2009/12/26

柏木如亭の最期

今年の三月に『日本漢詩人選集8 柏木如亭』と『訳注聯珠詩格』をタネ本に「柏木如亭のこと」という記事を書いた。(こちら)
そのなかで、戦後における如亭再評価の口火は日夏耿之介だが、富士川英郎と中村真一郎の著作でも広く知られるようになったということを書いた。
というわけで、今回はその中村真一郎の『頼山陽とその時代』から如亭の最期に関することなどを覚えとして。

が、その前に、まず『頼山陽とその時代』について。
この本、小さな活字でニ段組650頁近い分量がありまして、かすみ眼で五十肩の老書生にとっては、まあ、読みにこと重いこと。とても通勤電車向きの本ではありません。仕方がないので、めずらしくコタツや、机で長時間の読書となっております。
また内容をご存知の方は、「そら見たことか」とお笑いになるかもしれないが、この時代の学者や文人の詩(漢詩)をこれでもかというくらい読まされるので、読みの分らない漢字が気になって頻繁に漢和辞書に当たるはめに陥ります。いつものように寝床でするするというようなお気楽な読書ができません。一頁読むにも、池波正太郎の十倍くらいはかかる。いや、これは比較の対象が不適切だけれども。(笑)
まあ、漢和のほうは、たまたま電子辞書という便利な道具がありますので助かっております。タッチペンでディスプレイに字を書くとほとんどきちんと認識してくれるので、いちいち画数を数えたり、部首がどれじゃろうと頭を悩ます必要がなくなったのはありがたいことであります。

閑話休題。
頼山陽と柏木如亭が知り合ったのは京都である。今回は如亭の話なのでくわしいことは端折るが、この山陽というのはとかく問題の多い人で、このときは広島の藩儒の家を廃嫡となって京で私塾を開こうとしていたのでありますね。でもって如亭のほうはもとより旅から旅の身の上ですが、たまたま在京中に二人は知り合って意気投合した。
山陽は京都の儒学者たちには評判が悪く―といっても、この人は、どこへ行ってもいじめに遇いやすいようなちょっとヘンな奴だったようですが―孤独をかこっていたところ、如亭がキミは無闇と交際を求めずに「ヒトリッコ」で遊べばいいじゃないか、と忠告してくれて、山陽しみじみありがたかったというようなことがあった。なお如亭は山陽より十七歳ばかり年長であります。

さて、それからいろいろありまして、山陽は九州は博多、長崎、肥後、薩摩、豊後と旅に出ます。如亭もまたしばらくは備中のほうで稼いでくるから、また京都で一緒に遊ぼうや、とふたりは約束して別れた。が、それがふたりの永訣となった。以下は、中村真一郎の本から――

山陽が帰洛すると、待っていた春琴が、如亭の死に際の困窮ぶりを話してくれた。
「伯擧(春琴)、ソノ終リニ臨ミテ困蹙尤モ甚ダシク、其ノ筆研書帙ヲ鬻(ひさ)ギテ、纔カニ能ク之ヲ葬リシヲ説ク。」
春琴が遺された文具や書籍を売って、辛うじて葬式を出したのだった。その悲惨な状況を、星巌も後にこう詠じている。
「憶ヒ得タリ、去秋、藁殯ノ日。藤条手縛ス木皮ノ棺。」
如亭の棺は藤蔓で結えただけの粗末なものであった。
山陽は若し如亭が「少シク節ヲ折リ行ヒヲ飾リ」さえすれば、このような困窮には堕さないで済んだだろうと言う。何しろ、寛齋一派の詩人たちは皆「上游ニ拠リ、王侯ニ交通シ」ていたのだから。しかしそれの出来ないところが「是レ其ノ山人タル所以ナリ」と、山陽は知己の言を添えている。
山陽は如亭の生活振りについてこう述べる。
「山人、官を弃(す)テ髪ヲ削リ、雙影千里、雲水僧ノ如シ。而モ服ハ必ズ時様、風流自ラ喜ブ。游冶少年ノ如シ。喜ンデ座ヲ罵リ、時新ヲ食シ、銭ヲ論ゼズ。侠客ノ如シ。」
彼は漂泊の身にありながら、常にニュー・ファッションの服を着て、プレイ・ボーイの態をなしていた。
「而モ飲ハ蕉葉ニモ任セズ。」彼は殆んど酒はひと口も飲めなかった。(ここのところ、誇張があるかも知れない。如亭はその『詩本草』中で、酒の味を論評しているからである。)
「几研整斎、性短視ニシテ、詩ヲ録スルニ必ズ小楷ヲ用フ、謹勅書生ノ如シ。」
この遊蕩児は、しかし書斎に入れば、塵ひとつない机に向って、正確な細字で詩を丹念に書き写していた。その「遊冶少年」とこの「謹勅書生」との同一人物中での共存ぶりの描写は、いかにも山陽らしい小説的対照である。
『頼山陽とその時代』 p.335

