2)本の頁から

2008/05/10

カポーティ、ウォーホル

『イーディ』ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン(筑摩書房)から、トルーマン・カポーティの談話。

四十年代の末だったか、それとも一九五〇だったか、ともかくわたしの母親がまだ生きてたときだ。アンディ・ウォーホルと名乗る人物から手紙が届くようになった。いわゆるファン・レターってやつさ。

年譜によれば、カポーティの『Other Voices, Other Rooms』が出たのが1948年、23歳のときのことだ。たちまちベストセラーとなり、かれは時の人となる。
そのときまだ生きていたという母親は、いろいろ問題を抱えた人だったが、1954年の1月に死んだ。睡眠薬の飲み過ぎだったという。
カポーティは、ファン・レターには絶対に返事を書かない主義だった。下手に返事を出したら、文通ごっこに巻き込まれたり、見ず知らずのやつが突然訪ねて来たりしかねない。当然、このウォーホルなる無名の男のファン・レターも無視していた。しかし、ウォーホルの手紙はめげる気配がなかった。

そのうち、毎日届くようになった。毎日だぞ!こっちも否応なくこの人物を意識するようになってたよ。おまけに、絵も一緒に届くようになった。のちの彼の絵のようなものじゃなくて、わたしの小説に忠実な挿絵のようなもの・・・・・少なくとも、そのつもりで描かれたものだった。それだけじゃない。間違いなく、アンディ・ウォーホルはわたしの住んでる建物の外でぶらぶらしていて、わたしが出たり入ったりするのを見ようと待ちかまえてもいた。
ある日、母がコネチカットから訪ねて来た。彼女はちょっとアル中なんだ。で、どういうことでか、道ばたにいるかれに母が話かけ、アパートに誘った。わたしが部屋に帰ってくると、かれがすわっていたよ。あのときの顔といまの顔とまったく変わらない。ほんのちょっとも変化してないよ。

カポーティはしかたなく話し相手になってやった。母のほうが酔っぱらってしまっていたからだ。

かれは自分のことばかりしゃべった。母親と猫二十五匹と一緒に暮らしているんだとかなんとか。この先なんの期待もない人生の敗残者のように見えたよ。希望も見込みもない、生まれながらの人生の敗者。ともかく、打ち解けて楽しく話していくと、帰った。
それから毎日、かれは電話をかけてきた。自分の近況を、自分の悩みを、母親や猫どものことを、自分がなにをしているかをしゃべった。

あるとき、カポーティの母親が、アンディをはげしく罵倒して二度と電話をしないようにと言い渡した。母親はアル中の例にもれず、ジギルとハイドのように人格が入れ替わったためだとカポーティは説明する。それっきり、電話はかかってこなくなった。

それから、噂も聞かなかったが、だいぶしてから、ウォーホルの名前が市内で喧伝されるようになった。個展でカポーティに捧ぐと書かれた作品であるところの黄金の靴が届いたりもした。あるとき街でばったり顔を合わせた。かつて世界一孤独で友達なんかだれもいない人間のように思ったウォーホル、かつて本当に気の毒だと思ったウォーホルだったが、7、8人の取り巻きを引き連れていた。

振り返って考えてみると、かれはかなり早い時期に自分の欲しいものがなんであるのかが分かったんだと思う。名声—有名な人物になること。これだよ。かれの原動力はこれだけだ。名声がすべてで・・・・才能も芸術もどうでもよかった。これに比べると、わたしの場合はまるで逆だった。芸術にものすごくこだわった挙句、はっと気がつくと名声を手に入れていた。誤解しないでほしいが、アンディ・ウォーホルに才能がないって言ってるんじゃないよ。間違いなく少しはあるし、ないわけがない。ただ、自己宣伝の天才なのだということ以外には、はっきりとした才能はわたしには見つけられないってことさ。

さすが悪口もここまでくるとお見事という感じがするなあ。(笑)

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2008/05/07

王妃と首斬り役人

池内紀・文、喜多木ノ実・画の『ドイツ四季暦 秋/冬 海から街へ』(東京書籍)より。

アウブスブルクのシェツラー宮殿にあるバロック美術館には、ウルリヒ・マイル作の「首斬り人の肖像」がある。一六五四年の制作で、三十年戦争直後に描かれたものだ。上半身裸の青年が、首斬り用の刀を突きたてて立っている。ととのった顔で、髪は長く、肩と胸がたくましい。革手袋をつけた左手を軽く腰にそえている。

フランスのブルボン家に輿入れをする道中のハプスブル家の王女が、1770年に、この街を通ったときにこの絵が古物商の店先に飾られているのを見つけた。なぜか魅せられて、欲しいと言った。他人の預かりものなので売ることはできませんと断られた。
それから23年後。

パリの革命広場に断頭台が作られていて、代々の首斬り役人であるサムソン家の者が首をはねる。そのときは若いアンリ・サムソンが当番だった。美貌で、たくましく、そのため群衆に人気があった。アンリ・サムソンは上半身裸で、両手に革の手袋をはめ、刀を杖のようについて断頭台に立っていた。その姿は、アウグスブルクの肖像に見たものと瓜二つだった。マリー・アントワネットは、よほどおどろいたのだろう、ひざまずこうとして、ヨロヨロとよろけ、おもわずサムソン青年の足を踏んだ。
「失礼(パルドン)、ムシュー」
このひとことが、王妃の最後のことばとして歴史に伝わっている。

Rose3 連休の最終日だったので、一日、カウチに寝そべって『ベルサイユのばら』全5冊を読む。いやあ、おもしろいね、これ。
はじめの方は、まあ、ひやかしで読み始めたのでありますが、三部会招集のあたりから、俄然面白くなりまして、このフランス大革命の熱と、オスカルとアンドレの運命が、共振するかのように進んでゆく展開にはマイッタ。やっと長年の宿願(というほどおおげさなものではないが)を果たすことができました。(笑)
一応、わたくしツワイクの『マリー・アントワネット』と『ジョセフ・フーシェ』も読んでおりますが、このマンガ、なかなかあなどれません。なによりこの情熱には敬意を表します。

ところで最終巻、断頭台上に、王妃とたくましい首斬り役人とを、池田理代子さんも描いておられますが、このエピソードはこの傑作には入っておりませんね。残念!

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2008/05/01

4月に読んだ本

『青柳瑞穂 骨董のある風景』青柳いづみこ編(みすず書房/2004)
『詩人 与謝蕪村の世界』森本哲郎(講談社学術文庫/1996)
『ケータイ・ストーリーズ』バリー・ユアグロー/柴田元幸訳(新潮社/2005)
『凛然たる青春—若き俳人たちの肖像』高柳克弘(富士見書房/2007)
『カリフォルニア・ガール』T.ジェファーソン・パーカー/七搦理美子訳(ハヤカワ文庫/2008)
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D. サリンジャー/村上春樹訳(白水社 /2006)
『サリンジャー—伝説の半生、謎の隠遁生活』森川展男(中公新書/1998)
『北朝鮮は、いま』北朝鮮研究学会編(岩波新書/2007)
『石川淳選集〈第13巻〉評論・随筆』(岩波書店)
『足利尊氏』高柳光壽(春秋社/1987)
『古池に蛙は飛びこんだか』長谷川櫂(花神社/2005)
『オバはん編集長でもわかる世界のオキテ—福田和也緊急講義』 (新潮文庫/2002)
『アメリカの影』加藤典洋(河出書房新社/1985)
『江戸の替え歌百人一首』江口 孝夫 (勉誠出版 /2007)
『アフガニスタンの風』ドリス・レッシング/加地永都子訳(晶文社/1988)
『ネヴァーランドの女王』ケイト・サマースケイル/金子宣子訳(新潮社/1999)
『ひとびとの跫音〈上〉』司馬遼太郎 (中公文庫)
『対談—中世の再発見』網野善彦+阿部謹也(平凡社ライブラリー/1994)
『ひとびとの跫音〈下〉』司馬遼太郎 (中公文庫)

