草田男の犬、腐った党の犬
『戦後俳句論争史』赤城さかえ(青磁社/1990)を読んでいるのだが、これがなかなか面白い。
もっとも、60年もむかしの俳句論争のいったい何が面白いのかと正面切って聞かれると、答えに窮する。そもそも「面白い」「面白くない」などという観点で自分たちの論争が半世紀後に読まれているのを知ったら、あの世で当事者も憮然としているだろう。それでもあえて言うけれども、これらの論争が当時、大真面目であればあっただけに、滑稽さや思わず「あちゃあ」と言いたくなるような恥ずかしさがあって、「面白い」のである。別に興味のない人にオススメはしないけれど。
もちろんこれは、現在の人間の方がむかしの人より賢いとか、ものがよく見えているといったことではまったくない。ここのところの機微を池内紀さんがたくみに言っている。要は、10年前の、あるいは20年前の自分のアルバムなんである。いま見てごらん、変な髪型、変な服、変なポーズ、まともに正視できず、「あちゃあ」と叫ばずにはいられない、あの感覚である
しかしながら、そういう恥ずかしさを少しこらえて、じっくり読むとその「面白さ」の下にごつごつした手応えのようなものがあり、いまのわたしたちの俳句(あるいは詩歌全般)に対する考え方、感じ方の最大公約数のようなものがつくられて行った過程が見えるような気がするのである。
たとえば「草田男の犬論争」。
壮行や深雪に犬のみ腰をおとし 中村草田男
この句の評価をめぐって昭和22年に激しい応酬があった。「草田男の犬論争」については俳句好きの人なら名前くらいは知っているだろうが、具体的になにが争われたのかまでは知らないのではないか。じつはわたし自身が本書を読むまでそうだった。
ここで、論争の要約をしてもあまり意味がないのだが、もしかして興味を持つ人がいるかも知れないので簡単にふれておく。
まずこの句をすぐれたものだとして挑発的な(という意味はあとで説明する)エッセイを書いたのが赤城さかえ。「壮行」はいうまでもなく、出征兵士を見送る壮行で、浮ついた街頭の喧騒、これみよがしの熱狂のかたわらで一匹の犬だけが低く腰を落としているという光景に、愚かしい戦時の世相に対する冷めた眼、批判精神を認めよとした。
これに噛み付いたのが芝子丁種という人物で、この句は草田男が戦争を賛美したものであり、このような反動的な俳人の句を賞揚するとは何事であるか、という論陣を張った。
このように同じ俳句の解釈が正反対になるという点が、そもそも俳句形式の弱さではないかという見方も出るわけだが、まあ、解釈が分かれるのは俳句に限ったことではないから、そのことはいまは論じない。
じつは解釈が正反対になったのはこの論争が行なわれた「場所」に関係がある。さきに「挑発的な」と書いたのはここのことで、この「草田男の犬」というエッセイが発表されたのは新俳句人連盟の機関紙「俳句人」である。この新俳句人連盟(変な名前(笑))がどういう組織であったのかは、論争当事者の芝子丁種の書いた文章を読むとおおよそ理解できる。こういうのだ。
「すでに連盟は、俳壇における著名なファッショ的作家をしばしば糾弾し、(中略)世界労働連合の戦犯調査にも資料を提供しているが、もちろんその名簿の中の一人に中村草田男も挙げてあるし、彼の戦犯的所説や作品資料は・・・」
いままでのところ具体的に『戦後俳句論争史』の中に名指しでは出てこないのだが、当然、敗戦からわずか2年ばかりのこの時点は、革命という言葉が具体性を十分に帯びていたわけで、あらゆる組識でその主導権をめぐって共産党の指令が出ていたことは想像に難くない。つまり、この新俳句人連盟の一部は、最初から草田男たちに戦犯というレッテルを貼りこれをスケープゴートにして、自分たちの勢力を確立させようとしていたと思われる。だから、あえてここに「草田男の犬」というエッセイで「戦犯」と名指し批判されている草田男を賞揚するというのは、まあ、あきらかに喧嘩を売ったことになるわけだ。
ところで、面白いのは赤城にこのエッセイを書かせたのが、「俳句人」の編集委員長、石橋辰之助であったことだ。石橋辰之助といえば、昭和俳句史のなかでは戦前は、ホトトギスから馬酔木を経て西東三鬼たちと京大俳句に合流した新興俳句運動の有力メンバーだ。忖度するに、石橋自身が草田男を血祭りにしようとする連盟のなかの一派に好意を抱いていなかったと思われる。(論争の間は、編集委員長であるという理由で中立をかれは保った。昭和22年の新俳句人連盟分裂──三鬼、三谷昭、富沢赤黄男が緊急動議否決により脱退──のときは、しかし石橋辰之助は組織に残った)
まあ、いまあらためてこんな論争を追っかける物好きはあまりいないだろうが、この芝子丁種の言い草なんかは、まるで北朝鮮である。そもそも芝子丁種ってなんてよむのだ。(笑)俳号でよかった、60年もたって、あれあれ、あんたは「腐った党の犬」だよ、と嘲われるのだから。
(補足)
読み返してみて、なるほど赤城さかえというのは当時、コミュニストの政治的な策謀と果敢に戦った自由主義者だったんだなと勘違いする人がでるかも知れないと気付いたので以下補足する。端的にいうと、この人もコミュニストである。昭和22年の新俳句人連盟分裂について上に書いているが(これについても面白いネタがあるのだが、いまは長くなるのでやめておく)このとき問題になったのは、要は共産党との関係である。脱退した人たちは、これを嫌い、残った人はこれを認めた。赤城さかえは、この新俳句人連盟の分裂ののちにこれに加入している。これまた、忖度するに、芝子丁種みたいなのが主流派をしめては左翼俳人に未来はないと危惧したのではないかなぁ。だから、自分が入る、ト。まあ、その後の歴史はまさにその危惧どおりになったわけだが。
| 固定リンク
「d)俳句」カテゴリの記事
- 蕪村句集講義のこと(2020.12.10)
- 『俳句の詩学・美学』から二題(2014.04.13)
- 蛇穴を出づ(2014.04.05)
- 農工商の子供たち補遺(2013.10.23)
- もの喰う虚子(2013.06.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント