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2004年10月

2004/10/31

ホビットたちの島

スケルトン探偵、キデオン・オリヴァー教授もいまごろは大興奮だろうなぁと思ったのはわたしだけだろうか。
インドネシアのフローレス島で見つかったホモ属の新種とされるヒトの骨は、これから大きな問題を引き起こしそうだ。

BBC NEWS | Science/Nature | 'Hobbit' joins human family tree

身長は1メートルそこそこで、グレープフルーツほどの小さな頭蓋骨。火を使い、道具をつかっていたことが明かだという。BBCのタイトルは
'Hobbit' joins human family tree (ホビット、人類の系統樹にくわわる)
まさに伝説のホビットがほんの少し前まで(といっても12000年前だが)存在していたわけだ。
BBCにはさっそくデズモンド・モリスが寄稿していて、これがなかなか面白い。
(ここ)
もし、かれらの子孫がまだ生きていて発見されたとちょっと考えてごらん。人類はかれらをどうあつかうべきなんだろう。もしこの生き物の幼児をイギリスに連れてきたら、ぼくらはかれをイートン校にいれるべきなのか、それともやはり動物園に?かれが死んだら、聖堂に葬るのか、それともペットセマタリーに? とモリスは問いかける。ほんとうに深く考えだすと、これはたしかにむつかしい。もしかれを「人間」として扱うなら、チンパンジーはこれまでどうり動物でいいの、とすぐに考えだすからだ。そもそも人間だけが特別だという境界はかなりあいまいなものだが、こういう生き物が存在するとそのことをまともに突き付けられることになるからだ。
事実、宗教界ははやくもパニックで、すでにこの骨が悪魔が置いたものだという宣伝がはじまっているそうな。そりゃ、そうだろう。神様はこの人類だけを人類としておつくりになったのでは「ない」ことをどう旧約聖書と擦り合わせればいいというのか。まあ、仏教はむしろ悉皆成仏で安泰かもしれないけどさ。

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2004/10/29

お笑い、イラクに憲法第9条を

イラク情勢について。どちらかと言えば個人的な覚えとして。
朝日新聞によればイラク暫定政府の駐米大使レンド・ラヒム女史が辞任し、後任に建築家のカナアーン・マキーヤ氏の名前があがっている。
イラク駐米大使が突然辞任 暫定政府内の不満背景

後任には、フセイン政権下の弾圧を告発した「恐怖の共和国」の著者で元反体制活動家として知られる建築家カナン・マキヤ氏らが浮上している。マキヤ氏は朝日新聞記者に対し「検討しているが受けるにはいくつかの条件がある」と述べた。同氏はブッシュ大統領や、イラク戦争を主導した米政権内の新保守主義(ネオコン)グループと極めて近く、米大統領選の結果などを見極めているものとみられる。

記事自体はニュートラルなんだが、なんか臭う。朝日新聞のかすかな好意みたないものを感じる。変だなぁとカナアーン・マキーヤについてネットで検索してみたら、こんな記事がひかかった。

「米国が模索するフセイン後体制」

この人物が、フセイン後のイラクの体制を提唱していたなかに、連邦制、政教分離、とならんで日本の憲法第9条を取り入れる構想とある。あれれ、なんだこりゃ、てな違和感があるな。ええ?中東に戦争放棄の国?朝日新聞なら好きそうな話題ではある。やれやれ。
じつは、この人物については、今日読み終えた酒井啓子さんの『イラク 戦争と占領』(岩波新書/2004)にはこうある。

・・・特にウォルフォウィッツらネオコンに協力して今回の「解放作戦」を後押ししてきた亡命イラク人フィクサーたちには、こうした「イスラエルとの関係」が見え隠れしている。アメリカを対イラク軍事行動に駆り立てた張本人ともいうべき在米イラク人建築家、カナアーン・マッキーヤは、イスラエルのテルアビブ大学から名誉博士号を取得した。 (p.121)

憲法第9条を掲げたイラクなんて、イスラエルの究極の夢だろう。冗談にもならない。2003年7月にイギリスの「スペクテイター」誌が発表したイラクの世論調査では、米国の戦争目的だかれらが考えているのは、1位石油利権(47%)、2位イスラエルの安全保障。
まあ、率直に言ってこれはあたっているだろう。

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2004/10/27

芝浜、畳の新しいの、クリスティ

久しぶりに、三代目三木助の「芝浜」を聴いた。むかし持っていたテープより、導入のところが少し短い。
「翁の句に、あけぼのやしら魚白きこと一寸、というのがありますが」ではじまるところは一緒なのだが、そのあとに船頭と粋な客、野暮な客の話があるのを昔は愛好していたのだ。もうテープは無くしてしまったが。
しかしこの咄、最後の「よそう夢になるといけねえ」ですぱっと終る所がカッコよくて何度聴いてもしびれる。(古い表現だなぁ)

芝の浜で拾った財布には四十二両、ああこれで、おらぁ、あしたっから働かなくてすむ、ありがてぇじゃねえか、と女房に酒を買いに走らせ、友達呼んでドンちゃん騒ぎ――と女房が叩き起こす。おまいさん、仕事行っつくれよ、釜の蓋があきゃあしないじゃないか。なにぃ、あの四十二両は夢ぇ?金ぇひろったのは夢で、友達呼んで騒いだのは本当ぅ――。なさけねぇ・・・よし!おらぁもう酒飲むなぁ、やめた。道具出してくれ、仕入れに行ってくる。
数年後、店をもって若いのをつかうまでになった魚勝に女房がことの真相を涙ながらに打ち明ける。おまいさん、あの四十二両は本当だったんだよ。ゆるしておくれ・・・

さてこの場面に入る直前、なんかいい匂いがする(じつは燗をつけていたことがあとでわかる仕掛け)というので、ああ畳が新しくなっているのかと勝は得心する。「やっぱりいいもんだなぁ、畳の新しいのと、嬶ァの・・・・古いのは」
ここで小さな笑いをとって、後は一気に泣かせの場面に入る間合いだ。

今日は気分転換に軽いミステリでもと、アーロン・エルキンズの『断崖の骨』(ハヤカワ文庫/1992)を再読していた。こんな一節があった。人類学者にしてスケルトン探偵のオリヴァーと新妻のジュリーの会話。

「・・・アガサ・クリスティが人類学者と結婚して何て言ったか知ってるかい」
「彼女が人類学者と結婚したなんて知らなかったわ」
「そうなんだよ、マックス・マローワンという有名な学者だ。彼女が言うには、人類学者を夫に持つと最高だ、年をとればとるほど、興味を持ってくれる」

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四方ころび

古い家で育った人はあるいはご存知かもしれない。黒光りした踏み台。子供心になんだか気になる存在だった。年寄りがなんとそれを呼んでいたかは残念ながら記憶にないのだが、粗末に扱うと叱られたような気がする。
池内紀さんの『なじみの店』(みすず書房/2001)にこんな一節がある。なじみの店で隣の客同士が話しているのを聞くともなしに聞いているところ。

「里の家にホラ、踏み台があったでしょう――」
棚の物を下ろすときとか、柱時計にねじを巻くときに用いた踏み台のこと。ながらく忘れていたが、たしか里の家には黒ずんだのが一つあった。別名が「四方ころび」。裾がひろがって四角錐をしていた。
これも聞こえてきたから知ったのだが、踏み台はもともと、その家を建てた大工の置き土産だったそうだ。一丁前になった大工が腕だめしに踏み台をつくる。棟梁はその出来ばえをチェックして、出来がよければ建て主に献上した。四方ころびの寸法は三角定規では測り出せない。差し金を使いこなして、はじめて寸法がわり出せる。踏み台は、一丁前になった大工が丹精こめてつくったしろものだそうな。
「なるほどなァ」
かたわらで、しきりにうなずいていた。そういえば小道具ながら威風堂々としていて、ある気概といったものが感じられた。幼いころに何となく感じとり、心の隅にとめていたことが何十年ぶりかに夜の寄り道で解決をみた。

わたしもああそうだったかとなんだか得をした気分である。同じような人がいるのではないか。

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2004/10/25

人民による革命が必要な中国

昨日のNHKスペシャル「63億人の地図・中国豊かさへの模索」を見て、もしかして中国には近い将来、人民による革命が起こるのではないかと思った人はいないだろうか。
上海の成金が、子供の英国留学に2億円を用意していると伝えたあとで、内陸部の農村で教科書代が払えず学校を断念する子供たちの映像が流れる。ある村では、村始まって以来はじめて大学に合格した少女の父親が口数少なく、10万円ほどの入学金を準備するのに、必死で金策をしたが、どうしても7万円しか準備できず、大学にやることができない、娘にすまないとうなだれる。
NHKや朝日新聞の報道をナイーブに信じる奴だと冷笑されそうだが、親が子供に教育を受けさせることができないみじめさを思うとむかむかと腹が立つ。
こうした、憤懣を当局や都市部にむけないための仕組みとして、反日教育が必要なのだろうが、いつまでもそれで納まるとも思えない。
やはり問題は人民解放軍だろうな。二・二六の青年将校も、部下の出身地の惨状をクーデターの動機としていたのではなかったか。

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2004/10/24

童話のはなし

仕事帰りにギターの楽譜を買いに紀伊国屋へ行ったら、レジのカウンターの上に『うずらちゃんのかくれんぼ』(きもとももこ/福音館書店)が山積みにされていた。いよいよ大増刷が出まわりはじめたらしい。ちなみにこの本、いまやアマゾンのベストセラーの7位であります。結構なことである。まあ、どうでもいいけど。(悪意はない、念の為)
平積みにされた罪の無い童話を横目で見ながら思い出した歌があった。

 眠られぬ母のため吾が誦む童話母の寝入りしのち王子死す

これは岡井隆が慶応の医学部に入って、アララギ東京歌会に出るようになった頃の歌。昭和25年頃のことだ。東大のそばのお寺で開かれた「芽」(東大アララギ会を中心とするグループ)の歌会に出したと本人が語っている。まるで母ではなく妹をあつかうような保護者的な現実ばなれの感があると批判されたが、このとき、岡井の母は精神を病んで不眠、妄想に苦しんでいたらしい。その歌会では「王子死す」について米田利昭が、王子が死ぬ童話なんて現実にあるだろうか、ないのではないかと言ったとか。
「詩における虚構の力について、アララギの歌学では、認識しえてゐなかつた時代のことである。」(『前衛歌人と呼ばれるまで』岡井隆)

photo by Zen on Flickr

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2004/10/23

ロンピー、ショーピー

  秋うららくはへ烟草の先の空   獺亭

 先日の落柿舎での句会でつくった句。
 たばこはたしなまない。しかし人が屋外でうまそうにふかしている姿を見るのは嫌いではない。昨年亡くなった昔の職場の上司も愛煙家で、ロングピースをくゆらせる人だった。病気でたばこを断ったあとも、他人がピースを吸っているとその香りを愉しんでいたことをなつかしく思い出す。
 今日の新聞を見ていたら、EUでたばこのパッケージに癌で黒く病変した肺の写真などを掲載することを求めるとか。こちら
なにもそこまで、と思うが、吸いたい人はそれでも吸うのだろう。(そこまでして吸わなくても、と思うべきなのかもしれないが)まあ、外で呑んでくれる分にはとくに干渉しようとは思わないけれど。

 ところで、京大俳句事件の第二次の検挙で三谷昭が東京から京都の堀川署に護送され、留置所に入れらる話が(不謹慎だが)おもしろい。昭和15年のことだが、大部屋の雑房には七人の先客がいた。牢名主が、お前はなにをやらかしたんだと訊くので「特高関係だ」と答えると、一目置いてくれて、二番目の序列にしてくれた。堀川署の留置所では牢名主は看房長というのが正式名称で、掏りやこそ泥は、数日で出ていくので一月もすると三谷昭が晴れて看房長となり、新入りが入ると「お前は、これか(小指を立てる)それとも、これか(人差し指を曲げる)」と訊くのも堂にいったものとなった、ト。
 三谷がいた房は「3房」だったが、隣の「4房」にも、先にしょっ引かれた和田辺水楼がおり、こちらも看房長だった。辺水楼は六尺(181cm)近い大男、三谷昭は五尺二寸(158cm)の小柄な男だったので、房の者はロング親分、ショート親分と尊称したそうな。

 ロングとショートの名づけは、たばこのロングピース、ショートピースからかしらと一瞬考えたが、大東亜戦争のさなかにこんなネーミング(なんせ英語でピースだからね)のたばこはないだろうと気づく。
 この名前、いつつけられたのかはわからなかったが(これは宿題。どなたかご存知でしたら教えてください)JTのホームページでピースのことを調べたら、おもしろいことが書いてあった。ここ
 ピースは1952年にパッケージ・デザインを変更した。深い紺色の地に鳩とオリーブをあしらった例の奴だ。このデザインはレイモンド・ローウィによるもので、意匠料は150万円、当時、内閣総理大臣の月給が11万円だった。平成15年度特別職職員の俸給月額表によれば内閣総理大臣の俸給月額は2,227千円なので、単純計算すれば、いまに置き換えると3千万円くらいだが、もちろんそのころはたかがたばこの図案にそんなカネを払うのかという感覚だったのだろう。しかし、このパッケージのおかげで、売上げは前年同月比で3倍というから、やはりたばこは気分で吸っていることが、これからもわかる。EUで肺ガンの写真をパッケージに付けたら、売り上げは三分の一になるのだろうか。

 さてロングピ-スを愛したSさんの一周忌がもうじきやってくる。吸わない烟草に火をつけて清みきった空にむけて紫煙を手向けることにしようか。

Photo by Foxgirl on Flickr

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2004/10/22

ライミング・スラング(rhyming slung)

最近、個人的な英会話のクラスで習っているオーストラリアのライミング・スラングの一例。

I think I had better tell you the Grim and Gory right from the Horse and Cart.
I saw a lot of Joe Blakes.
無用の用は尊い、とは言え、こんなの知っていても役には立ちそうにない。(笑)せめて、こんなところに書くことにしよう。
カーソルを上に合わせるとなんの韻を踏んでいるかがわかります。

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2004/10/21

昭和俳句、引越し三題

神は細部に宿りたまう、というわけでもないが、村山古郷の『昭和俳壇史』(角川書店/1985)は戦前の俳人たちに関するいろいろな事実がわかって興味深い本だ。
たとえば──

その一。ホトトギスの発行所の転居。
ホトトギスの発行所は丸ビルの7階723号室にあった。毎朝一番に出勤してくるのは虚子で、朝6時46分鎌倉駅発の汽車で通勤していた。昭和2年9月に一階上の876号室に移転したが、あたらしい事務所は見晴らしがよく(丸ビルは9階建)、晴れた日には品川湾の白帆が見えたという。室内は広く百人くらいは収容できたので、ここで俳句講演会などの催しものを企画した。講演会などの様子は「ホトトギス」に掲載できるので一石二鳥であった。
虚子の実業家らしいセンスがよく出ている。

その二。原石鼎の転居。
昭和二年、病後を養っていた原石鼎は、住み馴れた麻布竜土町の家から、麻布本村町一一六番地に転居。家賃は70円で、いずれ買い取るという約束があれば敷金はいらないという条件だった。家の様子を『昭和俳壇史』より引用する。

竜土町から材木町を抜けて有栖川公園の角を曲がり、鷹司家の前を通って、すぐ右に折れた行き止まりに、その家があった。古風な冠木門をくぐると、大きな楓の木の下に、寄せ石の灯籠が置かれていた。庭はそれほど広くはなかったが、庭を埋めるほどに大小の石が配置され、石と石との間に、珍しい木が植えられていた。室数は多く、座敷の床の間や違い棚の造作はなかなか凝っており、数寄屋造りの離室もあった。いかにも通人らしい好みの家であった。
一渡り各室を見て廻り、縁側に立つと、高台なので、南の方に二十メートルばかり傾斜の植え込みがあり、その下を渋谷川が流れていた。渋谷川の流れに沿った家々の向こうの高台には、聖心女学院があって、校塔が高く聳えていた。

長々引用したのは理由がある。聖心女学院のところで「ああ」と思い出した。この家のすぐ隣に、十年後に引っ越してくることになる一家があるはずだ。その一家には一人の少女がいて、二階からこの庭をのぞいて、そこに空ばかり見上げているへんな中年男を見るのだ。夕食のときに父親が、お隣は高名な俳人だそうだ、と言ったことを覚えていて、はるか後年にそれを随筆に書いた。須賀敦子である。

その三。馬酔木の発行所の転居。
それまで事務所がビルの一室にあるような結社はホトトギスくらいだったが、昭和7年に馬酔木の発行所が移ったのは神田雉子町三十一の内神田ビル。(秋櫻子がホトトギスを離脱したのは前年昭和6年10月)
ビルのオーナーは宮本璋という人物で、秋櫻子の小学校の友達である。父親は宮本仲と言って、正岡子規の主治医であった。
わざわざ大きな部屋を半分に仕切って貸してくれた。4階41号A室。家賃30円也。
ちなみにこの内神田ビルへの移転日の前日(2月20日)に馬酔木巻頭を取った直後の石田波郷が、なかば押し掛けでのように松山から上京しているが、秋櫻子ははじめてまみえた波郷が「あまりに大きな身体の若者」だったのにびっくりした。のちに、馬酔木の発行の仕事を手伝う波郷に秋櫻子が自分のポケットマネーから渡していたのが、馬酔木の家賃と同じ30円。
「町には不況風が吹き、巷には失業者があふれていた」時代の話。

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2004/10/20

サイトの引越し

ここ数日、以前のホームページのコンテンツの一部(いくつかの書評)をこちらに移設していた。
ただし考えてみると、せっかく引越しするのだから、あまり以前のものを転載するのも能がない。今後は、あたらしい内容を書いていくことにしよう。
ということで、「かわうそ亭」は今日から、ここが本拠地である。

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評伝はかくあるべし『津田梅子』


書誌データ(私の読んだ版) 津田梅子 大庭みな子 朝日新聞社 1990

吉益亮子  十五歳  東京府士族秋田県典事吉益正雄娘
上田悌子  十五歳  外務省中録上田畯娘
山川捨松  十二歳  青森県士族山川与七郎妹
永井繁子   九歳  静岡県士族永井久太郎娘
津田梅子   八歳  東京府士族津田仙娘

