2014/04/22

軽快にして骨太『卵をめぐる祖父の戦争』

『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳(早川書房/2010)を読む。

オハナシの舞台は1941年の夏からおよそ900日続いたレニングラード包囲戦。
ドイツ軍による砲撃や空襲もさることながら、補給路を完全に断たれた大都市には飢餓が広まり100万人ともいわれる市民が死んだ。飼い犬に続き、街からすべてのネコが消えたので、ひとときネズミはよろこんだが、たちまちかれらも食い尽くされた。いよいよ食べるものがなくなると、肉はもうあれしかない。道ばたの親子の屍は、尻のところだけ切り取られて放置されている・・・

そんな街に残った十七歳の少年レフが、死んだドイツの落下傘兵を見に行って、ナイフを分捕り、装備品のフラスクの酒を仲間とまわし飲みしていたところをロシアの兵隊に捕まってしまう。夜間外出禁止令違反の上に、いかに敵からとはいえ略奪行為の最中だ。とっくに裁判なんてものはなくなった。即刻銃殺を覚悟したら、ネヴァ河畔の悪名高い<十字>という監獄にぶち込まれ、そこで出会ったのが赤軍の脱走兵コーリャである。

脱走したんじゃない。自分の卒論「ウシャコヴォの『中庭の猟犬』考——現代社会学的分析のレンズを通して」を守ろうとしたんだよ。え、ウシャコヴォを知らないって?なんと学校教育のレベルもここまで低下してしまったか。「ふたりが初めてのキスを交わした小屋には、まだ鼻をつく子羊の血のにおいが漂っていた」これが冒頭の一行だ。もっとも偉大なロシアの小説だという者もいる。それなのにきみは聞いたこともないとはな・・・。

のっけから軽快なテンポで、ふたりの卵探しの冒険が始まる。こんな悲惨な包囲戦のさなかになんで卵探しなのかといえば、秘密警察の大佐の愛娘の結婚式にどうしてもケーキが必要だからだ。レニングラード中探しても卵はない。あるとすれば、ドイツ軍が制圧している郊外の農家だろう。しかたがない、行こうじゃないか。でも弾はドイツ軍からも赤軍からもパルチザンからも飛んでくる。いやはや、ばかばかしさのまっただ中での犬死覚悟の弥次喜多珍道中である。

途中でパルチザンの女狙撃手が合流し、最後の大勝負はナチのアインザッツグルッペンの少佐とのチェス試合。
さてここで、聞き慣れないアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)という言葉が出てきましたね。本書の中にこういう説明があります。

六月以降、ロシア人はドイツ語の特別授業を受けており、その結果、あっというまに何十ものドイツ語が日常生活の語彙にはいり込んでいた。パンツァー(戦車)、ユンカース、ヴェーアマハト(ドイツ国防軍)、ルフトヴァッフェ(空軍)、ブリッツクリーク(電撃戦)、ゲシュタポ。その他もろもろの大文字で始まる名詞。アインザッツグルッペンという言葉を初めて耳にしたときには、そのほかの言葉のような邪悪な響きはなかった。十九世紀のつまらない喜劇に出てくる気むずかしい会計士の名前のように聞こえた。それが今ではもう少しも可笑しな名前ではなくなっていた。新聞記事やラジオの報道、伝え聞く噂であれこれ知った今ではもう。アインザッツグルッペンはナチスの死の部隊だ。正規軍や武装親衛隊、ゲシュタポの中から厳選された——残忍なまでの有能さを持つ純血のアーリア人から選ばれた——殺人者集団だ。ドイツ軍が他国に侵略するときには、アインザッツグルッペンが実戦部隊のあとに続き、戦域が確保されると、自分たちの標的を狩りにいく。共産主義者にジプシー、知識人、それにもちろんユダヤ人。

いやあ、この悪役が、また悪い奴なんだな。なんとしてでも殺せ、こいつだけは、とすっかり熱が入ってしまう。骨の太い娯楽小説として堪能できました。
ところで、もっとも偉大なロシア小説、ウシャコヴォの『中庭の猟犬』のことはもちろん物知りのみなさんはよくご存知でしょうね。これと、チェスの勝負とのふたつが、わたしのつぼに見事にはまりました。(笑)

