2020/12/10

蕪村句集講義のこと

東洋文庫から出ている『蕪村句集講義』全三巻を読んでいる。
第二巻のはじめのあたり、碧梧桐筆記の前書き。

明治卅三年八月廿二日夜、根岸子規庵に会する者、鳴雪・主人・虚子・碧梧桐。蕪村句集上巻十八丁裏より一枚。主人は数日前喀血の事あつてより身体の疲労甚だしく、この夜輪講に加らず。傍に黙聴して、時々其意見を言ふに過ざりき。

この蕪村句集の輪講は明治31年の新年一月から始まって毎月子規庵に上記の人々を中心に数人が集まって議論を戦わしていた。子規年譜によれば明治33年(1900年)8月に大量喀血、翌34年より『仰臥漫録』が始まる。そういう時期に、しかしこの人々は時に激しく、時に破顔一笑しながら会を続けていたことになる。

| | コメント (2)

2017/04/18

女房を返してくれ

『ソ連史』松戸清裕(ちくま新書/2011)
『ソビエト連邦史 1917-1991』下斗米伸夫 (講談社学術文庫/2017)

とくに意識したわけではないけれど、今年はロシア革命100周年。ひとつの強大な国家が、人間の一生とほぼ同じほどの年月で、誕生し、そして死んでいった。
74年の歴史を一望したとき、ソ連という存在はただ「悪の帝国」として括ってポイすればいいのかというと、必ずしもそうではないような気がする。今の北朝鮮と一緒でしょ、と言われてはあまりに気の毒である。

上記の『ソ連史』の方で、意外だったのは、ソ連における選挙というのが、共産党の一党独裁だからいわゆる民主主義とは正反対のものかと言えば、必ずしもそうとは言えず、地方レベルでもあんまりおかしなのが立候補すると国民がそっぽを向いて投票しないので、中央も人間としてまともな、ちゃんとした共産党員を候補者にしなきゃならんかったという仕組みである。民主的な選挙で選ばれたらしい今の日本の国会議員を見て熟考すると、かつてのソ連をそんなにバカにはできない。

『ソビエト連邦史 1917-1991』は、上と同じくソ連の通史だが、少し変わっているのがスターリンの右腕として内政や外交を仕切ったモロトフを「補助線」にしているというところ。まあ、興味があれば、というところだけれど。ところでモロトフといえば、ああ、あのカクテルの人ね、ということで名前くらいは知っているが、具体的なところはほとんど知らなかったな。

この人のエピソードで面白かったのはこんな話。

スターリンが死んだとき、その葬儀当日がモロトフの誕生日だった。フルシチョフとマレンコフがプレゼントは何がいいと聞いたら、女房を返してくれと答えた。実は、モロトフ夫人ジェムチュジナはユダヤ人で、結婚前はウクライナの共産党書記、結婚後も政府の委員をするたたき上げのボリシェビキで、モロトフが外務大臣として1936年に訪米したときは一緒にホワイトハウスに招かれたこともある。ところが1948年の革命記念日に、そのときイスラエル大使としてソ連にきていたゴルダ・メイヤーとヘブライ語で親しく会話していたことがスターリンの疑念を招き逮捕、カザフに追放という処分を受けていたのだそうな。うーん、古女房を大事にするなんざ、女房と畳は新しいのに限るという感じのどこかの大統領とは違うね。

もっとも、モロトフいいやつじゃん、なんて思われてはいけないので、もう一つエピソードを。

ソ連の大粛清時代(1937年から38年)の記録がゴルバチョフ時代に公開されたが、ちゃんとした司法手続きを経た逮捕者の数がおよそ140万人、うち約69万人が銃殺された。このうちのある一日(1938年11月12日)を例にとると、スターリンとモロトフの二人だけで3167名への銃殺指示を出しているんだそうな。いや、はや。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2017/04/10