  これは明治4年(1871)に新政府、北海道開拓使が米国に送った五人の女子留学生の名簿である。新しい国家の建設には女性の教育指導者の育成が不可欠だとして、黒田清隆が中心となって留学生を募集したのである。
  注意深い人ならば、これらの少女の出身がどうも薩長土肥と関連が薄そうだということに気づくかもしれない。実際たとえば三番目の山川捨松は会津藩家老の娘である。後年、薩摩の大山巌の妻となり鹿鳴館の貴婦人と称されることになるが、この結婚は、なにしろ大山が官軍の将として会津陥落のときは城に大砲を撃ち込んだ張本人だから、さすがに山川家では難色を示したという。「捨松」なんてひどい名前のようだが、これは留学に際して幼名の咲子を母親が改めたものだ。「捨てて待つ」という意味をこめて。
  もう一度、津田梅子の年齢に注目して欲しい。これは数え年齢だから、実際の年齢は七歳、今で言うと小学校の二年生である。
  七歳、八歳という小さな子どもに、お前は遠い異国へ勉学に行かねばならないと、どのような思いで親は諭したのだろうか。薩長出身者のように縁故では有力な地位を得ることのできない旧幕側の必死の念をここに見ることも可能だろう。同時にそれくらいの気概をもって生きていた日本人がかつてはたしかにいたのだと、眩しいような、また誇らしいような気持ちもおこる。
  なお、この五人の少女のうち吉益と上田の二人は体調を崩して早期に帰国、結局、山川捨松、永井繁子、津田梅子の三人が留学を全うした。ちなみに永井繁子の実兄は三井財閥の益田孝である。捨松と繁子は、後年、それぞれの立場から梅子の女子英学塾(津田塾)を支援する。

  大庭みな子さんが本書を執筆した経緯はこういうものだ。
  1984年のある日、津田塾大学本館のタワーと呼ばれる屋根裏部屋でトランクからはみ出していた英文の大量の手紙をたまたま学生が見つけて、大学当局に届け出る。数百通におよぶこれらの手紙は、津田梅子が米国で育ての親になってくれたランマン夫人に三十数年にわたって書き送った書簡であった。なぜこうしてまとまって保存され、そしてそれがすっかり忘れられていたのかという面白い話も本書には書かれているが、いずれにせよ、これを使って梅子のこれまで明らかになっていない姿を書くのは卒業生のあなたがふさわしいと大庭さんは朝日新聞の関係者からほのめかされ、この膨大な書簡のワープロおこしされた資料を託される・・・・

  この評伝の魅力はなんといっても津田梅子という人物の生き生きとした姿、行動を知り、新鮮な驚きを感じることだ。津田塾のサイトにアクセスすると。梅子の写真を見ることができるけれど、人に好かれそうな、機敏さと活力に満ちた女性であったことがうかがえる。世間には見ているだけで思わず応援したくなるような頑張屋さんがいるが、おそらく彼女もそういう女性の一人だったのではないかと思う。実際、梅子の女子教育への夢は無数の善意や莫大な資金援助がなければ到底実現できないものだった
  しかし、梅子はただ愛嬌のある人気者というだけでは決してなかった。
  たとえば、こんなエピソードがある。
  二度目の米国留学で梅子が専攻したのは生物学であった。

・・・・カエルの卵に関する論文を1894年の英国の「マイクロスコピカル・サイエンス」誌にモーガン教授と共同で発表している。T・H・モーガンは1933年、遺伝学の業績により、ノーベル賞を受けている。彼は後年梅子について、その才能と人柄を称賛し、「あの優秀な頭脳は――教育者として立つために、生物学ときっぱり縁を切ったわけだ」と語った。(p.26)

  伊藤博文との関わりも興味深い。
  冒頭にあげた梅子たち五人は、有名な岩倉使節団の一行に伴われて渡米したので、そのときのメンバーである伊藤博文にとっても、この幼い少女たちの姿は感銘深い記憶だった。それから十一年後、十八歳の乙女となって帰国した梅子に伊藤はなにかと目をかける。夫人と娘の英語の家庭教師という扱いで支援をするのだ。当時の伊藤は四十三歳、憲法の起草というもっとも重要な事業に心血を注いだ時期である。伊藤というのもなかなか面白い男で、梅子とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の梅子と国の将来について語り合うのである。まあ、伊藤からみれば梅子は同じ日本人の婦人というよりは、外人顧問のつもりであったかも知れない。
  ただし梅子はこういう伊藤の優れた気質(後述する)は評価しながら、さすがに妾を次々につくる元老たちの姿には辟易した様子でランマン夫人宛の書簡でも繰り返し、かれらは不道徳ですと書き送っている。
  伊藤がハルビンで暗殺されたとき梅子は英文で追悼文を書いて発表した。この文章がじつにいい。少し長いが本書より引用する。大庭さんも書いているように、この文章は伊藤の思い出を語りつつ同時に、梅子の気質もあらわしたものだと思うからだ。

伊藤公は人間性に深い関心を持っていた。彼はその人の身分にかかわらず、訴える力を持つ人間の言葉に耳を傾けた。召し使いであろうと、女子供であろうと、耳を傾けるに価する意見を吐く者に出遭えば、追いかけてでも行って、その言葉を聴いた。後年、総理大臣といった地位についてからは、こうした機会はだんだんなくなっただろうが、少なくとも私が彼の家に寄宿していた頃はそうだった。そして、この態度こそが、政治家伊藤博文の魔法の杖ともいうべきものだった。彼が周囲の人間たちをあれほどに動かし、そのエネルギーを結集できたのは、まさにその魔法の杖による威力だった。
彼と語り合った過去の日々に聞いた伊藤公の言葉の中で、ひときわはっきりと心に刻みこまれているものがある。「わたしは宗教的な人間ではなく、未来の生活に信仰心といったものは持っていない。生も死もわたしにとっては同じようなものだ。これから先、何が起こるかを怖れたことは一度もない」といった言い方で、彼は自分を宗教心のない人間だと決めつけていたが、わたしに言わせれば、彼は、何と言ったらよいか、わけのわからない力(生命の?)といったものを信じていた。彼の多くの言動にはしばしば、信仰と名づけたくなるようなそうした途方もない神がかり的なものがあった。」(p.152)

  内容の紹介があまりに長くなった。
  じつは、この評伝のもうひとつの魅力は、大庭みな子という作家が単なる評伝の語り手を超えて自分のことを語っているからだとぼくは思う。百年前の津田梅子と自分を重ねあわせて、思わず自らの青春の夢や志をほとんど無防備にさらす瞬間がところどころにある。それは、作家の梅子に対する愛情、尊敬、共感がそうさせていることが、あまりに明白でしかもその共鳴作用が美しく、ぼくは何度も目頭が熱くなった。
  一読をお勧めする。

2001年11月17日記

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2004/10/19

推理小説仕立ての名誉回復劇


花衣ぬぐやまつわる・・・・・・・ わが愛の杉田久女 田辺聖子 集英社 1987初版 1988第10刷
花衣ぬぐやまつはるひもいろいろ
谺して山時鳥ほしいまま
足袋つぐやノラともならず教師妻

 多少なりとも俳句に親しんだほどの人で、これらの句を知らないということはまず考えられない。それほど杉田久女という俳人は何十年に一人という逸材には違いないのだが、しかし、俳句愛好者の間での久女のイメージはどんなものだろう。
 ホトトギスを舞台に素晴らしく印象的な句を詠みながら、その奇矯な振舞いから虚子に同人を除名され、晩年は不遇のうちに死んだ女流俳人、といったところか。いや、もう少し突っ込んで調べると、いつもどこか底意地の悪いゴシップの種にされ、蔑まれ、嗤われているようなところがありはしないか。
 たとえば、本書に紹介されている戸板康二氏の記述を引いてみる。

「ライバルに対する意識は旺盛でつねに相手の俳句を注視し、思いつめてかな女の句が久女より多く誌上にのると怒り狂い、『虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯』という句をわざわざ書いて送ったりするが、かな女のほうは『呪ふ人は好きな人なり花芙蓉』と返句する。軽くいなされて久女はカッとなった」(泣きどころ人物誌──高浜虚子の女弟子)

 どうだろう、みるからに厭うべき芸術的虚栄心と己惚れのかたまり、エキセントリックな行動で周囲を困惑させる困り者という久女の姿がここにはある。じつは田辺聖子さんも、編集者から久女の評伝の打診を受けたときに、あまり好きになれそうな人ではないから、という理由で最初は断ろうとしている。それはそうだろう。
 ところが、すこし調べて行くうちに、多くの久女「伝説」がじつはまったくの作り話であることに田辺さんは気づくのだ。(このことは本書でもくり返し述べられているが、久女がその生涯の大半を送った小倉の久女研究家、増田連氏の功績である)

