« 両統迭立時代を代表する歌人、京極為兼 | トップページ | 密告者Nを探して »

2004/10/04

適者生存という思想のいかがわしさへの痛烈な一撃


書評 金沢城のヒキガエル 競争なき社会に生きる 奥野良之助 著 どうぶつ社(1995)

 本書、ジャンルとしてはひとまず動物生態学に関する書物ということになるのだろうが、めったにお目にかかることのできないような面白本である。

 この先生、京都大学は動物生態学の森主一教授の門下生、もともとは魚の研究者で須磨水族館に勤務していたのだが、あんまり上の人間をやりこめるので(本人によれば)すっかり干されてしまって、四十代で金沢大学の教官に転じる。もともと、水族館時代から研究論文は量産していたらしい。ところが、当時金沢大学は学園紛争こそ収束していたものの、理学部は依然として学部の運営上の問題で学生と教授会が対立。よせばいいのに、この先生、活動家あがりの悪いクセで、新米のくせに「教授も学生も言い負かして喜んでいるうちに」紛争にまきこまれる。

 そんなある日、先生、金沢城の本丸跡に棲息する何千というヒキガエルの生態を調べることを思い立つ。たまたま、そこにヒキガエルがたくさんいたということもあるし、ややこしい人間関係にうんざりしていたから生き物にふれて息抜きもしたかった。一言多い教師だと言うことで教授会の覚えもあまりおめでたくないこととて、身分保全の保険(いかにも研究活動をしてますという上層部へのアッピールですな)も、その動機であった、なんて白状しているのはどこまで本音か韜晦か。

 さて、どうやって調べるか。ヒキガエルは簡単に捕まえることができるので、どんどん標識してひたすら観察していくのである。一種の野外の個体識別調査。ニホンザルの行動記録なんかがこれにあたる。この先生のは、一度標識した個体を追跡調査していくので、標識再捕獲法という。

 では、その標識というのはどうやるのだろう。サルならその顔を見てそれが誰なのか分かるのかも知れないが(ぼくにはとてもできそうにないが)、さすがにヒキガエルを外見から識別するのはいくら専門家でも無理である。当然、なにか印をつけて行くのだろうとは想像がつく。ところが、あらかじめ番号のついたアルミの標識板のようなものを足にでもくくりつけていくのかと思っていたら、専門家のやり方はさすがに違う。

 ヒキガエルの前足にはそれぞれ四本の指があり、後ろ足にはそれぞれ五本の指がある。だから解剖用の鋏でこの指を切って、4桁の連番をつくっていくというのだ。ええ~!
 たとえば、1325なんて番号のヒキガエルは左前足の第1指、右前足の第3指、左後足の第2指、右後足の第5指がちょん切られているというわけ。(図参照)

 素人は、そりゃいくらなんでも乱暴じゃないかしらと思うだろう。人道的(?)な見地はひとまず置くとしても、四つの足から一本ずつ指を鋏で切られたら、そのストレスで死んでしまうとか、一応障害が残るわけだから、その後の行動が不利になって結局生き残れないのではないかと思う。ところが、そういうことも、この世界ではすでにちゃんと研究されている。結論的に言うと、指を四本失ったくらいではヒキガエルは大してこたえないことがわかっているらしいのだ。ちょっと痛そうな顔はするけど大丈夫、ってホントかいな。

 標識をつけては放し、すでに標識があるものを再び見つけたら、見つけた場所、時間、体長、そのときの様子などを根気よく記録していく。なんともばかばかしいような、ご苦労様のような手法である。こうして先生が標識したヒキガエルは9年間で、2000匹を上回る。指が再生することもあるので、長生きした連中のなかには、二回、三回と先生に指を詰められてしまった気の毒な奴もいる。結局、先生がちょん切った指は1万本を超える。骨の部分まで切って行くのでさすがに丈夫な解剖用の鋏も三丁使いつぶしてしまったとか。やれやれ。