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2009/12/23

Happy Holidays

Greeting_2

Oh the weather outside is frightful,
But the fire is so delightful,
And since we've no place to go,
Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!


1. December 1st 2009, 2. Christmas on Long Island / Nikon D300 - Sigma Fisheye 15mm f/2.8, 3. Stars, moon & clouds shower cookies, 4. PC164238, 5. Holiday cake, 6. The mind must become warm..., 7. Season's Greetings, 8. Christmassy Illusion, 9. Forecast Snow.fd's Flickr Toys Created with fd's Flickr Toys

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2009/12/17

虎よ、虎よ

「公式記録」がどこまで伸びるのか知りませんけれども、いちおう数日前に14人目が名乗り出たタイガー・ウッズの愛人騒ぎ。
あのタイガーだもの、十数人なんてけちなことを言わずに、愛人百人くらいは男の勲章であるとホントはみんな思っているのだが、まあ、さすがにこれは大きな声では言えない。

なんでもあの奥方、逃げるタイガーをゴルフクラブで追い回したそうですね。なかなか派手な大立ち回りである。日本なら夫婦喧嘩は犬も食わないと言って警察も「あほくさ」といって帰っちゃうところですが、アメリカだと家庭内暴力事件になりかけてしまう。
いや、消火栓にぶつけて車内で意識朦朧となったボクを、勇敢にもゴルフクラブで窓を割り救助してくれたんだ、なんてねえ——小学生だってもっとましなウソを思いつく。(笑)

さて、逃げる浮気亭主を得物をもった悋気の奥方が追っかける図といえば、日本にこういう話がある。ネタは三田村鳶魚の「江戸の女」から。

上州安中二万石、水野信濃守元知(ゆきとも)という殿様の奥方がひどい焼餅でとうとうお家おとり潰しになったという一件があるのだそうで。
なんでも水野が参勤交代によって数年ぶりに江戸へ出てきた晩、この奥方のいらっしゃる上屋敷には姿をみせず、妾を何人も置いている下屋敷の方へ行っちゃったというのですね。うん、これはちょっとまずいね。なんと言っても正妻は正妻なんだから、入府したらとにかく、「やあやあ、しばらく。元気だったかい。うん、おかげでこっちも息災さ。じゃあまた明日」くらいの挨拶をして、それから愛人たちのところに行けばよかったのですよね。イギリスの貴族なんかなら、間違いなくこのあたりはうまくやるよ、きっと。

だが、この仕打ちに怒った水野の奥方は翌日、ぬけぬけとやってきた信濃守の顔を見るや、「お覚えがありましょう」の一声で長押の薙刀とって飛びかかって来られた、ト。信濃守、びっくり仰天して奥から表へ逃げ出し邸中大騒ぎ。(笑)この不始末、すぐに江戸中に広まるわ、将軍の耳にまで届くわでとうとう信州松本へ配流、お家は断絶という始末であった。

さらにこんな話は、もっと古くからいくらもあって、と鳶魚翁は筆をすすめ、なんとあの常に一番槍で勇猛果敢な福島正則が唯一敵に後を見せた逸話を語っておられます。タイガー・ウッズに聞かせて、なぐさめてやりたいたい話ですねえ。