 たとえば、この長谷川かな女との確執のエピソードだが、久女が『虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯』を雑誌「俳句研究」に発表した(直にかな女に送ったのではない)のは昭和十三年、虚子がなんの予告もなくホトトギス誌上で同人除名を申し渡したあとのこと。ところが、かな女の『呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉』(戸板さんの「花芙蓉」は引用誤り)はなんと大正九年の作品なのだ。まあ、このかな女の句が夫の零余子を念頭に置いたものかどうかはともかく、少なくとも久女を軽くいなした句で「ない」ことだけは明白だろう。
 もちろん、そういう前後の事実関係というものは些末なもので、仮にフィクションだとしても、これによって久女とかな女の確執という「真実」がわかりやすく読者に伝わればいいのでは、という反論もあるかも知れない。だが、果たしてそうだろうか。必死な振舞いをする人間に対して、どこか困り者、もてあまし者というレッテルをぼくらはいまでも貼るきらいがある。俗世間のことなかれ主義と権威におもねる卑しさが偏見を助長し、こういうゴシップを生んでいるのではないか、という「恐れ」をもしかしたら人は持つべきではないだろうか。

 本書が驚くほどスリリングなのは、たとえばこうした作り話がなぜ流布し、いつのまにか定着したのかということを、明解にしかも遠慮なく書いているからだろう。誰が久女を追込みその精神をずたずたにしたのか、本書は一種の推理小説仕立ての名誉回復劇でもあるかのようだ。
 松本清張の『菊枕』、吉屋信子の『底のぬけた柄杓』(いずれもぼくは未見だが)という久女をモデルにした作品もここで登場してくるが、(おそらく薄々と気づかれるように)最後に大きくくっきりと立ち現れてくるのは虚子という人物の像の不気味さである。
 第十五章における田辺さんの、静かで澄明だが、しかし揺るぎ無い「瞋恚」にぼくはこころをゆさぶられた。

本書は、1986年の女流文学賞受賞作品である。

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日本語を奪う者


書誌データ(私の読んだ版) 東京セブンローズ 井上ひさし 文藝春秋 1999初版
  今朝はやく、角の兄が千住の古澤家へ結納を届けに行つてくれた。兄に託したのは、このあひだ、團扇二百五十本と物々交換で手に入れた袴地一反、それに現金五百圓である。材料不足でしばらく團扇を作つてゐないわが家としてはずいぶん張り込んだつもりだし、これぐらゐが精一杯のところだ。
 本書はいきなりこのように始まる。ご覧のように漢字はいわゆる正字で、仮名遣いは旧かなである。これが、じつに見た目に美しい。頁を開いて眺めているだけで楽しいのだ。 やがて読者は、この文章が、東京は根津宮永町の団扇屋主人、山中信介、五十三才が生き甲斐にしている日記そのものであることを知ることになる。

 日記は昭和二十年四月二十五日から始まり、戦時下の東京市民の日常が事細かに描写される。本書の第一の見所だ。いや、もしかすると後半の疾風怒濤の主人公のドタバタより、この前半の、おそろしく瑣末な事実に、これまた徹底的にこだわったねちねちとした前半が本書の値打ちかもしれぬ。

 冒頭の引用にあるように、戦局もいよいよ末期的な段階にいたって、しかも東京大空襲のあとにもかかわらず、主人公の一家は長女の祝言を控えているのである。こういうあたりに、戦時下でも人は日常を生きていたという当たり前のことがわかって、ぼくらはいまさらながら驚くことになる。

 日記は、毎日切れ目なく続き、主人公をめぐる縁戚関係やご町内の人間関係が徐々に読者に明かされるわけだが、この切れ目なくというのがくせもので、ここを作者はじつに巧くつかう。つまり、主人公は日記狂だから、よほどのことが無い限り、八月十五日に向かって毎日日記が進んで行く――はずなのだが、ここで読者は見事に肩透しを食わされるのである。ぼくは思わず、「お見事!」と脱帽した。

 さて、敗戦を境にして信介はなぜか警視庁とGHQに関わりが出てくる。一介の団扇屋主人風情がなぜそんな戦後の占領政策の裏側を覗くことになるのか。ここでも作者は周到な手管をつくし、読者を丸め込んでしまう。(お見事!)そして、いよいよここからが、やっと本書のメインテーマになるのだ。日本の国字を漢字からローマ字に改めるべしというGHQ民間情報教育部の高官の方針をいかに挫くか、というのがそれ。国敗れて国語も奪われてよいものか。ここで敢然と絶対権力のアメリカ占領軍に立ち向かうのが、七人の侍ならぬ、東京セブンローゼズであったのだ、というオハナシ。いや、面白い。

 この東京セブンローゼズ大奮闘は荒唐無稽だと判るが、しかし、舞台となる状況はリアルである。じつは、この国字から漢字を廃してカタカナ表記にし、いずれローマ字にというアイデアは、なにもGHQがこのときはじめて押し付けようとしたものではない。本書のなかにも、「維新以来、前島密の漢字廃止論を皮切りに、南部義籌のローマ字論、大槻文彦らの仮名論など日本語改造論は陸続として現れ、枚挙にいとまもないほどである」と書かれているが、この論は、つい最近までほかならぬ我が国の文部省の国語政策のひとつの立場であった。

(このあたりのくわしいことは、吉田直哉氏の『私伝・吉田富三 癌細胞はこう語った』に詳しい。ついでに少し脱線すると、この問題に対して、日本語は漢字仮名交じりの表記でこれからも行くべしという暗黙の合意ができた、あるいは、もう漢字廃止は主張する値打ちがなくなったのは、国語学者の理論上の勝利によるものでもなく、ましてやぼくらの国語意識が高まったからでもないように思う。要はワープロなのである。ローマ字入力をしながら、表記はタイプライターのように漢字仮名交じり表記の文章をどんどんつくっていく機械が出てしまったからなのだと思うんだなぁ)

 結論として。
 本書は国語についてのメッセージを強烈に含んでいる。国語をめぐる冒険小説だからというわけではない。じつにこの本の正字、旧かなの表記そのものがメッセージなのだ。どうだろう、この見た目に快く、いつまでも眺めていたいような日本語の美しさは。これを捨てて、カタカナ表記やローマ字表記にした方が、ほんとうにぼくらを豊かにする道だと思うかい?――これこそ作家井上ひさしが780頁すべて使って(なにしろすべての頁がそういう表記なんだもの)ぼくらに問い掛けているものなのだと思う。

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スパイ小説への傾斜を深めるハリー・ポッター


書誌データ(私の読んだ版)

HARRY POTTER AND THE ORDER OF THE PHOENIX
J.K.Rolling
ARTHUR A. LEVINE BOOKS (2003)


2003年6月21日、厳格に指定された発売日の当日、欧米の書店内で、買ってもらったばかりのハリー・ポッター最新作をかかえて座り込み、そのまま夢中で読み出す幼い子どもたちの姿がテレビで流れ、大人たちの微笑みを誘った。

 しかし、意外にも、ハリー・ポッター・シリーズは(とくに本書は)血や暴力や死の影に脅かされる要素が結構ある。第一作目の商業的な成功と、映画化によるこれまた商業的に管理され増幅されたイメージの洪水が、このシリーズを「無害」なものに見せかけているのは事実だが、それはこの作品の本質とは無関係のことだ。大人社会が、無害なお伽噺を幼い人たちに与えたつもりで、子どもが本を読むのはよいことだと満足気に眺めているとすれば、それは大人の方がはるかに無邪気だということを示しているにすぎない。子どものための文学というジャンルに入れるにしては、このシリーズはいささか暗黒への嗜好が強い。

 だが、一方でこのような暗黒面を描くことも文芸の重要な役割だ。世界は善意だけでなりたっているわけではない。拷問や殺人は探せばお伽噺のなかにいくらでも見出せる。描き方がユーモラスだというだけで視点を変えるととんでもない残酷物語になる例はいくらもある。つまり、ハリー・ポッターの中に子どもに害を与えるような毒があるとすれば、それは逆説的な言い方になるけれど、文芸として見るべきものを含んでいるということになるのである。

 そもそも魔法や魔女という概念が反キリストであるという立場から、このシリーズを有害図書にしたがる人々もいるらしい。これは論じるにも足りないが、自分の子どもが幼いうちはこのシリーズを読ませたくないという人がいても、ぼくは驚かない。しかし、こういうことは言えると思う。たとえ、親が嫌がっても、読む子は読むだろう。逆に、馬鹿らしい宣伝と流行に煽られて読み始めても読みとおせない子は途中で投げ出すだろう。なにしろ、この分厚さである。

 さて本書は、これまでのハリー・ポッターの世界を、読者のために一旦整理してくれるようなところがある。その手際は鮮やかである。とくに読み返さなくても、(もう大半は忘れているのに)ああ、そういえばそういうことだったな、と物語の流れを振り返ることができるのだ。また、ハリーにまつわるいろいろな謎や疑問に一定の合理的な説明を与えてくれる巻でもある。たとえば、ハリーはなぜあの嫌なダーズリー一家のもとに毎年帰る必要があるのか、なんて素朴な疑問にもちゃんと答えが用意してある。まあ、納得できるかどうかはともかくとして。

 一方で、読者は15歳になったハリーに少々戸惑うことになるだろう。苛立って、ロンやハーマイオニーにやたらに突っかかり、ある場面では部屋中のものを壊してまわり、手のつけられないほど荒れる少年となる。(ここが本書の見所だが)この主人公は本書ではもはや、決して大人の夢見る理想的な「よい子」ではない。これが実際の15歳というものだろう。子どもをもつ人の実感かもしれない。(作者にはふたりの子どもがいる)