 さて、この個体識別調査によって何がわかったのだろうか。
 先生いわく、小学生に「ヒキガエルは何年生きますか」と聞かれたときに(ちなみに小学生に質問させるとかならずこれを聞いてくるんだとか、わかるなあ)、「だいたい11年から12年くらいは生きるよ」なんて答えることができるようになったのが唯一の成果かなあ、ト。(笑)

 しかし、本書に出てくるヒキガエルどものおおらかさはいい。生物の生態や進化を説明するときに、すぐに競争原理や利己的遺伝子の戦略なんてものを持ち出す考え方が、この先生は気に入らない。とくにそれが生物の普遍的な原理であるかのような言い方で人間の社会にもちこまれることに強く異議を唱える。こうした見解の当否についてはもちろんぼくには分からないが、なんとなくほっとするのも事実である。
 競争や争いが嫌いでも、なんとか適当にやっていける。そんな「ダメな奴」は、さっさと滅んでしまうなんてこともない。競争や争いのなかで生存の場所や種族の保存をはかる生物もいれば、競争や争いをさけて、ときどき思い出したようにのそのそ活動して、それなりに種族を伝えていく生物もいると著者はいう。ただ、そんな生物は、適者生存、優勝劣敗、競争原理などのわかりやすい、手っ取り早い学説にはうまくあわないので研究者はだれも自分の研究テーマにしない。なぜなら、生物の研究者の世界は、所詮はいくつ論文を書いたかで争われる激しい競争社会だから、短い期間で、きちんとした結果が得られるような研究しかみんなしなくなる。そして、競争なき社会に生きる生物は、こういう類の研究からは一番見えにくいものだというのだ。
 これについても、ぼくにはその適否はわからない。ただ、なんとなくほっとすればいいのである。

 本書に流れる競争なき社会に生きる可能性は素敵だ。ただ、最終の章で著者が語っている現代の競争社会を批判する箇所はかならずしも全面的に賛成できない。たしかにいまの社会の中で有利な場所を獲得する能力(端的にいえば有名大学に合格できる学力)には多くの問題があるかもしれない。しかし、こういう勉強ができる子は単に記憶力がいいだけで、実存的な問いを自分自身に向けて発するような非効率なことをしないかといえば、もちろんそんなことはありえないだろう。現に著者だって、京都大学出身で、しようと思えば(水族館の職員時代はそうだったように)学術論文の量産だってできる人間なのだ。こういう矛盾には著者はあまりふれていない。(ところどころで、自分がせっかちな人間で、とてもヒキガエルのような優雅な人生は送れそうにないなんて言ってはいるけれど)
 だから、いまの日本が競争社会で歪んでいるのだ、という最終章の意見は、残念ながら紋切り型の評論になってしまっている。きびしく言えば、戦後の左翼的な言説から大きくはみ出してはいないような気がする。

 ともあれ、本書は読むに値する。思わず吹き出してしまうようなおかしさもあるし、ほろりとくる場面もある。
 たとえば本書の序章に、三本足のヒキガエルが登場する。

初めて出会った時、一歳半にして彼は、左の後足が根元からない三本足のカエルだったのである。 その時私は、生存競争の激しい生き物の世界で足を一本失ったカエルが一年半もの間よく生き延びることができたものだ、と感心した。同時に、何とかもっと生きてほしいと願いながらも、ふたたび出会うことはあるまいと、思ったことを憶えている。 私の予想ははずれ、彼はその後も七年もの間元気に生き抜き、たった一度だけだったが、彼女を得ることもできた。

 そして、本書の最後は、この三本足のヒキガエルの八年が、著者自身のその間の人生と重ねられて、それがいかにすばらしい「生涯」であったかが語られるのである。ちょっと涙ぐみたくなるような話なのだ。

 残念ながら本書は絶版になっているようだが、版元で復刊が無理なら、どこかの出版社に移して文庫か新書で出してもらえないものだろうか。

|

« 両統迭立時代を代表する歌人、京極為兼 | トップページ | 密告者Nを探して »

b)書評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23898/1591723

この記事へのトラックバック一覧です: 適者生存という思想のいかがわしさへの痛烈な一撃:

« 両統迭立時代を代表する歌人、京極為兼 | トップページ | 密告者Nを探して »