b)書評

2016/12/15

ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』

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ヒラリー・マンテルの16世紀の英国史を描いた『ウルフ・ホール』と『罪人を召し出せ』(ともに早川書房、宇佐川晶子訳)は、卑しい身分からやがてヘンリー八世の寵臣として絶大な権勢を誇る身分に登りつめたトマス・クロムウェルが主人公。いろんな小説を読んできたが、これほど魅力的なキャラクターは滅多にない。ミーハーのわたしはすっかり夢中になって、早速、両方のペーパーバックを手に入れたが、これが思いの外の難物で、『Wolf Hall』だけで、読み上げるのにほとんど1年がかりとなった。

我流の英語で多少ヨタヨタしながらも、たいていの小説なら、2、3週間もあれば十分なのだけれど(その気になればであって、最近は寝つきが良すぎてそうはいかないけど)、この作家の場合は一読しただけではなかなか容易に意味が取れないのですね。

ひとつは人称代名詞がちょっと曖昧で、うっかり気をぬくと、別の人の動作や描写のつもりで読み進め、全然違った解釈をしてしまったりするということがある。少し大げさだが、源氏物語の文体を連想したりもする。基本的に 'He' で始まると、それはクロムウェルだという約束を吞み込むのがコツのようだ。

また、風景や歴史の叙述はけっこう饒舌なくせに、いざ肝心なところでは、言わずもがなの説明は一切しないという、ある意味不親切極まりない文体なので、たぶんこういうことだろうけど、果たして自分の読みが正しいのかどうか、途方にくれるような気持ちもときどき起こる。雲の動きに誘われて、どんどん見知らぬ土地に入って行って、結局道に迷うような感じとでもいうか・・・

だから、今回は、すでに読んだ宇佐川晶子氏の訳と逐一突きあわせながらの精読である。一度は読んでいるとはいえ、さすがに細部は覚えてないので、再読で思わぬ発見が多い。年をとるとだんだん同じ本を何度も読むということが面白くなる。

たとえば——
と以下のことを書くのは少し迷った。実は誤訳のことに触れることになるからだ。だから、まずそのことを書く前に、この翻訳はたいへんな力技だっただろうとその苦労に謝したいと思う。上に書いたように、道に迷って途方にくれたときに、翻訳に当たって、ああ、そういう意味か!と自分の不明を恥じるとともに、的確な日本語訳に舌を巻くことの方が(当然)圧倒的に多かったのである。

さて、たとえば、の続きだが、小説の後半で、クロムウェルが息子を連れて、ハットフィールドを訪ねるところ。ヘンリー八世の頼みで彼の二人の娘(キャサリン妃の娘メアリとアン王妃との間に生まれた、このときはまだ赤子のエリザベスですが)の養育をしている館へ向かう途中です。

実はクロムウェルは9歳か10歳の頃にこの館を訪ねたことがあった。史実かどうか知らないが、クロムウェルの叔父はモートン枢機卿お抱えの料理人で、枢機卿がこのハットフィールドの領地に籠ると、はるばるロンドンからこの館に向かったものだ、という昔話を父親が息子に聞かせているという場面です。

まず、翻訳から

・・・・わたしが九つか十だった頃、ジョンおじさんは上等のチーズやパイといった食糧のたくわえを積んだ荷車に、わたしを乗せたものだった。そうやって追いはぎにあう場合にそなえたわけだ」
「護衛はいなかったの?」
「おじさんは護衛の身を心配したんだ」
「誰が護衛を守るの?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」
(『ウルフホール(下)』p.320)

原文はこうです。

..... and when I was nine or ten my uncle John used to pack me in a provisions cart with the best cheeses and the pies, in case anybody tried to steal them when we stopped.'
'Did you not have guards?'
'It was the guards he was afraid of'
'Quis custodiet ipsos custodes?'
'Me, evidently'
'What would you have done?'
'I don't know. Bitten them?'
(p.549)