 具体的なストーリーに触れる気は全然ないが、今回は最初から最後まで読者はじりじりと我慢を強いられる感がある。しかも、そうでありながら、ぐいぐいと読まされてしまう牽引力があるのには感心する。読み出したらなかなか止められないのだ。作者の力量もさることながら、これは物語の核になる部分がよほどしっかりしていたために、物語それ自身が生き生きと動き始めているのだろうと思う。

 作者の力量といえば、このシリーズでぼくが見事だと思うことのひとつは登場人物の生かし方だ。本書でもネヴィル・ロングボトムや占いのトレローニィ先生の扱いはつくづく巧いと思う。こういった、誰からも(読者からも)取るに足らないと思われているようなキャラクターが、じつは物語の重要なファクターに絡んでくるというかたちは、最初から構想しているのか、あとから巧くつけ加えていくのか興味がある。(ぼくは後者ではないかという気がするが、どうだろう)
 作者自身が、この作品の成功までは社会的に「取るに足らない」人物だった(ドキュメンタリーなどで見る限り少なくとも本人はそう感じていたようだ)ということと、こうしたキャラクターの生かし方との間にあるいはなにか関係があるのでは、なんて想像をしてみることも楽しいことではないだろうか。

 さて、巻を追うごとに厚さを増して行くシリーズ、もうこうなったら毒くわば皿までという心境に愛読者はなっているだろう。本書の厚さは870頁。ならば6巻は900頁、最終7巻は1000頁で、どんと来い、という気分ではあります。やめてほしいけど(笑)


2003年8月2日記

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2004/10/18

読後、二三日は気になって眠れない小説


書誌データ(私の読んだ版)

LIFE OF PI
YANN MARTEL
Harvest Books; (2003)



「この話を聞けば君も神を信じるようになるよ」
 南インドの都市ポンディシェリーでこんな風に話し掛けられたのがはじまりだった。
 むかしこの街に動物園があった。動物園の持ち主には息子がいて、この息子が何ヶ月も太平洋を漂流したときの話なのだという。

 第二作目の小説が不評でくさっていた本書の著者は、興味を抱いて、さっそくその生存者に会いに出かける。彼の名前はパイシーン・モリトール・パーテル。(注)パイと名乗っている。円周率の「π」と同じ発音だ。トロント大学で動物学と宗教学の学位を取って、いまはカナダ在住。彼が話してくれたのはなんと227日にもおよぶ漂流の驚くべき物語だった。
 また、この遭難事故は1977年に起こったのだが、著者は、救出のあとパイの事情聴取にあたった日本の運輸省の係官(沈没したのが日本の船会社の貨物船だったので)にも連絡をとって、幸運にもそのときの録音テープを入手することができた。
 こうして、この本は出来上がったのだ、というところまでが本書の「著者覚書」(もちろんこれも小説の重要な伏線になっているのだけれど)である。

 そしていよいよ小説が始まる。こちらは三部構成になっている。第一部が全体の三割、第二部が六割、第三部が一割という配分の見当。

 第一部は、ポンディシェリーの動物園の経営者一家を中心にして、動物の行動科学や宗教をめぐってのいささか衒学的あるいは哲学的な見解がユーモアをまじえて披露される。
 なぜ主人公がパイシーンではなくパイと呼ばれるようになったのか。(もともとこのパイシーンという名前、パリ・オリンピックの競泳プールの名前から取られている、なんてどうでもいい細部がおかしい)
 子供のくせにやたらに知的なパイはなぜ宗教にとりつかれるのか。ヒンズー教とキリスト教とイスラム教を同時に信仰する(!)ことがなぜいけないのか。(この子は犬が蚤をひきよせるように宗教をひきよせる、と父親は嘆く)
 動物を擬人化することの誤りとその危険性について。いかなる技法で猛獣使いは動物を服従させているのか。(これも、第二部の重要な伏線になっている)

 第二部は本書の大半を占める。パイ少年自身の視点から、信じられないような漂流生活の細部が時系列に描かれることになるのだが、ここではその粗筋は一切書かない。ぼくらはひたすら、少年の勇気、機転、知力に驚嘆しながら、上出来の海洋小説、冒険小説としてわくわく楽しく読めばよいのである。『老人と海』や『ロビンソン・クルーソー』に言及した書評もあるようだが、たしかにこの第二部だけでも十分に娯楽小説として堪能できる。ただこの第二部の最終章あたりで、読者は「あれれ」と戸惑うことになるだろう。(ぼくは念のために何度か読み返した)

 第三部は、「著者覚書」に出てきた日本の係官による聴取記録と調書からなる。これまたユーモラスな部分だが、第二部がパイ少年の視点による遭難物語という小説構造の一番表層だとすると、この第三部は、もう少し下の層の小説構造があきらかにされ、読者はめまいに似た驚きを感じるとともに、それから二、三日は気になって仕方がない不安にさらされることになるのだ。

 このように、本書はなかなか一筋縄ではいかない現代小説だ。先に、三部構成になっている、なんてことをわざわざ書いたのは、この本がまったく巧妙に仕組まれているからだ。章立てにしてもちょうど100になるようにしてある。
 パイ(π)3.14・・・は永久に終わらない数字。
 しかし彼の物語はちょうど100に分割されるのである。

 最新の小説理論なんてものにはあまり興味はないのだけれど、どうやら物語の構造の中で語り手が変わり、語り方が変わり、そうすることで語られている出来事の図柄が根本から変わることで、読者が絶対だと思っていた(あるいは思わされていた)世界が揺らいでいく、という過程が面白いらしい。いや、「らしい」というのは無責任な物言いだ。これが成功すると、たしかに強烈な印象を残す。
 そしてこういう世界が変わる体験というのは宗教の体験の寓話になる。(そのことがじつは本書の隠れた主題だと思う)
 しかし、ぼくの見るところ、本書の成功は、そういう仕掛けの面白さではなくて、やはり一番上にある「語り」(本書では第二部がその典型なわけだが)が比類なく面白いことに主因があると思う。
 たいていの実験小説なんてものは、普通の小説愛好者には無用なものだし、そういう仕掛けだの構造だの「なんたら理論」だのいうものは、本物の小説家にとってはじつはどうでもいいものだ、とぼくは思っている。
 ディッケンズがいまいれば、もしかしたらポストモダーンと呼ばれるようなしつらえの小説を書くかも知れない。しかし、その小説が面白かったとすれば、それはポストモダーンであるからではなく、ディッケンズの「語り」であるからだと思う。
 小説家の才能とはそういうものだよ、きっと。


2003年10月12日記

注)パイの本名は Piscine Molitor Patel と書く。Piscine はフランス語でピスィーヌ(水泳プール)なので、ほんとうはカタカで書くとすればピシーンになるのだろう。感想ではあえてパイシーンとしたのだが、さて翻訳はどうされるかしら。

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2004/10/16

息をのむような傑作『THE BLIND ASSASSIN』


書誌データ(私の読んだ版)

THE BLIND ASSASSIN
MARGARET ATWOOD
Anchor Books; (2000)


静かな声で男が女に語る。たとえばこんな物語──

 その惑星には三つの太陽が輝き、五つの月がめぐっている。都市国家がある。王、貴族、神官、商人、そして奴隷たち。強大な貴族はお笑い種とばかりに弱小貴族を破産に追い込み、その子供を奴隷に売り出すように仕向けて遊んだりもする。かれらの富の目安は、奴隷の子供が根を詰めて織り上げる絨毯だ。あまりに細かな作業なので一枚ができあがるまでに幾人かは視力を失う。かれらは財産である絨毯の背後に何十人の盲目の子供がいるかで自分の富を競う。盲目になった子供は、ある者は売春窟へと払い下げられる。かれらの繊細な指使いが絶妙であるという理由で。別の者は、暗殺者へと仕立てられる。やはりその鍛えぬかれた指の技が超人的であるからだ。かれらは「盲目の暗殺者」と呼ばれる・・・

 胸の悪くなるような話だろうか。

 パルプマガジンへ売る小説のために思いつくままプロットを組み立てて語っている男は、もしかしたらコミンテルンの指令を受けた組合活動のオルグかもしれない。ときはスペイン内戦、ファシズムの嵐が欧州を吹き荒れている時代。ところはトロント市内各所。男の胸に顔を埋めて聞き入っているのは、資本家階級の一族の女だろうか。すべては曖昧だ。だが、これは、本書の一番表層にある「語り」に過ぎないなのである。なぜなら、この居所を転々として官憲の目を逃れて暮らす男と金持ち女の密会物語は、ローラ・チェイスという25歳で死んだ本書の主要な登場人物の処女作にして最後の作品(そして死後のローラに文学的名声をもたらした傑作)ということになっているからだ。

 もうすこしきちんと説明しよう。

 この本は、大まかに言えば二階建ての構造になっている。一階にはアイリス・チェイスという老女の手記、メモワールがおかれ、二階にはアイリスの妹ローラ・チェイスが書いた「盲目の暗殺者」という小説の何章かが置かれる。さらに、ところどころに新聞記事や書簡が挿入され物語世界を外側から補強する。読者は最初、この一階部分の「語り」と二階部分の「語り」の距離に戸惑う。なぜこんなかけ離れた物語が平行して進行しているのか、その構造がよく見えない。もちろん、やがてはひとつに溶け合っていくことは誰にもあらかじめわかっている。だから、ふたつの物語がいつどんな風に収斂していくのか、読者は予想し、そこに好奇心をつのらせるだろう。
 しかし、最後にすべてが明らかにされたとき、ぼくらはそんな謎解きはこの物語にとって、さほど重要なことではないと気づくのだ。

 アイリスはこう記す。

Nothing is more difficult than to understand the dead, I've found; but nothing is more dangerous than to ignore them.