水野信濃守が奥方の薙刀にびっくり仰天して、奥から表へ逃げ出したのは、いかにも不覚らしい話で、みっともないようでありますが、こんな話は水野ばかりじゃない。大坂時代に荒大名といわれた福島正則なども、奥方に薙刀で追い駆けられて、表座敷へ逃げて来た。あとで正則が近臣に話されたところによりますと、自分は今日までどんな戦場へ出かけて行っても、敵に後を見せたことはないが、今日は畳の上で敵に後を見せた、どうも女の怒っているほど凄まじいものはない、ということであったそうです。あれだけ荒武者の福島正則でさえ、恐れをなすくらいですから、水野信濃守あたりがびっくりするのは、むしろ当然の話でありましょう。

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2009/12/14

四十七士の最後の男

「肌身付けの金を分ける」
と、内蔵之助が云った。大高源吾が、風呂敷包の中から、紙に包んだ物を出して、自分の左右へ
「順に」
と、いって渡した。人々は、手から手へ、金を取次いだ。源吾が
「四十四、四十五、四十六っ」
と、いって、その最後の一つも自分の右に置いた。内蔵之助の後方に、坐っていた寺坂吉右衛門はさっと、顔を赤くして、俯いた。と、同時に、内蔵之助が
「これで、有金、残らず始末した」と、いった。吉右衛門は、口惜しさに、爆発しそうだった。
士分以外の、唯一人の下郎として、今まで従ってきたが——
(この間際になっても、俺を、身分ちがいにするのか?)
と、思った。悲しさよりも、憤りが、熱風のように、頭の中を吹き廻った。
「寺坂吉右衛門の逃亡」
直木三十五

元禄十五年(1702)十二月十四日、高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入って主君の仇討ちをみごと果たした赤穂浪士はふつうは四十七士と称されます。いろは四十七文字にかけて『假名手本忠臣藏』となったいきさつは御存知の通り。
ところがあれはじつは四十六士である、という説もむかしからあるそうでして、古くは太宰春台、近いところでは徳富蘇峰などが、いや四十七士のうち寺坂吉右衛門信行という足軽が逃げてるじゃないか、と指摘しているのだそうです。いやもちろんわたしはどちらも読んだわけじゃないけどね。

なお冒頭の「寺坂吉右衛門の逃亡」は、ごくごく短い小説で「青空文庫」で読むことができますが、やはり寺坂逃亡説であることはこの引用からも想像できると思います。この時代の人に、そこまで「身分ちがい」への憤りが起きただろうかという疑問はありますが、この憤りによって寺坂は討ち入りなんか誰ができるかと、逃げたんだというのが直木三十五の説。

たしかに寺坂吉右衛門は、延享四年(1747)八十三歳で天寿を全うしていることが記録に残っているそうですから、かれが途中で義士と袂を分かったことは間違いない。問題はそれが無許可の逃亡なのか、それとも大石内蔵助らの密命によるものなのかということであります。で、まあ庶民としては、ここはせっかくの美談に水を差したくないし、いろは四十七士で覚えやすいんだから、大石の指図で泣く泣く、国元への報告に帰らされたんだ、ということにしておこうぜ、ということであったのではないかと思われます。

ところで復本一郎の『俳句芸術論』(沖積社)所収の「義士俳人としての寺坂吉右衛門」によれば、この寺坂吉右衛門はやはり義士だった、すなわち他の同志にその行動を認められていたんじゃないかということですな。

義士のなかには十指に余る俳人がおり、けっこう名の通ったところでは富森助右衛門(春帆)、大高源吾(子葉)、神崎与五郎(竹平)なんて人がいました。三人とも其角の交遊圏にあり、とくに大高源吾と其角の関係はよく知られている。
でもって、復本氏の考証によれば、疑惑の寺坂吉右衛門も俳人ではなかったというのですね。寺坂は上にちらりと述べたが、直接浅野内匠頭に臣従する身分ではない。主人は吉田忠左衛門といい、もちろんこの人も義士の一人であるわけですが、嵐雪の流れを汲む白峰門の俳人で、その俳号を白砂といった。その家来の寺坂が進歩という俳号で登場する正体が確定されていない俳人であろうというのです。復本氏によるくわしい考証の道筋は煩瑣なれば省略しますが、他の義士俳人と並んで子葉こと大高源吾の選集などに収録されていること、またこの大高源吾が俳人水間沾徳に義挙を報ずる手紙というのがあるのだが、そこに「進歩事のみ気の毒」という一文があることなどから、やはり進歩=寺坂吉右衛門は義士と行動をともにすることを許可されず、別の任務を与えられたと思えるが、それでも四十七士の一人としてみるべきではなかろうか、というのであります。

進歩の句は次のようなものでした。

うつくしい顔に化粧や花曇

身の軽き生まれつき也種ふくべ

風蘭よ我もうき世の中に居る

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2009/12/13

新刊本の売れない理由

本日の朝日新聞の一面によれば、昨年の新刊本の刊行点数は約7万6千点だったそうな。
ここ20年、2兆円以上あった売上も、96年の2兆6563億円をピークに年々落ち続け、ついに今年は2兆円を大きく割り込むことが確実であるといいますな。記事によれば、本が売れないから売上をあげるために刊行点数を増やしているが、返本率は4割以上だとか。

わたしの観察では、通勤電車などで図書館の本を読んでいる人が以前より増えたような印象がある。それも、ハードカバーにかぎらず、文庫本でも図書館の本であったりする。
本を読む人は、さほど減ってはいないと思うのだが、本を買う人は激減しているのではないかという気がしていたが、やっぱりなあという調査結果であります。

わたしの場合はどうか。
毎月読んだ本をこのブログの月初にアップしているので、今年読んだ本の記事をエクセルに落として分類してみた。

11月末までに読んだ本は全部で187冊。(文庫の上下などは2冊と計算)
内訳はごく大雑把に分けると、図書館の本が118冊、古本が45冊、新刊本が24冊という結果である。
ただし新刊本24冊のうち21冊は、買ったのはわたしでなくてカミさん。たまたま家にあったお下がりを読んだのでありますね。(笑)
だから、わたしが身銭を切った新刊本はたったの3冊。そのうち2冊は洋書でamazonの取り寄せだから、いわゆる本屋さんで買った国内の新刊はたったの1冊でした。
(堂目卓生の『アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界』)

うーん、自分でもまさか新刊本を本屋さんでは1冊しか買っていなかったとは思ってもみなかったので、びっくりした。(笑)

わたしにとって本のない人生はおよそ考えられないものなので、もっとお金を出すことにやぶさかではないのだが、しかし、そもそも公共図書館が無料貸本屋になってるのをいいことに、テメーらただ読みばっかしやがってとか、ブックオフが諸悪の根源だなんていう作家や出版業界の一部にある声もなんだかなあと思ってしまう。

言うことをきかない子どもにてこずって、「じゃあ、○○ちゃんはママが死んだっていいのね」なんてヒステリー気味の脅しをかけるお母さんがときどきいますが、その伝でいけば「もうこんなんじゃやってられないわ。図書館やブックオフの本ばっかり読んで。どうせわたしたちの新刊なんか買わないんでしょ。いいわ、もう出版なんかやめてやる。あんたたちわたしたちがもう新刊、出さなくなってもいいのね」と著作者や出版業界が脅しをかけたらどうでしょう。
ああ、これはもう答えははっきりしてますね。
「うん、いいよ。キミんとこで出してるこれとかあれとかそれとか(ここは週間ベストセラーの具体的な書名を任意にいれてくださいね)なくなったほうがよっぽどいい。ゴミも減るし。まだ読んでないずっと面白い本はいくらでもあるから、キミんとこの新しいのは別にいらない」というだけでありますね。

それにいい本ならやっぱり手元に置きたいから買うとおもうんだけどなあ。
「これとかあれとかそれとか」ばっか出してるから駄目なんだよ、きっと。

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2009/12/06

『文学は別解で行こう』

20091206 『文学は別解で行こう』鹿島茂(白水社)を読む。
いや、これは面白いね。
1989年から2000年までの11年間に書いた文芸評論を中心にまとめたものだそうですが、全部で17本、これを四部構成にして一冊に仕上げている。
11年間で17本というのは少ないようでもあり、いやしかし、昨今のフランス文学の「不人気な御時勢」を考えるとけっこう注文があったほうかもしれないよ、とご本人が「あとがき」で書いているような見方もあるいはあるかもしれない。

仏文関係がいまや不人気業界であるということについては、ちょっと前に、内田樹氏も書いていた。(「どうして仏文科は消えてゆくのか?」

理由はいくつかある。
英語が「国際公用語」の覇権闘争に勝利して、事実上のリンガ・フランカになったこと。
フランス自体の文化的発信力が衰えたこと。
文学についての知識や趣味の良さを文化資本にカウントする習慣が廃れたこと。
語学教育がオーラル中心にシフトしたこと。
などが挙げられる。

でもって、内田先生の見立てによれば、最初の二つはグローバルな事情によるものだから日本がどうこうできる問題ではない。残る二つが日本の国内の問題であるが、とくに三番目の「文学についての知識や趣味の良さを文化資本にカウントする習慣が廃れたこと」について、それはけっきょく、「現に日本社会で権力や威信や財貨や情報などの社会的リソースを占有している人々に教養がないからである」と言っておられますな。まあ、なんかヘンだなと思わないでもないが、長くなりますから、それはまたべつのお話ということにしておきましょう。

仏文業界が不人気だというのは、ニワトリが先がタマゴが先か、みたいなことになるけれども、たとえばフレンチ・ポップスやシャンソンというのもかつては立派な(?)ジャンルだったし、フランス映画はハリウッドにだって十分に、はりあっていた。それが、いまは、やはりぱっとしないみたいですね。
わたし自身はそもそも文学部の出身でもないので、どっちにしてもさほど思い入れはありませんが、仏文というと、秀才ぞろいの知的エリートという印象があって、個人的にはむかしからフランス文学と聞くと、反射的に「けっ」と思ってしまう。
いや、あるいは赤塚不二男の「おそまつ君」でイヤミが、「おフランス」を連発していたあたりがじつは忌避の刷り込みの大元かもしれん。(笑)
しかし、東大の仏文が定員割れするような時代であれば、こういう偏見または劣等感みたいなんものは、もういまの若い人にはあんまりないのかもしれません。

さて、前置きが長くなったが、まあたぶんそういう理由で、わたしはあんまりフランス文学関係の本は好まない。鹿島茂さんについても、正直、食指は動かなかったのですが、偏見がしょせんは偏見に過ぎないという見本みたいなもんですね。この方の書く文章はオモシロイですねえ。
一例として、本書から「予想屋マルクスによる二月革命リーグ戦展望」という10ページくらいの短い文章をあげてみましょう。

まず鹿島さんは、マルクスで一番まじめに読んだのは、フランス現代史三部作(『フランスにおける階級闘争』、『ルイ・ボナパルトのブリューメル十八日』、『フランスにおける内乱』)であると語りだす。そして、この三部作に比肩する同時代の著作はトックヴィルの『フランス二月革命の日々』しかないと言って、なにしろマルクスというのはたいした歴史家であるよと言うのですね。だが、これらの三部作を読みながら、つねに頭の隅を離れないひとつの疑問は、マルクスはどの党派の贔屓だったのかしら、ということであるという。
うん、これは面白い視点です。もちろん、この二月革命の時点で組織された産業プロレタリアートという階級があれば、これを応援したにきまっているわけですが、1848年のフランスにはそういう党派はまだ存在しなかった。
そこで、鹿島さん、二月革命からルイ・ナポレオンのクーデターまでの期間をプロ野球のペナントレースに見立てて、マルクスが解説者だったらどういう予想を立てるだろうかという戯文を綴っているのですが、これが傑作。
そのペナントレースの出場チームは以下の通り。

王党ブルボンズ
王党オルレアンズ
金融ブルジョワズ
産業ブルジョワズ
商業プチブルズ
農業プチブルズ
三色旗レピュブリカンズ
赤旗レピュブリカンズ
空想ソシアリスツ
革命ブランキスツ
革命ルンプロズ
ナポレオン・ボナパルツ

それぞれに下したマルクスの勝敗予想は、鹿島さんの文章をお読みいただくことにして、マルクスの予想は、少なくともこのペナントレースに限っては(つまり二月革命からルイ・ナポレオンのクーデターまで)はぴたりと当たって、お見事ということになる。しかし、問題は、予想屋マルクスの大誤算ということで、これはもう鹿島さんの文章をそのまま転記してみなさんに味わっていただくしかない。わたしは、こんな愉快な(そして正鵠を射た)マルクス批判を読んだことがありませんよ。

