われる。だとすると長い地下通路で大阪駅と結ばれたオフィス地域といえば、かつての仕事場のあたりのことか、と思って読むと懐かしくて面白い。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/10/19

芸人と俳人ほか

Img_0359_2『芸人と俳人』又吉直樹×堀本裕樹(集英社/2015)

活字になった対話というのは、脚色とまでは言わなくとも、編集の過程でかなり加工されるものだから、実際にこのとおりのやりとりがあったということではないかもしれないが、又吉直樹の「打てば響く」といった俳句の理解と成長が見事。

『新訳 から騒ぎ』シェイクスピア/河合祥一郎訳(角川文庫/2015)
新訳と聞くとつい読みたくなるのが沙翁の戯曲。河合訳は初めてだが、頭に入りやすくてよい。台詞としても覚えやすいような気がする。

『本に語らせよ』長田弘(幻戯書房/2015)
長田弘の紹介によってはじめて知るという本や人物や事跡がこれまでも多かった。よい読書の指針だったが、惜しい人を亡くしたという思いがつよい。本書でも、中江丑吉、深田康算、斎藤勇、野村修といった人の名前が印象に残る。なかでも中江丑吉についてこのような記述をメモとして——
中江兆民の息子で、丑吉という名だった。父親は息子が俥(人力車)引きになった場合にもいいようにと、丑吉という名を付けたのだそうだ。自恃によって突っぱって、変わり者と指さされながら、一人の無名の市民の生き方を通した。『中江丑吉の人間像』(阪谷芳直、鈴木正編)という心の籠った一冊に、身近に親しんだ人たちの追憶が集められている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

see haiku here

Img_0357

俳画アーティストの清水国治さんから俳画集を二冊ご恵贈いただいた。
『清水国治 俳画集』と『松尾芭蕉+清水国治 俳画集』。
前者のなかに収録された俳文にもあるが、清水さんは多感な少年時代にハワイに行かれた方で、日本語と英語の二つの言語で表現をされる。バイリンガルの俳人というのは貴重な存在だ。詳しいわけではないが、ウェブ上で世界俳句協会の関連サイトを見ると必ずそのお名前を見つけることができる。したがって、この俳画集の俳句、俳文も日本語と英語が併記されている。芭蕉の句は、許可を得てドナルド・キーンの英訳である。

俳句にはいくつかの約束がある。五七五の韻律、切れ、季題など。俳句を詠まない人はそれを制約と見るだろうし、俳句を詠む人は、これらの約束をむしろ詩境を導く枠組みと見る。とはいうものの、俳句を作る人にとっても、なんせこの世界にはセンセーがやたら多くて、なにかというと煩いことを言うので、だんだん窮屈に感じているのではないか。だから俳句を、haiku として表現された短詩を読むのは、そういう窮屈さを取っ払った爽快感がある。本書の楽しさはそういうところにありそうだ。

本のほうはオンデマンドで印刷製本されたようだが、そうと聞かなければわからないだろう。たいへん美しい仕上がりである。清水さんのアートワークは、おそらくコンピュータを駆使するものだと思うので、こういう本作りと相性がいいのかもしれない。
個人的な意見だが、俳画というのは、これくらいのサイズとボリュームで眺めるのが心地よい。あんまり大きすぎたり、重かったりすると、よそ行きの畏まった感じになるが、俳画というのはもともと人間の普段の暮らしの中に溶け込んだ軽みのあるものだったのではないか。

お行儀が悪くて著者には申し訳ないが、カウチに寝そべって、haikuと俳句を代わる代わる読んではイメージを眺める。幼い子供が絵本のページを繰るような読み方が楽しい。

清水さんの俳画の実例は、こちらのブログで見ることができます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015/10/03

デイヴィッド・ロッジとジュンパ・ラヒリ、その他

『必笑小咄のテクニック』米原万里(集英社新書/2006)
方法論で分類したジョーク集という触れ込みなんだが、まあ、それほど大したものではない。思えば、一昔前のジョークはおもわずニヤリとさせられるものが多かった。このごろはなんだか現実がジョークみたいな気がするなあ。憲法解釈を反転させる閣議決定について内閣法制局には公文書がないそうな。やれやれ。

『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/2013)

Img_0300

ひどい題名だなと思いながら読み始めて、なんだ、そのまんまじゃんと感心したり、呆れ返ったり。H・G・ウェルズという人は、二度結婚したが、家庭の外に何人も愛人をもっていた。短期間の情事は些事だから別のこととして、本気で好きになって長くなりそうな愛人は妻にもきちんと報告していた。つぎつぎに新しい女が愛人として本書に登場するので、名前を覚えるのも面倒くさい。しかし登場人物はすべて実在した人間で、手紙や刊行物、書籍、談話なども大半が出典があるそうな。小説ならリアリティないじゃんと思うところだが、まさに事実は小説よりも奇なりであるな。ちなみに原題は"A Man of Parts"。
Partsには二つの意味があって、ひとつは才能という意味。もう一つは、陰部(private parts)の短縮形。同じ伝記小説という手法では『作者を出せ!』のヘンリー・ジェイムスのほうが心穏やかに読めるなあ。