 本書は美しい二人の姉妹の愛の物語であり、献身と裏切りと贖罪の物語である。カナダの地方都市の名家の勃興と繁栄、凋落と崩壊の物語である。戦争と革命の世紀のなかで切り裂かれた男たちの栄光と挫折と失意の物語である。死者と共に生きる現代の老女の悔恨の物語である。
それらが美しい抑制された文章で綴られ最後の最後まで読者をとらえてはなさない。そうして読み終えたあとでは、静かだが深い感動が、まるで揺り戻しのように何度もやってくる。
 素晴らしい傑作。
2000年度ブッカー賞受賞。

まったくの蛇足
冒頭の悪徳にみちた異次元世界の記述をもういちど注意深く読んで欲しい。なんだこれは、太陽がひとつ月がひとつの惑星と、基本的には全然変わらないじゃないかとは思わないだろうか。少なくともぼくはそう思った。語り手の男がそのつもりだったことは言うまでもないだろう。


2003年11月22日記

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2004/10/11

オーストラリア人なら誰でも知ってるケリー・ギャング


書誌データ(私の読んだ版)

ケリー・ギャングの真実の歴史
(原題: TRUE HISTORY OF THE KELLY GANG)

ピーター・ケアリー著
宮木陽子訳
早川書房 (2003)


 オーストラリアのブッシュ・レンジャーであるエドワード・ケリーのことは、日本人はもちろん英米の人間でも知っている人は少ないが(ぼくはもちろん知らなかった)、オーストラリア人でかれを知らない人はいないらしい。たまたま、オーストラリア人に英語を教わっているので、「そいつはホントかね」と訊いてみたら、「当たり前だ、ネッド・ケリーを知らない奴なんて考えられんね」という。どうやら本当らしい。

 エドワード・ケリー、通称ネッド・ケリーは1854年にヴィクトリア植民地(現在は州)に生まれた。

 オーストラリアは、いまにいたるまで実質的には移民によって成り立っている国だが、この当時はごく大雑把に言えば、植民地の統治機構と組んだ大規模農場の金持ちが一方におり、他方には流刑囚を先祖にもつ植民地人の貧乏人がいた。そして、金持ちは法律を後ろ盾によい土地をどんどん手に入れてますます金持ちになり、貧乏人は法律によっていつも不利な条件を課されて荒れた土地に追いやられ、そして食い詰めて、せっかく開墾してなんとかまともにした土地ややっと育て上げた家畜をいつも金持ちに取り上げられるのだった。まあ、基本的にはいまだって世の中の仕組みは同じなのだが、当時はこれがむき出しの露骨さであったから、貧乏人の境遇たるやいまでは信じがたいほどの惨めさであった。

 そこでネッド・ケリーである。
  彼の父親はアイルランドの流刑囚。母親の一族も同様で、なにをやろうとしても警官がやってきて嫌がらせをする。貧窮家庭のネッドは学校でも教師の差別に堪えるしかない。次々に生まれる幼い子供たちを抱え、餓えて極貧生活にあえぐ両親。なんとか母ちゃんを喜ばせようと、よその子牛をこっそり屠殺したネッドだが、結局それが父親の犯行とされて父は監獄へ。長男として一家を支えるために必死で働くネッド、このときわずか十二歳。まったく涙がでるようなけなげさ。
 だが、もちろん、世の中そんなに甘くはない。結局、ネッドは愛する母ちゃんに、まるで売られるように(もちろん母ちゃんだってネッドを愛しているのだが)ブッシュ・レンジャーのハリー・パワーの手下にさせられてしまうのである。

  ここでブッシュ・レンジャーという言葉が出てきた。「自然環境パトロール」なんかと勘違いしてはいけない。レンジャー戦隊は正義の味方が日本のよい子の常識だが、残念ながらオーストラリアのブッシュ・レンジャーは、大草原の山賊である。これを要するにアウトローと称する。

 さて少年時代に山賊の弟子となったものの、なんとか懲役を終えて青年となったネッドの望みはささやかなものである。母ちゃんと妹弟たちが真っ当な暮らしができるようにすること。わずかにこれだけ。ところが、いろいろあって、そんなささやかな望みさえかなわない。それどころか、官憲の嫌がらせやらなにやらで、とるにたらないような事件からネッドは逃亡者となり、みせしめのように母親が刑務所にぶち込まれてしまう。貧乏人には、法も味方してくれない。ならば、正しいのはどっちか、どちらが本当に公正なのか、とことん争ってやろうとネッドは決意する。
 こうして、ネッドはオーストラリア植民政府で最大のお尋ね者になっていくのであります。

  いやあ、面白い小説だ。 ほとんど、全編がネッド自身が、生まれてきた娘にあてて逃亡中に書いている手紙(いろいろな紙をつかって書いた)という仕掛けになっており、訳者によれば、学校にろくに行けなかったネッドが一所懸命書いた文章なので文法も綴りもかなり破格な文体らしい。ところが、この文章がまた泣かせるのである。
 たとえば、後半で恋人が自分の子をみごもったことを知ったときの一節。

「おまえが生まれるとわかったそのしゅんかんからおまえはおれの未来になった。おまえはおれの生きがいになったのだ。」(395頁)

 なんてところを読むと、どんな男だって、ネッドの背中を黙って叩いてやりたくなるんじゃないだろうか。

 もちろん、この娘にあてて書いた手紙という仕掛け自体が虚構なわけだが、こういう手紙がいまに伝わった経緯が最後の方に出てきて、このあたりのストーリーは巧いなあと感心する。とくに、最後の方で出てくるシェイクスピア(『ヘンリー五世』)は、英語圏の文学の伝統をきちんと物語に流し込むはたらきをはたしていて、うならされたなあ。

 本書は、2001年のブッカー賞、コモンウェルス賞のダブル受賞作。




追記
 本書は感想で述べたようにたいへん素晴らしい小説で、読後に大きな感動を与えてくれるということでいえば、その翻訳は(上記のように変った文体の雰囲気も伝えるかなりむつかしいものだったことから考えても)上出来のものだと思う。
そういう評価をした上で、しかし、二点だけ疑問が残った。(文体の問題ではではなく、単純に単語の問題なのだが)
 ひとつは、371頁、ネッドの仲間のジョー・バーンに対して、ベシーという娘が逃げ出すように説得する場面。もう手遅れだよというジョーの言葉を受けて──
そんなことないよ。あたしの父さんは警官よ。
ずっとむかしアイルランドでだろう。
だけどいまも英語だもん。

  ここの「英語」というのがよく意味が分からない。あるいは「英国人(english)」だろうか。*1

  もうひとつは、「炭坑夫」という言葉。具体的には、112頁「シナ人が炭坑夫であることはまちがいなかった」、374頁「炭坑夫が鉱脈にそっていくように」、403頁「炭坑夫の小屋が見つかった」などのようにわりと頻繁に出てくるのだが、ここでいう「炭坑夫」は石炭を掘る人夫のことではなくて、ちょうどこの時代(のちょっと前)におこったオーストラリアのゴールドラッシュのminer「砂金堀り人夫」のことではないかなと思うがどうだろうか。

2003年12月20日記す



補注*1
その後、371項の原文について、英語で読まれた方にご教示いただいた。
   
Isn't it true but my own da's a policeman?
That were in Ireland long ago.
Its still the English language he read me out the warrant it says
DAN KELLY AND NED KELLY it says OTHER MEN UNKNOWN.

