美しい嘘「初恋の来た道」
「初恋の来た道」は素晴らしい映画で多くの人々の支持を集めたのも当然だと思う。美しい自然を情感豊かに描写するカメラワーク。奇をてらわずシンプルで力強いストーリー。主演女優の観客を虜にせずにはおかない可憐さ。そしていうまでもなくこれらをまとめあげた監督のゆるぎない力量。
だから以下に述べることは批判ではない。映画にかぎらず、表現というものは虚であり、虚であることによって、われわれに夢をあたえ、力をあたえ、わずかなひとときでも人生を生きる価値のある場所にしてくれるものだ、というのがわたしの立場である。貧血の写生論をわたしはとろうとは思わない。
そうではあるが、この映画の時代背景は偽りである。偽りという言葉が不適切なら、こうであってほしかったという張芸謀(チャン・イーモウ)監督の願望がつくりあげた夢である。
こういうことだ。
物語が何年のどの地方のものであるかは、映画はあえて直接には語らない。しかし、冒頭の現在のシーンで壁にかかったカレンダーは1999年のものであり、死んだ夫は40年も村の子供たちのために、ただ一人の教師として尽くしてきたんだと母親が息子に語るわけだから、多少のゆとりをみて、この父親と母親(本編の中国の題名は「我的父親、母親」である)がはじめて出会ったのは、おそらく1958年から1959年あたりの時代であろうと推測できる。
ところが、中国の現代史に多少なじんだ人ならば、この時代の農村がなかなかどうして映画のような牧歌的なものではなかったことを知っている。たとえば『神樹』鄭義/藤井省三訳(朝日新聞社/1999)などを読むとそのことが如実にわかるはずだ。
おさらいとして年表を確かめると──
1958年 5月 毛沢東「社会主義建設の総路線」大躍進運動開始
8月 農村の人民公社設立、鉄鋼大増産の号令
1959年 4月 劉少奇国家主席就任
8月 反右傾闘争開始
9月 林彪国防部長就任
この時代を一言であらわす「三面紅旗」という言葉がある。
三つの赤旗「総路線」「大躍進」「人民公社」。
1958年の鉄鋼大増産というのはどういうものかというと、中国人民7億人が人海戦術で年間に一人1トンの鉄を生産すれば、年間7億トンの鉄鋼生産量となり、イギリスをも凌駕できるという毛沢東の号令で、農民が耕作そっちのけで製鉄をやらされたのだ。(ちなみに当時の中華人民共和国の鉄鋼生産量は540万トンばかり。毛沢東は倍増を命じた)ところが、その製法が古代の「土法高炉」(泥の坩堝ですな)だったから、当然、鉄鋼にはならず、しかも農民は党員と称するなり上がりの共産党チンピラ幹部に徴用されて耕作ができていないので凄まじい飢饉が発生した。
ユン・チアンの『ワイルド・スワン』(土屋京子訳/講談社/1993)でもこのばかばかしい土法高炉の描写があったはずだ。終日この泥るつぼに薪を焚き続け(当然山や林はあっというまに荒廃した)子供は家々から鍋や鍬を徴発してはこのるつぼに投げ込んで熔かした。できあがった「鉄鋼」は牛の糞のようなぼろぼろの塊だった。
この大躍進で餓死あるいは栄養不良で死んだ数は2千万人とも3千万人とも言われている。
映画では、村にやってきたはじめてのインテリである先生は、各家庭を回ってそこで賄いをしてもらえるというオハナシだ。校舎を建てる村人(と憧れの先生)にはたっぷりとしたマントウや餃子を入れた陶器の弁当が配られる。盲目の母親は「先生にたっぷりたべてもらいな」とご馳走作りに励む少女に声をかける。湯気をあげるふかふかしたマントウ、きのこ餃子──
『神樹』では壁の土を食べて餓えを凌ぐ農民たちの凄まじい描写がある。
張芸謀(1950年生)の出自は国民党の父親だという。この大躍進の時代にかれは8歳から10歳くらいの子供時代を過ごした。反革命分子の子弟であるかれが、ふつうの農民よりましな栄養状態だったかどうか。
だから、この映画は張芸謀自身の子供時代へむけた慰藉であり夢なのだとわたしは思う。映画のなかの1959年、おそらくは河北省の農村では、貧しくとも美しい少女がいて、そこではあたたかくふんだんな食べ物がたしかにあったのである。それはリアリズムではないけれど、リアリズムを越えた真実なのだ。
もうひとつ、この映画は章子怡(チャン・ツィィー)のデビュー作で、たしかに彼女だけでもう十分という評が多いのだが、(それをとくにいけないという理由はないが)初恋の相手であった先生も忘れてほしくないような気がする。
先生が町に連れ戻され、村に帰ってこれなくなる箇所で、村人が「どうも右派だということだ」という場面がある。ちょうどこの時期は、右派闘争とよばれる権力闘争が繰り広げられていた時代だ。右派というレッテルを貼られた何十万人という学生が放逐された。
先生は少女に「赤が似合うね」という。
ほんとうに美しい赤色をチャン・ツィィーに見ている。「三面紅旗」への痛烈な皮肉だと見るのはもちろん深読みにすぎるだろうけれど。
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