問題はもちろん「おじさんは護衛の身を心配したんだ」という箇所である。これは、本当に上手の手から、の一例かなあ。

ひまだったら、Quis custodiet ipsos custodes でググって見てください。
山下太郎のラテン語入門というサイトに以下のような説明がありました。

「誰が見張り人自身を見張るのだろうか」と訳せます。
ローマの風刺詩人ユウェナーリスの言葉です(Juv.6.347-348)。
ローマ諷刺詩集 (岩波文庫)
ペルシウス ユウェナーリス 国原 吉之

ただしこのページの日付は2015年1月10日となっていますので、翻訳作業の時にネット検索してもヒットしなかったのは残念ですね。

たぶん、こうなるのではないでしょうか。

「護衛はいなかったの?」
「その護衛だよ、おじさんが心配してたのは」
「ミハリハ・ダレガ・ミハル・ノカ?(クイス・クストディエト・イプソス・クストデス)」
「もちろんわたしだ」
「どうやって?」
「さて。噛みつくとか?」

ちなみにこのシリーズ、最終的にはクロムウェル三部作となる予定らしいが、(第三作 The Mirror and the Light はまだ刊行されていない)なんと第一、第二作ともブッカー賞を受賞しています。BBCがテレビシリーズにしているらしいので、コスチュームドラマ大好き人間としては、NHKにはぜひ頑張って買って放映してもらいたいところ。

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2015/07/26

『忘れられた巨人』

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先日の記事「ソングライター、カズオ・イシグロ」がきっかけで、『忘れられた巨人』をある方からお借りできました。ありがたいことであります。ステーシー・ケントのことは早川書房編集部による「解説」にもちらっとふれてありました。

さて本書、評判どおり面白い。

イングランドの歴史にさほど詳しいわけではないが、この島にはいろいろな人々が太古より棲み着いていた。本書に出てくるのはブリトン人とサクソン人。ブリトン人のほうが先に定住しており、そこにカエサルがやってきてローマ帝国の支配圏に入る。しかし5世紀の初頭にローマ人は去り、街道や水道などのローマ文明も崩壊するわけですが、そのころには、いまのデンマークのあたりがルーツのサクソン人がつぎつぎに侵攻し、定住して行きます。異民族同士ですから諍いが絶えない。ブリトン人の偉大なるアーサー王が、いったんはサクソン人を平らげますが、王の崩御後はサクソン人を中心とした王国(いわゆるイングランド七王国)が興り、先住民のブリトン人たちは辺境へ辺境へと押しやられる——というようなことが(歴史的に正確かどうかは別ですが)本書のベースです。もっとも、そのあたりのことは本書を読めば自然にわかるので、ことさら知っておくほどのことでもありません。

主人公はアクセルとベアトリスというブリトン人の老夫婦。じつは、このふたりにかぎりませんが、この時代、この島の人々は不思議な記憶の障碍にかかっています。むかしのことがよく思い出せず、数週間、数日前の記憶もなぜか曖昧になってしまうというのであります。ふたりもこの記憶の障碍に悩んでいますが、もうひとつ村の人々の冷たい仕打ちも、とくにベアトリスにとっては辛い日常なのです。そんなこともあって、ある日、ふたりは息子のいる村に行こうと旅に出ます。どういういきさつがあったか、これまた記憶がさだかでないものの、息子は家を出て、遠い村で重だった役割を担っているようなのです。しかし、ふたりが訪ねていけば喜んで迎え入れてくれるはず。
旅の途中で、いろんなできごとがおこります。サクソン人の戦士ウィスタン、鬼どもに襲われて怪我を負ったサクソン人の村の少年エドウィン、(たしか七王国の一つであるノーサンブリアの王がこの名前でした)アーサー王の騎士だったブリトン人のガウェイン卿といった人々が現れ、老夫婦の道連れになったり、別れたり、意外な場所で再会したり——最後には雌龍クエリグ退治なんていう山場もありますから、道具立てはファンタジーなんですが、読後感はちょっと違う。