ポイントは逮捕状が「ちんぷんかんぷん」(It's Greek to me)じゃなくて、ちゃんとわかるフツーの言葉(The English language)だったということのようだ。

2004年1月13日記す

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2004/10/07

密告者Nを探して(承前)

昨日の続きを書く。
「N」が誰であるかは調べていくうちにわかった。「旗艦」に関係した俳人のうち「N」というイニシャルの人物をリストアップし、京大俳句事件で逮捕された人を消していけばいいのである。そうすると数人がのこるが、このなかで韻律問題をさかんに論じた人物を特定すればいいのだ。図書館で調べていくうちに、ははあ、この男だな、とわたしにはわかった。
しかし、じつはそんなことをするまでもなかったのだ。
昭和俳句史関連の本をテーブルに積み上げて目を通していくうちに

『体験的新興俳句史』古川克巳(オリエンタ社/2000)

という本にぶちあたった。出版年は2000年だが復刻版の編集とおぼしい内容。どこからが著者の意見で、どこからが引用なのか、わかりづらい本だが、ぱらぱらと読み進めていくと、「特高に狙われた京都俳句界の実態」という題名の文章が目にとまった。副題はふたつあり、「京大俳句事件のユダの真相は」と「新興俳人Nのヌレギヌの謎は」である。(p.381)
このなかに、わたしの推定した人物が、「N」であることがすでに明らかにされていた。

ただし、いろいろ考えて、ここでその人物の名前を書くことはしないことにした。
理由はふたつある。

ひとつは、単純なことで、名前を聞いてもたぶんほとんどの人が知らないだろうからだ。「えっ、あの俳人だったのか」というような発見や意外さはないのだ。だから名前を明かすことに意味はほとんどない。(これは逆に言えば、この人物が俳壇の記録からきれいに抹消されたということを意味するのかも知れない)

もうひとつは(こちらの方が重要だが)上記の『体験的新興俳句史』であきらかにされている文脈である。副題をみれば想像がつくように、これは「N」が特高の密告者であったという風聞自体がヌレギヌだという立場なのである。だから、興味本位で名前を書いてしまうことにはやはり躊躇せざるを得ないのだ。

──というわけで、もし「京大俳句事件」&「N」なんてキーワードで検索をしてここに辿り着いた方がいらっしゃれば、申し訳ないが、名前は自分で調べてくださいね。
どうしても知りたい場合は、上に書いたようなやり方をすれば、わかる筈です。
『体験的新興俳句史』は、たぶん自費出版に近いような書籍みたいな気がしますので、よほど大きな図書館でないと置いていないかも知れません。

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密告者Nを探して


『やつあたり俳句入門』中村裕(文春新書/2003)は昭和初期の新興俳句運動へのシンパシーに満ちた好著だが、そのなかに京大俳句事件の詳細を記した本として二冊が挙げてある。
『昭和俳壇史』村山古郷(角川書店/1985)
『新興俳句表現史論攷』川名大(桜楓社/1984)
の二冊である。

個人的には、この京大俳句事件、これまでどうも奥歯にものがはさまったようなもどかしさがあった。それは、はっきり言えば、京都府警特高部の中西警部という人物に、新興俳句内部の情報を伝えていたとされる密告者「N」がいったい誰なのか、ということである。このあたりのことについては、西東三鬼の『俳愚伝』でも名前はきっちり伏せてあるのだが、当時から知る人には(つまり俳壇のインサイダーはみんな)公然の秘密であるとされているわけだ。こちらはフィクションだが、俳壇の内部の聴き取りもかなりした上で発表されたという、五木寛之の中篇小説「さかしまに」にもこのあたりのことがかなり思わせぶりに書いてある。で、余計に、これはいったい誰がモデルなんだと、半端な知識を持っているばかりに悩むことになる。

まずちょっと調べればわかることは、この時期に小野撫子(ぶし)という異常な人物がいたということだ。以前、『平畑静塔対談俳句史』(永田書房/1990)のことをこのBLOGでも書いている。あの記事にすこし補足しておけば、小野撫子は小学校卒ながら当時は日本放送協会の要職にあった人物である。いろいろ、面白いネタはあるのだが、いまは小野撫子はおく。

さて丹念に俳句総合誌を読む人間ではないので、まあ、このあたりのことはどこかに書いてあって、俳句に詳しい人には別に珍しい話でもないのかも知れないが、いかに昭和15年の治安維持法下のおそらくは脅迫強制された出来事だったろうとは言え、特高の密告者だったというのは、名指しで書くような(その人が生きていればもちろん、すでに亡くなっていても家族の名誉ということもある)ものではないだろう。それはわかるのだが、すでに64年も前の事件であり、当時の関係者だけでなく、その人たちから直接に証言を聞いていた世代もこの世を去っていく時期に来ているので、このまま公式に記録されないままだと、わたしのような部外者にはわからないことなんだろうか、と思っていたのだ。

そこで、上記の二冊にその「N」の名前が書いてあるかと思って該当すると思われるあたりを読んでみたが、残念ながらはっきり名前は書いておられない。しかし、わかる人にはわかるように書いてある。たとえば、川名氏の論考にはイニシャルが「N」で、昭和十年代に「火星」、「旗艦」に韻律問題についての俳論を多く書いていた俳人だと念押ししてある。こういえば、あとは調べればわかるだろう、てな感じの書き方。

結論的にいうと、この俳人の名前は分った。
と書いたところで、夜も遅くなったので、つづきは明日、書くことにしよう。

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2004/10/04

適者生存という思想のいかがわしさへの痛烈な一撃


書評 金沢城のヒキガエル 競争なき社会に生きる 奥野良之助 著 どうぶつ社(1995)

 本書、ジャンルとしてはひとまず動物生態学に関する書物ということになるのだろうが、めったにお目にかかることのできないような面白本である。

 この先生、京都大学は動物生態学の森主一教授の門下生、もともとは魚の研究者で須磨水族館に勤務していたのだが、あんまり上の人間をやりこめるので(本人によれば)すっかり干されてしまって、四十代で金沢大学の教官に転じる。もともと、水族館時代から研究論文は量産していたらしい。ところが、当時金沢大学は学園紛争こそ収束していたものの、理学部は依然として学部の運営上の問題で学生と教授会が対立。よせばいいのに、この先生、活動家あがりの悪いクセで、新米のくせに「教授も学生も言い負かして喜んでいるうちに」紛争にまきこまれる。

 そんなある日、先生、金沢城の本丸跡に棲息する何千というヒキガエルの生態を調べることを思い立つ。たまたま、そこにヒキガエルがたくさんいたということもあるし、ややこしい人間関係にうんざりしていたから生き物にふれて息抜きもしたかった。一言多い教師だと言うことで教授会の覚えもあまりおめでたくないこととて、身分保全の保険(いかにも研究活動をしてますという上層部へのアッピールですな)も、その動機であった、なんて白状しているのはどこまで本音か韜晦か。

 さて、どうやって調べるか。ヒキガエルは簡単に捕まえることができるので、どんどん標識してひたすら観察していくのである。一種の野外の個体識別調査。ニホンザルの行動記録なんかがこれにあたる。この先生のは、一度標識した個体を追跡調査していくので、標識再捕獲法という。

 では、その標識というのはどうやるのだろう。サルならその顔を見てそれが誰なのか分かるのかも知れないが(ぼくにはとてもできそうにないが)、さすがにヒキガエルを外見から識別するのはいくら専門家でも無理である。当然、なにか印をつけて行くのだろうとは想像がつく。ところが、あらかじめ番号のついたアルミの標識板のようなものを足にでもくくりつけていくのかと思っていたら、専門家のやり方はさすがに違う。

 ヒキガエルの前足にはそれぞれ四本の指があり、後ろ足にはそれぞれ五本の指がある。だから解剖用の鋏でこの指を切って、4桁の連番をつくっていくというのだ。ええ~!
 たとえば、1325なんて番号のヒキガエルは左前足の第1指、右前足の第3指、左後足の第2指、右後足の第5指がちょん切られているというわけ。(図参照)

 素人は、そりゃいくらなんでも乱暴じゃないかしらと思うだろう。人道的(?)な見地はひとまず置くとしても、四つの足から一本ずつ指を鋏で切られたら、そのストレスで死んでしまうとか、一応障害が残るわけだから、その後の行動が不利になって結局生き残れないのではないかと思う。ところが、そういうことも、この世界ではすでにちゃんと研究されている。結論的に言うと、指を四本失ったくらいではヒキガエルは大してこたえないことがわかっているらしいのだ。ちょっと痛そうな顔はするけど大丈夫、ってホントかいな。

 標識をつけては放し、すでに標識があるものを再び見つけたら、見つけた場所、時間、体長、そのときの様子などを根気よく記録していく。なんともばかばかしいような、ご苦労様のような手法である。こうして先生が標識したヒキガエルは9年間で、2000匹を上回る。指が再生することもあるので、長生きした連中のなかには、二回、三回と先生に指を詰められてしまった気の毒な奴もいる。結局、先生がちょん切った指は1万本を超える。骨の部分まで切って行くのでさすがに丈夫な解剖用の鋏も三丁使いつぶしてしまったとか。やれやれ。

 さて、この個体識別調査によって何がわかったのだろうか。
 先生いわく、小学生に「ヒキガエルは何年生きますか」と聞かれたときに(ちなみに小学生に質問させるとかならずこれを聞いてくるんだとか、わかるなあ)、「だいたい11年から12年くらいは生きるよ」なんて答えることができるようになったのが唯一の成果かなあ、ト。(笑)

 しかし、本書に出てくるヒキガエルどものおおらかさはいい。生物の生態や進化を説明するときに、すぐに競争原理や利己的遺伝子の戦略なんてものを持ち出す考え方が、この先生は気に入らない。とくにそれが生物の普遍的な原理であるかのような言い方で人間の社会にもちこまれることに強く異議を唱える。こうした見解の当否についてはもちろんぼくには分からないが、なんとなくほっとするのも事実である。
 競争や争いが嫌いでも、なんとか適当にやっていける。そんな「ダメな奴」は、さっさと滅んでしまうなんてこともない。競争や争いのなかで生存の場所や種族の保存をはかる生物もいれば、競争や争いをさけて、ときどき思い出したようにのそのそ活動して、それなりに種族を伝えていく生物もいると著者はいう。ただ、そんな生物は、適者生存、優勝劣敗、競争原理などのわかりやすい、手っ取り早い学説にはうまくあわないので研究者はだれも自分の研究テーマにしない。なぜなら、生物の研究者の世界は、所詮はいくつ論文を書いたかで争われる激しい競争社会だから、短い期間で、きちんとした結果が得られるような研究しかみんなしなくなる。そして、競争なき社会に生きる生物は、こういう類の研究からは一番見えにくいものだというのだ。
 これについても、ぼくにはその適否はわからない。ただ、なんとなくほっとすればいいのである。