俳句年鑑ほか

Img_0878

『角川 俳句年鑑 2017年版』
個人的にちょっとだけ調べたいことがあって借り出す。目的を果たした後で、せっかくだから全体をざっと斜め読み。なんだかつまらない俳句が多いなあと思ったが、まあ、そんな偉そうな言い方は良くないな。ともあれ、そんな中でとくに印象に残ったのは嵯峨根鈴子さんという俳人。こういうの——

鬼太郎の母の名知らず雲の峰
てぶくろのわめく形やまた嵌める
この雛のかほには少し嘘がある
もにやもにやとキャラメル剥くや日の盛
で、そこのその石が墓われもかう

お名前でググるとごくごく簡単なプロフィールはわかるが、なんか面白い。

『俳句と暮らす』小川軽舟(中公新書/2016)
12年前ばかり前に、藤田湘子の遺命で主宰として「鷹」を継いだ時、編集長の高柳弘とのコンビに対して岸本尚毅が「健気なる「幼君幼家老」の風情」なんて揶揄したことを知って、そうかずいぶん若い人が大きな結社を率いるんだなと感心したものだが、その小川軽舟も55歳を過ぎて、サラリーマン生活(なんと銀行員を辞めずに二足のわらじを履いていたんですね)も残りわずかなんだそうな。嫌味の意味は込めずにこれは賢い人だなあとあらためて感心。いや、ホントに嫌味じゃないってば。

死ぬときは箸置くやうに草の花  軽舟

『ネロ・ウルフの事件簿 黒い蘭』レックス・スタウト/鬼頭玲子訳(論創社/2014)
ネロ・ウルフものは割と好み。あんまり古びた感じがしないのは、新訳のせいかも知れない。

保存保存

保存保存

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/12/15

ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』

Img_0585_1

ヒラリー・マンテルの16世紀の英国史を描いた『ウルフ・ホール』と『罪人を召し出せ』(ともに早川書房、宇佐川晶子訳)は、卑しい身分からやがてヘンリー八世の寵臣として絶大な権勢を誇る身分に登りつめたトマス・クロムウェルが主人公。いろんな小説を読んできたが、これほど魅力的なキャラクターは滅多にない。ミーハーのわたしはすっかり夢中になって、早速、両方のペーパーバックを手に入れたが、これが思いの外の難物で、『Wolf Hall』だけで、読み上げるのにほとんど1年がかりとなった。

我流の英語で多少ヨタヨタしながらも、たいていの小説なら、2、3週間もあれば十分なのだけれど(その気になればであって、最近は寝つきが良すぎてそうはいかないけど)、この作家の場合は一読しただけではなかなか容易に意味が取れないのですね。

ひとつは人称代名詞がちょっと曖昧で、うっかり気をぬくと、別の人の動作や描写のつもりで読み進め、全然違った解釈をしてしまったりするということがある。少し大げさだが、源氏物語の文体を連想したりもする。基本的に 'He' で始まると、それはクロムウェルだという約束を吞み込むのがコツのようだ。

また、風景や歴史の叙述はけっこう饒舌なくせに、いざ肝心なところでは、言わずもがなの説明は一切しないという、ある意味不親切極まりない文体なので、たぶんこういうことだろうけど、果たして自分の読みが正しいのかどうか、途方にくれるような気持ちもときどき起こる。雲の動きに誘われて、どんどん見知らぬ土地に入って行って、結局道に迷うような感じとでもいうか・・・

だから、今回は、すでに読んだ宇佐川晶子氏の訳と逐一突きあわせながらの精読である。一度は読んでいるとはいえ、さすがに細部は覚えてないので、再読で思わぬ発見が多い。年をとるとだんだん同じ本を何度も読むということが面白くなる。

たとえば——
と以下のことを書くのは少し迷った。実は誤訳のことに触れることになるからだ。だから、まずそのことを書く前に、この翻訳はたいへんな力技だっただろうとその苦労に謝したいと思う。上に書いたように、道に迷って途方にくれたときに、翻訳に当たって、ああ、そういう意味か!と自分の不明を恥じるとともに、的確な日本語訳に舌を巻くことの方が(当然)圧倒的に多かったのである。