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2008/04/22

替え歌百人一首

『江戸の替え歌百人一首』江口孝夫(勉誠出版)から。
基本的にあんまりバレ句のようなものは著者の趣味ではないようで、ちと退屈な中身ですが、いくつか笑ったものを。

心にもあらでヲヤよく来なんした

恐るべきことは薮医に身をまかす人の命の惜しくもあるかな

玉の緒よ絶えなば絶えねなどといひ今といつたらまずおことわり

乱れて今朝はご機嫌とおぐし上げ

ながらへばまたこの頃は鰒をくふ

恋ぞつもりて扶持となる妾が兄

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2008/04/04

海外長編ベスト100

デイヴィッド・ロッジの『交換教授』だったかな、文学部の教授連中が集まるパーティで、自分が読んでいない本を告白しあうゲームがあった。たしかゲームの名前が「屈辱」。
たとえば参加者が20人がいるとすると、自分以外の19人全員がその本を読んでいたら19点獲得できる。自分と同じように誰もその本を読んでいなかったら0点である。

これ、じつによく考えられたゲームでね、もしカッコつけて、読んでいなくてもさほど恥じゃないような本をあげていたら、絶対勝てない。
たとえばヘンリー・ジェイムスの『使者たち』なんてのを、「いや恥ずかしながら、これ読んでいなくてさ」なんて告白したって、たぶんそんなもの読んでるのは専門家くらいだから得点は低いし、パーティも盛り上がらないから安全パイを切る臆病なやつ、なあんて莫迦にされるだけだろう。
かといって、高得点できるのがわかっていても、たとえば『マクベス』なんてのをもし挙げれば、ほとんど職業的な自殺である。ねえ、ねえ、聞いた?英文学の山田教授、『マクベス』読んでないって、告白したらしいよ。えっ、ウッソー、てなもんであります。(笑)

20080404 ということで、このゲームにどんな本を「読んでない」と告白するかは、なかなかスリリングでありますが、同時に、けっこうなカネを賭けていたりすると、屈辱(おいおい、これ読んでないってホントかよ)を忍んでカネを得るか、名誉を守ってカネを失うかというきびしい選択を迫られることになるのであります。いや、やりたくないゲームだねえ。

というマクラで、今日発売の季刊誌「考える人」の特集「海外の長編小説ベスト100」のなかで、わたしの読んでいない本を告白します。めんどくさいから半分の1位から50位まで。赤字が自虐告白分でございます。どうぞお笑い下され。(著者は省略。題名のみ)ドン・キホーテ、白鯨、レ・ミゼラブル、モンテ・クリスト伯、千夜一夜物語、はダイジェスト版、または低学年用バージョンでは読んでいますが、ここはきびしく未読ということに。

百年の孤独 失われた時を求めて カラマーゾフの兄弟 ドン・キホーテ  罪と罰 白鯨 アンナ・カレーニナ 審判 悪霊 嵐が丘 戦争と平和 ロリータ ユリシーズ 赤と黒 魔の山 異邦人 白痴 レ・ミゼラブル ハックルベリイ・フィンの冒険 冷血 嘔吐 ボヴァリー夫人 夜の果てへの旅 ガープの世界 グレート・ギャツビー 巨匠とマルガリータ パルムの僧院 千夜一夜物語 高慢と偏見 トリストラム・シャンディ ライ麦畑でつかまえて ガリバー旅行記 デイビッド・コパフィールド ブリキの太鼓 ジャン・クリストフ 響きと怒り 紅楼夢 チボー家の人々 アレクサンドリア四重奏 ホテル・ニューハンプシャー 存在の耐えられない軽さ モンデ・クリスト伯 変身 冬の夜一人の旅人が ジェーン・エア 八月の光 マルテの光 木のぼり男爵 日はまた昇る

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2008/03/27

光厳天皇と岩佐美代子(3)

さて、ここで帝王教育のこと。
前回書きましたように、花園天皇は甥の量仁親王(光厳天皇)を立派な天皇にすることが自分の役割であるとされたわけですけれども、ではどんな教育を施されたのか。「誡太子書」という花園天皇が量仁親王に与えられたものが残っておりますそうで。
それによれば「詩・書・礼・楽に非ざるよりは、得て治むべからず」とか「思ひて学び、学びて思ひ、経書に精通し、日に我が躬に省みる」といったお言葉がある。君たるもの、慎み畏れて責務を果たさねばならぬ。この衰乱の世に当っては、詩・書・礼・楽の儒教の大本を修め、我が身を反省して深く学び深く思うよりほかに、乱国に立つ道はない。夜を以て日に続ぎ、宜しく研鑽せよ、というのがその帝王教育の骨子であった。要するに儒学であります。

そもそも天皇の責務とはいったいなんでありましょうか。天皇はいまだってそうですが直接、国の政務を執るわけではない。
これはおそらく反対から考えたほうがいいのですね。つまり、なぜ地震や噴火や気象変動がかくもわが国を襲うのであろうか。なぜ太平がやぶれ乱逆非道が世にはびこるのであろうか。なぜ旱魃や冷害や蝗害によって民が飢餓にうちひがれねばならないのであろうか。なぜ強大な異民族がわが国を襲い侵攻してくるのであろうか。
それはすべて天子に徳がないからである。帝が天から嘉されるような存在であればそのようなことはおこらないはずである。

もちろん現代のわれわれから見れば、失政によって人々がひでえ目にあわされる(60年前の戦争が典型的ですが)ことは当然あるが、いくら天子さまが聖人のような方であっても天変地異はそれとは無関係に起るし、旱魃、冷害、蝗害なんていう惨禍だっていくら必死になって天皇さんが古代からの儀式をやっても、そんなことは屁のつっぱりにもならない。天皇さん個人が「思ひて学び、学びて思ひ、経書に精通し、日に我が躬に省みる」とがんばることと、国が平和で繁栄し、民が幸せであることとのあいだに直接の関係はないというのが「科学的」な認識というものでしょう。しかし、鎌倉末期の人々もわれわれと同じように考えたとは限らない。すくなくとも、花園さんの帝王教育は、天子の責務をまあナイーブにとらえていたことは間違いないでしょう。聖人の道に外れないように努力し続けることが天皇の「お仕事」なんである、というわけですな。
そして、量仁親王は二十歳で即位され光厳天皇となられるのですが、そのあとも南北朝の戦乱のなかで非常な苦労をされるのであります。最後は山寺(常照皇寺)の一老僧として、戦没者の霊を弔いながら生涯を終えられた。そのときの遺言はこのお話の最初の回に書きました。

こういう光厳天皇がお受けになられた帝王教育というのは、しかし歴代天皇のなかでもかなり異例であるというのです。なぜなら、天皇というのは前回にも書きましたが、まあ子供のときに践祚するほうがふつうです。実質的な政治は院となったお父さんがみたのですね、だから、子供のときからこんな辛気臭い、衰乱の世に当ってはとにかくオベンキョーするんだよ、みたいな帝王教育はなかった。ところが、こどものときに同じような帝王教育を、はからずもお受けになった天皇さんがやはりいらした、というのです。ということで以下が、ようやく岩佐さんのことでわたしがびっくりしたというオハナシに戻ります。

