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2004年12月

2004/12/31

12月に読んだ本

『増補 黒衣の短歌史』中井英夫(潮出版/1975)
『猿を探しに』柴田元幸(新書館/2000)
『トラベリング・ウイズ・ゲバラ』アルベルト・グラナーデ/池谷律代(学習研究社/2004)
『徒然草を読む』上田三四二(講談社学術文庫/1986)
『セレクション歌人22 中川佐和子』(邑書林/2003)
『日本社会の歴史 上』網野善彦(岩波新書/1997)
『ヨーロッパとイスラーム』内藤正典(岩波新書/2004)
『NIGHT FALL』 NELSON DEMILLE (WARNER BOOKS/2004)
『短歌があるじゃないか。 一億人の短歌入門』穂村弘・東直子・沢田康彦(角川書店/2004) 
『ことばの引き出し』池内紀(大修館書店/1993)
『日本社会の歴史 中』網野善彦(岩波新書/1997)
『セレクション俳人19 橋本榮治集』(邑書林/2004)

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12月に観た映画

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人
監督:アルフォンソ・キュアロン

キッチン・ストーリーズ
制作:ノルウェー/スウェーデン
監督:ベント・ハーメル
出演:ヨアキム・カルメイヤー(イザック)、トーマス・ノールストローム(フォルケ)

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いやみな俳人 橋本榮治

『セレクション俳人19 橋本榮治集』(邑書林/2004)の著者あとがきを引く。ふたつの句集のあと、未刊の第三句集『越在』の題名にふれる箇所。

祝賀会でTBSのアナウンサーが第一句集『麦生』を「ばくふ」と読んだ。次は『新星賦(新政府)』だねと、と隣から囁かれた。また、新年のパーティでは著名な某俳人に「何と読むんだ」と『逆旅』を問われてしまった。集名の『越在』は大丈夫だろうか。旅先で考え、仕事をこなしながら漂う今の心のままなのだが。

へえ、あなたには読めない日本語はないんですか、とまず思った。

麦生は「むぎう」と読む。
わたしの歳時記には草田男の「いくさよあるな麦生に金貨天降るとも」が作例としてあげてある。

逆旅は「げきりょ」。
月日は百代の過客にして行かふ年もまた旅人也。「おくのほそ道」の書き出しの出典は李白「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客、而浮世若夢」である。

もちろんこの「あとがき」のふくみは明白だ。
職業としてアナウンサーを名乗るほどの人間が不確かな読みを確かめもせず公式の場に平気で臨む不誠実。
俳諧を稼業として世を渡るつもりの人間が「おくのほそ道」の冒頭に深く関連する言葉を知らないお粗末さ。

ここまでは、わたしも同感。しかし、この本を手に取るのは、歳時記をきちんと調べる俳句好きの人間ばかりとは限らない。ちゃんと、なんと読むのか、本に書いておくべきではないか。別に出典や、意味まで書くにはおよばない。ルビを打っておくだけのことがなぜ嫌なのか。知っていることはそれほど偉いのか。こんな言葉も読めない人間がいるとはね、と莫迦にしながら、読者にもそれを教えない。自分で調べなさい。それがわたしのやりかたです、というわけだ。
自分で調べれば分かるようなことをいちいち聞くな、という意見は正しいようだが、わたしはとらない。調べる手だてが乏しい人もいるだろう、日本語を母国語としない人もいるだろう。簡単な漢字とひらがなしか読めないという人だっているはずだ。そういう人間は、「いらない」人間だと暗にこの俳人は言っている。そんなつもりはない、というなら、想像力が欠けている。
俳句の嫌なところはこういう「村」の「常識」を押し付けてくるところだな。
ところで『越在』はなんて読めばいいのだ。読み方がわからなければ意味も調べられない。
ほらね、こうやって人に嫌な気持ちを与えるでしょ。(笑)

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2004/12/30

銀塩写真の実力

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むかしのアルバムの写真を何枚かデジタル化してみた。
この写真はスキャナーで360dpsの解像度で取り込んだもの。写真のリンクをたどってFlickrに飛び、写真の左側にある「ALL SIZES」というボタンをクリックして、さらにそのページの「Original」というボタンをクリックすると、1028×1515のサイズの写真を見ることができる。
こうして大きく引き伸して眺めてみるとむかしの銀塩写真というのはじつにいいものだと思うなあ。
Flickrには、Old Photos というグループがあり、いろんな国の人の家族アルバムから再録された古い写真を見ることができる。
(ここ)
すこし手間はかかるが、こうしてデジタル化しておくとまた新しい楽しみ方ができるようだ。バックアップは Flickr などにアップロードしておき、非公開としておけば、自分のPCなどがクラッシュしても簡単にリストアできるし、家族にもシェアできる。
古い写真を眺めることは、そのときファインダーを覗いていた人の視野をもう一度再現するような感じがある。たとえばこの写真は亡くなった義父の撮ったものだが、そのときにやはりこれと同じものを見ていたんだな、と思うとなんだか一瞬タイムスリップでもするような不思議な気持ちになるのだった。

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2004/12/27

これなあに?