さて、たとえば、の続きだが、小説の後半で、クロムウェルが息子を連れて、ハットフィールドを訪ねるところ。ヘンリー八世の頼みで彼の二人の娘(キャサリン妃の娘メアリとアン王妃との間に生まれた、このときはまだ赤子のエリザベスですが)の養育をしている館へ向かう途中です。

実はクロムウェルは9歳か10歳の頃にこの館を訪ねたことがあった。史実かどうか知らないが、クロムウェルの叔父はモートン枢機卿お抱えの料理人で、枢機卿がこのハットフィールドの領地に籠ると、はるばるロンドンからこの館に向かったものだ、という昔話を父親が息子に聞かせているという場面です。

まず、翻訳から

・・・・わたしが九つか十だった頃、ジョンおじさんは上等のチーズやパイといった食糧のたくわえを積んだ荷車に、わたしを乗せたものだった。そうやって追いはぎにあう場合にそなえたわけだ」
「護衛はいなかったの?」
「おじさんは護衛の身を心配したんだ」
「誰が護衛を守るの?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」
(『ウルフホール(下)』p.320)

原文はこうです。

..... and when I was nine or ten my uncle John used to pack me in a provisions cart with the best cheeses and the pies, in case anybody tried to steal them when we stopped.'
'Did you not have guards?'
'It was the guards he was afraid of'
'Quis custodiet ipsos custodes?'
'Me, evidently'
'What would you have done?'
'I don't know. Bitten them?'
(p.549)

問題はもちろん「おじさんは護衛の身を心配したんだ」という箇所である。これは、本当に上手の手から、の一例かなあ。

ひまだったら、Quis custodiet ipsos custodes でググって見てください。
山下太郎のラテン語入門というサイトに以下のような説明がありました。

「誰が見張り人自身を見張るのだろうか」と訳せます。
ローマの風刺詩人ユウェナーリスの言葉です(Juv.6.347-348)。
ローマ諷刺詩集 (岩波文庫)
ペルシウス ユウェナーリス 国原 吉之

ただしこのページの日付は2015年1月10日となっていますので、翻訳作業の時にネット検索してもヒットしなかったのは残念ですね。

たぶん、こうなるのではないでしょうか。

「護衛はいなかったの?」
「その護衛だよ、おじさんが心配してたのは」
「ミハリハ・ダレガ・ミハル・ノカ?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」

ちなみにこのシリーズ、最終的にはクロムウェル三部作となる予定らしいが、(第三作 The Mirror and the Light はまだ刊行されていない)なんと第一、第二作ともブッカー賞を受賞しています。BBCがテレビシリーズにしているらしいので、コスチュームドラマ大好き人間としては、NHKにはぜひ頑張って買って放映してもらいたいところ。

保存保存


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015/12/01

ホッファーその他

Img_0421『はじめての短歌』穂村弘(成美堂出版/2014

「ということは、短歌においては、非常に図式化してしていえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。」たいへんよくわかる短歌の「からくり」。ただし、わかったからといって誰でも詠めるわけではない。たとえば、こんなインパクトのあるやつ。

三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり   本多真弓


『短歌ください その二』穂村弘(KADOKAWA2014

おもしろい、ということと、詩情とが絶妙にマッチしているという歌は少ない。この企画の場合、どうしても前者に比重がかかって、かつての糸井重里の万流コピー塾みたいな感じになる。一例——


ジャージ着た七三分けの先生に服装検査される屈辱  (麻倉遥・女・27歳)


『波止場日記 労働と思索』エリック・ホッファー/田中淳訳(みすず書房/2014

「始まりの本」というみすずの新しいシリーズの一冊。この企画、広告では「すでに定評があり、これからも読みつがれていく既刊書、および今後基本書となっていくであろう新刊書で構成する」とある。ただホッファーの魅力を伝えるには、この本が最適なのかどうか、ちと疑問ではあるけれども。