『小田嶋隆のコラム道』小田嶋隆(ミシマ社/2012)
「が、読者は、実際には、彼らが考えているほど、細かく読んでいない」というのが推敲についてのアドヴァイスで、「つまり、書いてしまえば良いのである」が書き出しについてのアドヴァイス。まあ、実戦的な文章術だわな。

『低地』ジュンパ・ラヒリ/小川高義訳(新潮社/2014)
これはよかった。たぶん、今年読んだ中でもベストの一冊。
1950年代にカルカッタで双子のように育った年子の兄弟。活動的な弟と内省的な兄。それぞれ違う理系の大学に進学して、兄はアメリカで博士課程に、弟は学問よりも政治運動にのめり込む。やがて兄の元に弟が殺されたという電報が届く。毛沢東思想に強く影響を受けた極左組織の党員となった弟は、当局に追われ、自宅に潜伏していたところを発見されて、両親と若い妻の目前で射殺される。兄が帰国すると弟の妻は身ごもっていた。兄は、彼女を妻とし、生まれてくる子供を自分の子供としてロードアイランドで生活をはじめるが——
予想したようなお涙頂戴的なオハナシには全然ならないところがすごい。とくにこのはじめは無力な脇役のように思えた妻が後半はむしろ主人公のようになる展開に舌を巻く。
ジュンパ・ラヒリはこれまでの作品も素晴らしかったが、本書はとくに傑作ではあるまいか。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/09/15

キング新作その他

Img_0293

この間に読んだ本。

『漱石さんの俳句 私の好きな五十選』大高翔(実業之日本社/2006)
著者のことをまったく知らなかったので、三分の一くらい読んでようやく女であることに気づいた。てっきり大学生くらいの若い男だと思って読んでいたのでありますね。(2000年から4年間、NHK俳句王国の司会者)で、それまでいちいち漱石の俳句の鑑賞の最後に自分の句をもってきて締める形式に、「おいおい」と呆れていたのだが、女だとわかってからは、なんだか、「うん、こういうのもアリじゃない」なんて思うようになった。これもやはりジェンダーがどうしたこうしたという話になるんかなあ。

『シャイニング(上下)』スティーヴン・キング/深町眞理子訳(文春文庫)
いつも利用する図書館の新着本の棚にキングの新刊『ドクター・スリープ』があったので、ラッキーと手に取って、ちらりと訳者のあとがきを見たら、もし読んでなかったら、まず『シャイニング』を読んでから取り掛かったほうがいいよ、という意味のことが書いてあり、さらにご丁寧に、映画のシャイニングは小説と内容が違うので、映画見てるからいいわな、というのはダメよ的なことがゴシック体で強調してありました。まるでこちらの不心得を見透かしたような白石朗さんのだめ押し。(笑)仕方がないので、ネットの古書店で注文。たしかにキューブリックの映像イメージ(破ったドアから顔を出すジャック・ニコルソン!)が強すぎて、そもそもあれがどんなストーリーであったのか、ぜんぜん覚えていなかったな。もちろん面白いけど、深夜に読んでいて、ふとあたりの静寂に気づいてゾッとするなんて感じではない。むかしのキング作品では『ペット・セマタリー』とか『トミーノッカーズ』なんてのがひしひしと怖くてよかったが。それとも、たんに老けてこちらの感受性が鈍磨したのか。

『ドクター・スリープ(上下)』スティーヴン・キング/白石朗訳(文藝春秋/2015)
というわけで、本書は『シャイニング』の続編として構想された小説で、意外なことに、キングにはこういう続編として書かれた作品はいまのところ他にはないらしい。たしかに同じ架空の町や登場人物が互いにリンクしている作品はキングにはたくさんあるけれど、きちんと完結した作品の続編というのはないのかもしれない。本書の主人公は『シャイニング』では5歳だったダニーである。大人になったダニーは、いまはダンと名乗っている。アル中の父親にあんな目にあわされた幼子が、あろうことか、酒の誘惑に負けて、身を持ち崩していることがあきらかになって・・・。
最近は寝床に本を持っていくと、たいてい2ページくらいで眠り込んでしまうのだが、さすがにキングの小説だと、300ページくらいは一気に読んでしまうなあ。ああ、面白かった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2015/08/29