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大阪のオフィス街のどまん中になんとなく物騒なものがあるように見えるが、べつにあやしいものではない。もっとも分解前のモノを知らないとなんだかわからないだろうなあ。(笑)

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ラベルマイティ

連れ合いの粘土工房用の名刺やパッケージのシールなどを制作するソフトとしてジャストシステムの「ラベルマイティ for Mac」を買った。これまではwindows98のフリーソフトでなんとかやりくりしていたのだが(それはそれでなかなか面白かった)Macのフリーソフトというのはどうもまだなじみがなくて、いいフリーソフトがみつからないので、まあいいか、と購入に踏み切ったわけだ。

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使ってみた感想は、テンプレートを流用するならいたって簡単、というところ。10分もあれば名刺くらいはさくさく作れてしまう。さっそくつくった名刺がこの写真。問題はオリジナルのデザインをつくろうとしたときの使い勝手だろうか。しかし、実際のところ、これだけサンプルの種類があれば、素人がへたな自己満足のデザインを考えるよりはよほどいいものができるかも。
ちなみに、パッケージの仕様によれば、テンプレートは18種類で約2000点、フォントが欧文32書体、和文15書体。あとイラスト・マーク類は3200点、背景模様・枠飾りが6500点。

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2004/12/23

重い後味『NIGHT FALL』

『NIGHT FALL』NELSON DEMILLE (WARNER BOOKS/2004)を読み終える。
このエンターテインメント作家の力量にはほとほと感心するしかないなあ。『LION'S GAME』のときも、あっけにとられるようなエンディングだったが、本作はさらに上を行っている。
訳が出るのは来年か。どんな反応だろう。なんかよくわからへん、という評価になりそうな。
国産のエンタテインメント小説はとんとごぶさただが、おそらくこういう結末は編集者が駄目だというのじゃないかなあ。「ねえ、これじゃ読者が納得しませんよ。ハッピーエンドだろうと、アンハッピーエンドだろうと、かまわない。でも、ちゃんとわかるように終わってくださいよ」
最後の二行ばかりを何度も読んで、しばらく考えをめぐらし、うん、たぶん、これでいいだろうと納得する。
いや、やられました。
しかし、あつかった事件(TWA800と911)がどちらも重いものだから読後感もけっこう重い。このフラストレーションそのものが、アメリカ人の終わらない不満と不安をそのままあらわしているのだろうか。

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イスタンブールの回転寿司

今日のお昼は娘と近所の回転寿司。カウンターに座って注文できる寿司屋には違いない。(笑)
go round sushi dining
デジカメに撮ってこの写真をFlickrにアップしたら、さっそくコメントをもらって驚いた。ベルンにいる人からだが、かれがはじめて回転寿司なるものを見たのは、会議で訪れたイスタンブールのホテルだったというのだな。やれやれ、そんなところまで進出していたのか、ニッポン。

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2004/12/22

まほちゃんち

「芸術新潮」12月号を読んでいたら、「島尾伸三+潮田登久子+しまおまほ、貧しいながらも楽しいわが家」という記事を発見。
(ここ)
いま、水戸芸術館現代美術ギャラリーで「まほちゃんち」という三人展をやっているという。
あれ、この人はもしかして、と思って最後まで読んだら、島尾伸三さんというのは、やはり島尾敏雄とミホ夫人のお子さんだった。そうか、島尾敏雄の孫は漫画家をやっているのか。
この家族はなかなか面白そうだ。

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2004/12/20

ジョン・コーリーのジョーク

NELSON DEMILLEの新作『NIGHT FALL』(WARNER BOOKS/2004)、いま三分の二くらいのところ。1996年のTWA800墜落と911を結ぶテーマになるようだが、まだちょっと展開が読めない。ただし、皮肉な結末を持ち味にしているデミルのことだから、なんとなく嫌な感じはあるな。予想があたっているかどうかは、もうすぐわかるだろう。それはやめてくれよ、と願っているのだが。
ジョン・コーリーの悪辣なジョークは健在で、あいかわらず笑える。

国の機関である対テロリスト対策本部の同僚(お互いにNYPD出身)とこっそりかわす会話。ジョンが言う。

「アラブの穏健派の定義とは何か?」
「何だ?」
「弾を使い切った奴」

ふたりでくすくす笑ったあとで、今度は同僚が言う。ただしこれは原文で引用する。

"What's the difference between an Arab terrorist and a woman with PMS?"
"What?"
"You can reason with an Arab terrorist."