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2014/04/18

ポストモダンのミステリー『二流小説家』

『二流小説家』デイヴィッド・ゴードン/青木千鶴訳(早川書房/2011)を読む。
先に結論を言えば、ミステリーとしてはつまらない。ミステリの形式を利用した小説として読むならば面白い、という感じ。

主人公ハリーは、コロンビア大学で学位を二つとって、大学院進学希望者の必須テストで言語800点という秀才のくせに、あんまり上品とはいえない雑誌類に、SM小説、ハードボイルド、SF、ヴァンパイアものなどを、それぞれ別のペンネームで書き分けて食いつないでいるさえない小説家である。
金に困って、一応、経歴だけは立派なので、金持ちの子女が通う高校に家庭教師の売り込みに行ったら、クレアという女子高校生をまかされるが、すっかり女の子に足元を見透かされて、勉強を教えてやるはずが、作家業のエージェントごっこの道具に成り下がっているという設定。そこそこの作家としての野心がないわけでもないが、あんまり長いこと、濃いジャンル小説ばかり書いてたので、いまさらブンガクに色気をだすのも気が乗らない。
そんな主人公のところに、10年ばかり前に全米を揺るがした猟奇連続殺人の死刑囚から事件の告白のライターになってほしいという打診がくる。独房で愛読していた雑誌の「いけないアバズレ調教相談」なんてコーナーのライターがハリーだったからというのでありますね。まだ若い美女たちの頭部だけが見つかっていない、凄惨な連続殺人事件の真相を犯人がハリーだけに話して、出版してもいいというのだ。
実現すれば、ベストセラーは約束されている。

遺族には、もうそっとしておいてくれと詰め寄られ、担当のFBI捜査官には圧力をかけられてやる気がなくなったハリーは、「やるのよ!」と言うクレアに、こんなの引き受けたら死ぬまで傷痕が残る、とぼやく。

「死ぬまで残る傷なら、すでに負ってるじゃない。以前の職業はポルノ雑誌のライターだった。いまは高校生の期末レポートを代作している。亡くなったお母さんの扮装をして、ソフトSMのヴァンパイア小説を書いている。(中略)こう言っちゃ悪いけど、いまのあなたは負け犬よ。だからこそ、今回のことはあなたにとって大きな転機になる。おそらくは最後の転機にね。」

というわけで、ハリーが死刑囚に会いに行くと・・・てな展開であります。
本書のどこかに書いてあったと思うのだが、小説で難しいのは、最初の部分でも、最後の部分でもない。真ん中がいちばん難しいのだ、というのが二流小説家の主人公の意見。たしかに本書(ハリーがはじめて自分の本名で書いた「小説」がこの本、というメタフィクションなのね)も、まさにそのとおりで、読んでる途中は、ほんまに面白い。
ハリーが書き分けているジャンル小説が、ところどころに挟まれているのが、読ませる。ペンネームてのはやはり大事だなあ。(笑)


  • セクシーSF『惑星ゾーグ——さまよえる愛奴船』T・R・L・バングストローム著
  • 濡れ場の多いハードボイルド『四十二番街の裏切り』J・デューク・ジョンソン
  • ソフトSMヴァンパイア小説『深紅の闇が迫る』シビリン・ロリンド・ゴールド著

しかし、娯楽ミステリーも、とうとうここまできちゃったんだなあ、と嘆息。

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2014/04/15

花子とアンのこと

NHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」のヒロイン一家とその周囲の農民の様子に違和感を覚えるという意見もある様子。つまり、このドラマ、最初のほうは子供も大人もみんななんだか薄汚いのね。貧困と見た目の薄汚さを安易に結びつけてんじゃないの、というお怒りらしい。
これ、半分はあたってると思う。だって、ちょっとわざとらしいもんね。子供だってみんな栄養状態よさそうなのに、顔だけほこりまみれにしたってねえ。(笑)

ただ、このドラマのテロップを見ると、農民の藁仕事の指導とか時代考証担当とかの名前もでておりまして、いくら水呑百姓だって顔は洗っただろうし、それなりの身繕いはしてたんじゃないのかというのは、たぶん間違い。おそらく、本当はテレビよりもっと薄汚かっただろうと思う。
リアルじゃないと言われたら、時代考証の人は、こんな写真をいくらでも出してきて、だってホントにこうだったんだもの、と説明するだろうなあ。