『将軍の娘』ほか

Img_0255

『将軍の娘』ネルソン・デミル/上田公子訳(文藝春秋/1994)
今年の4月に読んだジョン・コーリーものの新作『THE PANTHER』はイエメンが舞台なんだけれど、現地の大使館の保安を担当する部局のポール・ブレナーというナイスガイが登場する。オハナシのなかで、このブレナーがむかしは陸軍犯罪捜査部にいて、ある将軍の娘の殺人事件を担当したことがちらっと出てくるので、ああ、これは未読の『将軍の娘』の主人公かと気づいた。で、図書館で『将軍の娘』が見つかったので読んだわけ。デミルらしい、ぐいぐい読ませる内容なんだが、どうもこういう娯楽小説には鮮度みたなものがあるようで、いまひとつ面白くない。ほかにも未読のデミルはあるけど、たぶん同じような感想になりそうだから、これからの新作を摘み食いというのが賢明かもね。本書は絶版みたい。

『バカのための読書術』小谷野敦(ちくま新書/2001)
「有名で人も勧めるかもしれないけれども読んではいけない本」リストというのが本書にあって、たとえば『パンセ』だの『ルイ・ボナパルトのブリューメル十八日』なんてのがならんでいるのだが、つまりこのヒトのバカというのは、そういう本をとりあえず読む気がないでもないという人を指す言葉なんだな。ふつうバカというのはそういう人は入れないような気もするが、インテリもこの著者くらいになると、バカのレベルが高いのね。

『消えるオス』隂山大輔(DOJIN選書/2015)
副題「昆虫の性をあやつる微生物の戦略」。昆虫の細胞に共生するボルバキアは、宿主の性を操作して、オスをメスに性転換させたり、要らないオスを殺したりする細菌。たぶん一般向けでも、最低このくらいは押さえておかないと、という学者の良心かもしれないが、細かいところは、ふつうの人にはわずらわしいだけであんまり面白くないんじゃないかなあ。まあ、竹内久美子みたいなのばっかりでも困るけどさ。

『薔薇の王朝』石井美樹子(NTT出版/1996)
副題「王妃たちの英国を旅する」。チューダー朝のゆかりの町や建物を巡りながら、王や王妃の物語を手際よくまとめた好著。

『玉村警部補の災難』海道尊(宝島社文庫/2015)
壁投げつけ本。——とわかって読んでいるので、まあ、とくに問題なし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/08/17

『ネルーダ事件』その他

Img_0222

この間に読んだ本。
『ネルーダ事件』ロベルト・アンプエロ/宮﨑真紀訳(早川書房/2014)
チリのバルパライソの私立探偵カジェタノ・ブルレを主人公にしたシリーズ。本書はほぼ全編カジェタノの若い頃の回想になっている。時代は1973年、アジェンデ大統領の樹立した社会主義政権がピノチェト将軍のクーデタで倒される直前。ネルーダはいうまでもなく、ノーベル賞作家で詩人のパブロ・ネルーダのこと。末期癌で死につつある詩人の過去の女性関係(事実に基づく)と、社会主義政権の気息奄々とした崩壊過程が物語の軸になる。虚実をとりまぜたミステリだが、本書はどちらかというと、1970年代の左翼的心情へのオマージュで、謎解きの要素は少ない。ただ、わたしくらいの年代には懐かしい時代なので、個人的に「買い」。

『孔子と魯迅』片山智行(筑摩選書/2015)
魯迅の「礼教食人」は、福澤諭吉の「門閥制度は親の仇」みたいなレトリックにあらず。本書より桑原隲蔵の孫引き。「かくて宋、元以来、父母や舅姑の病気の場合、その子たり又その嫁たる者が、自己の肉を割き、薬餌として之を進めることが、殆ど一種の流行となつた。政府も亦かかる行為を孝行として奨励を加へる。(中略)明・清時代を通じて、自己の股肉を割いて父母に進むることは、最上の孝行として社会に歓迎せられ、政府も亦多くの場合之に旌表を加へた。民国以後の支那の新聞にもかかる行為が特別に紹介されて居る。」(「支那人の食肉風習」1919年)いやはや。
注)「旌表」《せいひょう》善行をほめて衆人に知らせること。

『泥鰌と粋筋』高橋治(角川文庫/2003)
「大阪に自然保護を営業用に僭称する小西和人という男がいて」という文があって、「仮に人を一人殺しても良いということになったら、私は迷うことなく、この男を殺す」と明言してありますな。小西は「釣りサンデー」の創刊者。まあ、誰にも殺したいほど嫌な人間はいて当たり前だが、なかなかここまでは書けないと感心。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

«ジャングル・ブックとエセー