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2004/12/18

チェスのTSE則と北朝鮮

ボビー・フィッシャーが入管法違反で日本政府に拘束された話題は今年の7月16日の条に取り上げた。(「俵万智とボビー・フィッシャー」)
今日の朝日新聞によれば、アイスランドがビザを発給するようだ。変人には違いないが、なんとか日本政府も出国させてやればいいのだがと思いながら記事を読んだ。

日本で拘束のチェス元王者、アイスランドが査証発給へ

アイスランド外務省は16日、入管法違反(不法入国)の疑いで日本で身柄を拘束されているチェス世界選手権の元王者ボビー・フィッシャー氏に対して無期限の居住査証を発給することを決め、日本政府に伝えた。同外務省は、「日本を出国するかどうかは日本政府次第だが、アイスランドに入国した場合はフィッシャー氏に対し査証を発給する」としている。この決定は16日までに在日大使館などを通じて日本側に伝えたという。

アイスランドは1972年、フィッシャーが29歳でソ連のボリス・スパスキーを破って世界チャンピオンになったときの開催国である。なかなか粋なはからいのように思えるが、こんな感想はナイーブにすぎるかもしれない。
そこで今日はチェスの話を書いてみる。チェスの世界は奇人変人ぞろいで、ゴシップの宝庫なのだ。指すのはへぼもいいところなのに、こういう話題には目がないのである。うまく着地できるかどうかはわからない。

TSEという言葉をご存知の方はなかなかのチェス通だ。
20世紀の初頭にA・ニムゾヴィッチというチェス・プレーヤーがいた。(Aron Nimzowitsch 1886-1935)ロシアはリガという地方都市に生まれたために世に出るのが遅れたようだが、その著書『My System』は斬新なアイデアにあふれ、現代チェス理論の新しい時代をひらいたと言われている。(といっても別に読んだことがあるわけではない)

1927年、ニューヨーク。
ニムソヴィッチはユーゴーの強敵ビドマーと対局した。現在ではチェスのトーナメントでは禁煙らしいが、この当時はとくに規定はなかった。ビドマーは葉巻の愛好者で、対局中にスパスパやりはじめた。ニムゾヴィッチは煙草はやらない。チェスの公式マッチでは直接対局者に話しかけることはできないのでニムゾヴィッチは審判に葉巻を吸うのを止めさせるよう抗議した。ビドマーはこれを受け入れて葉巻の火を消してサイドテーブルの灰皿に置いた。
ところが、ニムゾヴィッチは執拗に抗議を続ける。
審判が「だって葉巻には火がついていないじゃないですか」と言ったときにニムゾヴィッチはこう言い返した。
「でも今にも吸おうとしているように見える。脅しは実行よりも効果があるというじゃないか」

これを英語で言うとこうだ。
The threat is stronger than its execution.
Threat, Stronger, Execution のそれぞれの頭文字をとってこれを「TSE」という。

経済制裁を発動すると、それは宣戦布告とみなすそうだ。ちょっと前には、戦争となればトウキョーは核の火の海になるとあの国の厚化粧のアナウンサーが声を張り上げていたな。
「経済制裁するぞ」という脅しと、「核の火の海にするぞ」という脅しを並べてどちらが迫力があるかといえば、これは考えるまでもない。
問題は「意思と能力」だが、実際に起爆できるかどうかは別として核はもっているようだ。運搬能力は弾道ミサイルはあやしいが、かれらは別にミサイルにこだわる必要はないだろう。日本海側のどこかで小型トラックに移しかえて、東京に運べばいいだけである。
では事前に、これを完璧に把握し阻止できる諜報能力を日本政府はもっているだろうか。たぶんない。
すると、TSEではどうもかないそうもないとわたしは思う。
「経済制裁発動!!」なんて幼稚な宣言は気分的にはすっきりするが、TSEのチキンレースをやれば、たぶん面子を失うだけじゃないかな。安倍晋三あたりが「おう、やるならやってみろ。首都圏一千万人くらい殺されても日本が滅ぶわけじゃない」とでも啖呵を切る気があれば別だが。
だんまりで実質的に日本からあの国へのマネーの流れをひとつひとつしらみつぶしに断っていくしかないかのなあ。

