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2004/10/19

日本語を奪う者


書誌データ(私の読んだ版) 東京セブンローズ 井上ひさし 文藝春秋 1999初版
  今朝はやく、角の兄が千住の古澤家へ結納を届けに行つてくれた。兄に託したのは、このあひだ、團扇二百五十本と物々交換で手に入れた袴地一反、それに現金五百圓である。材料不足でしばらく團扇を作つてゐないわが家としてはずいぶん張り込んだつもりだし、これぐらゐが精一杯のところだ。
 本書はいきなりこのように始まる。ご覧のように漢字はいわゆる正字で、仮名遣いは旧かなである。これが、じつに見た目に美しい。頁を開いて眺めているだけで楽しいのだ。 やがて読者は、この文章が、東京は根津宮永町の団扇屋主人、山中信介、五十三才が生き甲斐にしている日記そのものであることを知ることになる。

 日記は昭和二十年四月二十五日から始まり、戦時下の東京市民の日常が事細かに描写される。本書の第一の見所だ。いや、もしかすると後半の疾風怒濤の主人公のドタバタより、この前半の、おそろしく瑣末な事実に、これまた徹底的にこだわったねちねちとした前半が本書の値打ちかもしれぬ。

 冒頭の引用にあるように、戦局もいよいよ末期的な段階にいたって、しかも東京大空襲のあとにもかかわらず、主人公の一家は長女の祝言を控えているのである。こういうあたりに、戦時下でも人は日常を生きていたという当たり前のことがわかって、ぼくらはいまさらながら驚くことになる。

 日記は、毎日切れ目なく続き、主人公をめぐる縁戚関係やご町内の人間関係が徐々に読者に明かされるわけだが、この切れ目なくというのがくせもので、ここを作者はじつに巧くつかう。つまり、主人公は日記狂だから、よほどのことが無い限り、八月十五日に向かって毎日日記が進んで行く――はずなのだが、ここで読者は見事に肩透しを食わされるのである。ぼくは思わず、「お見事!」と脱帽した。

 さて、敗戦を境にして信介はなぜか警視庁とGHQに関わりが出てくる。一介の団扇屋主人風情がなぜそんな戦後の占領政策の裏側を覗くことになるのか。ここでも作者は周到な手管をつくし、読者を丸め込んでしまう。(お見事!)そして、いよいよここからが、やっと本書のメインテーマになるのだ。日本の国字を漢字からローマ字に改めるべしというGHQ民間情報教育部の高官の方針をいかに挫くか、というのがそれ。国敗れて国語も奪われてよいものか。ここで敢然と絶対権力のアメリカ占領軍に立ち向かうのが、七人の侍ならぬ、東京セブンローゼズであったのだ、というオハナシ。いや、面白い。

 この東京セブンローゼズ大奮闘は荒唐無稽だと判るが、しかし、舞台となる状況はリアルである。じつは、この国字から漢字を廃してカタカナ表記にし、いずれローマ字にというアイデアは、なにもGHQがこのときはじめて押し付けようとしたものではない。本書のなかにも、「維新以来、前島密の漢字廃止論を皮切りに、南部義籌のローマ字論、大槻文彦らの仮名論など日本語改造論は陸続として現れ、枚挙にいとまもないほどである」と書かれているが、この論は、つい最近までほかならぬ我が国の文部省の国語政策のひとつの立場であった。

(このあたりのくわしいことは、吉田直哉氏の『私伝・吉田富三 癌細胞はこう語った』に詳しい。ついでに少し脱線すると、この問題に対して、日本語は漢字仮名交じりの表記でこれからも行くべしという暗黙の合意ができた、あるいは、もう漢字廃止は主張する値打ちがなくなったのは、国語学者の理論上の勝利によるものでもなく、ましてやぼくらの国語意識が高まったからでもないように思う。要はワープロなのである。ローマ字入力をしながら、表記はタイプライターのように漢字仮名交じり表記の文章をどんどんつくっていく機械が出てしまったからなのだと思うんだなぁ)

 結論として。
 本書は国語についてのメッセージを強烈に含んでいる。国語をめぐる冒険小説だからというわけではない。じつにこの本の正字、旧かなの表記そのものがメッセージなのだ。どうだろう、この見た目に快く、いつまでも眺めていたいような日本語の美しさは。これを捨てて、カタカナ表記やローマ字表記にした方が、ほんとうにぼくらを豊かにする道だと思うかい?――これこそ作家井上ひさしが780頁すべて使って(なにしろすべての頁がそういう表記なんだもの)ぼくらに問い掛けているものなのだと思う。

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