ヒラリー・マンテルの16世紀の英国史を描いた『ウルフ・ホール』と『罪人を召し出せ』(ともに早川書房、宇佐川晶子訳)は、卑しい身分からやがてヘンリー八世の寵臣として絶大な権勢を誇る身分に登りつめたトマス・クロムウェルが主人公。いろんな小説を読んできたが、これほど魅力的なキャラクターは滅多にない。ミーハーのわたしはすっかり夢中になって、早速、両方のペーパーバックを手に入れたが、これが思いの外の難物で、『Wolf Hall』だけで、読み上げるのにほとんど1年がかりとなった。
我流の英語で多少ヨタヨタしながらも、たいていの小説なら、2、3週間もあれば十分なのだけれど(その気になればであって、最近は寝つきが良すぎてそうはいかないけど)、この作家の場合は一読しただけではなかなか容易に意味が取れないのですね。
ひとつは人称代名詞がちょっと曖昧で、うっかり気をぬくと、別の人の動作や描写のつもりで読み進め、全然違った解釈をしてしまったりするということがある。少し大げさだが、源氏物語の文体を連想したりもする。基本的に 'He' で始まると、それはクロムウェルだという約束を吞み込むのがコツのようだ。
また、風景や歴史の叙述はけっこう饒舌なくせに、いざ肝心なところでは、言わずもがなの説明は一切しないという、ある意味不親切極まりない文体なので、たぶんこういうことだろうけど、果たして自分の読みが正しいのかどうか、途方にくれるような気持ちもときどき起こる。雲の動きに誘われて、どんどん見知らぬ土地に入って行って、結局道に迷うような感じとでもいうか・・・
だから、今回は、すでに読んだ宇佐川晶子氏の訳と逐一突きあわせながらの精読である。一度は読んでいるとはいえ、さすがに細部は覚えてないので、再読で思わぬ発見が多い。年をとるとだんだん同じ本を何度も読むということが面白くなる。
たとえば——
と以下のことを書くのは少し迷った。実は誤訳のことに触れることになるからだ。だから、まずそのことを書く前に、この翻訳はたいへんな力技だっただろうとその苦労に謝したいと思う。上に書いたように、道に迷って途方にくれたときに、翻訳に当たって、ああ、そういう意味か!と自分の不明を恥じるとともに、的確な日本語訳に舌を巻くことの方が(当然)圧倒的に多かったのである。
さて、たとえば、の続きだが、小説の後半で、クロムウェルが息子を連れて、ハットフィールドを訪ねるところ。ヘンリー八世の頼みで彼の二人の娘(キャサリン妃の娘メアリとアン王妃との間に生まれた、このときはまだ赤子のエリザベスですが)の養育をしている館へ向かう途中です。
実はクロムウェルは9歳か10歳の頃にこの館を訪ねたことがあった。史実かどうか知らないが、クロムウェルの叔父はモートン枢機卿お抱えの料理人で、枢機卿がこのハットフィールドの領地に籠ると、はるばるロンドンからこの館に向かったものだ、という昔話を父親が息子に聞かせているという場面です。
まず、翻訳から
・・・・わたしが九つか十だった頃、ジョンおじさんは上等のチーズやパイといった食糧のたくわえを積んだ荷車に、わたしを乗せたものだった。そうやって追いはぎにあう場合にそなえたわけだ」
「護衛はいなかったの?」
「おじさんは護衛の身を心配したんだ」
「誰が護衛を守るの?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」
(『ウルフホール(下)』p.320)
原文はこうです。
..... and when I was nine or ten my uncle John used to pack me in a provisions cart with the best cheeses and the pies, in case anybody tried to steal them when we stopped.'
'Did you not have guards?'
'It was the guards he was afraid of'
'Quis custodiet ipsos custodes?'
'Me, evidently'
'What would you have done?'
'I don't know. Bitten them?'
(p.549)
問題はもちろん「おじさんは護衛の身を心配したんだ」という箇所である。これは、本当に上手の手から、の一例かなあ。
ひまだったら、Quis custodiet ipsos custodes でググって見てください。
山下太郎のラテン語入門というサイトに以下のような説明がありました。
「誰が見張り人自身を見張るのだろうか」と訳せます。
ローマの風刺詩人ユウェナーリスの言葉です(Juv.6.347-348)。
ローマ諷刺詩集 (岩波文庫)
ペルシウス ユウェナーリス 国原 吉之
ただしこのページの日付は2015年1月10日となっていますので、翻訳作業の時にネット検索してもヒットしなかったのは残念ですね。
たぶん、こうなるのではないでしょうか。
「護衛はいなかったの?」
「その護衛だよ、おじさんが心配してたのは」
「ミハリハ・ダレガ・ミハル・ノカ?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」
ちなみにこのシリーズ、最終的にはクロムウェル三部作となる予定らしいが、(第三作 The Mirror and the Light はまだ刊行されていない)なんと第一、第二作ともブッカー賞を受賞しています。BBCがテレビシリーズにしているらしいので、コスチュームドラマ大好き人間としては、NHKにはぜひ頑張って買って放映してもらいたいところ。
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