女房を返してくれ
『ソ連史』松戸清裕(ちくま新書/2011)『ソビエト連邦史 1917-1991』下斗米伸夫 (講談社学術文庫/2017)
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『ソ連史』松戸清裕(ちくま新書/2011)『ソビエト連邦史 1917-1991』下斗米伸夫 (講談社学術文庫/2017)
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鬼太郎の母の名知らず雲の峰てぶくろのわめく形やまた嵌めるこの雛のかほには少し嘘があるもにやもにやとキャラメル剥くや日の盛で、そこのその石が墓われもかう
死ぬときは箸置くやうに草の花 軽舟
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「ということは、短歌においては、非常に図式化してしていえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。」たいへんよくわかる短歌の「からくり」。ただし、わかったからといって誰でも詠めるわけではない。たとえば、こんなインパクトのあるやつ。
三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり 本多真弓
『短歌ください その二』穂村弘(KADOKAWA/2014)
おもしろい、ということと、詩情とが絶妙にマッチしているという歌は少ない。この企画の場合、どうしても前者に比重がかかって、かつての糸井重里の万流コピー塾みたいな感じになる。一例——
ジャージ着た七三分けの先生に服装検査される屈辱 (麻倉遥・女・27歳)
『波止場日記 労働と思索』エリック・ホッファー/田中淳訳(みすず書房/2014)
「始まりの本」というみすずの新しいシリーズの一冊。この企画、広告では「すでに定評があり、これからも読みつがれていく既刊書、および今後基本書となっていくであろう新刊書で構成する」とある。ただホッファーの魅力を伝えるには、この本が最適なのかどうか、ちと疑問ではあるけれども。
学校教育を受けず、渡りの農務労働者、砂金堀り、サンフランシスコの沖仲士として稼ぎながら、行く先々の図書館で本を読むという人生を送ったホッファーが、自分の思索について書くことができるのではないか、と初めて思いついたのは、モンテーニュのエセーを読んだことがきっかけだった。1936年の冬、砂金堀の山中で雪に閉じ込められたホッファーは、エセーを三回通して読んでほとんど暗記してしまったという。そしてこの16世紀の貴族が語っているのはつまるところ自分(ホッファー)のことだと悟った。モンテーニュを読もうとその本を持って行ったのではない。雪の山中で身動きできなくなった時のための本だから、ただ分厚くて活字がぎっしり詰まった本ならなんでもよかったのである。
ホッファーらしい文章とは次のようなもの。
自由に適さない人々-自由であってもたいしたことのできぬ人々-は権力を渇望するということが重要な点である。p.191
文明の誕生は新たな問いの挑戦なしには考えがたいけれども、アジアの文明はひとたび成立すると、問い以前にすでに答えがあるかのように機能した。
西洋の伝統の外では、権力を自然と同等視し、自然の大洪水の前に頭をたれるごとくに暴政の前に頭をたれる傾向がある。p.226
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『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』保苅瑞穂(講談社学術文庫/2015)
「エセー」を読むと、モンテーニュという人は、穏やかな日常を驚くほど大切にした人だという印象が強く(そして事実そのとおりだが)、この人が血みどろの宗教戦争の時代に生きた人だということをつい忘れる。本書(素晴らしい一冊)を読むと、そういう陰惨な内戦の只中にあったからこそ、ささやかな、日々の喜びを自分の館や領地の中に見出していたことが理解できるような気がする。モンテーニュの立場は旧教の側であることを明確にしていたけれど、何より人間の理性を重んじる思想家だった。新教であれ旧教であれ、宗教の名を借りた蛮行に対してはこれを非難した。当時どのような人間が跋扈していたのか。今と変わらない。以下本書よりエセーの一部引用。