なにが違うのか、そこがポイントのような気がします。

たとえば、上橋菜穂子の「守り人」シリーズや『鹿の王』、『獣の奏者』といったファンタジー小説がありますね。とてもよくできた作品で、読み終えたあとに、ふと我にかえりそれまで、ここではないどこか別の世界にどっぷりと浸っていたという満足感が残ります。

しかし、この『忘れられた巨人』では、そういう満足感はどうも得られそうにない。このキャラクターには、あるいはこのエピソードには、ここではないどこか別の世界ではなく、まさに「ここ」の世界が二重写しのように重なっていることが明らかで、そのことに圧倒されるような気がします。
いうまでもないことですが、カズオ・イシグロが目指したのは21世紀のトールキンではないでしょう。かれがファンタジーというジャンルを見下している、というのはもちろん言い過ぎでしょうが(イシグロの発言に対してそういう反応があったそうです)、すくなくとも、剣と魔法とドラゴンの世界には、ほとんどなんの興味もなかったはずです。

たとえば、かつてサクソン人の砦であった修道院で、ブリトン人に追われて逃げ込んだサクソンの村人たちは、攻め込んだブリトン兵士が殺されるのを砦の中から歓声をあげて見物したはずだという議論の場面。

アクセルは首を横に振った。「たとえ敵の血であっても、その人々が流血を楽しんだとは信じられません」
「いえいえ、アクセル殿。わたしが話しているのは、残虐に彩られた道の終点にたどり着いた人々です。子供や親族を切り刻まれ、犯された人々です。苦難の長い道を歩み、死に追いかけられながら、ようやく最後の砦であるここにたどり着きました。そこへまた敵が攻めてきます。勢力は圧倒的です。この砦は何日もつでしょうか。数日?もしかしたら一、二週間くらい?ですが、最後には全員虐殺されることがわかっています。いまこの腕に抱いている赤ん坊も、やがて血まみれのおもちゃになって、玉石の上を蹴られ、転がされるでしょう。もうわかっています。そういう光景から逃げてきた人々ですから。家を焼き、人を切り殺す敵。息も絶え絶えで横たわる娘を順番で犯していく敵。そういう敵を見てきました。そういう結末が来ることを知っています。だからこそ、包囲されて過ごす最後の数日くらいは——のちの残虐行為の代償を先払いさせうる最初の何日かくらいは——十分に生きなければなりません。要するに、アクセル殿、これは事前の復讐です。正しい順番では行えない人々による復讐の喜びの先取りです。だからこそ、わがサクソンの同胞はここに立ち、歓声をあげ、拍手をしたはずなのです。死に方が残酷であればあるほど、その人々は陽気に楽しんだことでしょう」

これを読んで、現実のいまの世界を思い浮かべるな、というほうが無理ではないでしょうか。
そして、ここからが、考えさせられるところですが、わたしたちはこういう記憶を鮮明に持ち続けるほうが幸せなのか、それとも記憶を奪う霧にまぎれて、このような憎悪と復讐の渇望を忘却することのほうが幸せなのか、という問いに立ち止まってしまう。

じつはわたしが、本書で最初に考えたのは広島と長崎です。
先の大戦では日本人が近隣諸国の人々の加害者であったことは確かですが、たとえそうであっても、原爆投下は日本の軍隊を目標にしたものではなく、日本兵の家族である無辜の赤ん坊や幼児や年寄りや女たちを狙って、見せしめとして残虐に殺戮するものであったことは疑いありません。目的は日本の戦争指導者たちに戦争の継続を断念させ、すでに日本の敗北が誰の目にもあきらかになったあとでの無意味なアメリカ兵の戦死者を出さないようにするということでした。そして事実そのとおりになった。しかし、原爆に対しては、日本人は(わたしをふくめて)そのような見方をあまりしていないと思います。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」というあの言葉が、いちばんそれをあらわしています。悪いのは戦争だ、と。もしかしたら、これは日本人の記憶障碍ではないのか——

