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2004/11/22

『僕の叔父さん 網野善彦』

 かねたくさんの「新・読前読後」の紹介で、『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一(集英社新書/2004)をさっそく読んだ。わたしは中沢新一さんにはほとんど関心がなく、もっぱら網野善彦の評伝であるという点にひかれたのだが、その実、網野善彦の著作をきちんと読んでいるというわけでもない。ありがちな話だが、わたしが網野史学の存在を知ったのはもっぱら隆慶一郎の時代小説を介してである。たしか一番最初に読んだのは『吉原御免状』だったと思う。そのあとは、『かくれさと苦界行』『一夢庵風流記』『鬼麿斬人剣』『影武者 徳川家康』『捨て童子 松平忠輝』と夢中で読んだ。たいていは文庫本だったので、「解説」があり、そこには隆慶一郎のエンターテインメントの背骨のような歴史観が網野善彦の強い影響を受けていることが書かれていた。
 もちろん、隆慶一郎の小説はエンタテインメントだから、これと網野善彦の著作を単純に結び付けてそこに娯楽としての「面白さ」を期待すると失敗する。というか、それがわたしの経験だ。『異形の王権』も結局、最後まで読みとおすことができなかったのはそのせいだと今ではわかる。
 中沢さんの『僕の叔父さん 網野善彦』を読むと、この歴史学者の問題意識がなんであったのか、その思想の根っこになにがあったのかがよくわかるような気がする。そのうちに『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』は読んでみようと思う。
 中沢さんはあとがきにこう記している。

古代人が「オルフェウスの技術」と呼んだものをとおして、人は亡くなった人々や忘れ去られようとしている歴史を、現在の時間の中に、生き生きと呼び戻そうとしてきた。墓石や記念碑を建てても、死んでしまった人たちは戻ってこない。それではかえって死んだ人たちを遠くに追いやってしまうだけだ。リルケの詩が歌っているように、記念の石などは建てないほうがよい。それよりも、生きている者たちが歌ったり、踊ったり、語ったり、書いたりする行為をとおして、試しに彼らをよみがえらせようと努力してみることだ。
 本書の美しさは、そういう中沢さんの鎮魂の思いに貫かれているからだろう。そして、中沢さんはこれにつづけてこう語る。
網野さんの歴史学が、まさにそういう行為をめざしていたのではないだろうか。
 ああ、と深く納得した。

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