Nimzowitsch photo by Sutton Coldfield Chess Club
(注)
ニムソヴィッチの元ネタは『将棋とチェスの話』松田道弘(岩波ジュニア新書/2000)です。これはジュニア新書なので大人はあまり手に取らない可能性が高いけれど、とても面白い本でオススメです。

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2004/12/15

河馬を放つ

坪内稔典さんの長年の夢は、全国の動物園のカバに会いに行くことだった。
(佛大通信vol.453 ここ)

ぼくが子どもの頃、カバは動物園の人気者でした。でも、いまはコアラやパンダなどかわいい動物が人気ですね。カバは大きくて、お腹も出ていて、短足で、顔も不細工だし……。子どもたちがあまり見てくれないものだからカバの数はどんどん減っていって、現在では全国に60数頭を数えるきり。それを全部見に行きたいというのがぼくの夢です。

俳句総合誌の「俳句研究」1月号から坪内さんの「全国カバ図鑑」という連載が始まった。どうやら夢が実現したらしい。(笑)今月号は、熊本市動植物園のザブコ(メス34歳)とケンポー(メス33歳)の巻。ケンポーは1971年5月3日の憲法記念日に生まれたので、ケンポーなのだ。
hippo and spirits
ところで、大好きなカバに会いに行った熊本で坪内さんはびっくりするようなニュースを耳にする。
この熊本市動植物園というのは水前寺海苔でも知られる江津湖のすぐ近くにあるのだが、この江津湖にカバを放つ計画があるというのである。
もちろん、こういう話はすんなり実現はむつかしいものだが、日本のそれなりに広い水辺でカバが元気にザブザブやってる光景なんて、なかなかいい景色ではあるまいか。
この江津湖というのは、坪内さんも「全国カバ図鑑」の中で書いておられるけれど。中村汀女や歌人の安永蕗子のふるさとといってもいいところだ。

うき草の寄する汀や阿蘇は雪
中村汀女

はなびらを幾重かさねて夜桜のあはれましろき花のくらやみ
安永蕗子

そこにカバが悠々と水浴びしたり泳いだりする。わたしはいいと思うんだがなあ。
もっとも実際のカバくんはかなり危険な動物で、一説によれば、アフリカでは、かつては(いまでも?)ライオンに殺される人間よりカバに殺される人の方が多かったんだそうですな。安全対策はくれぐれも適切にね。

註記)写真は『みんなのかお』さとうあきら写真/とだきょうこ文(福音館書店/2003)のカバの頁。左の真ん中のカバが熊本市動植物園のカバ。ザブコかケンポーかはわからない。この写真集は国内の動物園のいろいろな哺乳類を正方形の写真にして並べたすごく楽しい本で、オススメ。

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2004/12/14

父われは

母親と幼子の情景はいつもこころを和ませる。父親は役にすぎないが、母親はいつも地である。もっとも女にはまた違った意見があるかもしれない。

『セレクション歌人22 中川佐和子集』(邑書林/2004)から。

母のことすぐに児らは言い父なるは聞かれて答える存在らしき

しゃくりあげ泣きいし吾子は寝入るらし吐く息のやや太くなりゆく

子が抱ける犬もわが子も幼くて幼きものは淡く匂うも

さす傘に子を引き入れて叱るとき地上に母と子のみとなりぬ

たどたどと本を読みいる長の子の脇に弟はうなずきており

為り手なき蛇の端役を引き受けしわが子に緑羅の光る布買う

期待して子らが見るゆえ母われは凧を上げんと野に走り出す

今度、生まれ変わったら母になってみたいと、ときどき思う

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2004/12/12

徒然草を読む

『徒然草を読む』上田三四二(講談社学術文庫/1986)

 自分の死はどれくらい先にあるのだろう。
 朝目が覚めて、さて今日もはたして夕方まで生きていられるだろうか、とはふつうはだれも考えない。
 しかし、言うまでもないことだが、わたしたちの生はいつどこで断たれるかはほんとうはわからない。ならば、もう次の瞬間には自分は死んでこの世にいなくなってしまうかもしれないと、一瞬、一瞬に考えながら、ああ、まだ生きている、不思議だ、不思議だ、と感じながら時間を見つめている人がいても、それはそれで正しい生き方だと言えるのかも知れない。
 なぜなら何十億年というこの宇宙の時間のなかではわたしの生というものは大洋の波間に一瞬浮かんだ泡のようなもので、ぱちんとはじけて消えている状態のほうが絶対的に安定しているからだ。死はあまねく絶対的であり、生は一時的なものである。
 ただし、そんなふうに自分の死を四六時中見つめていることは不健全だ。そんなことはひとまず忘れて、もっと前向きに生きていきなさい、というのが、常識的な大人の意見というものだろう。すくなくとも世俗の人間はそんな風に生きていくものだ。
 だが、すこし発想を変えて、死を不確かな未来にあるものとして日常から隔離しておくのではなく、日常のなかにおいて、次の瞬間にはもう死がやってくるのだと、とりあえず考えてみることは、現代のわたしたちにとっても案外いい手である。

