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2005年2月

2005/02/28

2月に読んだ本

『略奪』アーロン・エルキンズ/笹野洋子訳(講談社文庫/2001)
『仏教発見』西山厚(講談社現代新書/2004)
『セレクション俳人20 正木ゆう子集』(邑書林/2004)
『中国文学の愉しき世界』井波律子(岩波書店/2002)
『饗庭 永田和宏歌集』(砂子屋書房/1998)
『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫/1991)
『ちいさなカフカ』池内紀(みすず書房/1999)
『20世紀博物館』池内紀(平凡社/1994)
『東京バカッ花』室井滋(文春文庫/2002)
『カフカ短篇集』 池内紀訳(岩波文庫/1987)
『旧約聖書の智慧』ピーター・ミルワード/別宮貞徳訳(講談社現代新書/1990)
『逆説の日本史9戦国野望編』井沢元彦(小学館/2001)
『前衛仏教論』町田宗鳳(ちくま新書/2004)
『毒薬の小壜』シャーロット・アームストロング/小笠原豊樹訳(早川文庫/1993)
『歌集 ウランと白鳥』岡井隆(短歌研究社/1998)
『起きて、立って、服を着ること』正木ゆう子(深夜叢書社/1999)
『タブーの漢字学』阿辻哲次(講談社現代新書/2004)
『私の詩歌逍遥』中村稔(青土社/2004)

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2月に観た映画

ハウルの動く城
監督:宮崎駿

ラブ・レター
監督:ピーター・チャン
出演:ケイト・キャプショー、トム・セレック、トム・エヴァレット・スコット、エレン・デジェレネス、ジュリアンヌ・ニコルソン

ビッグ・フィッシュ
監督:ティム・バートン

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2005/02/25

豈をめぐって

『俳句空間 豈(あに)』(39-2特別号関西篇)という俳句同人誌をふらんそわ句会の仲間のご好意で恵贈いただき、いまゆっくり読んでいる。
関西の戦後俳句(とくに1960年前後の前衛俳句)に関する力のこもった編集で面白い。現在の『豈』の発行人は筑紫磐井、編集人は大井恒行である。ただし本号は関西の同人の編集による特別号である。
ところで、たまたま今日読んだ正木ゆう子の俳論集『起きて、立って、服を着ること』(深夜叢書社/1999)に摂津幸彦追悼と『豈』のことが出ていた。偶然ながら興味深い内容だったので、以下覚えとして。

摂津幸彦は昭和22年生まれの団塊世代だが他の同世代の俳人と大きく違っているのは、活動の拠点を結社ではなく同人誌においていたことである、と正木さんは紹介している。摂津を俳句に誘ったのは関西学院大学の同期であった伊丹啓子。彼女の父親は〈青玄〉の伊丹三樹彦である。たまたま〈青玄〉には坪内稔典が所属しており、坪内の方は立命館大学の学生俳句会を組織していた。関学にもひとつ学生俳句会をつくれよ、ということだったようだ。伊丹啓子が摂津に目をつけたのはかれが俳人摂津よしこの子息であることを聞いていたからであるらしい。

そうやって俳句を始めていた摂津幸彦らは、昭和四十四年学生運動のさ中、同人誌「日時計」を創刊する。集まったのは、摂津のほか坪内稔典、澤好摩、大本義幸、立岡正幸ら。「日時計」は十三号まで続き、昭和四十九年に「黄金海岸」と「天敵」とに分かれることになる。
坪内、摂津らは「黄金海岸」を四号出した後二つに分かれ、摂津は昭和五十五年に大井恒行らと「豈」を創刊、坪内は「現代俳句」を出したのち昭和六十年に「船団」を創刊して現在に至っている。
ちなみに現在の『豈』の発行人筑紫磐井さんは、その俳句総合誌にときどき出てくる風貌や毒のある(しかし美しい)作風からわたしはひそかに俳句界の澁澤龍彦と呼んで尊敬しているのであります。この人にはこんな句がある。
現在の俳壇に対してどんな意見をお持ちであるかは明白であろう。

おばさんが主宰を名告り笑わせり 
  (俳句年鑑2004年版自選5句)

そういや世襲家元制度の俳句結社もありますな。たしかに笑うしかなかろう。

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2005/02/24

宝誌和尚立像のこと

昨日のつづき。
3年前に開催された「ヒューマン・イメージ展」にこの像は出品されており、そのときの解説は次のようなものであったことを知りました。宝誌和尚という検索でここにたどりつく方もいらっしゃるかもしれませんので転載しておきます。

平安時代(11世紀)。京都府・西往寺。木造素地。像高160.0cm。宝誌和尚(418−514)は中国南北朝時代の伝説的な僧。梁の武帝が画家に命じて肖像を描かせようとしたところ、顔を裂いて下から十二面観音の姿をあらわし、それが自在に変化したので、ついに描くことができなかったというエピソードがよくしられている。僧形の顔の下から観音がのぞいているという本像の不思議な造形はそれにもとづくもの。同様の場面をあらわしたものは、中国では早くから絵画・彫像として作られたことが記録に残されている。日本には奈良時代に伝わり、奈良大安寺に安置されていたことが記録されているが、いずれも現存しない。大徳寺に伝わり、現在はボストン美術館所蔵の中国南宋時代の五百羅漢図中の一幅と並んで貴重な遺品の一つ。

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2005/02/23

美術館の一日

京都の国立博物館で西住寺蔵の宝誌和尚立像を拝した。
お顔がちょうど鼻梁のところからふたつに割れてその下からもうひとつのお顔がのぞきはじめた瞬間といった不思議な像である。housi