ネットの上でいろいろな書評が出ていますので、ざっくりと目を通してみましたが、欧米の書評で、もちろん著者がナガサキの生まれであることに触れたものはいくつかありますが、本書と原爆を直接つなげたものは見当たりません。アウシュビッツや、ボスニアやルワンダに言及したものはあります。当然のことだと思います。しかし、どこか心の奥でわたしは著書の意図を勝手に忖度しています。ねえ、書きたかったのは、ひょっとするとこのことだったのかい、と。


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2015/04/20

地べたの現代史『ツリーハウス』

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『ツリーハウス』角田光代(文藝春秋/2010)を読む。
じつは先週、図書館から借りて、立て続けに読んでいたのは、ほとんどが鴻巣友季子さんの書評集『本の森 翻訳の泉』にあった本だ。
『夏目家順路』『末裔』そして本書『ツリーハウス』。いずれも女性作家による二代、三代にわたる家族の年代記である。同時に地べたからみた現代史という感もある。もちろんいまどきの小説だから、時間の流れは複雑で、現在と過去が入り組んで、ややこしく進行するけれど、単純化すれば、祖父や父が死んで、残された家族が、故人の知られざる過去をいろんな角度から発見しながら、自分自身のルーツをたどっていく、というスタイルをとっている。

なかでもこの『ツリーハウス』は、いちばん長いこともあって、読み応えがあった。奥付によれば、「産経新聞大阪本社夕刊にて2008年10月4日から2009年9月26日まで毎週土曜連載」とのこと。ためしにざっと文字数を計算すると、原稿用紙にして800枚くらいの作品だから、まあ、そんなに長いというほどではないが、もっと長いのを読んだような満足感を得られる作品だな。

神武建国の五族協和という理想やら、疲弊した農村から満州に行って真面目に開拓すれば、一人十町歩の土地が手に入るなどという、偉いさんらのうまい演説に乗せられたわけではない。男は、ただ漠然と、果てのない大地や広い世界に憧れて満州移民の開拓団に応募した。

キャバレーの女給になったら絵描きの客に口説かれた。狭い日本にゃ住み飽きた、一緒に満州へ行こうと誘われた。はじめての男だった。ふと満州に行ってもいいかと思った。貯めていた給金で二人分の費用を出して、東京駅で待ったが、男はもらった旅費を着服して逃げた。怒りも悲しみもなかった。列車に乗り、船に乗り、大連から新京に向かう列車のなかで、飴玉みたいな橙色の太陽が地平線に沈むのを見て、そうかわたしはこの景色が見たかったんだと女は思った。

新宿のさえない中華料理屋「翡翠飯店」のルーツを辿っていくと、この男と女とに行き着く。どちらも、ただぼんやりと不確かなものに憧れ、しかし、ほとんどは流されるままに生きて世に翻弄された昭和の日本人の底辺のふたり。
その子供達は団塊の世代。そして孫達はいまのニート世代。
この三つの世代が、それぞれあるときは60年安保の喧騒や、またあるときはベトナム反戦の新宿騒乱を背景に、またあるときは漫画家志望の青年の交友やオーム真理教の出家騒ぎなどを背景に描かれる。新聞の三面記事や、いまはあまり見かけないが昔はよくあったグラフ雑誌のモノクロ写真が頭に思い浮かぶ。

題名のツリーハウスは、実際に物語の中で登場人物たちによってつくられるものでもあるのだが、もちろんこの翡翠飯店の大家族のハウスのありようを象徴するものでもある。風通しがよく、うるさい干渉もうけず、気晴らしにちょっとあがって昼寝をしたり、漫画を読むにはたのしい場所だ。だからといって、これをほんとうの住処にできるわけもない。おれたちは根無し草なんだ、ここは根無し草が、根無し草らしいやり方で、なんだか家みたいなものをつくっているけど、これはほんとうの家じゃない、ツリーハウスみたいなもんなんだ、という思いが伝わってくる。
しかし、根があるように見えて、けっきょく人間というのは、みんな根無し草じゃないか、というさめた感慨もわいてくる。
意外に爽やかな読後感でこれはオススメ。