 本書に流れる競争なき社会に生きる可能性は素敵だ。ただ、最終の章で著者が語っている現代の競争社会を批判する箇所はかならずしも全面的に賛成できない。たしかにいまの社会の中で有利な場所を獲得する能力(端的にいえば有名大学に合格できる学力)には多くの問題があるかもしれない。しかし、こういう勉強ができる子は単に記憶力がいいだけで、実存的な問いを自分自身に向けて発するような非効率なことをしないかといえば、もちろんそんなことはありえないだろう。現に著者だって、京都大学出身で、しようと思えば(水族館の職員時代はそうだったように)学術論文の量産だってできる人間なのだ。こういう矛盾には著者はあまりふれていない。(ところどころで、自分がせっかちな人間で、とてもヒキガエルのような優雅な人生は送れそうにないなんて言ってはいるけれど)
 だから、いまの日本が競争社会で歪んでいるのだ、という最終章の意見は、残念ながら紋切り型の評論になってしまっている。きびしく言えば、戦後の左翼的な言説から大きくはみ出してはいないような気がする。

 ともあれ、本書は読むに値する。思わず吹き出してしまうようなおかしさもあるし、ほろりとくる場面もある。
 たとえば本書の序章に、三本足のヒキガエルが登場する。

初めて出会った時、一歳半にして彼は、左の後足が根元からない三本足のカエルだったのである。 その時私は、生存競争の激しい生き物の世界で足を一本失ったカエルが一年半もの間よく生き延びることができたものだ、と感心した。同時に、何とかもっと生きてほしいと願いながらも、ふたたび出会うことはあるまいと、思ったことを憶えている。 私の予想ははずれ、彼はその後も七年もの間元気に生き抜き、たった一度だけだったが、彼女を得ることもできた。

 そして、本書の最後は、この三本足のヒキガエルの八年が、著者自身のその間の人生と重ねられて、それがいかにすばらしい「生涯」であったかが語られるのである。ちょっと涙ぐみたくなるような話なのだ。

 残念ながら本書は絶版になっているようだが、版元で復刊が無理なら、どこかの出版社に移して文庫か新書で出してもらえないものだろうか。

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2004/10/03

両統迭立時代を代表する歌人、京極為兼


書誌データ(私の読んだ版)

京極為兼
忘られぬべき雲の上かは

今谷 明 著
ミネルヴァ書房(2003)



覚えとして

  南北朝に先立つ両統迭立(てつりつ時代のユニークな政治家・歌人、京極為兼ためかね)について簡単に「覚え」としてまとめておく。内容は基本的に本書によるもの。

 京極為兼は建長6年(1254)大納言京極為教ためのり)の息として生まれた。母は三善雅衡の女。曾祖父は定家である。
 ここで定家以後の御子左家を概観する。

  定家の息、為家は承久の乱のあと次第に歌道師範としての地歩を固めてゆく。定家の後妻が西園寺実宗の女であったことにより、摂関家を凌ぐ権力を誇った西園寺家が為家の後盾となったことも大きな要素であった。
 ところがこの頃より、「中世和歌史上きっての秀才」とうたわれる葉室光俊はむろみつとし(承久の乱の罪を一身に被って刑死した葉室光親の嫡男で、この処罰にうしろめたい鎌倉が庇護した模様)が強力なライバルとして登場し、為家の歌道師範の権威を脅かした。
 「新古今和歌集」の選者にこの反・御子左の急先鋒である葉室光俊が追加されるにおよび、為家は失意とともに嵯峨へ隠棲する。

 さて為家には宇都宮頼綱女との間に為氏(二条家)・為教(京極家)という二人の息子がいたが、この嵯峨の隠棲先に入門してきたのが安嘉門院四条という女性である。この四条とは『十六夜日記』で知られる阿仏尼あぶつにのこと。そして、この四条との間にやがて愛が芽生え、為家は為相(冷泉家)という息子を得る。

 京極為兼は為教の嫡男。すなわち為家の孫(定家のひ孫)にあたる。
 十七歳ごろから、嵯峨の祖父為家のもとで姉・為子と歌道の薫陶を受けた。この山荘、嵯峨中院には先述したように『十六夜日記』や『うたゝねの記』で知られる四条(阿仏尼)が義理の祖母として暮らしていたので彼女からもすぐれた和歌の指導を受けたものと推測される。
  『十六夜日記』に所領の帰属問題につき訴えるため鎌倉へ下向する四条にむけた京極為兼の餞の歌がある。

故郷は時雨に立ちし旅衣雪にやいとゞさえまさるらん

 さて、為兼が生きた時代は両統迭立時代と称される。皇統が持明院統と大覚寺統というふたつに別れてかわるがわる帝位に就いていくというまことにあやうい時代である。(実際は帝位についた天皇の父親が院として実際上の権力を掌握していくというスタイル)
  京極為兼は後深草(持明院統、北朝)の東宮である煕仁ひろひと(のちの伏見)に出仕することになるが、これは主家筋にあたる西園寺実兼の計らいによるものと考えられる。
  ここからが、京極為兼の政治家としてのスタートで、東宮の和歌師範という立場だけでなく、伏見の絶対的な信任を得てまさに「君臣水魚」の間柄となる。

ここでは本書の引用をしておく。

為兼は中宮永福門院の入内とともに蔵人頭となり、摂関や上皇との間を周旋する事務官僚として天皇の信頼を得、正応五年(1292)には鎌倉に派遣され僧善空の官位容喙について内管領頼綱らと折衝し、大覚寺統の人々の声望をも得た。伏見天皇はこれによって正応徳政(裁判の迅速化)に取組むことが出来た。この改革は当時はおろか、現在でも歴史家の評価が高い。為兼への天皇の信認はいよいよ深く、除目の人事や、僧官のポストについて一定の干与をすることとなった。人々は彼の権勢を知っていたが、「尤も然るべし」「諸人帰伏」の記録が語るように、一般の納得づくの話であって、決して妬忌や嫉視が彼に集中したという事態ではない。 (p.108)

 ここで「尤も然るべし」と記したのは政敵である大覚寺統側の勘解由小路兼仲かでのこうじ・かねなかの日記であり「諸人帰伏」と記したのは、京極為兼へ除目の嘆願運動をしてあまりはかばかしい結果を得ていない三条実躬さねみであることから、ほぼ公正な評価といえよう。

  ところが永仁四年(1296)になって京極為兼は突如正二位・権中納言の官位を剥奪され籠居の身となり、つづく永仁六年には佐渡に配流とされる。いったい何がおこったのか。

  これまでの学説(主に国文学のもの)では、歌道の家に過ぎなかった京極家が不相応なパワー・ポリティクスの世界に深入りして、陰謀に巻き込まれたというようなものが多い。本書では、これに対して、新しい見方(非常に単純でそれだけに逆に納得性が高い)を提出している。
  これについては、ここではあえて書かない。興味のある方は本書をお読みください。

  京極為兼はこのあと許されて帰京し復権を遂げ、宗家たる二条家(為氏の子、為世)と激しい歌道の論争・政争を乗り越えて『玉葉和歌集』の勅撰(伏見はこのときは上皇)を果たす。しかしながら、ついに栄華の頂点を極めたかに思えた正和四年(1315)、六十二歳のときに、またもや、六波羅探題によって召し捕らえられ、土佐に流されるのである。

  このあと為兼は、さらに十七年生きる。亡くなったのは正慶元年(1332)河内の配所と伝えられる。

 いま年表(年表日本史3/筑摩書房)をみると、この年の件は以下のようなものである。

正慶元年(1332)改元四・二八
元弘二年
三・七幕府、後醍醐天皇を隠岐国に配流、この日京都を出発(花園)
<中略>
一一・ 護良親王(尊雲法親王)、吉野に挙兵、楠木正成が河内国千早城に拠り応じる(太)
一二・九幕府、畿内の軍兵を招集(和田文書)
一二・ 楠木正成、赤坂城奪回(楠木合戦注文)
<中略>
没 三・二一京極為兼(七九)

最後に為兼卿の歌をいくつか挙げておく。

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰
うちわたす宇治のわたりの夜深きに河音すみて月ぞかすめる
夏浅きみどりの木立庭遠み雨ふりしむる日ぐらしの宿
露をもる小萩が末はなびきふして吹きかへす風に花ぞ色そふ
初時雨思ひそめてもいたづらに槙の下葉の色ぞつれなき<
暮れぬとてながめ捨つべき名残かはかすめる末の春の山の端
思ひみる心のままに言の葉のゆたかにかなふ時ぞうれしき

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