「商業プチブルズ」はマルクスからすれば、好きも嫌いも、まったく視野の外にあるチームだった。産業が発展し、必然的に社会主義に移行するなら、このチームは、その昔の高橋ユニオンズのように自然消滅するしかないというのがマルクスの考えだった。ところが、そうは行かなかった。ここがマルクスの最大の誤算である。根が生真面目で、服は着られればよく、家は住むことができればそれでかまわず、食べ物も美食などもってのほかと考えていた清貧主義者マルクスにとって、消費の喜びとか、浪費の快楽などはまったく無縁の概念だった。せっかく『資本論』で商品のアウラという概念に行き当たりながら、それを実生活で実感することのなかったマルクスは、後に共産主義社会を築いた国の民衆が、ただ自由に消費をしたいがために、それを放棄するとは予想だにしなかった。このチームの実力を軽視したことがマルクスの敗北の遠因になるのである。「商業プチブルズ」は十九世紀後半から「商業ブルジョワズ」と名前を変え、強打の「産業ブルジョワズ」を尻目に、二十世紀後半からは常勝チームに育ってゆくのである。予想屋マルクスの完敗である。

はは、わたしはいまの日本に置き換えて、思わずユニクロ一人勝ちを連想してしまいましたよ。(笑)

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2009/12/01

11月に読んだ本

『近江から日本史を読み直す』今谷明(講談社現代新書/2007)
『仏壇におはぎ』武田花(角川春樹事務所/2004)
『俳の山なみ』加藤郁乎(角川学芸出版/2009)
『デカルト暗殺』アイケ・ピース/山内志朗訳(大修館書店/2000)
『お言葉ですが…〈別巻2〉』高島俊男(連合出版/2009)
『原始の骨』アーロン・エルキンズ/嵯峨静江訳(ハヤカワ文庫/2009)
『鬼平犯科帳〈17〉特別長篇 鬼火』池波正太郎(文春文庫/2004)
『本が好き、悪口言うのはもっと好き』高島俊男(大和書房/1995)
『私とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子(講談社/2009)
『みんな俳句が好きだった』内藤好之(東京堂出版/2009)
『杉本秀太郎文粋4蔦の細道/大田垣蓮月・江戸の散文』(筑摩書房 /1996)
『鬼平犯科帳 新装版〈18〉』池波正太郎(文春文庫/2004)
『庭師 ただそこにいるだけの人』ジャージ・コジンスキー/高橋啓訳(飛鳥新社/2004)
『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ/若島正訳(新潮文庫/2006)
『鬼平犯科帳 新装版〈19〉』池波正太郎(文春文庫/2004)
『寝言も本のはなし』高島俊男(大和書房/1999)

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2009/11/23

Brain Science Podcast

以前、英語教材の話題として、「ESL Podcastはおもしろい」という記事を書きましたが、今回も同じような話題です。
新潮社の季刊『考える人』No.30で、水村美苗氏がインタビューのなかで自分の日常を紹介しながらポッドキャストを聞いている、なんてことを話しておられます。

ポッドキャストは家事をしたり、散歩をしたりしながら聞けるので本当に便利です。よく聞いているのは、アメリカのNPRというラジオ局のインタビュー番組「フレッシュ・エア」。あと最近は「ブレイン・サイエンス」という番組。緊急治療室で働いている現職の女のお医者さんが個人でやっていて、脳科学にかんする本を紹介したリ、専門家にインタビューしたりする番組なんです。脳科学がいまいかにおもしろいかがわかる。

このインタビューを読んで、わたしもさっそく聞いてみたのだが、たしかにBrain Science Podcast は面白いです。
最新のエピソードは第63話ですが、こちらのサイトに行くとこれまでのエピソードを初回から最新回まですべてダウンロードできる。

Zfryk じつは、二つ三つばかり試しに聞いてみたら、あんまり面白いので、エピソードのいちばんはじめから聞き始めた。ちなみに第一回は2006年の12月15日に公開されています。最初の頃は、まだ録音があんまりよくなかったり(とくにインタビューの相手側が電話の録音なのかなあ、ちょっと聞き取りにくい)長さも短めなんですが、しばらくすると大体50分から1時間くらいで安定しますし、また音質もかなりよくなるので、一日一話みたいな感じで通勤時間に聞くのにちょうどいいのですね。行きに半分、帰りに半分、または行き帰りで二回聞くとか。いまちょうど第45話まできました。