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2015/04/19

笑える不条理小説『末裔』

絲山秋子『末裔』(講談社/2011)を読む。
ある日、帰宅すると鍵穴がなかった。白いペンキを何度も塗り直した木製のドア。ドアノブを支える真鍮製のプレートの、いつも鍵を差し入れていたその場所に、あるはずの鍵穴がない。そんなバカなことがあるはずがないと、鍵でつついても、指でなぞっても、丸の下にスカートを穿いたかたちの鍵穴は消えて、のっぺりとした金属の板があるばかり。

そんな不条理な場面から、この中編小説ははじまる。

目覚めると虫に変身していたというほどの不条理ではないが、鍵穴が消えてしまったために、自分の家から閉め出された区役所の職員が、仕方なしに町を彷徨していると、占い師に呼び止められて、亡くなったあんたの奥さんに子供の頃に助けてもらったから、とビジネスホテルに案内され、しかしあとで荷物を取り行くとそのホテルは見つからず、近所の人に聞いてもそんなホテルのことは誰も知らない。電車で大嫌いな犬を連れた女と口論をしていたはずが、気がつくと知り合いが横にいて、やだなあ、電車ではスリッパ履かなきゃ、条例違反ですよ、男はブルー、女はピンクですからね、なんておかしなことを言う——

まあ、一種の怪奇譚とも、幻想小説とも言えなくはないが、この展開、なんだか馴染みがあるなあ、とよく考えてみると、カズオ・イシグロの『The Unconsoled』を思わせるのだ。するすると話が進むが、どこか現実とずれている感じ。ただし、こちらのほうは、現実の世界がぬるぬるとコントロールを失って、果せない仕事に焦りだけが積み上がっていく夢魔の世界に入り込んだような恐怖感はない。どちらかというと、ばかばかしい、少々さびしいけれど気楽な世界である。
それに主人公は、つぎつぎに出くわす不思議に翻弄されはしても、それなりに世故に長けた初老の公務員であることが明らかで、語り手の正気を疑わざるを得ないような不安定さはどこにもないから、たぶん、この世界が自体がかなりへんなんだろうなあ、と読者は考えて、まあいいか、と読書を楽しむことができそうである。
好きなタイプの小説だ。
作者はたぶんそうではないとわたしはにらんでいるが、一番おかしいのは、あれこれ繰り出される主人公の犬嫌いの描写。大いに笑えます。

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2015/04/16

『夏目家順路』

朝倉かすみ『夏目家順路』(文藝春秋/2010)を読む。

夏目清茂、七十四歳。北海道の小さな町で生まれ育った。家庭は複雑というほどでもないが、六人家族で、両親と清茂、そして年の離れた兄(前妻の子)夫婦とその子供が一つ家に生活していた。兄の子供は政夫といって、清茂とは同い年である。兄の子どもだから、清茂が叔父、政夫は甥になるが、互いに名前で呼び合い、幼いころは仲がよかった。長じるにつれ気が合わなくなったのは、政夫がしょっちゅうしょうもない嘘をつくせいだった、と清茂は思う。

父がなくなり、その後添いだった母が他家に嫁いだのは、清茂たちが国民学校に上がる前のことである。兄の家族に養ってもらったが、裕福な家ではなかったから、高校に行けるのは跡取りの政夫だけであるのは当然と、清茂も心得ていたし、そもそも勉強ができるのは政夫で清茂は出来がよろしくなかった。とはいえ、腹の中ではなにかくすぶるものがあった。

中学校をでると札幌のブリキ職人の住み込みになったが、五年間の徒弟の年季にプラス一年のお礼奉公がすんでも手間賃をくれない。ある日、日頃の親方への不満が爆発して、一人作業場を飛び出す。
「おれには、からだがある。頑丈なやつだ。飯さえ入れれば、なんぼでも動く。」

こんなふうに小説は始まるのだが、最初のオハナシ(八編の連作短編小説の形式になっているのね)で、この夏目清茂が飲み屋で倒れ、病院に搬送されて死んでしまうのであります。
というわけで夏目家の葬儀を軸に、清茂とつながる人々が、それぞれの語りで今と昔を行き来するのが小説『夏目家順路』。つまり順路は葬儀の案内看板である。

華やかな名声はないが、葬式に町内会長が弔辞くらいは読んでくれる。人もうらやむような資産はないが、なんとか持ち家くらいは手に入った。人並みに子供も孫もいるが、中年時代に女房には逃げられた。まあ、世間的にはさえない人生。底辺とはいわないが、重要な人物でも、一目置かれる人間でもない。こう説明すると、我ながら「はあ、つまらないねえ」と思ってしまうのだが、ところがどっこい意外にこの小説、面白い。

もともと小説というのは、国際関係だの政治経済だの社会構造だのといった高尚なことを論じる大説に対して、人間のとるにたらない、きわめて個人的なあれこれを書き連ねた小さな説である。市井の中卒のブリキ職人を中心に据えても、いくらでも面白い小説は書けてしまうのだ、ということが見事にわかって爽快な作品。

作者は昭和三十五年生まれ、四十三歳の時に北海道新聞文学賞、四十四歳で小説現代新人賞、四十九歳で吉川英治文学新人賞を受賞と、奥付の著者紹介にある。文章は達者で安心して読める。なかなかいい作家だとみた。

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2014/06/07

意外な人物像『カント先生の散歩』

『カント先生の散歩』池内紀(潮出版社/2013)を読む。
なにをどうまちがっても、余生で『純粋理性批判』なんてものを読むことは絶対にないので、この本を読まなければ、カントという人がどういう人であったかなんてことは知らないままだっただろう。まあ、知ったからといって、どうということはないのだけれど、無知による先入観をくつがえされるのは、いつだって新鮮で楽しい。

カント先生の意外な素顔——

その一。
その哲学は、薄暗い書斎の深い孤独な思考によって生み出されたものではなくて、ケーニヒスベルク(バルト海の真珠!)に居を構えたイギリス人商人ジョセフ・グリーンとのおしゃべりによって生まれた。この二人は「形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した」(p.61)。『純粋理性批判』にはグリーンと対話しその批判を受けなかったものは一行もない、とのちにカントは語った。

その二。
カントは生涯独身だったので、食事に招待されることがありがたかった。しかし陰鬱な哲学者では毎回ディナーに招かれることはあり得ない。カントは話術に巧みで、下々のドイツ語にも通じており、座を盛り上げてくれる、貴族や大商人にとってつねにありがたい客であった。

その三。
カントは、ケーニヒスベルク大学哲学部の学部長を三度、大学の総長を二度つとめた。世俗的な駆け引きにおいて、決して敵たちにひけはとらなかった。フランス大革命のあとの欧州のハイパーインフレで多くの金持ちや貴族が没落していくなかで、大局的な将来予測から賢明な投資をして晩年にはアカデミズムの住人にはあり得ないような資産を築いていた。

池内さんの文章は例によってシャープだが、そのまなざしはあたたかい。


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2014/06/04

暗くて深い川『女のいない男たち』

村上春樹の『女のいない男たち』を読む。
〝男と女の間には〟ではじまる「黒の舟歌」を連想したのはわたしだけか。なんだか老大家の円熟した芸を見せられてるみたいだなあ、などと思ったが、よく考えれば、この作家が昔風の文壇にいれば、まさにそういう大御所の巨匠になっているはずである。
いや、わたしが知らないだけで、じっさいにそう呼ばれているのかもしれないけれど。もしかしたら。