わたしが光厳院に特別の関心を寄せますのは、これまで申し上げました理由によるものでございますけれども、もう一つ大変プライベートな理由がございまして。これは申し上げていいのかどうかと思いますけれども、昭和二十年の八月十日、終戦の五日前に、宮内省の組織の中で、これまでの皇后宮職から東宮職が独立いたします。その時、私の父親、穂積重遠が東宮大夫になりました。父は民法学者でございまして、常識的に言えばやや異例な人事ではございましたが、実は終戦処理の一環で、娘が申しては恐縮ですけれども、穏健なリベラリストで、アメリカやイギリスに反感を持たれない人、という人選であったと思います。その新聞報道を見て、あ、これは戦争が終わるな、とお思いになった方も多かったというふうに伺っております。その御奉公始めというのがまた、奥日光の湯元に疎開中でいらした、小学校六年生の東宮さんの所へ上がりまして、侍立して八月十五日の終戦の詔勅を承り、その意味を東宮さんにお話し申し上げるというのが最初のお勤めであったという、えらい事でございました。まさに土崩瓦解の中で現天皇の帝王教育が始められたのでございます。

穂積重遠やその父、穂積陳重についてはべつにわたし自身、それほど詳しいわけでも、その著作を読んでいるわけでもないので、ここで説明はいたしません。ご存知ない方はググッて調べてください。穂積重遠の娘であるというところで、びっくりなさる方もあるでしょうし、渋沢栄一の孫であるというところでびっくりされる方もあるでしょう。
いや、わたしは、うかつにも、岩佐さんという方を、国文学者で、子供時代に宮中に出仕されたこともある方だというくらいの認識しかなかったので、この記述を読んで思わずのけぞったというわけでありました。

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2008/03/26

光厳天皇と岩佐美代子(2)

系図を参照しながらお読み下さい。結構ややこしいよ。
光厳天皇がお生まれになった正和二年(1313)前後の皇位を時系列に並べてみます。(ただし厳密な西暦換算ではありませんし、在位年数も単純な引き算ですからあくまで目安です、念のため)

 後伏見天皇 (持明院統) 1299ー1302  在位3年
 後二条天皇 (大覚寺統) 1302ー1308  在位6年
 花園天皇  (持明院統) 1308ー1319  在位11年

20080325kks_1 ご覧のように、光厳天皇がお生まれになったとき(1313)に位につかれていたのは同じ持明院統の花園天皇であります。
じつは、光厳さんのお父さんの後伏見天皇が践祚なさったのは十一歳のときでした。そしてそれからわずか二年半で、大覚寺統の後二条天皇に譲位なさっておられる。子供のときに位につくというのはこの時代の通例ですが、在位期間は短すぎます。これには大覚寺統の策謀があったとかなんとかということですが、まあ、それは今回の本題ではないのでパスして、いずれにしても、光厳のお父さんである後伏見天皇が退位したときはまだ御歳十四歳でありました。
当然、ご本人の責による退位ではないわけですから、後伏見さんは、「罪なくして位を奪われき」という意識が強かった。
やがて二十六歳のときに光厳さんがお生まれになりますと、待望の皇子ですのですぐに立親王されて量仁(かずひと)と命名されたことは前回書いた通りです。

ところで、系図を見ていただくとわかりやすいけれど、このとき天皇であられた花園さんは、当然、光厳さんの叔父さんです。

この花園さんという方は、持明院統の皇位が大覚寺統の後二条に行ったとき、なにしろ後伏見天皇は十四歳ですから跡継ぎはまだおられない。しかし、持明院統のほうで跡継ぎを立てなければ、皇位は大覚寺統にいったままになるおそれがありますから、緊急避難的に後伏見の猶子となられて後二条の春宮に立たれたのでありますね。鎌倉とかけあってそういう段取りをつけたのは、当時まだ生きておられた持明院統の伏見院だったのでしょう。

だが、兄弟がそれぞれ天皇になられるというのは、かならず将来にふたたび皇統が分裂する火種となります。それは天武・天智の例を出すまでもなく、後嵯峨以降のこの系図をみただけでわかろうというもの。そこで、父の伏見院は息子の後伏見院に、「花園はその子孫に皇位を譲ることは禁ずる。兄の後伏見に将来できるであろうところの皇子を補佐し、これを立派な天皇にするよう協力するように」というきっちりした誓約書をお書きになった。
しかしですねえ、当の花園さんの方からこれをみますと、この誓約書をお父さんがお兄さんに出されたときは、まだたった五つでした。まあ、自分の与り知らぬ所で、将来、お前は天皇になるけれども、お前自身の子供には皇位を譲ることはだめだよ、甥っ子に継がせるんだからね、と決められてしまっていた、といわけ。
しかし、この花園さん真面目な方で、この一族の方針を忠実に守って、甥っ子の量仁親王(光厳天皇)に非常にみっちりとした帝王教育をなさった。

ところで、系図をもう一度、よくご覧ください。この花園さんのポジショニング、大覚寺統にもよく似た方がいらっしゃることにすぐ気づきますよね。そう、第九十六代の後醍醐天皇であります。後醍醐さんも、もともとは花園さんとおなじく、自分の子孫に皇位を継がせることは認めてもらえない中継ぎの天皇であった。しかし、この自分の立場に対する不満が、そういう未来を強いる鎌倉幕府を倒して天皇親政という野望へと進んで行ったという側面があるようです。
だから花園さんの後醍醐さんに対する感情には、強い反発と同時に、同じような境遇からくる理解といった複雑なものがあったと思われます。自筆の浩瀚な日記「花園宸記」にそのあたりが出ていたりするようですが、すでに長くなったので省略。
(以下次号。岩佐さんの話に戻ります)

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2008/03/24

光厳天皇と岩佐美代子(1)

老僧の滅後、尋常の式に倣ひ、以て荼毘等の儀式に煩作すること莫れ。只だ須く密に山阿に就いて収痙すべし。松柏自ら塚上に生じ風雲時に往来するは、是れ予が好賓たり、甚だ愛する所なり。如し其れ山民村童等、聚沙の戯縁を結ばんと欲して小塔を構ふること尺寸に過ぎざるは亦之を禁ずるに及ばず。此の一節、只だ衆人を動かしてその労力を労せんを欲せざるために、但だ省略を要するのみ。其れ或は力を省くに便なれば、則ち火葬また可なり。一切の法事は之を為すを須ひざれ。

わたしの死後、大げさな葬式をするには及ばぬ。そっと山の麓に埋めてくれ。その塚の上に松や柏が自然に生え、風や雲が四季折々に行き交うなら、それで満足だ。もし山民村童らが手すさびに小塔でも立ててくれるならそれもよい。労力を省くためなら、火葬もまたよい。法事は一切不要である。

これは光厳天皇の御遺誡(ゆいかい)の一部。
光厳天皇(1313ー1364)とおっしゃる方は、持明院統の後伏見院の息子さんだが、なにしろこの時代は両統迭立から、南北朝時代にいたる複雑な時代なものだから、何回読んでも頭がこんがらがってしまって、簡単には説明がむつかしい。まあ、この光厳さんは後醍醐天皇の南朝に対して、北朝の初代ということになるのですが(じつは第九十六代の後醍醐天皇に継ぐ第九十七代の天皇でもある)今回書こうと思っているのは、別に太平記の世界のことではないので詳細は割愛。(ほんとうは手に負えないからだけど、調べてみるとおもしろいよ、この時代)