 大病の後、上田三四二は医師だったから自分の病状や手術後の生存の可能性などは、一般の人とは違った覚悟でこれを考えざるを得なかった。かれにとって死は未来のどこかにあって、とりあえず見ない振りをしておいてもいいものではなかった。もう死は目前に迫っていた。河を突然断って奈落に落とす滝の音が耳元にはっきり聞こえていた。ただ、水面ぎりぎりにあるかれの視点からは水がどこから垂直に落ちていくのかは見えなかった。そこまでの距離、すなわち時間があまりないであろうことだけがわかっていた。
 そのとき上田の心の中にあざやかによみがえってきたのが、むかし読んだ徒然草の言葉だった。

されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。たゞ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失わるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの(いとま)幾ばくならぬうちに、無益(むやく)の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を(わた)りて、一生を送る、尤も愚かなり。
(第百八段)

 上田自身の言葉を引いておく。
 縦の時間における寸陰愛惜と、横の空間における諸縁放下は、兼好の出家隠遁という行為を支えるふたつの柱である。しかし、隠遁の「つれづれ」が、寸陰愛惜を内実としていると言えば、一見、奇異に聞こえるかもしれない。本書の中で、私の最も力を尽くしたのはこの兼好の時間論であり。死すべき、有限の、つまりは無常の人間の荷なう時間という難問を、彼岸のたよりという救済の項抜きで解こうとするところに、兼好の心術の独創性があるとするのが私の見当だった。
(あとがき)

 つまりは、あと何年生きる事ができようと、つまらない、どうでもいいことに時間を費消していれば、その時間はじつはあってもないのと同じことだ。逆に、もし一瞬一瞬を死の側から照らして、それを愛惜し、時間そのものを無限に微分していくならば、人は一瞬という時間の中にどれほどの時間でも折り畳んでいくことができる、というのが上田が徒然草から引き出した、時間論なのである。しかし人はそれは詭弁ではないか、というだろう。いかに寸陰愛惜を唱えようと、物理的な一秒は一秒ではないか、と。
 これに対して、たしかにそうだと上田は答える。
客観的に見れば、もちろんそのような時間捕捉の行為は戯画にすぎない。瞬間を連ねて、その瞬間のうちにどれほど時間が時間を咥え込もうと、人間の生という限定された線分的時間は、その限定の果てである死に向かって直線的に流れてゆくことをやめない。
 
  しかし問題は、瞬間が「精神の光る雫」であるようないまを、生きることだと上田は考える。人生の一大事はただひとつしかない。くだらないことにかかずらって、いたずらに時間を殺してしまってはならない。無常迅速である。そして現代人にとって、ほんとうの人生の充実は日々を「忙しく」することではない。来年の手帳にもうスケジュールがいっぱい入っているなんてのを充実だと勘違いしてはいけないのである。なにが充実か。いうまでもないだろう。
 ひさしぶりに、大切なことを真剣に考えるきっかけになるようなすぐれた本である。