「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」の6篇で、ふたつの作品に共通する場所(ジャズのLPレコードをかけているバー)がでてくるが、連作というほどのつながりはない。もっとも、「まえがき」を読むと、これらがあるやっかいな情念を共通のモチーフにしていることがわかる。
読了した後で、もう一度、この「まえがき」を読むと、なにがどうというのはむつかしいのだが、なんとなく言わんとするところは、わかるような気もしないではない。
まあ、例によってするする読めるけれど、ちょっと(精神の)胃にもたれる感じもあって、個人的にはあんまり好きになれないな。


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2014/06/02

タイムトラベルはいつも切ない『11/22/63』

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スティーヴン・キングの長編で訳者が白石朗とくれば、これはもう安心保証付きみたいなもんである。だからもちろん大いに楽しんだ。面白かった。堪能した。
しかし、傑作かと問われれば、残念ながらいまひとつかなという感想。

1945年8月15日という日が日本人にとって説明不要であるように、1963年11月22日は、アメリカ人にとっては、J・F・ケネディの暗殺の日として記憶に刻み込まれているのだろう。わたし自身のかすかな記憶にも、実験中の衛星中継で流れた白黒のニュースの映像が焼き付いている。
本書の「著者あとがき」によれば、キング本人は、積み上げれば自身の身長ほどになる関連書籍を渉猟した上で、真相は退屈なウォレン調査委員会の報告がまちがいないだろうという立場である。すなわち、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯説。まあ、これについてはわたしには、知識が欠けているので適否は判断しようがない。ただ、本書のなかで描写されるオズワルドの横顔は、なるほど暗殺者はこうして生まれるものかもなあ、というリアリティがあった。もう細かい内容は、すっかりこぼれ落ちたが、ジェームズ・エルロイの『American Tabloid』の断片にも通じる。

だが、読了されたされたみなさんからは、いやそうじゃなかろう、本書の紹介をするなら、全然別の切り口が必要じゃないか、と責められるだろう。たしかに、本書は現代史のうんちくを得るためのオハナシじゃないのですね。ではなんであるか。ズバリ、これは「ある愛の歌」なんですなあ。

そして、ここが、まさにわたしが残念ながら傑作とまでは言いかねると評するゆえん。だってね、タイムトラベルに男と女の愛をからめれば、これは過去のこのジャンルの定型といってもいいくらい、切ないものになるにきまっているんだなあ。
せっかく、キングらしい、果断さでタイムトラベルものの掟破り(歴史を変更することを目的とした時間旅行)をしたんだもの、それではすこしロマンチックが過ぎると言うものでは・・・。


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2014/04/26

『ジャック・リッチーのあの手この手』

『ジャック・リッチーのあの手この手』ジャック・リッチー/小鷹信光編(早川書房/2013)を読む。短編というより日本で言うところのショートショートといった軽い読み物。
テイストは都筑道夫によく似ている。EQMMの常連作家だったから、都筑道夫はとうぜんよく知っていたはずだが、影響を受けたということはないだろう。都筑道夫のほうが上手である。
すべて本邦初訳の23篇。
ちょっととぼけたミステリーも悪くないが、意外に面白いのが、SF、怪奇小説仕立ての作品。悪魔の持ちかける「三つの願い事」をどう捌くかや、地球に迷い込んだ宇宙人の拘束からどう逃れるか、人食いソファーのオハナシなど。
まずまず楽しめる1冊。

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2014/04/22

軽快にして骨太『卵をめぐる祖父の戦争』

『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳(早川書房/2010)を読む。

オハナシの舞台は1941年の夏からおよそ900日続いたレニングラード包囲戦。
ドイツ軍による砲撃や空襲もさることながら、補給路を完全に断たれた大都市には飢餓が広まり100万人ともいわれる市民が死んだ。飼い犬に続き、街からすべてのネコが消えたので、ひとときネズミはよろこんだが、たちまちかれらも食い尽くされた。いよいよ食べるものがなくなると、肉はもうあれしかない。道ばたの親子の屍は、尻のところだけ切り取られて放置されている・・・