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まあ、ただ、あくまで朝のドラマですからねえ。ちょっと汚すぎるのではないかという気はしますなあ。

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2014/04/13

『俳句の詩学・美学』から二題

『俳句教養講座第二巻 俳句の詩学・美学』(角川学芸出版/2009)を読む。尼ヶ崎彬氏の「俳諧のレトリック 余情・やつし・本歌取り」という文章が示唆に富む。たとえば日本の詩歌の流れをこういうかたちで切り取った一節——。

まず漢詩・和歌は「雅」の文芸(現代風に言えば「芸術」)として公認され、上流階級や知識人の必須教養であった。その和歌の形式や技法を借用して生まれたパーティー・ゲームが連歌である。二条良基が「当座の興」と言ったとおり、その場かぎりの座興である。中世に連歌が和歌をしのぐ隆盛を見たのは、この気軽な娯楽性のためだと言える。その連歌を和歌に並ぶ風雅の文芸に引き上げたのが宗祗らであった。するとシリアスになってしまった連歌の重苦しさを嫌ってか、連歌師の中にふたたび娯楽を主眼とする一派が出てくる。即ち俳諧連歌である。これは「俳言」つまり「俗」な言葉を用いて、滑稽を身上とする。
この軽快な通俗文芸が流行すると、こんどはこの俳諧連歌をふたたび風雅な文芸に昇華させようという試みが出てくる。松尾芭蕉である。彼の発句こそ、今日私たちが「俳句」と呼ぶものの原点である。と、こうして見ると、俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。

この方は、学習院女子大学の美学がご専門の先生らしいのだが、(Wikipediaによる。本シリーズには執筆者のプロフィールが載ってなくて不親切)短い文章ながらシャープな論考でありますね。

もうひとつ、この巻で面白かったのは櫂未知子氏の「無季俳句をどう読むか」で、内容もよく腑に落ちるものでしたが、意外だったのはこんな話。

しんしんと肺碧きまで海のたび   篠原鳳作

俳句の好きな方なら、無季俳句といえばまずこの句がうかぶだろう。ところで、この句について大輪靖宏氏が次のようなアンケートをとったらしいんですね。(「俳句の基本とその応用」角川学芸ブックス)

  • 季節を感じない
  • 春を感じる
  • 夏を感じる
  • 秋を感じる
  • 冬を感じる

さて、みなさんはどうでしょうか。わたしはこれ夏以外にないじゃん、とまず思ったのね。
アンケートは俳句とは無関係の二十代の男女104名の回答を得た。
それによると。季節を感じない人——0名。春——2名。夏——35名。秋——0名。冬——67名。

櫂さんによれば、この句を夏の景として読む(俳人の感覚ではそうなる)のは、じつはあとから植え付けられた部分がかなりあるかもしれないという。なるほど、そういえば、この句と中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」を並べた解説をよく目にしたような記憶があり、草田男のほうは季語は秋ではあるが、8月7日頃からは秋だから実質的には夏の海の情景として想起されるのだろう。いずれにしても真っ青な海と船尾から一直線に伸びた航跡(わたしのイメージだが)は、夏以外にはないと思っていたのだが、先入観を排して素直な気持ちで「しんしんと肺碧きまで海のたび」を読むと、むしろ冬のイメージが湧くというのは面白い。


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2014/04/12

対テロ戦争時代のスパイマスターたち

Wikipediaでジョン・ル・カレの著作リストを見ると、1961年の『死者にかかってきた電話』から昨年の『A Delicate Truth』まで23冊が上がっている。わたしが初めて読んだのはエドガー賞を取った『寒い国から帰ってきたスパイ』だったと思うが、この23冊中19冊を読んでいることがわかった。わが偏愛の作家のひとりといってもよろしい。

ただし、スマイリー三部作のあとは、あまりぱっとせず、新作がでるたびに英語のハードカバーで追いかけていたが、1999年の『Single and Single』で、「あ、こりゃもうだめだ」と見限った。すくなくとも英語で読むのは、やーめた、と決めた。わたしのレベルでは、ちとむつかしいということもある。『The Honourable Schoolboy』などは読む苦労をものとしない深い満足が得られたけれど、どうも近作は苦労が報われない感が強かった。