ええと書こうと思ったのは、先日『京極派歌人の研究』をとりあげたときに岩佐美代子さんの紹介をしたわけだが、この方の『宮廷に生きる』(笠間書院)に収録された「光厳天皇—その人と歌—」のこと。
ここで岩佐さんは、なぜ自分は光厳天皇に特別な関心を寄せているかというお話をされているのだけれど、わたしはおもわずのけぞってしまいました。(ぜんぜん悪い意味ではないけど、ほんとうにびっくりしたのです)

だが、まずその話の前に、この光厳天皇、春宮時代は量仁(かずひと)親王というのですが、この方の帝王教育のことにふれなければいけない。
(この項つづく)

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2008/03/14

無味乾燥こそ面白い

宮下志朗『エラスムスはブルゴーニュワインがお好き』(白水社)に「ある家事日記について」という一文と、その見本として「ブロワへの旅」という五十日たらずの日記の全訳が収録されている。いずれも十六世紀中葉のノルマンディの田舎貴族の日記『グーベルヴィル殿の日記』を中心に紹介したもの。
「私、ジル・ド.グーベルヴィルによりて記されたる家計の支出ならびに収入」というのが、その表題で、この題名どおり基本は日々の家計簿のようなものだ。

家事日記は為替手形や複式簿記ともにイタリア・ルネサンスの実利的な精神の産物であった。経済の発展にともなって商人たちは大福帳のようなものをこぞってつけ始めるが、そうした帳簿の余白に記された個人的なメモ、あるいは同時代の事件への言及がやがて独立して、この家事日記というジャンルを形成するに至ったのである。

その特色を一言でいえば「非文学性」ということになるようだ。宮下さんの言葉をさらに続けよう。

田舎人の家事日記とはいわば無味乾燥な日録なのであって、心理描写はほぼ完全に欠落している。日記を支配しているのは執拗なまでな単調さにほかならない。だが文学性とは無縁の単色の画面、これがこのジャンルの真骨頂ともいえるのではないか。

というわけで、わたしなど、はじめこの『グーベルヴィル殿の日記』だけを読んでもほとんど面白くもなんともなかったのだけれど、いったん宮下さんの解説を読んでもういちどこれに目を通すと、いやこれがじつに面白い。
なにせ、この田舎貴族、旅行の目的は林野治水監督官という官職をお金で買おうという猟官運動なのだけれど、そのためのなけなしのお金をなんと雑踏で掏られてしまうのですね。それなのに、その日の日記は—

八日、土曜日。ブロワから動かず。誓願を取り上げてもらうために国王尚書官ル・シャンドリエ殿のところに行く。市場を通りかかった際、雑踏のなかでエキュ貨三枚とテストン貨一枚が入ったハンカチをすられた。そこで国王の家具職人宅に泊まっているエクルムト代理官のところで昼食。夕方、上記ル・シャンドリエ殿のところに誓願に行く。書記に請願書を清書してもらうため、殿にエキュ貨二枚とテストン貨一枚さしあげる。宿舎で夕食後、就寝。合計十二リーブル、十七スー、八スー(sic)。

などといたって、あっさりしたもの。
しかし、この淡白さに騙されてはならない。注意深い方は、誓願のため書記に渡す袖の下が、掏られたあとで夕方出直したときには、エキュ貨一枚ぶん減っていることにちゃんと気づくことでしょう。ははあ、大将、けちったな。(笑)きっとはらわた煮えくり返って、その夜はまんじりともできなかったとしても、日記にはまるで人ごとのごとく記す、というのがこのジャンルのスタイルであるんですね。
こうして、このたぐいの日記は、無味乾燥に見えるのがむしろミソで、その裏に隠された意味をいろいろと推理していくのが面白いのだそうな。大人のたのしみは、すべからくそういうものでありますな。

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2008/03/01

2月に読んだ本

『文明の文法〈2〉』フェルナン・ブローデル/松本雅弘訳(みすず書房/1996)
『アレクサンドリア四重奏 3 マウントオリーヴ』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『壷中天酔歩—中国の飲酒詩を読む』沓掛良彦(大修館書店 /2002)
『なつかしい本の記憶—岩波少年文庫の50年』(岩波少年文庫/2000)
『シンジケート』穂村弘(沖積舎 /2006新装版)
『ドライ ドライ アイス』穂村弘(沖積舎 /2006新装版)
『エミールと探偵たち』エーリヒ・ケストナー/小松太郎訳(岩波少年文庫)
『On Chesil Beach』Ian McEwan(Random House Uk/2008)
『氷の花たば』アリソン アトリー/石井桃子・中川李枝子訳(岩波少年文庫)
『小さい牛追い』マリー・ハムズン/石井桃子訳(岩波少年文庫/2005)
『日曜日に読む「荘子」』山田史生(ちくま新書/2007)
『アレクサンドリア四重奏 4 クレア』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『俳風三麗花』三田完(文藝春秋 /2007)
『使ってみたい映画の英語 男の名セリフを味わう』藤枝善之(新潮新書/2007)
『牛追いの冬』マリー・ハムズン/石井桃子訳(岩波少年文庫/2006)
『江戸俳画紀行—蕪村の花見、一茶の正月』磯辺勝(中公新書/2008)
『幽霊』イーディス・ウォートン/薗田美和子・山田晴子訳(作品社/2007)
『アラン定義集』神谷幹夫訳(岩波文庫/2003)

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2008/02/16

小さい牛追い

2268149021_3781ef6b87_2 岩波少年文庫の創刊は1950年12月のクリスマス。
『宝島』『あしながおじさん』『クリスマス・キャロル』『小さい牛追い』『ふたりのロッテ』の5冊が第一回配本として発行された。
このなかで『小さい牛追い』という本のことはわたしはこれまで聞いたことがなかったのだが、このシリーズの50周年を機に編まれた『なつかしい本の記憶』には、いろんな人がこの本がどんなに素敵だったか、その思いを語っている。
訳者は当時この少年文庫の創刊を担当した石井桃子さん。

その『小さい牛追い』の新版には「解説」として当時15歳だった中川李枝子さんが思いでを寄せていらっしゃる。
李枝子さんのお家では、お父さんの東京出張のお土産として、子供たちにこの岩波少年文庫を買って帰るのがならわしだった。(敗戦後5、6年のことである。日本中が活字に飢えていた)
もちろん、兄弟姉妹に一冊ずつというような贅沢はできない。みんなにあげるのだからねと言われていた。当然、子供たちもそれで納得し、岩波少年文庫はお友達にも貸すことの出来ないみんなの宝物であった。

2266305629_35461ae09a_3 ところが、この『小さい牛追い』だけは、9歳の妹が、中をぱらぱらと見るなり「この本はわたしのもの!」と断固として言い張ったというのでありますね。
その理由は、最初のほうにある挿絵がどうも気に入ってしまったかららしい。この絵の小さな女の子と自分をすっかり一緒にして夢中になっちゃったのであります。

『小さい牛追い』というのはノルウェイの北の方の農家が舞台です。子供が四人おりまして上の二人が男の子。下の二人が女の子。どの子も自分の牛を一頭持っています。(いいなあ)
この絵のところをちょっと引きましょう。

