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2004/10/03

両統迭立時代を代表する歌人、京極為兼


書誌データ(私の読んだ版)

京極為兼
忘られぬべき雲の上かは

今谷 明 著
ミネルヴァ書房(2003)



覚えとして

  南北朝に先立つ両統迭立(てつりつ時代のユニークな政治家・歌人、京極為兼ためかね)について簡単に「覚え」としてまとめておく。内容は基本的に本書によるもの。

 京極為兼は建長6年(1254)大納言京極為教ためのり)の息として生まれた。母は三善雅衡の女。曾祖父は定家である。
 ここで定家以後の御子左家を概観する。

  定家の息、為家は承久の乱のあと次第に歌道師範としての地歩を固めてゆく。定家の後妻が西園寺実宗の女であったことにより、摂関家を凌ぐ権力を誇った西園寺家が為家の後盾となったことも大きな要素であった。
 ところがこの頃より、「中世和歌史上きっての秀才」とうたわれる葉室光俊はむろみつとし(承久の乱の罪を一身に被って刑死した葉室光親の嫡男で、この処罰にうしろめたい鎌倉が庇護した模様)が強力なライバルとして登場し、為家の歌道師範の権威を脅かした。
 「新古今和歌集」の選者にこの反・御子左の急先鋒である葉室光俊が追加されるにおよび、為家は失意とともに嵯峨へ隠棲する。

 さて為家には宇都宮頼綱女との間に為氏(二条家)・為教(京極家)という二人の息子がいたが、この嵯峨の隠棲先に入門してきたのが安嘉門院四条という女性である。この四条とは『十六夜日記』で知られる阿仏尼あぶつにのこと。そして、この四条との間にやがて愛が芽生え、為家は為相(冷泉家)という息子を得る。

 京極為兼は為教の嫡男。すなわち為家の孫(定家のひ孫)にあたる。
 十七歳ごろから、嵯峨の祖父為家のもとで姉・為子と歌道の薫陶を受けた。この山荘、嵯峨中院には先述したように『十六夜日記』や『うたゝねの記』で知られる四条(阿仏尼)が義理の祖母として暮らしていたので彼女からもすぐれた和歌の指導を受けたものと推測される。
  『十六夜日記』に所領の帰属問題につき訴えるため鎌倉へ下向する四条にむけた京極為兼の餞の歌がある。

故郷は時雨に立ちし旅衣雪にやいとゞさえまさるらん

 さて、為兼が生きた時代は両統迭立時代と称される。皇統が持明院統と大覚寺統というふたつに別れてかわるがわる帝位に就いていくというまことにあやうい時代である。(実際は帝位についた天皇の父親が院として実際上の権力を掌握していくというスタイル)
  京極為兼は後深草(持明院統、北朝)の東宮である煕仁ひろひと(のちの伏見)に出仕することになるが、これは主家筋にあたる西園寺実兼の計らいによるものと考えられる。
  ここからが、京極為兼の政治家としてのスタートで、東宮の和歌師範という立場だけでなく、伏見の絶対的な信任を得てまさに「君臣水魚」の間柄となる。

ここでは本書の引用をしておく。

為兼は中宮永福門院の入内とともに蔵人頭となり、摂関や上皇との間を周旋する事務官僚として天皇の信頼を得、正応五年(1292)には鎌倉に派遣され僧善空の官位容喙について内管領頼綱らと折衝し、大覚寺統の人々の声望をも得た。伏見天皇はこれによって正応徳政(裁判の迅速化)に取組むことが出来た。この改革は当時はおろか、現在でも歴史家の評価が高い。為兼への天皇の信認はいよいよ深く、除目の人事や、僧官のポストについて一定の干与をすることとなった。人々は彼の権勢を知っていたが、「尤も然るべし」「諸人帰伏」の記録が語るように、一般の納得づくの話であって、決して妬忌や嫉視が彼に集中したという事態ではない。 (p.108)

 ここで「尤も然るべし」と記したのは政敵である大覚寺統側の勘解由小路兼仲かでのこうじ・かねなかの日記であり「諸人帰伏」と記したのは、京極為兼へ除目の嘆願運動をしてあまりはかばかしい結果を得ていない三条実躬さねみであることから、ほぼ公正な評価といえよう。

  ところが永仁四年(1296)になって京極為兼は突如正二位・権中納言の官位を剥奪され籠居の身となり、つづく永仁六年には佐渡に配流とされる。いったい何がおこったのか。

  これまでの学説(主に国文学のもの)では、歌道の家に過ぎなかった京極家が不相応なパワー・ポリティクスの世界に深入りして、陰謀に巻き込まれたというようなものが多い。本書では、これに対して、新しい見方(非常に単純でそれだけに逆に納得性が高い)を提出している。
  これについては、ここではあえて書かない。興味のある方は本書をお読みください。

  京極為兼はこのあと許されて帰京し復権を遂げ、宗家たる二条家(為氏の子、為世)と激しい歌道の論争・政争を乗り越えて『玉葉和歌集』の勅撰(伏見はこのときは上皇)を果たす。しかしながら、ついに栄華の頂点を極めたかに思えた正和四年(1315)、六十二歳のときに、またもや、六波羅探題によって召し捕らえられ、土佐に流されるのである。

  このあと為兼は、さらに十七年生きる。亡くなったのは正慶元年(1332)河内の配所と伝えられる。

 いま年表(年表日本史3/筑摩書房)をみると、この年の件は以下のようなものである。

正慶元年(1332)改元四・二八
元弘二年
三・七幕府、後醍醐天皇を隠岐国に配流、この日京都を出発(花園)
<中略>
一一・ 護良親王(尊雲法親王)、吉野に挙兵、楠木正成が河内国千早城に拠り応じる(太)
一二・九幕府、畿内の軍兵を招集(和田文書)
一二・ 楠木正成、赤坂城奪回(楠木合戦注文)
<中略>
没 三・二一京極為兼(七九)

最後に為兼卿の歌をいくつか挙げておく。

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰
うちわたす宇治のわたりの夜深きに河音すみて月ぞかすめる
夏浅きみどりの木立庭遠み雨ふりしむる日ぐらしの宿
露をもる小萩が末はなびきふして吹きかへす風に花ぞ色そふ
初時雨思ひそめてもいたづらに槙の下葉の色ぞつれなき<
暮れぬとてながめ捨つべき名残かはかすめる末の春の山の端
思ひみる心のままに言の葉のゆたかにかなふ時ぞうれしき

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