学校教育を受けず、渡りの農務労働者、砂金堀り、サンフランシスコの沖仲士として稼ぎながら、行く先々の図書館で本を読むという人生を送ったホッファーが、自分の思索について書くことができるのではないか、と初めて思いついたのは、モンテーニュのエセーを読んだことがきっかけだった。1936年の冬、砂金堀の山中で雪に閉じ込められたホッファーは、エセーを三回通して読んでほとんど暗記してしまったという。そしてこの16世紀の貴族が語っているのはつまるところ自分(ホッファー)のことだと悟った。モンテーニュを読もうとその本を持って行ったのではない。雪の山中で身動きできなくなった時のための本だから、ただ分厚くて活字がぎっしり詰まった本ならなんでもよかったのである。

ホッファーらしい文章とは次のようなもの。


自由に適さない人々-自由であってもたいしたことのできぬ人々-は権力を渇望するということが重要な点である。p.191


文明の誕生は新たな問いの挑戦なしには考えがたいけれども、アジアの文明はひとたび成立すると、問い以前にすでに答えがあるかのように機能した。

西洋の伝統の外では、権力を自然と同等視し、自然の大洪水の前に頭をたれるごとくに暴政の前に頭をたれる傾向がある。p.226



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/11/24

モンテーニュほか

Img_0412

『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』保苅瑞穂(講談社学術文庫/2015)

「エセー」を読むと、モンテーニュという人は、穏やかな日常を驚くほど大切にした人だという印象が強く(そして事実そのとおりだが)、この人が血みどろの宗教戦争の時代に生きた人だということをつい忘れる。本書(素晴らしい一冊)を読むと、そういう陰惨な内戦の只中にあったからこそ、ささやかな、日々の喜びを自分の館や領地の中に見出していたことが理解できるような気がする。モンテーニュの立場は旧教の側であることを明確にしていたけれど、何より人間の理性を重んじる思想家だった。新教であれ旧教であれ、宗教の名を借りた蛮行に対してはこれを非難した。当時どのような人間が跋扈していたのか。今と変わらない。以下本書よりエセーの一部引用。

その人間と言うのは、最悪の歪曲を行いながら自分は改革に向かっているとか、間違いなく地獄堕ちになるような明白この上ない原因を作っておきながら自分は救済に向かっているとか、あるいは神の庇護のもとに置かれている国や権威や法律を覆したり、母親の手足を引き裂いて、その肉塊を旧敵にやって齧らせたり、兄弟の心の中に親殺しの憎悪をたっぷり詰め込んだり、悪魔と復讐の女神に助けを求めたりしながら、自分は神の言葉の神聖この上ない慈悲と正義の手助けができるのだ、と本気で信じている人間のことである。

『ガリヴァーの帽子』吉田篤弘(文藝春秋/2013)

クラフト・エヴィング商會のことはぼんやりとしか知らない。本書の中では表題作である「ガリヴァーの帽子」、「イヤリング」、「ものすごく手のふるえるギャルソンの話」が良い。星新一のショートショートを少し優しくしたような感じとでもいうのかな。趣味の良い作家として覚えておこう。

『珈琲挽き』小沼丹(講談社文芸文庫/2014)

小沼丹の名前を初めて知ったのは、随筆でも小説でもなく、林語堂の『則天武后』の翻訳家としてであった。林語堂は米国でこれを英語で発表したから、英文学が専門の小沼が訳したのでありますね。本書の中に、この翻訳にまつわる話が出ていて、興味深い。ちなみにもらった「幾許かの金子」は一晩で飲んで「たちまち消えて跡型かも無かった」とありますね。出版社の事は「或る本屋」としているが、これはみすず書房ですな。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/11/09