で、今回のエントリーは、このポッドキャストが英語教材にとてもいいという切り口なんですが、なぜいいかというと理由が三つあります。

まず第一は、内容がすごく刺激的で面白い、ということがある。このポッドキャストのコンセプトはサイエンスに対してまったく素人(つまりたとえばわたし)に対して、近年の脳科学がつぎつぎにあきらかにしつつある知見を専門用語などをできるだけつかわずわかりやすく伝えるということなんですが、その立場は明確で(ひとつまえのエントリーとも多少関連しますが)二元論は決定的に否定されるということです。つまり、こころ、意識、情動、自我、感覚、知覚、記憶、言語、文字、知性など、人間のおよそすべての精神にかかわることは、すべて脳で生み出され、かたちづくられ、むすびつけられ、なぜ、あるいは、いかに「わたし」は「わたし」なのかは、脳科学が解明しつつあるという確信です。そしてこれについて疑問に思う人にもきっと面白いし、脳科学の知見はきっとあなたの哲学的な内省にすごく役に立つと思いますよ、というのが番組ホストのジンジャー・キャンベル博士の言葉であります。そして、それはまったく正しい。

第二に、このジンジャー・キャンベル博士の話す英語がまことに論理的、明晰、クリスタルクリアでありながら、じつに暖かく信頼できる「感じ」を聞き手に与えることです。この方は、水村さんのインタビューにもあるとおり、現役のERドクターだそうですが、いったい、仕事とこんなとんでもない番組を公開することの両立が、人間に可能なんでしょうかね。よほど頭脳の「排気量」が大きいのでしょう。
また登場するゲストの話す英語が多種多様でありながら、なるほど英語というのは、こういう科学的なアイデアを伝達するにはすぐれた言語だなあと思わせ、またとても面白い話をみんながみんなすること。
すなわち、ホストとゲストの英語表現力の魅力。

そして第三に、これは、わたしレベルの聴講者にとっての利点ですけれども(つまり英語が日本語と遜色なく聞き取れる方には不要な点)、第一話から完璧な筆記録がPDFファイルで用意されていること。iPodで聞いてだいたいのところはわかったつもりでいても、あらためてこの Transcripts に目を通すと、ありゃりゃ、こんなこと言ってたっけ、ぜんぜん聞き落としちゃってるじゃん、とびっくりすることが多い。

ためしに聴くなら、たとえば、第24話の

Reading and the Brain: Discussion of Proust and the Squid: The Story and Science of the Reading Brain by Maryanne Wolf

あたりが面白いのではないかと思う。
日本語についての話題もあるし、またこのウルフの著書『プルーストとイカ』については、上記の水村さんもインタビューでちらっとふれている。

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2009/11/20

さてわたしとは何なのか

人間とは何か。
という形で問いを立てたことが、じつは、私にはない。
というよりも正確には、私にとって、問いは、どういうわけか常に必ず、
人間とは何か。
と、問うているところのこれは何か。
の形をとる。

  「デカルトを擁護して」
  『私とは何か さて死んだのは誰なのか』
  池田晶子

「わたし」とはなんであるか。「わたし」はどこにいるか。
あるいはもっと簡単にこう言いかえてもよい、「わたし」とはすなわち脳のことであるか。
だが脳というのはつまるところ臓器のひとつである。この細胞の塊が「わたし」であるかといえば、どうもそうではないような気が誰でもするであろう。
「わたし」というのは脳のなかでつくられているものだ、ニューロンの発火がすなわち「わたし」というものだと説明されると、ああそうなんですか、ふーん、なるほどね、というくらいの気持ちにはなるけれども、どこか完全に納得しかねるような気分が残る。

それに対して、いやじつは、「わたし」は脳をつかって「わたし」のことを考えているのじゃないかしらと言ってみると、案外このほうが真実に近いような気がしませんか。わたしはしますね。