その人間と言うのは、最悪の歪曲を行いながら自分は改革に向かっているとか、間違いなく地獄堕ちになるような明白この上ない原因を作っておきながら自分は救済に向かっているとか、あるいは神の庇護のもとに置かれている国や権威や法律を覆したり、母親の手足を引き裂いて、その肉塊を旧敵にやって齧らせたり、兄弟の心の中に親殺しの憎悪をたっぷり詰め込んだり、悪魔と復讐の女神に助けを求めたりしながら、自分は神の言葉の神聖この上ない慈悲と正義の手助けができるのだ、と本気で信じている人間のことである。
『ガリヴァーの帽子』吉田篤弘(文藝春秋/2013)
クラフト・エヴィング商會のことはぼんやりとしか知らない。本書の中では表題作である「ガリヴァーの帽子」、「イヤリング」、「ものすごく手のふるえるギャルソンの話」が良い。星新一のショートショートを少し優しくしたような感じとでもいうのかな。趣味の良い作家として覚えておこう。
『珈琲挽き』小沼丹(講談社文芸文庫/2014)
小沼丹の名前を初めて知ったのは、随筆でも小説でもなく、林語堂の『則天武后』の翻訳家としてであった。林語堂は米国でこれを英語で発表したから、英文学が専門の小沼が訳したのでありますね。本書の中に、この翻訳にまつわる話が出ていて、興味深い。ちなみにもらった「幾許かの金子」は一晩で飲んで「たちまち消えて跡型かも無かった」とありますね。出版社の事は「或る本屋」としているが、これはみすず書房ですな。
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中江兆民の息子で、丑吉という名だった。父親は息子が俥(人力車)引きになった場合にもいいようにと、丑吉という名を付けたのだそうだ。自恃によって突っぱって、変わり者と指さされながら、一人の無名の市民の生き方を通した。『中江丑吉の人間像』(阪谷芳直、鈴木正編)という心の籠った一冊に、身近に親しんだ人たちの追憶が集められている。
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方法論で分類したジョーク集という触れ込みなんだが、まあ、それほど大したものではない。思えば、一昔前のジョークはおもわずニヤリとさせられるものが多かった。このごろはなんだか現実がジョークみたいな気がするなあ。憲法解釈を反転させる閣議決定について内閣法制局には公文書がないそうな。やれやれ。
ひどい題名だなと思いながら読み始めて、なんだ、そのまんまじゃんと感心したり、呆れ返ったり。H・G・ウェルズという人は、二度結婚したが、家庭の外に何人も愛人をもっていた。短期間の情事は些事だから別のこととして、本気で好きになって長くなりそうな愛人は妻にもきちんと報告していた。つぎつぎに新しい女が愛人として本書に登場するので、名前を覚えるのも面倒くさい。しかし登場人物はすべて実在した人間で、手紙や刊行物、書籍、談話なども大半が出典があるそうな。小説ならリアリティないじゃんと思うところだが、まさに事実は小説よりも奇なりであるな。ちなみに原題は"A Man of Parts"。Partsには二つの意味があって、ひとつは才能という意味。もう一つは、陰部(private parts)の短縮形。同じ伝記小説という手法では『作者を出せ!』のヘンリー・ジェイムスのほうが心穏やかに読めるなあ。
「が、読者は、実際には、彼らが考えているほど、細かく読んでいない」というのが推敲についてのアドヴァイスで、「つまり、書いてしまえば良いのである」が書き出しについてのアドヴァイス。まあ、実戦的な文章術だわな。
これはよかった。たぶん、今年読んだ中でもベストの一冊。1950年代にカルカッタで双子のように育った年子の兄弟。活動的な弟と内省的な兄。それぞれ違う理系の大学に進学して、兄はアメリカで博士課程に、弟は学問よりも政治運動にのめり込む。やがて兄の元に弟が殺されたという電報が届く。毛沢東思想に強く影響を受けた極左組織の党員となった弟は、当局に追われ、自宅に潜伏していたところを発見されて、両親と若い妻の目前で射殺される。兄が帰国すると弟の妻は身ごもっていた。兄は、彼女を妻とし、生まれてくる子供を自分の子供としてロードアイランドで生活をはじめるが——予想したようなお涙頂戴的なオハナシには全然ならないところがすごい。とくにこのはじめは無力な脇役のように思えた妻が後半はむしろ主人公のようになる展開に舌を巻く。ジュンパ・ラヒリはこれまでの作品も素晴らしかったが、本書はとくに傑作ではあるまいか。