そんな街に残った十七歳の少年レフが、死んだドイツの落下傘兵を見に行って、ナイフを分捕り、装備品のフラスクの酒を仲間とまわし飲みしていたところをロシアの兵隊に捕まってしまう。夜間外出禁止令違反の上に、いかに敵からとはいえ略奪行為の最中だ。とっくに裁判なんてものはなくなった。即刻銃殺を覚悟したら、ネヴァ河畔の悪名高い<十字>という監獄にぶち込まれ、そこで出会ったのが赤軍の脱走兵コーリャである。

脱走したんじゃない。自分の卒論「ウシャコヴォの『中庭の猟犬』考——現代社会学的分析のレンズを通して」を守ろうとしたんだよ。え、ウシャコヴォを知らないって?なんと学校教育のレベルもここまで低下してしまったか。「ふたりが初めてのキスを交わした小屋には、まだ鼻をつく子羊の血のにおいが漂っていた」これが冒頭の一行だ。もっとも偉大なロシアの小説だという者もいる。それなのにきみは聞いたこともないとはな・・・。

のっけから軽快なテンポで、ふたりの卵探しの冒険が始まる。こんな悲惨な包囲戦のさなかになんで卵探しなのかといえば、秘密警察の大佐の愛娘の結婚式にどうしてもケーキが必要だからだ。レニングラード中探しても卵はない。あるとすれば、ドイツ軍が制圧している郊外の農家だろう。しかたがない、行こうじゃないか。でも弾はドイツ軍からも赤軍からもパルチザンからも飛んでくる。いやはや、ばかばかしさのまっただ中での犬死覚悟の弥次喜多珍道中である。

途中でパルチザンの女狙撃手が合流し、最後の大勝負はナチのアインザッツグルッペンの少佐とのチェス試合。
さてここで、聞き慣れないアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)という言葉が出てきましたね。本書の中にこういう説明があります。

六月以降、ロシア人はドイツ語の特別授業を受けており、その結果、あっというまに何十ものドイツ語が日常生活の語彙にはいり込んでいた。パンツァー(戦車)、ユンカース、ヴェーアマハト(ドイツ国防軍)、ルフトヴァッフェ(空軍)、ブリッツクリーク(電撃戦)、ゲシュタポ。その他もろもろの大文字で始まる名詞。アインザッツグルッペンという言葉を初めて耳にしたときには、そのほかの言葉のような邪悪な響きはなかった。十九世紀のつまらない喜劇に出てくる気むずかしい会計士の名前のように聞こえた。それが今ではもう少しも可笑しな名前ではなくなっていた。新聞記事やラジオの報道、伝え聞く噂であれこれ知った今ではもう。アインザッツグルッペンはナチスの死の部隊だ。正規軍や武装親衛隊、ゲシュタポの中から厳選された——残忍なまでの有能さを持つ純血のアーリア人から選ばれた——殺人者集団だ。ドイツ軍が他国に侵略するときには、アインザッツグルッペンが実戦部隊のあとに続き、戦域が確保されると、自分たちの標的を狩りにいく。共産主義者にジプシー、知識人、それにもちろんユダヤ人。

いやあ、この悪役が、また悪い奴なんだな。なんとしてでも殺せ、こいつだけは、とすっかり熱が入ってしまう。骨の太い娯楽小説として堪能できました。
ところで、もっとも偉大なロシア小説、ウシャコヴォの『中庭の猟犬』のことはもちろん物知りのみなさんはよくご存知でしょうね。これと、チェスの勝負とのふたつが、わたしのつぼに見事にはまりました。(笑)

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