まい日、夕方、おかあさんが牛乳をしぼる時間になると、インゲリドとマルタは、それぞれ、小さい箱にこしかけて、おかあさんが顔をぶたれないように、じぶんたちの牛のしっぽをつかまえていました。

うーん、これは、まいったね。(笑)
ところで、中川李枝子さんは、のちに『いやいやえん』で、作家としてデビューしますが、この本の絵を担当したのが、『小さい牛追い』に夢中になった妹の百合子さんでした。
『なつかしい本の記憶』には、このおふたりの対談が収められていて面白い。オススメです。

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2008/02/01

1月に読んだ本

『Private Wars』Greg Rucka(Bantam Books/2007)
『頭痛肩こり樋口一葉』井上ひさし(集英社/1984)
『岡井隆の現代詩入門—短歌の読み方、詩の読み方』(思潮社 /2006)
『白楽天詩集』武部利男(六興出版/1981)
『中国文明の歴史』岡田英弘 (講談社現代新書/2004)
『文明の文法〈1〉』フェルナン・ブローデル/松本雅弘訳(みすず書房/1995)
『けむり水晶—栗木京子歌集』(角川書店/2006)
『真昼の星空』米原真理(中央公論新社 /2003)
『セレクション俳人 10 高野ムツオ集』(邑書林/2007)
『連句集 壷中天』鈴木漠編(書肆季節社/1983)
『アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『英語の発想がよくわかる表現50』行方昭夫(岩波ジュニア新書/2005)
『鈴木漠詩集』(思潮社 /2001)
『英文の読み方』行方昭夫(岩波新書/2007)
『静かな水—正木ゆう子句集』(春秋社 /2002)
『連句集 海市帖』鈴木漠編(書肆季節社/1989)
『実践英文快読術』行方昭夫(岩波現代文庫/2007)
『うさはらし』松平盟子(砂子屋書房/1996)

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2008/01/29

連句、鈴木漠という詩人

『連句集 壷中天』鈴木漠編(書肆季節社)という本を奈良の古本屋でもとめたのは、もともと内容や作者に関心があったからではない。たんに手にとったときの感じがよかったからにすぎなかった。箱入りの美しい本だが、その重さや大きさも、わざわざ立派な箱を誂えるまでもないような百頁ばかりの薄さも好ましかった。つまりは装丁にひかれて買ったというわけだ。
本を蒐めることにさほど執着のないわたしにしては珍しいことであります。

ところが、この連句集、読んでみてなかなか面白かった。

俳諧連句というのは、たとえば芭蕉七部集をそのまま読んで十分に楽しめるという人はほとんどいないと思う。現代のわたしたちが、これを読むときには、幸田露伴や安東次男の評釈に頼ることになるのが自然である。しかし、露伴にしても安東にしても、その評釈の精緻というか嫌味なまでの博覧強記に毒気を抜かれ、いかん、連句などというのはとても素人の手に負えるものではないと、かえって読者を遠ざけるような気配もないとは言えぬ。

なるほど、俳諧連句の評釈というものはありがたいものである。だが、芭蕉や蕪村の時代にまでさかのぼるならばともかく、現代の人々が巻いた歌仙を読むのであれば、なにも古今の典故に通じた博雅な人物でなければ、それを読んでも楽しむことはできぬと決めつけたものでもないだろう。

Baku_suzuki 俳句や短歌や和歌のような短詩であれ、近代詩、現代詩であれ、漢詩や翻訳詩であれ、すべて詩というものは、もし評釈があればわたしたちはそれを読んで、なるほどそんな出典がこの詩句の背後には隠されていたのか、と興を覚えることはあるだろうが、しかし、そういう評釈などなくても、詩を読む楽しみは味わえると思っているはずだ。
同じように、現代作家による連句も、もっと気軽に読んで、なんかいい感じだなあ、とか、なんかいまいちだなあ、これは、とか思えばいいのだと思う。

偶然に知った、この鈴木漠という詩人の詩句が、連句の中でもよく利いているなあと感心したので、現代詩文庫(162)の『鈴木漠詩集』を探し出して読んでみて、さらに興味をそそられた。詩というのは、読者との相性というのもあるのだろうが、じつにいいのである。ちなみに、この『鈴木漠詩集』に収められた「作品論・詩人論」の筆を執っているのは塚本邦雄と清水哲男である。もっと一般の読者に知られるべき詩人だと思う。

(たとえば塚本邦雄が絶賛する 『妹背』は、こちらで読むことができるようだ)

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2008/01/16

走れトロイカ

この頃は冬になってもそんなに寒さが厳しくなくて、あまりそういう気分がでないのだけれど、むかしは冬の歌の定番といえばダークダックスの「雪の降る町を」であった。(いつの時代やねん(笑))これは内村直也作詞・中田喜直作曲。
ほかにも、子供向けのたのしい歌としては北原白秋作詞・山田耕作作曲の「ペチカ」なんてのがなつかしい。「雪の降る夜は たのしいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ」。
もうひとつ、よく歌われていたのがロシア民謡の「トロイカ」ではなかろうか。
「雪の白樺並木 夕日が映える 走れトロイカ ほがらかに 鈴の音高く」。

以下は米原万里の『真昼の星空』(中央公論新社)から。(「御者とタクシードライバー」)

米原さんはご存知のように小学校三年からプラハの外国共産党幹部子弟のためのソビエト学校に通った。授業はすべてロシア語。
中学二年の三学期に日本に帰国したが、ちょうどその頃、音楽の授業で「トロイカ」を習ったというのですね。
ところが、米原さんはそれがソビエト学校でも教えられた「トロイカ」の日本語版とはまさか思わなかった。
音楽の先生は「元気いっぱい陽気に歌いましょう」と指導し、歌詞も、ほがらかに鈴の音高く粉雪を蹴って恋人の待つ楽しい宴に向かう若人を描いている。

しかし、元のロシア語の歌は、もの悲しいというよりも陰鬱な響きで貫かれている。なにしろ歌詞の内容は、トロイカの御者が客の旅人にぶちまける悲恋物語なのだ。農奴上がりの御者が愛しい許嫁を、地主の旦那に奪われてしまった悔しさ惨めさがひしひしと胸を打つ。

これを読んで、わたしはなるほどそうだったのかと納得した。子供のころから、この歌にはどうも嘘っぽい感じがしてならなかったのである。
だって全然楽しそうじゃないじゃん。ロシア人というのはやっぱりあんまり寒いところに暮らしているから、なんか無理して必死で楽しいふりをするんだろうか、なんて思っていたのであります。(笑)
なんだ悲恋物語のメロディでしたか。それなら日本語でもちゃんとそういう歌詞にすりゃいいのにさ。

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2008/01/06

12月に読んだ本

『満州事変から日中戦争へ—シリーズ日本近現代史〈5〉』 加藤陽子(岩波新書/2007)
『はじめての雪—歌集』佐佐木幸綱(短歌研究社/2004)
『森銑三遺珠1』(研文社/1996)
『享保期江戸俳諧攷』楠元六男(新典社/1993)
『恋愛療法』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社 /1997)
『ページをめくれば 』ゼナ・ヘンダースン/安野玲訳・山田順子訳(河出書房新社 /2006)
『アジア・太平洋戦争—シリーズ日本近現代史〈6〉』吉田裕(岩波新書/2007)
『最終戦争論』石原莞爾(中公文庫BIBLIO20世紀)
『森銑三遺珠2』(研文社/1996)
『詩魔—二十世紀の人間と漢詩』一海知義(藤原書店/1999)
『アレクサンドリア四重奏 I ジュスティーヌ』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『新星座巡礼』野尻抱影(中公文庫BIBLIO20世紀)

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2007/12/21

游子夜歌

『詩魔−二十世紀の人間と漢詩』一海知義(藤原書店)から。
法然院に眠る九鬼周造の墓にゲーテの「旅人の夜の歌」からとった一連の和訳が刻まれている。訳者は寸心居士、すなわち西田幾多郎。
(九鬼の墓と墓に刻まれたゲーテの訳詩の写真がこちらのサイトにありました)
一海先生の文章は短いものですが、たいへん面白い。
まずゲーテの詩の原文から。

 Wandrers Nachtlied

 Über allen Gipfeln
 Ist Ruh,
 In allen Wipfeln
 Spürest du
 Kaum einen Hauch;
 Die Vögelein schweigen im Walde.
 Warte nur, balde
 Ruhest du auch.

ドイツ語がだめな方(わたしもそうですが)のために、ネットで検索すると、英訳がいくつか見つかりました。ここではロングフェロー訳を。

 WANDERER’S NIGHT-SONGS

 O'er all the hill-tops
 Is quiet now,
 In all the tree-tops
 Hearest thou
 Hardly a breath;
 The birds are asleep in the trees:
 Wait; soon like these
 Thou too shalt rest.

 (H. W.Longfellow)

さて九鬼の墓に刻まれた西田幾多郎訳とはこういうものです。

 見はるかす山々の頂
 梢には風も動かす
 鳥も鳴かす
 まてしはし
 やかて汝も休はん

濁点をとっていますが、動かず、鳴かず等であります、念のため。

以下、一海先生の文章から、吉川幸次郎の五言絶句による漢詩訳と、銭春綺による漢詩訳を転記、ご紹介します。これがじつによい。

 諸峰夕照在   諸峰 夕照在り
 樹杪無隻籟   樹杪 隻籟無し 
 投林帰鳥尽   林に投じて帰鳥尽き
 物我亦相待   物我 亦た相待たん

 吉川幸次郎
  樹杪:じゅびょう
  隻籟:せきらい

 游子夜歌

 群峰
 一片沈寂、
 樹梢
 微風斂迹。
 林中
 栖鳥緘黙。
 稍待
 你也安息。

 「歌徳詩集」
  銭春綺
  歌徳:ゲーテ

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2007/12/04

漱石の悼む大怪物

漱石の「猫」に、とある上天気の日曜日、苦沙弥先生が吾輩の横に腹這いとなり、うんうん唸って、天然居士の墓碑銘を撰する箇所がありますね。

天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である

苦沙弥先生、一気呵成にこう書き流し、声を出してこれを読み、「ハハハ面白い」と笑うが、「うん。鼻汁を垂らすはさすがに酷だ、焼き芋も蛇足だ」と線を引き。結局「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」だけにしたころで、これではあまりに簡単すぎると全部ボツにして、原稿用紙の裏に「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士、噫」と書き連ねていると、いつものように迷亭がやって来る、てな場面。

この天然居士は、「猫」では曾呂崎という男だということになっているがれっきとしたモデルがあるそうですな。名前を米山保三郎という。
『森銑三遺珠1』(研文社)に「天然居士の墓」という一文がありまして、森銑三が駒込蓬莱町の養源寺にある米山の墓を訪ねたことが書かれてある。
昭和14年頃、森翁が訪れたとき、墓は安井息軒の大きな墓と相対していたそうですが、さてそれから70年近くたった現在でも残っているのでしょうか。

実際の墓銘は漱石ではなく、重野成斎が撰し巌谷一六が書した。重野成斎、安繹は、『逆説の日本史』シリーズなどでも井沢元彦が、その史料を厳格に使用する実証的史学で、これもあれも史実にあらずと抹殺していくので「抹殺博士」と罵られた話を紹介しておりましたが、米山の東大のときの先生であったそうな、ふーん。

森翁の掃苔録には、この墓銘を写してあるが、さすがに洟を垂らすだの焼き芋が好きだなどという文字は見えない。(当たり前だ)
ただし、洟をたらしていたのは本当のことだそうですな。

またこの米山の破天荒なエピソードとして、学生時代、一晩中かかって試験の答案を書いた話がある。

箕作佳吉博士の博物学の試験に、全員答案を出し終えた後も、平然と答案を書き続けているので、先生は助手に後をまかせて帰ってしまった。やがて夕方になったが、米山はまだ答案を書いている。助手も面倒だから、小使を呼んできて、番をさせて帰ってしまった。気の毒なのは小使で、まさか偉い学士さまの卵に催促がましいことは言えない。延々と答案を書き続ける米山の番をさせられた。翌朝になって箕作博士が出勤して、まだやっている米山を見つけてあきれて「もうよかろう」と答案を取り上げた。(笑)

正岡子規もこの米山には脱帽したくちで、哲学をやってもこんな男がいたのではとてもかなわんと方向を転じたのであった。まあ、そうかもしれぬ。

米山の訃報を漱石は熊本で聞いた。明治30年(1897)5月29日。享年二十九歳。
その年、6月8日に漱石は知人宛の手紙にこう書き記した。

米山の不幸返す返すも気の毒の至に存候。文科の一英才を失ひ候事、痛恨の極に御座候。同人如きは文科大学あつてより文科大学閉ずるまで。またとあるまじき大怪物に御座候。蟄龍未だ雲雨を起さずして逝く。碌々の徒、或は之をもつて轍鮒に比せん、残念。

Yoneyama 森翁はまた、漱石が米山と一緒に撮った写真を引き伸ばし米山の半身像に追悼の句を題したことを書かれてあるが、その句がなんであるか、いま資料をもたぬわたしはこれを詳らかにしない。

写真はおそらくこれであろう。
平気で洟をたらしていた男には見えないなあ。(笑)
なかなかいい写真である。
右が米山、左が漱石だとのこと。

(写真は東北大学附属図書館「夏目漱石ライブラリ/漱石の生涯」より)

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2007/12/01

11月に読んだ本

『安息日の前に』エリック ホッファー/中本義彦訳(作品社/2004)
『日本人の笑い』暉峻康隆(みすず書房/ 2002)
『知恵伊豆と呼ばれた男—老中松平信綱の生涯』中村彰彦(講談社/2005)
『清談 佛々堂先生』服部真澄(講談社文庫/2007)
『逆説の日本史 14 近世爛熟編文治政治と忠臣蔵の謎』井沢元彦(小学館/2007)
『写楽百面相』泡坂妻夫(文春文庫/2005)
『犬は勘定に入れません』コニー・ウィリス/大森望訳(早川書房/2004)
『古本屋を怒らせる方法』林哲夫(白水社/2007)
『坪内稔典句集 落花落日』(海風社/1984)
『坐職の読むや』加藤郁乎(みすず書房/2006)
『こでまり抄—久保田万太郎句集』(ふらんす堂/1991)
『赤い影法師』柴田錬三郎(新潮文庫)
『池内式文学館』池内紀(白水社/2007)
『江戸人物談義—鳶魚江戸文庫〈20〉』三田村鳶魚(中公文庫/1998)
『麦屋町昼下がり』藤沢周平(文春文庫/1992)
『四人雀—お江戸吉原事件帖 』藤井邦夫(幻冬舎文庫/2007)

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2007/11/13

古本屋を怒らせる

『古本屋を怒らせる方法』林哲夫(白水社)に、古本屋が嫌う客のことが縷々書かれております。
いくつかを。

買った本を返品する客。これを業界用語では「ションベン」と称する。
大きな荷物を抱えた客。
風邪引いた客。(来るなよ)
カップルでくる客。(開店早々こういうのがくるとその日はダメというジンクス)
店の中で体を前後に揺する。
未整理の本の束を勝手に触る。
本を抜き出しては値段だけを確認する奴。
ハンバーガー食いながら本を見て歩く。(まさかいないだろ、そんなの)
店内で携帯電話を使う。
経営についていろいろアドヴァイスしたがる。(けえれ!(笑))

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2007/11/01

10月に読んだ本

『真昼のプリニウス』池澤夏樹(中公文庫)
『花まんま』朱川湊人(文藝春秋 /2005)
『お言葉ですが…〈5〉キライなことば勢揃い』高島俊男(文藝春秋/2001)
『お言葉ですが…〈6〉イチレツランパン破裂して』高島俊男(文藝春秋/2002)
『お言葉ですが…〈7〉漢字語源の筋ちがい』高島俊男(文藝春秋/2003)
『お言葉ですが…〈8〉百年のことば』高島俊男(文藝春秋/2004)
『プーチニズム 報道されないロシアの現実 』アンナ・ポリトコフスカヤ/鍛原多惠子訳(NHK出版 /2005)
『お言葉ですが…〈2〉「週刊文春」の怪 』高島俊男(文春文庫/2005)
『お言葉ですが…〈3〉明治タレント教授』高島俊男(文春文庫/2002)
『逆説の日本史 13 近世展開編江戸文化と鎖国の謎』井沢元彦(小学館/2006)
『お言葉ですが…〈4〉広辞苑の神話』高島俊男(文春文庫/2003)
『江戸俳諧にしひがし』飯島耕一・加藤郁乎(みすず書房/2002)
『マリナー氏の冒険譚 (P・G・ウッドハウス選集 3)』岩永正勝/小山太一(文藝春秋/2007)
『お言葉ですが…〈11〉』高島俊男(連合出版/2006)
『鳶魚江戸学 座談集』朝倉治彦編(中央公論社/1998)
『探偵ガリレオ』東野圭吾(文春文庫/2002)
『予知夢』東野圭吾(文春文庫/2003)
『自来也小町—宝引の辰捕者帳』泡坂妻夫(文春文庫/1997)
『逆説の日本史 12 近世暁光—天下泰平と家康の謎』井沢元彦(小学館/2005)
『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス/上野圭一訳(角川書店/1998)

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2007/10/05

なんぼ英語がペラペラかて

前回のお話の田中訪中と日中国交回復は1972年9月のできごとですが、日本の親分のアメリカのほうはこれより七ヶ月前の2月21日にニクソン大統領が訪中を果たしている。この歴史的な訪中のお膳立てを隠密外交で見事に仕上げたのがキッシンジャー国務長官ということになるわけですが、そのときに毛沢東の英語通訳であったのが前回出てきたナンシー・タンこと唐聞生である。

さて今回のお話はニクソン訪中よりさらに一年ちょっと前のこと。
1970年12月18日、『中国の赤い星』で一躍名を高めたエドガー・スノーが毛沢東に会見し、その模様を「ライフ」誌に掲載した。まあ、これもニクソン訪中の露払い的な役として米中双方に選ばれたという含みは当然あったのでしょう。
スノーは中国語もある程度できるはずですが、このときは英語でインタビューした。当然、唐聞生が通訳であった。
このインタビューを朝日新聞が買い取って1971年4月に六回にわたって独占掲載したのだそうです。
そのなかにこんな一節がある。

主席は丁重に私を送り出しながら、自分は複雑な人間ではなく、実はとても単純な人間なのだと語った。いわば、破れガサを片手に歩む孤独な修行僧にすぎないのだと・・・・・。

いやカッコいいですね。1970年といえば、まだ文化大革命のさなかです。いまでこそ、この時代をよく言う人はまずいないでしょうが、この時代は、まだまだ西側諸国でも毛沢東に対しては個人崇拝というほどではなくとも、漠然と偉人というイメージをもつ人間は珍くなかった。
ここで簡潔に描写される毛沢東の姿はなんだか南画の中の枯淡な僧侶のような印象。

こういう、別れ際の一言をそのインタビュー全体の基調にしてしまうやり方は、おそらく英米の記者の有名人探訪記の定石でありますね。
例をあげましょう。

わたしを見送るためにフロイトは、山の別荘から街へと通じる石段を、妻と娘と一緒に降りてきた。さよならの手を振ったとき、彼は悲しく寂しそうに見えた。
「わたしをペシミストに見えるようには書かないでください」と最後の握手を交わしたあと、彼は言った。
「わたしは世界を軽蔑してはいません。世界に対して軽蔑を表明することは、聞いてもらいたい褒めてもらいたいために世界に擦り寄る別の方法に過ぎません。わたしはペシミストではありません。子供たちがいて、妻がいて、花が咲いている間は」
『インタヴューズ』
ジョージ・シルベスター・ヴィーレック『偉人瞥見』(1930)より
岸田秀訳

なんだか、これでぐっとフロイトがいい人に見えるでしょ。
いやフロイトはこの際どうでもいい。問題は毛沢東である。この、自分は「いわば破れガサを片手に歩む孤独な修行僧にすぎない」発言は、じつにうまく効いています。ほとんど高潔な人格者のイメージをこの一言によってつくりあげている。

ところがですね、これ、まったくの勘違いだというのです。大間違いもいいとこ。

このとき毛沢東が言ったのは「和尚打傘」というものでありました。
これを唐聞生は「いわば僧が傘をさしているようなもの」と英語に直訳してスノーに返し、これをまたスノーはえらく哲学的に解釈して上記のような別れ際の言葉に仕立てた、ト。

「和尚打傘」というのは、じつはなぞなぞの前半で、これは普通の中国人なら誰だって知っている言葉なんだそうです。「和尚打傘」とくれば省略された後半は「無法無天」に決まっている。意味はメチャクチャやりほうだい。

坊主が傘をさしているのだから「無髪無天」。すなわち、坊主は頭を剃っているから無髪、傘をさして空がかくれたから無天。髪と法は、どちらもほぼ同音の「フア」なので、和尚打傘といえば無法無天とみんな面白がって言い慣わす。法律も無視するし、天理(道徳)も無視する。ムチャクチャやりほうだい。

日本語でもそんな言葉ってあるかなあ、としばらく考えたが、いいのは思いつかない。ちょっとくるしいが―
「うちの親方がどんな人かって?まあ、屋根屋のふんどし、カエルのしょんべん」
「ははは、大人物なのね」
なんてところかなあ。

つまり毛沢東のほうは、おれは単純な人間なんだよ。ムチャクチャやりたいほうだいやってきただけさ、というだけのことであった。ぜんぜん違うじゃん。(笑)

唐聞生という人は中国語のサイトを少々眺めると(読んだわけではないよ)1943年生まれのようですから、このとき27歳くらいでしょうか。英語はぺらぺら(ために毛沢東は彼女のことを「アメリカ人」とからかって呼んでいたことを前回紹介しました)だったのでしょうが、いかんせん下世話な庶民の生きのいい中国語を聞いて育ったわけではなかったのか、「和尚打傘」を意訳せず、よくわからないまま、スノーに伝えたものと思われます。
なんぼ、英語がしゃべれても、これではダメでありますな。
ま、怪我の功名で、毛沢東の神秘的なイメージ形成には役立ったのかもしれません。

