息をのむような傑作『THE BLIND ASSASSIN』

書誌データ(私の読んだ版)
THE BLIND ASSASSIN
MARGARET ATWOOD
Anchor Books; (2000)
静かな声で男が女に語る。たとえばこんな物語──
その惑星には三つの太陽が輝き、五つの月がめぐっている。都市国家がある。王、貴族、神官、商人、そして奴隷たち。強大な貴族はお笑い種とばかりに弱小貴族を破産に追い込み、その子供を奴隷に売り出すように仕向けて遊んだりもする。かれらの富の目安は、奴隷の子供が根を詰めて織り上げる絨毯だ。あまりに細かな作業なので一枚ができあがるまでに幾人かは視力を失う。かれらは財産である絨毯の背後に何十人の盲目の子供がいるかで自分の富を競う。盲目になった子供は、ある者は売春窟へと払い下げられる。かれらの繊細な指使いが絶妙であるという理由で。別の者は、暗殺者へと仕立てられる。やはりその鍛えぬかれた指の技が超人的であるからだ。かれらは「盲目の暗殺者」と呼ばれる・・・
胸の悪くなるような話だろうか。
パルプマガジンへ売る小説のために思いつくままプロットを組み立てて語っている男は、もしかしたらコミンテルンの指令を受けた組合活動のオルグかもしれない。ときはスペイン内戦、ファシズムの嵐が欧州を吹き荒れている時代。ところはトロント市内各所。男の胸に顔を埋めて聞き入っているのは、資本家階級の一族の女だろうか。すべては曖昧だ。だが、これは、本書の一番表層にある「語り」に過ぎないなのである。なぜなら、この居所を転々として官憲の目を逃れて暮らす男と金持ち女の密会物語は、ローラ・チェイスという25歳で死んだ本書の主要な登場人物の処女作にして最後の作品(そして死後のローラに文学的名声をもたらした傑作)ということになっているからだ。
もうすこしきちんと説明しよう。
この本は、大まかに言えば二階建ての構造になっている。一階にはアイリス・チェイスという老女の手記、メモワールがおかれ、二階にはアイリスの妹ローラ・チェイスが書いた「盲目の暗殺者」という小説の何章かが置かれる。さらに、ところどころに新聞記事や書簡が挿入され物語世界を外側から補強する。読者は最初、この一階部分の「語り」と二階部分の「語り」の距離に戸惑う。なぜこんなかけ離れた物語が平行して進行しているのか、その構造がよく見えない。もちろん、やがてはひとつに溶け合っていくことは誰にもあらかじめわかっている。だから、ふたつの物語がいつどんな風に収斂していくのか、読者は予想し、そこに好奇心をつのらせるだろう。
しかし、最後にすべてが明らかにされたとき、ぼくらはそんな謎解きはこの物語にとって、さほど重要なことではないと気づくのだ。
アイリスはこう記す。
Nothing is more difficult than to understand the dead, I've found; but nothing is more dangerous than to ignore them.
本書は美しい二人の姉妹の愛の物語であり、献身と裏切りと贖罪の物語である。カナダの地方都市の名家の勃興と繁栄、凋落と崩壊の物語である。戦争と革命の世紀のなかで切り裂かれた男たちの栄光と挫折と失意の物語である。死者と共に生きる現代の老女の悔恨の物語である。
それらが美しい抑制された文章で綴られ最後の最後まで読者をとらえてはなさない。そうして読み終えたあとでは、静かだが深い感動が、まるで揺り戻しのように何度もやってくる。
素晴らしい傑作。
2000年度ブッカー賞受賞。
まったくの蛇足
冒頭の悪徳にみちた異次元世界の記述をもういちど注意深く読んで欲しい。なんだこれは、太陽がひとつ月がひとつの惑星と、基本的には全然変わらないじゃないかとは思わないだろうか。少なくともぼくはそう思った。語り手の男がそのつもりだったことは言うまでもないだろう。
2003年11月22日記
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