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2004/12/09

「ソーソー」は「まあまあ」にあらず

 たしかジェフリー・アーチャーの短編だったと思う。ただし記憶で書くのでかなり違っているはずだ。
 冷戦が終わってまもないころ、主人公が休暇で訪れたプラハだかブダペストだかのカフェで英字新聞を読んでいる。一人の老紳士が話しかけてくる。英国の方とお見受けしました。もしよろしかったらすこしだけおしゃべりさせていただけませんか?なにしろ長いこと英語をつかっていなかったものですから、まだわすれていないかどうかためしてみたいのです。(ここで読者はもういちど冷戦が終わったばかりであることを思い出す)
 老人の英語はすこし発音に難があるが文法的には申し分のないものだった。
 もちろんかまいませんとも。聞けば、老人は地元の大学で長いこと英語を教えてきた学者で、いまはもう引退した人だった。やがて、話が主人公の母校であるオクスフォードのことになると、老人はあの通りにはなんとかという店がいまでもあるのかとか、そこからは北側にコレッジの塔がよく見えたでしょうとか、懐かしそうに話すのだった。老人の「記憶」は驚くほど正確だった。
 やあ、すっかりおしゃべりに夢中になって、とんだお邪魔をしてしまいました。おかげさまで錆付いた英語に油を差してやることができましたわい、と老紳士は礼を言って立ち上る。主人公はすっかりこの引退した学者の学識に感銘を受けて思わずたずねる。先生、オクスフォードにはいつごろいらしたのですか。コレッジはどちらで。
 すると紳士は、ふと遠いものを見るような眼差しになってこう言う。お若い方、我が国は長いこと西側とは交渉がありませんでね。はずかしいことですが、わたしは生まれてからこれまで一度も国を出たことがないのです──

 現実には、外国語はいくら本を読んでもわからないことが多い。ほんとうなら畳の水練は通用しないものだ。簡単な表現ほどそうだったりする。
 たとえば、たまたま、迷い込んだこのHPの記事(習わない英語)がなかなか面白い。
(ここ)
 
 英語圏の人と話していてよく聞かれるのが、"How are you doing ?" なんてやつで、わたしもよく "So so" と答えている。気持ちとしては「まあ、まあってところかな」というくらいの気持ちだ。ところが、実際にそういうニュアンスがうまく伝わるかどうかは微妙だ。たぶん、ながく日本にいるネイティヴ・スピーカーは、日本人の "So so" として理解してくれるのだろうが、たとえばアメリカでこれをつかうとどうも変な具合らしい。
 上記のサイトではこんな風に書かれている。

ある人は「So soは”まだまだ”、”いまいち”という意味だと思う」と言っていた。私も全く同感である。
またある別の人からの情報によると、Askme.comというサイトで回答者のランク付けが以下のようになっていたとのこと。
「Excellent , Good , Average , So-so , Not so good」
というわけで、少なくともSo-soはAverageより下なのである。

 もうひとつここのHPでおもしろいと思ったのは、"For here or to go"という英語。これなんかはアメリカで暮らした人ならたぶん誰でも知っていることなんだろうが、そうでない人間(たとえばわたし)にはなんのことかわからなかった。まあ小説の中とかだったら、その場面が思い浮かぶからたぶんピンとくるとは思うが、これだけではわからない。
リンクに飛ぶのもめんどくさいという人がいるかもしれないので、答えを書いておく。
 マクドの「こちらでお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか」というアレである。
 ふ〜ん、すると合コンで気に入った女の子は「おれあの娘、ツーゴーだな」なんて若者は言うのだろうか。(笑)

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2004/12/08

とんだ「未来地図」

flickr仲間のたまきさんに教えてもらって、iPhotoからflickrに直接写真をアップロードするプラグインを入れてみた。なるほど、これは快適だ。導入の仕方など、親切丁寧にたまきさんがまとめてくださっている。(ここ)ありがたい。ひとつだけ付け加えておくと、ぼくの場合は、「open Flickr upon completion of export」というボタンのチェックを外しておかないと、エラーになるようだった。なにか他に原因があるのかもしれないが、これを外すとスムーズに写真はflickrに流れていく。いや、ほんとに流れていく感じなのだ。快感である。
このiMacの写真もそうやってアップロードしたものだ。

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ところで今回から、写真を撮ったときの細かいデータ(いつ撮ったか、その時のシャッタースピードは、露出は、なんてデータ)を自動的に添付している。知らなかったが、最近のデジカメはこういうデータをそれぞれの写真に付けているらしい。ほとんど、説明書を読まない人間なので、いまさらこんなことにも驚く。ところが、これまでは、使っていたアルバム・ソフトのせいで、このデータ(Exchangeable Image File 略してEXIFというらしい)が勝手に削除されていたのだ。

だが、今回はじめて、自分のEXIFデータを見て、わたしは愕然としましたね。
なんと日付が2009年12月7日になってるじゃありませんか。もうこのデジカメ手に入れてから1年近くにはなると思うが、いままでずっと5年先の日付を写真に貼付けていたことになる。
あわてて、カメラの設定をいじって、5年バックさせました。これまで撮っていたのは5年の「未来地図」であったか。(笑)