頭のいいやつ、わるいやつ、と一口に言うけれども、それは脳の産物であるところの「わたし」の品質の差だといわれるとどうも立つ瀬がないが、いや、そうではなくて「わたし」というものがそもそも先にあって、これがそれぞれ自分の肉体に与えられた臓器としての脳をつかって考えているのだよ、だからこれは駆けっこが速いかどうかと本質的な違いはないのよね、と言われると精神衛生上はなはだよろしいのであります。

いまこれを、そもそも心身二元論などというのは、なんて言葉で言われると、ははあ哲学ですか、わたしらバカだからわかりませんと思ってしまうけれども、いやなに、これは脳が先か「われ」が先かの問題なのであります。二元論はちかごろ旗色が悪くて魂があるなんてのはオカルトじゃん、バカじゃんということになっているのでありますが、これは考えてみるとなかなかそう簡単な問題ではない。

わたしにとって「わたし」がまちがいなくあるというのは、これは自明のことで疑うことはできない。
失礼を承知で申し上げれば、あなたにとっての「わたし」がほんとうにあるのかどうかは確信はもてません。たぶんわたしの「わたし」が絶対であることから類推して、あなたの「わたし」もたぶんあるのだろう。まあそういうことにしておいてあげよう。疑えばきりがないもんね。まあ、あんたの「わたし」があることで、わたしとしては別にこまるわけではないから、あんたがどうしてもあるというならまあ認めてあげるけんね、とお互いに思っているのが、「わたし」というものなのである。

わたしにとって「わたし」があることは自明だが、それをお見せしたり、示したりすることは誰にもできない、というのは、たとえば「痛み」というのとじつは同じであります。

あなたがリビングの椅子に裸足の小指の先を思い切りぶつけたとする。
「イッテェー!!」と叫ぶ。この痛みがあることは疑いをいれない。
だって死ぬほど痛いんだもの。そりゃあるに決まっている。でもちょっとまってくれ。その小指が痛いというけれど、痛みはそこにはないのである。だって痛みを感じているのはあんたの脳である。脳が痛みを感じているのなら脳が痛むかといえば、いやもちろん脳は痛くない。小指が痛いのである。しかし、さてこの痛みというのはどこにあるのか、それは物質なのか、そうではない。それは信号なのか、まあそうだろう。だが、神経を流れる信号のパルスをいくら波形で表してみても、そのときに伝達される神経物質を抽出してみてもそれと「痛み」そのものは同じではない。痛さというのははただの脳の中のイルージョンにすぎないなんていう奴がいたら、くそったれ、同じ目にあわせてやろうじゃんか、てなもんであります。

つまり「わたし」というのはそういうもんなのでありますな、おそらく。

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2009/11/17

広瀬淡窓と俳諧

予、詩ヲ推敲スルニツイテ、悟入シタルコトアリ。予ガ父ハ俳諧ヲ好メリ。ソノ話ニ、或ル人生海鼠(なまこ)ノ句ヲ作リテ曰ク、板敷ニ下女取リ落ス生海鼠カナ。師ノ曰ク、善シト雖モ、道具多キニス過グ、再考スベシト。乃チ改メテ曰ク。板敷ニ取リ落シタル生海鼠カナ。師ノ曰ク、甚ダ善シ。然レドモ猶ホイマダシ。ソノ人苦吟スレドモ得ルコト能ハズ。師乃チ改メテ曰ク、取リ落シ取リ落シタル生海鼠カナ、ト。予、コノ話ヲ聞キテ、大イニ推敲ノ旨ヲ得ルコトヲ覚ユ。

「俳句は引き算で作る!」というのは今月の角川「俳句」の特集でしたが、今日、読んだ杉本秀太郎の「大田垣蓮月」(『杉本秀太郎文粋4』収録)にこんな話が。
『淡窓全集』の「淡窓詩話」に拠るそうです。

近世期の日本のすごいところは、地方にもすぐれた人物がいて、そこに全国から名声を慕って学者や読書人が訪問し、また各地からやってきた門弟を育てていたことだと思います。豊後日田の広瀬淡窓(1782ー1856)もそういう人物の一人。学塾咸宜園で指導した塾生はゆうに四千人といわれる。有名な門人はたとえば高野長英、大村益次郎など。
話は、詩の推敲についてですが、淡窓の父が俳諧を好んでいたというのも面白い。

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