徒然草を読む
『徒然草を読む』上田三四二(講談社学術文庫/1986)
自分の死はどれくらい先にあるのだろう。
朝目が覚めて、さて今日もはたして夕方まで生きていられるだろうか、とはふつうはだれも考えない。
しかし、言うまでもないことだが、わたしたちの生はいつどこで断たれるかはほんとうはわからない。ならば、もう次の瞬間には自分は死んでこの世にいなくなってしまうかもしれないと、一瞬、一瞬に考えながら、ああ、まだ生きている、不思議だ、不思議だ、と感じながら時間を見つめている人がいても、それはそれで正しい生き方だと言えるのかも知れない。
なぜなら何十億年というこの宇宙の時間のなかではわたしの生というものは大洋の波間に一瞬浮かんだ泡のようなもので、ぱちんとはじけて消えている状態のほうが絶対的に安定しているからだ。死はあまねく絶対的であり、生は一時的なものである。
ただし、そんなふうに自分の死を四六時中見つめていることは不健全だ。そんなことはひとまず忘れて、もっと前向きに生きていきなさい、というのが、常識的な大人の意見というものだろう。すくなくとも世俗の人間はそんな風に生きていくものだ。
だが、すこし発想を変えて、死を不確かな未来にあるものとして日常から隔離しておくのではなく、日常のなかにおいて、次の瞬間にはもう死がやってくるのだと、とりあえず考えてみることは、現代のわたしたちにとっても案外いい手である。
大病の後、上田三四二は医師だったから自分の病状や手術後の生存の可能性などは、一般の人とは違った覚悟でこれを考えざるを得なかった。かれにとって死は未来のどこかにあって、とりあえず見ない振りをしておいてもいいものではなかった。もう死は目前に迫っていた。河を突然断って奈落に落とす滝の音が耳元にはっきり聞こえていた。ただ、水面ぎりぎりにあるかれの視点からは水がどこから垂直に落ちていくのかは見えなかった。そこまでの距離、すなわち時間があまりないであろうことだけがわかっていた。
そのとき上田の心の中にあざやかによみがえってきたのが、むかし読んだ徒然草の言葉だった。
されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。たゞ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失わるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇 幾ばくならぬうちに、無益 の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を( 亙 りて、一生を送る、尤も愚かなり。(
(第百八段)
上田自身の言葉を引いておく。
縦の時間における寸陰愛惜と、横の空間における諸縁放下は、兼好の出家隠遁という行為を支えるふたつの柱である。しかし、隠遁の「つれづれ」が、寸陰愛惜を内実としていると言えば、一見、奇異に聞こえるかもしれない。本書の中で、私の最も力を尽くしたのはこの兼好の時間論であり。死すべき、有限の、つまりは無常の人間の荷なう時間という難問を、彼岸のたよりという救済の項抜きで解こうとするところに、兼好の心術の独創性があるとするのが私の見当だった。
(あとがき)
つまりは、あと何年生きる事ができようと、つまらない、どうでもいいことに時間を費消していれば、その時間はじつはあってもないのと同じことだ。逆に、もし一瞬一瞬を死の側から照らして、それを愛惜し、時間そのものを無限に微分していくならば、人は一瞬という時間の中にどれほどの時間でも折り畳んでいくことができる、というのが上田が徒然草から引き出した、時間論なのである。しかし人はそれは詭弁ではないか、というだろう。いかに寸陰愛惜を唱えようと、物理的な一秒は一秒ではないか、と。
これに対して、たしかにそうだと上田は答える。
客観的に見れば、もちろんそのような時間捕捉の行為は戯画にすぎない。瞬間を連ねて、その瞬間のうちにどれほど時間が時間を咥え込もうと、人間の生という限定された線分的時間は、その限定の果てである死に向かって直線的に流れてゆくことをやめない。
しかし問題は、瞬間が「精神の光る雫」であるようないまを、生きることだと上田は考える。人生の一大事はただひとつしかない。くだらないことにかかずらって、いたずらに時間を殺してしまってはならない。無常迅速である。そして現代人にとって、ほんとうの人生の充実は日々を「忙しく」することではない。来年の手帳にもうスケジュールがいっぱい入っているなんてのを充実だと勘違いしてはいけないのである。なにが充実か。いうまでもないだろう。
ひさしぶりに、大切なことを真剣に考えるきっかけになるようなすぐれた本である。
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コメント
なんとなく今年も年末になってしまって。はやいねぇなんていって、あまりになんとなしの時間の過ごし方をしている時、こういう一文を見ると、ちょっと考えてしまいます。
投稿: 退屈男 | 2004/12/12 08:27
とりあえず普通に人並みに働いて退職金で老後を楽しく過ごす、という選択肢を自分の選択肢から外した時のことを思い出しました。
"その前に死んじゃったら我慢だけが残って馬鹿みたいじゃん。ならば今をしっかり楽しく生きよう"と。
とはいえあんまり生活が苦しいとそっちの人生もありかなぁ等と悪魔が囁くこともあるのですが・笑 良い文章を読ませていただきました。
投稿: たまき | 2004/12/12 21:35
退屈男さん どうもです。
「退屈」という時間がじつは一番人間にとって大事なのかもしれません。そういう意味では、見事なハンドルですね、考えてみると。(笑)
たまきさん
若いときに、間合いを見切った達人だなあ。ぼくなんかは、こんなこと書きながら、もう片方で人生を棒に振った話に慰められているのですから、ダメですね。でもいまからでも、遅くはないかな。どうもありがとうございました。
投稿: かわうそ亭 | 2004/12/12 22:09