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Macが家にやって来た

結局、パワー・マックG5は、場所をとるのがいやなので、iMacの17インチを買いました。
このシリーズのG5プロセッサーには1.8Gと1.6Gの二種類がありますが、資料のスペックをみると、わたしの使い方であればほとんどスピード差は体感できないと思った。むしろ、予算はメモリーに使う方がいいだろうと方針策定。黒服のアップル兄さんに「ゴーイチニ、2本差しで1ギガにしてくれるかい」と言ったら、にやっと笑って「うん、いいですね」だと。(おっさん、なかなかやるじゃん)

今日の夕方届いたので、とりあえずひととおりの設定を終えて、すこしずつ環境を整えている。
考えてみると、この時期がコンピュータで遊ぶときの一番たのしい期間かもしれないなあ。
とくにOS Xはマルチユーザーという考え方で使うことができるので、家族のアカウントを設定し、それに合わせたメール環境を整え、以前のメールやらアドレスブックやらデータを移植することになる。二台、三台分の設定をしているような気がしてくる。

ところでマックのいいところは、キーボードのストロークがなかなか快適で、これならブログのエントリーを書いていくのも結構快適なような気がする。
さて、もうひといき、がんばろう。マックからのはじめてのエントリーでした。

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2004/12/04

アルベルト・グラナード

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先月のエントリーで映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」のことにふれて、最後のシーンに登場する老いたアルベルト・グラナード、あれは本人だろうか、と書いた。
ゲバラの乗った飛行機を見送るアルベルトが、深い皺を刻んだ老人に入れ換わる印象深い場面。
『トラベリング・ウイズ・ゲバラ』アルベルト・グラナード/池谷律代訳(学習研究社/2004)の口絵写真に、映画撮影のときに主演のガエル・ガルシア(ゲバラ)とロドリゴ・デ・ラ・セルナ(アルベルト)と並んで写真に収まっているのが、ご本人である旨書いてある。やはり映画の人物も本人の映像であったと思われる。
しかし本書の口絵写真の方はやんちゃな爺ちゃん風で、映画の渋い老人(星霜を経た男の美)とまた違った味がある。

「こういうことだよ。表と裏だ。コインにはいつも二面がある。風景の美しさ、土地が生み出す自然の富の裏には、それを作り出す貧しさがある。貧しい者の高潔さと寛大さとは対照的に、地主や国を支配する者の精神は卑しく、あさましい」
『トラベリング・ウイズ・ゲバラ』p.37

若きゲバラがアルベルトに語った言葉。若くて優れているということは、こういう見方がきちんとできることだ。
同じように若くても、億万長者というのは、やはり卑しく浅ましい顔つきだということを、そういえば最近テレビでよくみかけたような気がするな。

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2004/12/02

棒に振らなきゃ意味がない

人生棒振り物語、といってもオーケストラの指揮者の話ではない。文字通り人生を棒にふる物語。

・・・少年が父親から、お前は恐ろしい鮫コロンブレの犠牲に選ばれたのだ、あの鮫は生涯お前を追って食い殺そうとするだろう、だから絶対に海には近づくな、と言われる話。
だが海への情熱は捨てがたく、結局息子は船乗りになり、コロンブレを逃れて海から海へと狂おしい旅を続ける。ちょうど白鯨を追って海から海へ狂おしい旅を続けるエイハブ船長の陰画のように。が、その彼もやがて老いて疲れ、鮫に追いつかれてしまう。ところが鮫は、彼を食い殺しはしない。「なぜって、おれは、おまえが思いこんでいたように、おまえを食うために七つの海をついて回ったんじゃないからさ。これを渡すよう海の王さまに命じられただけだったのだ」(武山博英訳『現代イタリア幻想短編集』図書刊行会)
こうして鮫が舌に載せて差し出したのは、幸運と力と愛と心の平安をもたらす真珠だった。だがもう遅すぎる・・・・・もはやコロンブレも疲れはてている。自分の人生を棒に振ったのみならず、自分に取り憑いた怪魚の一生まで棒に振らせてしまった、というダブル棒振り物語。
柴田元彦さんの『猿を探しに』(新書館/2000)に紹介されているブッツァーティの「コロンブレ」というお話。 柴田さんが書いておられるように、あるタイプの人は人生を棒に振るお話に慰めを求めるようだ。これと反対に、記憶術やら速読やら無駄のない時間の有効活用やら人生の成功なんてお話が大好きだというタイプもいる。お互いが相手のことをバカだと軽蔑しあっているのだが、皮肉なことに、人生を棒に振るお話に慰めを求めるような人が「成功」していることもある。半ズボンの東大助教授はその典型ではなかろうか。

ところで、この本(『猿を探しに』)のイラストを描いている「きたむらさとし」さんの絵はなんとも魅力がある。ロアルド・ダールの童話のイラストをやっていたクエンティン・ブレイクにちょっと雰囲気が似ているなぁと思った。たまたま、活動の拠点はこの画家もロンドンらしい。ちょっと注目。

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2004/12/01

迷える子羊とG5

・・・神父様、わたしは罪を犯しました。
一昨日、わたしはまたヨドバシカメラに行って触ってしまいました、パワー・マックG5。
わたしはドス法典の「dir」だの「cd」だのいうお経をマシンに捧げる時代からの敬虔なエムエス教徒でした。林檎教団などという異教には見向きもしなかったことは聖ウィリアムもご照覧あれ。そのわたしが、なんと、ここ数日、パワー・マックを夢に見るようになったのです。あまつさえ、今日は本屋で「Mac Fan」をめくり、とうとう1月号を買ってしまったのでございます。ああ、わたしはいったいどうなってしまうのでしょうか。
え、リナックスじゃなければ地獄には落ちないって?・・・・

いま、使っているPCも7年目に入り、さすがにそろそろ買い換え頃ではある。
近所の家電の量販店で、バルクのデル・マシンが6、7万円ででているから、まあ、あれでいいかと最初は思っていたのである。ところが、どうも気が乗らない。
パワー・マックも正直なところG4までは、あんまり食指が動かなかったのだ。ところが、ショップでG5に触ってみると、えらくこっちの感覚に響いてくる。なんだか面白そうだ。
わたしの目論見では写真と音楽が快適に扱えれば十分なので、プロセッサはデュアルでなくてもいいだろう。するとG5が18万円ほどで買える。これは、ぐぐっときましたね。

ところで、いささか旧聞に属するのだが、G5のことをウェブで調べていたら、こんな記事を発見。笑った。(wired news 2004.2.4)

新品の『Power Mac G5』(パワーマックG5)の中身を取り出して空っぽにし、ウィンドウズマシンに改造する様子が詳しく解説されていたのだ。これに対してマック・コミュニティーは、信じられないほど極端な反応を示した。
(中略)
マック・コミュニティーの反応はすばやく、激烈だった。
アンディー氏によると、電子メールの受信箱が1300通以上のメールであっという間に満杯になり、受信できずに返送されたメールも無数にあったという。届いたメールに書かれていたのは、ぶっ殺してやるという脅し、侮辱の言葉、ありとあらゆる悪口など、「すてきで、情のこもった」メッセージばかりだった。
「おまえのPCが爆発して、おまえの顔に生涯、悲惨な傷跡が残るよう祈っている。今回の所業により、おまえが永久に地獄の火に焼かれることは間違いない」というメールもあった。
睾丸を縛られて吊るされ、火あぶりにされればいい、というメッセージもあった。
「何の落ち度もないデュアル・プロセッサーのG5を、粗末なウィンドウズPCに改造したことで、あんたは地獄行きの切符を手にしたのだ」と書いてきた人もいる。

まあ、たしかにたかがコンピュータでしょ、というのもリクツではあるのだが、いまのわたしの気分は、「こら、なんちゅうことすんねん!」でありますなぁ。

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2004年11月 読んだ本

『色後庵漫筆』中村真一郎(白楽/1990)
『戦後短歌史』上田三四二(三一書房/1974)
『新選組始末記』子母澤寛(中公文庫/2003)
『こぼれ種』青木玉(新潮社/2000)
『セレクション俳人8 佐々木六戈集』(邑書林/2003)
『この世 この生』上田二四三(新潮社/1984)
『誰の死体?』ドロシー・L・セイヤーズ/浅羽莢子訳(創元推理文庫/1993)
『無口な友人』池内紀(みすず書房/2003)
『しおり草』大岡信(世界文化社/1998)
『逆説の日本史(1)古代黎明編』井沢元彦(小学館文庫/1997)
『戦後俳句論争史』赤城さかえ(青磁社/1990)
『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一(集英社新書/2004)
『「むすんでひらいて」とジャン・ジャック・ルソー』西川久子(かもがわ出版/2004)
『セレクション俳人 07 岸本尚毅』(邑書林/2003)
『女歌の百年』道浦母都子(岩波新書/2002)
『遊園地の木馬』池内紀(みすず書房/1998)

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2004年11月 観た映画

セントラル・ステーション
 監督:ウォルター・サレス
 出演:フェルナンダ・モンテネグロ

初恋の来た道
 監督:張芸謀(チャン・イーモウ)
 出演:章子怡(チャン・ツィィー)

あの子を探して
 監督:張芸謀(チャン・イーモウ)

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