『密造人の娘』ほか

『密造人の娘』マーガレット・マロン/高瀬素子訳(早川書房/2015)
これは面白かった。ミステリとして、フーダニットの要素もきちんと押さえた上で、登場人物やアメリカ南部の空気をじっくり描いて、重くなりすぎず、軽薄にもならずのバランスがなかなかよろしい。1992年のアメリカ探偵作家クラブ賞、アンソニー賞、アガサ賞、マカヴィティ賞の4賞を取った作品だそうで、翻訳も1995年には同じ訳者で出ていた(ミステリアス・プレス文庫)のを新版にして再び上梓したもの。埋もれさせるには惜しいということだろうか。ただし、手に取ったのは、たまたまカバーのイラストが気に入ったからでありました。なんだかコミックっぽい絵柄がいいじゃないですか。

Img_0399

『九死一生』小手鞠るい(小学館/2013)
はじめて読む作家。文章もうまいし、ストーリーも巧みだが、いまひとつひきこまれるパワーがない。奥付の著者紹介を見ると、ほぼ同世代。恋愛観にしても、死生観にしても、親近感を覚えるけれども、逆にそれが、だからどうしたの、という物足りなさにも通じるのかもしれんな。

『ウエストウイング』津村記久子(朝日新聞出版/2012)
これまたはじめての作家。「最寄り駅であるターミナル近くの、廃線になった貨物レーン地下の長いトンネルを抜けると唐突に現れる」四階建て地下一階の椿ビルディングの西棟に寄り集まる人々のゆるいオムニバス風のオハナシ。ターミナルというのは、具体的に書かれてはいないが、ほかの記述から大阪駅だろうと思われる。だとすると長い地下通路で大阪駅と結ばれたオフィス地域といえば、かつての仕事場のあたりのことか、と思って読むと懐かしくて面白い。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/10/19

芸人と俳人ほか

Img_0359_2『芸人と俳人』又吉直樹×堀本裕樹(集英社/2015)

活字になった対話というのは、脚色とまでは言わなくとも、編集の過程でかなり加工されるものだから、実際にこのとおりのやりとりがあったということではないかもしれないが、又吉直樹の「打てば響く」といった俳句の理解と成長が見事。

『新訳 から騒ぎ』シェイクスピア/河合祥一郎訳(角川文庫/2015)
新訳と聞くとつい読みたくなるのが沙翁の戯曲。河合訳は初めてだが、頭に入りやすくてよい。台詞としても覚えやすいような気がする。

『本に語らせよ』長田弘(幻戯書房/2015)
長田弘の紹介によってはじめて知るという本や人物や事跡がこれまでも多かった。よい読書の指針だったが、惜しい人を亡くしたという思いがつよい。本書でも、中江丑吉、深田康算、斎藤勇、野村修といった人の名前が印象に残る。なかでも中江丑吉についてこのような記述をメモとして——
中江兆民の息子で、丑吉という名だった。父親は息子が俥(人力車)引きになった場合にもいいようにと、丑吉という名を付けたのだそうだ。自恃によって突っぱって、変わり者と指さされながら、一人の無名の市民の生き方を通した。『中江丑吉の人間像』(阪谷芳直、鈴木正編)という心の籠った一冊に、身近に親しんだ人たちの追憶が集められている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

see haiku here

Img_0357

俳画アーティストの清水国治さんから俳画集を二冊ご恵贈いただいた。
『清水国治 俳画集』と『松尾芭蕉+清水国治 俳画集』。
前者のなかに収録された俳文にもあるが、清水さんは多感な少年時代にハワイに行かれた方で、日本語と英語の二つの言語で表現をされる。バイリンガルの俳人というのは貴重な存在だ。詳しいわけではないが、ウェブ上で世界俳句協会の関連サイトを見ると必ずそのお名前を見つけることができる。したがって、この俳画集の俳句、俳文も日本語と英語が併記されている。芭蕉の句は、許可を得てドナルド・キーンの英訳である。

俳句にはいくつかの約束がある。五七五の韻律、切れ、季題など。俳句を詠まない人はそれを制約と見るだろうし、俳句を詠む人は、これらの約束をむしろ詩境を導く枠組みと見る。とはいうものの、俳句を作る人にとっても、なんせこの世界にはセンセーがやたら多くて、なにかというと煩いことを言うので、だんだん窮屈に感じているのではないか。だから俳句を、haiku として表現された短詩を読むのは、そういう窮屈さを取っ払った爽快感がある。本書の楽しさはそういうところにありそうだ。

