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2004/10/20

評伝はかくあるべし『津田梅子』


書誌データ(私の読んだ版) 津田梅子 大庭みな子 朝日新聞社 1990

吉益亮子  十五歳  東京府士族秋田県典事吉益正雄娘
上田悌子  十五歳  外務省中録上田畯娘
山川捨松  十二歳  青森県士族山川与七郎妹
永井繁子   九歳  静岡県士族永井久太郎娘
津田梅子   八歳  東京府士族津田仙娘

  これは明治4年(1871)に新政府、北海道開拓使が米国に送った五人の女子留学生の名簿である。新しい国家の建設には女性の教育指導者の育成が不可欠だとして、黒田清隆が中心となって留学生を募集したのである。
  注意深い人ならば、これらの少女の出身がどうも薩長土肥と関連が薄そうだということに気づくかもしれない。実際たとえば三番目の山川捨松は会津藩家老の娘である。後年、薩摩の大山巌の妻となり鹿鳴館の貴婦人と称されることになるが、この結婚は、なにしろ大山が官軍の将として会津陥落のときは城に大砲を撃ち込んだ張本人だから、さすがに山川家では難色を示したという。「捨松」なんてひどい名前のようだが、これは留学に際して幼名の咲子を母親が改めたものだ。「捨てて待つ」という意味をこめて。
  もう一度、津田梅子の年齢に注目して欲しい。これは数え年齢だから、実際の年齢は七歳、今で言うと小学校の二年生である。
  七歳、八歳という小さな子どもに、お前は遠い異国へ勉学に行かねばならないと、どのような思いで親は諭したのだろうか。薩長出身者のように縁故では有力な地位を得ることのできない旧幕側の必死の念をここに見ることも可能だろう。同時にそれくらいの気概をもって生きていた日本人がかつてはたしかにいたのだと、眩しいような、また誇らしいような気持ちもおこる。
  なお、この五人の少女のうち吉益と上田の二人は体調を崩して早期に帰国、結局、山川捨松、永井繁子、津田梅子の三人が留学を全うした。ちなみに永井繁子の実兄は三井財閥の益田孝である。捨松と繁子は、後年、それぞれの立場から梅子の女子英学塾(津田塾)を支援する。

  大庭みな子さんが本書を執筆した経緯はこういうものだ。
  1984年のある日、津田塾大学本館のタワーと呼ばれる屋根裏部屋でトランクからはみ出していた英文の大量の手紙をたまたま学生が見つけて、大学当局に届け出る。数百通におよぶこれらの手紙は、津田梅子が米国で育ての親になってくれたランマン夫人に三十数年にわたって書き送った書簡であった。なぜこうしてまとまって保存され、そしてそれがすっかり忘れられていたのかという面白い話も本書には書かれているが、いずれにせよ、これを使って梅子のこれまで明らかになっていない姿を書くのは卒業生のあなたがふさわしいと大庭さんは朝日新聞の関係者からほのめかされ、この膨大な書簡のワープロおこしされた資料を託される・・・・

  この評伝の魅力はなんといっても津田梅子という人物の生き生きとした姿、行動を知り、新鮮な驚きを感じることだ。津田塾のサイトにアクセスすると。梅子の写真を見ることができるけれど、人に好かれそうな、機敏さと活力に満ちた女性であったことがうかがえる。世間には見ているだけで思わず応援したくなるような頑張屋さんがいるが、おそらく彼女もそういう女性の一人だったのではないかと思う。実際、梅子の女子教育への夢は無数の善意や莫大な資金援助がなければ到底実現できないものだった
  しかし、梅子はただ愛嬌のある人気者というだけでは決してなかった。
  たとえば、こんなエピソードがある。
  二度目の米国留学で梅子が専攻したのは生物学であった。

・・・・カエルの卵に関する論文を1894年の英国の「マイクロスコピカル・サイエンス」誌にモーガン教授と共同で発表している。T・H・モーガンは1933年、遺伝学の業績により、ノーベル賞を受けている。彼は後年梅子について、その才能と人柄を称賛し、「あの優秀な頭脳は――教育者として立つために、生物学ときっぱり縁を切ったわけだ」と語った。(p.26)

  伊藤博文との関わりも興味深い。
  冒頭にあげた梅子たち五人は、有名な岩倉使節団の一行に伴われて渡米したので、そのときのメンバーである伊藤博文にとっても、この幼い少女たちの姿は感銘深い記憶だった。それから十一年後、十八歳の乙女となって帰国した梅子に伊藤はなにかと目をかける。夫人と娘の英語の家庭教師という扱いで支援をするのだ。当時の伊藤は四十三歳、憲法の起草というもっとも重要な事業に心血を注いだ時期である。伊藤というのもなかなか面白い男で、梅子とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の梅子と国の将来について語り合うのである。まあ、伊藤からみれば梅子は同じ日本人の婦人というよりは、外人顧問のつもりであったかも知れない。
  ただし梅子はこういう伊藤の優れた気質(後述する)は評価しながら、さすがに妾を次々につくる元老たちの姿には辟易した様子でランマン夫人宛の書簡でも繰り返し、かれらは不道徳ですと書き送っている。
  伊藤がハルビンで暗殺されたとき梅子は英文で追悼文を書いて発表した。この文章がじつにいい。少し長いが本書より引用する。大庭さんも書いているように、この文章は伊藤の思い出を語りつつ同時に、梅子の気質もあらわしたものだと思うからだ。

伊藤公は人間性に深い関心を持っていた。彼はその人の身分にかかわらず、訴える力を持つ人間の言葉に耳を傾けた。召し使いであろうと、女子供であろうと、耳を傾けるに価する意見を吐く者に出遭えば、追いかけてでも行って、その言葉を聴いた。後年、総理大臣といった地位についてからは、こうした機会はだんだんなくなっただろうが、少なくとも私が彼の家に寄宿していた頃はそうだった。そして、この態度こそが、政治家伊藤博文の魔法の杖ともいうべきものだった。彼が周囲の人間たちをあれほどに動かし、そのエネルギーを結集できたのは、まさにその魔法の杖による威力だった。
彼と語り合った過去の日々に聞いた伊藤公の言葉の中で、ひときわはっきりと心に刻みこまれているものがある。「わたしは宗教的な人間ではなく、未来の生活に信仰心といったものは持っていない。生も死もわたしにとっては同じようなものだ。これから先、何が起こるかを怖れたことは一度もない」といった言い方で、彼は自分を宗教心のない人間だと決めつけていたが、わたしに言わせれば、彼は、何と言ったらよいか、わけのわからない力(生命の?)といったものを信じていた。彼の多くの言動にはしばしば、信仰と名づけたくなるようなそうした途方もない神がかり的なものがあった。」(p.152)

  内容の紹介があまりに長くなった。
  じつは、この評伝のもうひとつの魅力は、大庭みな子という作家が単なる評伝の語り手を超えて自分のことを語っているからだとぼくは思う。百年前の津田梅子と自分を重ねあわせて、思わず自らの青春の夢や志をほとんど無防備にさらす瞬間がところどころにある。それは、作家の梅子に対する愛情、尊敬、共感がそうさせていることが、あまりに明白でしかもその共鳴作用が美しく、ぼくは何度も目頭が熱くなった。
  一読をお勧めする。

2001年11月17日記

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