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今年の4月に読んだジョン・コーリーものの新作『THE PANTHER』はイエメンが舞台なんだけれど、現地の大使館の保安を担当する部局のポール・ブレナーというナイスガイが登場する。オハナシのなかで、このブレナーがむかしは陸軍犯罪捜査部にいて、ある将軍の娘の殺人事件を担当したことがちらっと出てくるので、ああ、これは未読の『将軍の娘』の主人公かと気づいた。で、図書館で『将軍の娘』が見つかったので読んだわけ。デミルらしい、ぐいぐい読ませる内容なんだが、どうもこういう娯楽小説には鮮度みたなものがあるようで、いまひとつ面白くない。ほかにも未読のデミルはあるけど、たぶん同じような感想になりそうだから、これからの新作を摘み食いというのが賢明かもね。本書は絶版みたい。
「有名で人も勧めるかもしれないけれども読んではいけない本」リストというのが本書にあって、たとえば『パンセ』だの『ルイ・ボナパルトのブリューメル十八日』なんてのがならんでいるのだが、つまりこのヒトのバカというのは、そういう本をとりあえず読む気がないでもないという人を指す言葉なんだな。ふつうバカというのはそういう人は入れないような気もするが、インテリもこの著者くらいになると、バカのレベルが高いのね。
副題「昆虫の性をあやつる微生物の戦略」。昆虫の細胞に共生するボルバキアは、宿主の性を操作して、オスをメスに性転換させたり、要らないオスを殺したりする細菌。たぶん一般向けでも、最低このくらいは押さえておかないと、という学者の良心かもしれないが、細かいところは、ふつうの人にはわずらわしいだけであんまり面白くないんじゃないかなあ。まあ、竹内久美子みたいなのばっかりでも困るけどさ。
副題「王妃たちの英国を旅する」。チューダー朝のゆかりの町や建物を巡りながら、王や王妃の物語を手際よくまとめた好著。
壁投げつけ本。——とわかって読んでいるので、まあ、とくに問題なし。
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チリのバルパライソの私立探偵カジェタノ・ブルレを主人公にしたシリーズ。本書はほぼ全編カジェタノの若い頃の回想になっている。時代は1973年、アジェンデ大統領の樹立した社会主義政権がピノチェト将軍のクーデタで倒される直前。ネルーダはいうまでもなく、ノーベル賞作家で詩人のパブロ・ネルーダのこと。末期癌で死につつある詩人の過去の女性関係(事実に基づく)と、社会主義政権の気息奄々とした崩壊過程が物語の軸になる。虚実をとりまぜたミステリだが、本書はどちらかというと、1970年代の左翼的心情へのオマージュで、謎解きの要素は少ない。ただ、わたしくらいの年代には懐かしい時代なので、個人的に「買い」。
魯迅の「礼教食人」は、福澤諭吉の「門閥制度は親の仇」みたいなレトリックにあらず。本書より桑原隲蔵の孫引き。「かくて宋、元以来、父母や舅姑の病気の場合、その子たり又その嫁たる者が、自己の肉を割き、薬餌として之を進めることが、殆ど一種の流行となつた。政府も亦かかる行為を孝行として奨励を加へる。(中略)明・清時代を通じて、自己の股肉を割いて父母に進むることは、最上の孝行として社会に歓迎せられ、政府も亦多くの場合之に旌表を加へた。民国以後の支那の新聞にもかかる行為が特別に紹介されて居る。」(「支那人の食肉風習」1919年)いやはや。注)「旌表」《せいひょう》善行をほめて衆人に知らせること。
「大阪に自然保護を営業用に僭称する小西和人という男がいて」という文があって、「仮に人を一人殺しても良いということになったら、私は迷うことなく、この男を殺す」と明言してありますな。小西は「釣りサンデー」の創刊者。まあ、誰にも殺したいほど嫌な人間はいて当たり前だが、なかなかここまでは書けないと感心。
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