本のほうはオンデマンドで印刷製本されたようだが、そうと聞かなければわからないだろう。たいへん美しい仕上がりである。清水さんのアートワークは、おそらくコンピュータを駆使するものだと思うので、こういう本作りと相性がいいのかもしれない。
個人的な意見だが、俳画というのは、これくらいのサイズとボリュームで眺めるのが心地よい。あんまり大きすぎたり、重かったりすると、よそ行きの畏まった感じになるが、俳画というのはもともと人間の普段の暮らしの中に溶け込んだ軽みのあるものだったのではないか。

お行儀が悪くて著者には申し訳ないが、カウチに寝そべって、haikuと俳句を代わる代わる読んではイメージを眺める。幼い子供が絵本のページを繰るような読み方が楽しい。

清水さんの俳画の実例は、こちらのブログで見ることができます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015/10/03

デイヴィッド・ロッジとジュンパ・ラヒリ、その他

『必笑小咄のテクニック』米原万里(集英社新書/2006)
方法論で分類したジョーク集という触れ込みなんだが、まあ、それほど大したものではない。思えば、一昔前のジョークはおもわずニヤリとさせられるものが多かった。このごろはなんだか現実がジョークみたいな気がするなあ。憲法解釈を反転させる閣議決定について内閣法制局には公文書がないそうな。やれやれ。

『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/2013)

Img_0300

ひどい題名だなと思いながら読み始めて、なんだ、そのまんまじゃんと感心したり、呆れ返ったり。H・G・ウェルズという人は、二度結婚したが、家庭の外に何人も愛人をもっていた。短期間の情事は些事だから別のこととして、本気で好きになって長くなりそうな愛人は妻にもきちんと報告していた。つぎつぎに新しい女が愛人として本書に登場するので、名前を覚えるのも面倒くさい。しかし登場人物はすべて実在した人間で、手紙や刊行物、書籍、談話なども大半が出典があるそうな。小説ならリアリティないじゃんと思うところだが、まさに事実は小説よりも奇なりであるな。ちなみに原題は"A Man of Parts"。
Partsには二つの意味があって、ひとつは才能という意味。もう一つは、陰部(private parts)の短縮形。同じ伝記小説という手法では『作者を出せ!』のヘンリー・ジェイムスのほうが心穏やかに読めるなあ。

『小田嶋隆のコラム道』小田嶋隆(ミシマ社/2012)
「が、読者は、実際には、彼らが考えているほど、細かく読んでいない」というのが推敲についてのアドヴァイスで、「つまり、書いてしまえば良いのである」が書き出しについてのアドヴァイス。まあ、実戦的な文章術だわな。

『低地』ジュンパ・ラヒリ/小川高義訳(新潮社/2014)
これはよかった。たぶん、今年読んだ中でもベストの一冊。
1950年代にカルカッタで双子のように育った年子の兄弟。活動的な弟と内省的な兄。それぞれ違う理系の大学に進学して、兄はアメリカで博士課程に、弟は学問よりも政治運動にのめり込む。やがて兄の元に弟が殺されたという電報が届く。毛沢東思想に強く影響を受けた極左組織の党員となった弟は、当局に追われ、自宅に潜伏していたところを発見されて、両親と若い妻の目前で射殺される。兄が帰国すると弟の妻は身ごもっていた。兄は、彼女を妻とし、生まれてくる子供を自分の子供としてロードアイランドで生活をはじめるが——
予想したようなお涙頂戴的なオハナシには全然ならないところがすごい。とくにこのはじめは無力な脇役のように思えた妻が後半はむしろ主人公のようになる展開に舌を巻く。
ジュンパ・ラヒリはこれまでの作品も素晴らしかったが、本書はとくに傑作ではあるまいか。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

«キング新作その他