この「あれ、なんでだろ。ぜんぜん面白くないじゃん」という気持ちになる原因は、ひとつには、やはり冷戦の終結で、かつてのスパイ小説の枠組みが大きく崩れたことがあるだろう。KGBあってのサーカスであり、カンパニーであったというわけだ。
ところが、ひさしぶりにル・カレの小説を手に取ると、冷戦の枠組みではなく、対テロ戦争といういささかこぶりに見える舞台にもかかわらず、またあのころと同じような面白さがよみがえっていると感じた。

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『われらが背きし者』(岩波書店)と『誰よりも狙われた男』(早川書房)の二冊を読んだが、どちらも、静かさと熱狂、無垢と汚辱、善意と悪意、といったコインの両面がくるくると宙に舞い、そしてなるほどこれ以外にはありえないだろうな、という苦くやるせないエンディングがやってくる。
結局、これは初期のル・カレの傑作と同じかたちだ、懐メロみたいなもんだ、と呟きながら、まあ、いいか、面白ければと思うのでありました。
時代おくれと言わば言え。

『誰より狙われた男』のなかに最近の諜報機関についてのこんな記述がある。

すなわち、戸棚にどれほどスパイの最新のおもちゃをしまっていようと。魔法の暗号をどれだけたくさん解読しようと、音のひずんだ会話をどれだけ傍受して、敵の組織の構造や、そもそも構造がないことや、内輪もめについてすばらしい推論をしようと、はたまた、飼い慣らされたジャーナリストが、偏った手がかりやこっそりポケットに入れる褒美と引き替えに、怪しげな情報をどれだけ提供しようと、最終的に頼りになる知識を与えてくれるのは、胡散臭い導師や、恋に破れた秘密工作員や、賄賂しか頭にないパキスタンの防衛技術者、昇進に見放されたイラン軍の中堅幹部、ひとりで眠れなくなった潜伏員(スリーパー)たちなのだ。かれらが提供する確実な情報がなければ、あとは地球を滅ぼす法螺吹きとイデオローグと政治狂いに食わせる飼い葉でしかない。

時代遅れの叩き上げがいつもプロの世界のぎりぎり本質的なところを担っている、というのはじつは、スパイの世界だけの話ではないと思うのだけれど。



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2014/04/09

恋の奴隷考

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昨日、NHKの「The Covers」を見るともなしに見ていたら、リリー・フランキーが奥村チヨの「恋の奴隷」のことを紹介していた。1969年、なかにし礼作詞、鈴木邦彦作曲のヒット曲であります。わたしくらいの年配ならこのあたりの歌謡曲は、かなしいまでに空で歌える。で、当然のように耳に残ってしまい、次の日も畑で畝立てなどしながら一日中歌ってしまうはめに陥った。鍬をふるって、「あなたにああった、その日からあ、っと」とやっていたわけであります。とんだ阿呆である。(笑)

それはそれとして、そうやって歌いながらですね、思ったわけですよ。よくまあ、こんな歌が許されていたなあ、あの頃は。

同世代から上の方には説明不要だが、若い方はこの歌詞にはなじみがなかろう。まあググれば歌詞もわかるし、YouTubeで奥村チヨの歌も聴けるけど、なにしろひどい歌詞なんだよね。あなたが右を向けとおっしゃれば右を向くわ、それが幸せ。わたしが悪いときはぶってちょうだいね。影のように付いて行くから、好きなときだけ思い出してくれればいいの。わたし、あなた好みの女になりたい云々。

でも当時はこの歌、今でいえば阿部サダヲたちのグループ魂の楽曲みたいに、笑いを取ろうと狙ったあくどい冗談の楽曲だったわけではない。掛け値なしに歌詞通りのことを本気で歌っていたはず。しかし、国民的なヒット曲ですからねえ。なにしろ、小学生だって「わるいときはどうぞぶってね」なんて大声で歌っていたのであります。ありえへん。(笑)

いや、この歌は、じつは当時の自民党政権下の日本とアメリカのことを皮肉っていたのよ、という冗談をいま思いついたが(笑)、まあ、世の中と言うのは、半世紀もたつと、ずいぶん変わるもんだと思う。

では歌詞そのものに真実はないのか、といえば、それはあるだろう。男と女というのは、千年前もいまも同じじゃないかといえばそれはその通りで、そういう意味では、なかにし礼さんの名誉のためにも、この歌詞はたしかに恋する女の一面をあざやかに切り取っていると評してもかまわない。

ただ、こういうあけすけな感情の吐露を社会が許すかどうかは別の問題で、これを進歩というかどうかわかないのだが、個人の幻想の垂れ流しは、それを嫌う人がいるかぎり、抑圧されることになるのだろう。どこか嫌煙権の話に似ているかもしれない。

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2014/04/05

蛇穴を出づ

歳時記にはいろいろ面白い季語がある。今の時期だと「亀鳴く」とか「雁風呂」などをつかった俳句を詠んでみたくなる。ただし実際には亀は鳴かないそうだし、雁の供養もつくりばなしだというわけで、どちらも、見て来たようなウソを吐きみたいなものであります。

やはり春の動物をモチーフにした季語に「蛇穴を出づ」がある。こちらはたしかに、この時期の自然の事象にはちがいないので、見て来たようなウソと言っては失礼になる。だが、多くの俳句作者にとっては、見慣れた光景というほどでもないので、これまた「亀鳴く」とか「雁風呂」のような気分の俳句に近いような気がしますね。

けつかうな御世とや蛇も穴を出る   一茶
蛇穴を出て見れば周の天下なり    虚子

ところで、百姓をしていると、この長いやつとは、あんまりお近づきになりたくなくとも、頻繁に遭遇する。今日も、土手の草を刈りながら、小さな穴を見つけるたびに、うーん、こいつはもしかしてアレじゃないかしらん、などと考えていたら、いましたね。まだほんの子供でしょうか、太い雑草の茎とか、でかい蚯蚓とかと間違えそうなちっこいのが。こういうのはまだ可愛い。いや、可愛いったって、仔猫なら思わず頭を撫でてやりますが、小さくても蛇は蛇ですからね、鎌の先ですこしじゃれてやるくらいですけれど。

蛇穴を出てこなければこなければ   獺亭

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2014/04/04

よしもとばなな『ジュージュー』

ときどき、よしもとばななを読みたくなるのは、もしかすると本の厚さが手頃だからかもしれない。あんまり分厚い本はめんどくさい。ただし、よしもとばななの本は、分量的には中編小説という感じだけど、読後感は意外に長編小説に近いものがあるような気がする。

本書『ジュージュー』もそうで、ちょっと前に読んだ『もしもし下北沢』なんかにも共通する、とんがってない、なにかゆるい感じが、妙に心地よい。すぐに読めてしまうわりに、充実した感じがあって好きだ。
下町のステーキとハンバーグの店〔ジュージュー〕のオハナシ。
よい食べ物屋さんというのは、有名なシェフが腕を振るってる、ということではなくても、気持ちよく食事ができれば十分だ。そこには、厨房の腕前と同じくらい給仕人のさりげない心遣いがものをいう。
店のすべてがきちんとしている、ということがまず大切で、客としてぞんざいな扱いを受けていると感じれば、二度と足を運ばない。年収の低い客は要らないと豪語するカリスマシェフの店で、賓客としてもてなされるのは気持ちがいいのかどうなのかは知らないが、そういう店をやってる人はいくら儲っても、あんまり食べ物屋さんとしての喜びはないかも知れない。まあ、行ったことがないから、よくわからないけど。

ところで本書の中に、夕子さんというかなり変わった人が脇役で登場するのだが、これがかなりぶっ飛んでいて笑った。
前世でビルマの「コブラにキスすることができる少女」を育てる学校にいたことがある、という語りなのだが、これはもう抱腹絶倒。
なので、あえて引用はやめておきます。ぜひ、ここのところだけでもご一読を。文庫版の95頁あたりから始まります。

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2014/04/02

名著としか思えない『あたらしい哲学入門』

これはもしかしたら素晴らしい名著かもしれない——といま書きながら、いやまてよ、あの自分の助手にさえ軽くあしらわれるツチヤ教授の講義だからなあ、いくらなんでも名著のはずはないだろうという疑問に苛まれる。(笑)
『あたらしい哲学入門』土屋賢二(文春文庫/2014)は、お茶の水の一年生と二年生向けの講義「哲学」に手を入れたもの。よく「自分のアタマで考える」なんてわかったような台詞を聞かされることがあるが、そういうことを言う人に限って、自分ではなにも考えていない、他人の意見の丸写しであることが多くてうんざりする。ひところ流行った「自分探し」なんてバカ丸出しのことを言うやつもこれまた同様。
それがなぜか、ということがこの本を読むとよくわかる。