今回のネタは高島俊男さんの『お言葉ですが・・・(7)漢字語源の筋ちがい』に収められた「孔子様の引越」から。小生、目下、高島先生マイブーム。(笑)
なお、わたしは和尚打傘、無法無天を単純になぞなぞと書いていますが、こういう言葉は「歇後語(けつごご)」と言うのだそうです。くわしくは、ホンモノの高島先生の本をどうぞお読みくださいませ。

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2007/10/01

9月に読んだ本

『江戸の白浪—鳶魚江戸文庫〈6〉』三田村鳶魚(中公文庫/1997)
『明るい旅情』池澤夏樹(新潮文庫/2001)
『誓い/チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』ハッサン・バイエフ/天野隆司訳(アスペクト/2004)
『下山事件—最後の証言』柴田哲孝(祥伝社 /2005)
『虫取り網をたずさえて—昆虫学者東子・カウフマン自伝』青木聡子訳(ミネルヴァ書房 /2003)
『海』小川洋子(新潮社 /2006)
『Back When We Were Grownups』Anne Tyler(Ballantine Books/2004)
『コーカサスの金色の雲』プリスターフキン/三浦みどり訳(群像社 /1995)
『物語が、始まる』川上弘美(中公文庫)
『消えた女—彫師伊之助捕物覚え』藤沢周平(新潮文庫)
『漆黒の霧の中で—彫師伊之助捕物覚え』藤沢周平(新潮文庫)
『アメリカの終わり』フランシス・フクヤマ/会田弘継訳(講談社 /2006)
『お言葉ですが…〈9〉芭蕉のガールフレンド』高島俊男(文藝春秋/2005)
『悪党芭蕉』嵐山光三郎(新潮社/2006)
『チェチェン やめられない戦争』アンナ・ポリトコフスカヤ/三浦みどり訳(NHK出版/2004)
『エセー 2 』ミシェル・ド モンテーニュ/宮下志朗訳(白水社 /2007)
『ささやく河—彫師伊之助捕物覚え』藤沢周平(新潮文庫)
『お言葉ですが…』高島俊男(文春文庫)

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2007/09/29

呼び捨て、欧米かよ!

英会話の先生(アメリカ人)の話。
日本の生活も長いし、奥さんも日本人なので、みんなに悪気がないことはわかっているんだけど、日本人って名前の呼び方に問題があるんじゃない、って言う。

たとえばこんな場面。

かれの入会している地元のテニス倶楽部では、新しいメンバーが入ってきたときは、コーチが古手の会員を新会員に引き合わせて紹介するというのですね。
ここでは仮にポール・マクローリーくんとでもしておきましょうか。

コーチの紹介は、たいていこうなるのだそうです。
ええと、じゃあ、うちのメンバーのみなさんを紹介しますね。こちら、佐藤さん、山本さん、田中さん、ええとそれからポール、西田さん、中島さん・・・

うーん、わかるなあ、わたしがコーチでもきっとそうするよ。(笑)

「ね、ヘンでしょ。山本さん、田中さん、ときたらマクローリーさんって呼ぶべきじゃん?なんでわたしだけいつも呼び捨て?」
「マクローリーさんってのは言いにくいよ」
「ちっちち、だめだめ、ぜんぜん言いにくくなんかないよ」
「ポールのほうが親しみがこもっているとか」
「じゃあさ、こちら、吉夫、順一、ポール、とか言えばいいじゃん」
「あのねえ、日本人は名前で紹介しないのは、知ってるでしょ」
「じゃあ、なんで、ガイジンはいいわけ?」

以上は、ほぼ実際の会話の流れです。
さて、ざっと考えて、だれかの名前を呼び捨てにするのは、次のような場合でしょう。

(1)その人が自分の身内の人間である場合。「えっ、孝太郎がそんなことを言いましたか」なんていう場合は、その話し手と孝太郎は、親子、兄弟、親戚、親友などであるということが日本人ならすぐわかる。

(2)その人間が犯罪者だったり、あるいは話し手がその人に悪意を持っていたり否定的に見ている場合。「麻原彰晃がやったんだよ、絶対」なんていうのがこれにあたる。

と、ここまではわたしでも説明ができると思うのですが、どっちもポールくんが聞いて「ああ、じゃあまあ仕方ないね」とはならないなあ。そんならよけい酷いじゃん、と言われそうである。

ところが今日、高島俊男さんの『お言葉ですが・・・』を読んでいたら、こんな箇所があった。(どっちがエライ、「君」と「さん」)

昔から、といってもそれほど大昔ではないがともかく戦前から、文士と役者と相撲取りと野球選手とは、名前を呼び捨てにしても失礼でないことになっている。誰が決めたというのでもないが、まずそういうことになっている。

あ、これはイケルと思いましたね。
ただこれを英語で説明するのは、難しいよきっと。(笑)

(3)呼び捨ての方が自然であるという場合がある。「朝青龍さん、今日帰国しちゃったんだってね」とかは丁寧というよりむしろヘンである。「でさぁ、木村拓哉がそこで言ったの」なんて女子高校生が電車の中で喋っていたら、こいつらは映画とかテレビドラマの話をしていることが了解できる。これが「そのとき木村拓哉さんが言ったの」となると、なんだか現実の世界でキムタクが言ったようなニュアンスになって、普通の人はそうではないわけだから、さんをつけることが誤解をわざと誘導するみたいで、かえってその有名人に礼を失するというような感じになる。

さて、こう考えてみると、ポールくんは、日本語で名前の呼び捨ては、上記の(1)か(2)を意味すると知っているからむくれるのね。
一方で、わたしたち日本人の方は、それをあまり悪いことだと思わない(むしろ好意でそうしているつもりである)のは、なんとなくそのガイジンをガイジンであるということで、その人はまったくの無名な人であるのに、(3)のケースの有名人やスターと同じように扱ったつもりになっているからではないか。そう考えるとなんとなく腑に落ちるような気がするんだけどどんなもんでしょう?

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2007/09/23

フランシス・フクヤマ補遺

『アメリカの終わり』の訳者解説から。
フランシス・フクヤマは名前から日系であることは明らかだが、本書の訳者合田弘継さんはあるときフクヤマ氏にこんなことを訊ねられた。
「私の母方の祖父で、河上肇という社会主義者の友人だったカワタ・シロウをご存知ですか」

河田嗣郎(1883-1942)という人は、今回までわたしは知らなかったけれど、京都大学の経済学部のときに河上肇と同僚の教授で、のちに大阪商科大学(大阪市立大学の前身)の初代学長となった人物。山口県柳井市の出身だから河上肇と同郷ということもあり親交を深めたものと思われる。河上肇(1879ー1946)より四歳ばかり年下になるが、戦中に亡くなっている。二人の墓所はともに法然院にあるそうです。

この河田嗣郎の孫には、関西大学学長の河田悌一氏もおられる。

悌一氏によれば、河田家では、京都帝国大学を「恩賜の銀時計」を得て卒業した嗣郎氏を最も彷彿とさせるのがフランシスであると言われてきた。その博覧強記ぶり、「抽き出しのたくさんある頭脳」が似ているのだという。

河田嗣郎の孫であるお二人(従兄弟にあたる)の写真を並べてみました。いかがでしょうか、似ているかなあ。

左がフランシス・フクヤマ氏(1952生)、右が河田悌一氏(1945生)。

Granson_1

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2007/09/17

コーカサス、コーカサス