哲学書といえば、読んでもわからないものだというのが通り相場だと思うのだが、それでもわかったような顔をして、ああヘーゲルね、うんハイデッカーはねえ、いやヴィトゲンシュタインはさあ、などと言いたいのが若気の至りというもの。だけど、こういう切り口があったのかというのが本書の驚きである。なにしろ、分からないのが当たり前で、分からなくても構わない、という哲学の入門書のくせに、この本では講義の方針を最初にこう述べるのである。

この授業では、みなさんに100パーセント理解して納得してもらうことを目指しています。といっても実際には、議論がこみいったりすると簡単にはいかないんですけどね。でも、何となく分かったとか、大体の気分がつかめたとか、そういう分り方をしてほしくないんです。
たとえば、「フランスの首都はどこか?」という問題に「パリだ」と答えたら、何となく分かったということはまずないですよね。完全に分かるか、まったく分からないかどちらかですよね。「気分」が入り込む余地がありません。その点では、数学や物理学と同じです。最終的には完全に分かるか、完全に分からないかです。
僕は哲学でも、本来はそうだと思うんです。でもこれは、簡単に分かるということではありません。ぼくが言いたいのは、哲学の問題には、きちんと考えていけば納得できるような答えがあるということです。その答えをできるだけみなさんに納得してもらえるように説明したいんです。

いや、学問と言うのは、すごいもんですな。
わたし、すっかり見直してしまいました。御本人の(されまいという必死の)努力にもかかわらず、思わずうっかり尊敬してしまうかもしれません。

わたしなりに考えると、本書の結論は、「意識とは言語のことである」ということではないかと思えます。以前、書いた「わたし」という密航者、というエントリーになんとなく関連するような気がしますね。

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2014/03/30

千本の記事

まったく自分にしか意味のないことで恐縮だが、今日のこのエントリーがブログ版「かわうそ亭」のちょうど1000本目の記事になる。2004年3月21日に最初の記事を書いてから10年たった。
ブログをはじめる前には、ホームページ版の「かわうそ亭」があり、こちらのほうはカミサンの粘土工房サイトをつくったついでに、お遊びではじめたので、たぶん1998年創業(笑)であります。およそ16年、かわうそ亭という号をつかって主に本にまつわる話題を綴って来たことになる。

ブログに移行して、いろんな記事を書いて来た。
1000本のなかには、これはもう消した方がいいかなあと思う文章ももちろんたくさんあるが、(あまり大きな声では言えないが)我ながらよく書けてるじゃないか、と思うようなものもないわけではない。とくにいろいろな方から寄せられたコメントで、蒙を開かれたり、刺激を受けたりした記事には、とても愛着がある。
吉川幸次郎がこんなことを言っている。

中国のことわざに、文章自己的好、老婆人家的好、文章は自分のがよく、女房はよそのがよい、というのがある。文章は自分のが、他の誰のものよりよく見える。これに反し、女房はどうもよその奥さんの方がよい奥さんに見える、というのである。なるほどその通り、少なくともこの諺の前半はその通りであって、私は新しい仕事につかれたときなど、よく自分の旧著をとり出して読む。つかれがほぐれて爽快な気持ちになる。時には、自分の文章に読みふけりながら、深更に至ることがある。
ところでかく自分の文章を読んで爽快な気持ちになること、これにはうぬぼれというものの作用があるにはちがいないが、単にそればかりではないように、私には思われる。私は、私なりのささやかな誠実が、私の書物にあらわれているのを、愛しているのであるように思う。それすなわちうぬぼれの一種だといわれれば、それまでだけれども、人間の世界に普遍であるはずの誠実、それが私のようなもののなかにも何がしか流れていることを、私は私のためばかりでなく、人間全体のために祝福しているように思われる。つまり私自身という一ばん身近なものを資料として、人間の誠実が、証拠だてられることを、祝福しているといってはいけないであろうか。大へんせおってるようだが、私はそう思っている。
吉川幸次郎全集20
「自分の文章」

いや、もちろんあんまりレベルが違いすぎて、引き合いに出すのはどうかとも思うが、要はそういうことなんである。(笑)
とりあえず千本の記事ごくろうさんと自分をねぎらってやろうと思う。

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