博物館が美しい写真を公開してくれている。(リンク先がなくなったようなので、写真を貼っておく)
ちなみに日本語解説では平安時代だが英語版では Kamakura Periodとなっている。平安後期から鎌倉初期にかけての制作ということかもしれない。
仏像はあくまで拝むものだから、これを礼拝のためにつくらせた願主があり、これを祈りの対象に彫った仏師があるわけだが、考えれば考えるほど、こういう造形をどこから得たのか不思議な気持ちがする。たとえば蝉が幼虫から成虫に脱皮する自然の姿などがモチーフの源にはあるのだろうか。
しかし、わたしが実際にこの仏像を見て感じたのは、これは脱皮ではないな、というものだった。なぜなら、真ん中から縦に割けているお顔が空蝉のようなただの抜け殻には全然見えないからだ。むしろこの人物の内面が文字通り顔をのぞかせているのであり、それが見える人にだけ見えるのだというような、まさに幻視というものの具体化のように思えるのだった。正直なところ俗人にはかなり不気味なものだが信仰とはもともと常識を超えるところにあるものなのだろう。
京都国立博物館の新春特集陳列「仏像と写真」は3月27日まで。伊藤若冲の特集陳列も同時にやっている。

お天気がよかったので、そのまま北にむかって歩き、京都市美術館でやっていた「フィレンツェ—芸術都市の誕生展」も見てくる。ボッティチェッリ、フラ・アンジェリコ、ミケランジェロ、ジョットなどを目の当たりするとさすがに圧倒される。しかし、そんな展覧会でも、結局一番熱心に見ていたのは、羊皮紙の中世の写本だったりするのは我ながらおかしい。

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2005/02/22

世知辛いリアリストの世間知らず

『毒薬の小壜』シャーロット・アームストロング/小笠原豊樹訳(早川文庫/1993)はちと毛色のかわったミステリだが、なかなか面白かった。

登場するのは、みなそれぞれ好感のもてる人々。ただひとりだけとてつもなく不愉快な人物が出てくる。主人公の妹なのだが、彼女は人間の善意や信頼というものをまったく信じていない。人間のおこなう行為にはすべて隠された利己的な動機があり、それは無意識のなかに潜んでいるがために当人はそれを知ることさえできないのだと言うのだな。いいのよ、あなたがたは美しい詩や芸術や学問の世界の人だもの。わたしは実社会で生きてきた人間、世知辛い世間にもまれて人間というものを多少は知っている。わたしはリアリストなの、わかる?
いますねえ、こういう人。

以下、多少、脱線して言うと、政治や経済についてさも訳知りなことを書いているブログライターにはどうもこういう傾向があるような気がする。(わたしにもそういうきらいがある)だが自称「リアリスト」が意外に世間知らずで、子供を育て老人を看取ってきた家庭人がもっているごくまっとうな暮らしの知恵に足下を見透かされていることもあるのではなかろうか。ときどき本書にでてきて偉そうな御託をのべるアホな「リアリスト」になっていないか、考えてみた方がいいかもしれぬ。

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本書、娯楽小説としては、前半、この人物の言動にいらいらしながら読むのでページが進まない。が後半に入って一気にサスペンスが盛り上がると言う寸法だ。サスペンスとは言っても、訳者いわく「善意のサスペンス」だが、これはまことに言い得て妙。ルース・レンデルやパトリシア・ハイスミスの巧さとはまた全然違う。まあ、このあたりは好みの問題だろうし、以前だったらわたし自身もあまり買わなかったかもしれないけれど。

1959年のアメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞受賞。派手な連続殺人やら奇抜ななサイコパスをもちださないでも面白い探偵小説はちゃんと書けるという芸がかつてはありました、というお話。

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2005/02/19

十四歳の出家

町田宗鳳(そうほう)さんのこと。以前『法然対明恵』(講談社選書メチエ/1998)と『〈狂い〉と信仰』(PHP新書/1999)という本を読んだが、いずれも蒙を啓かれるようないい本だったような記憶がある。例によって内容はすっかり失念しているが。(笑)今日はこの方の『前衛仏教論』(ちくま新書/2004)を読んだ。さきの二冊にはなかったご自身の修業時代のこともすこし語っておられるので面白いと思った。
この方の経歴はかなりユニークだ。1950年に京都に生まれる。お父さんは俳人(俳号は世耕という)でたくさんの弟子を持っていたという。(残念ながらどういう俳人なのか不明にして存じ上げない)十四歳、中学二年生のときに出家した。除夜の鐘を撞きに行くと親には言って(だから親は正月には帰宅するものと思っていた)、だがそのまま家にはもう帰らなかった。以後二十年臨済宗大本山大徳寺で修行僧の暮らし。最初は寺の小僧、それから雲水になる。二十一歳のときに、さすがに嫌になって一度「脱走」したらしいけれど。はは。
三十四歳で寺を出て渡米、大徳寺の雲水時代に知り合ったアメリカの数学者の紹介でハーバード大学神学部が受け入れてくれここで修士号、その後ペンシルベニア大学東洋学部で博士号を取得。プリンストン大学助教授、シンガポール大学教授を経て、現在は東京外国語大学教授。
興味がある人は、こちらにくわしいインタヴューがあるのでお読みください。上に書いた経歴は、ここからとったものだ。

今回『前衛仏教論』で面白いと思ったのは、霊能力についての考え方だった。町田さんの考えは、なるべく関わらない方がベターだというものだ。関われば関わるほど迷いは深くなる、ト。しかし霊的現象の存在を単純に否定しておられるわけでもない。仏陀自身は霊の存在については「無記」(ノーコメント)という立場だった。町田さんは霊的現象や超常現象というものを飛行機が離着陸のときに通り抜ける雲海にたとえておられる。実態は霧のようなものでありながら何百トンもある飛行機を揺らし衝撃を与える力をもつ。決して侮っていいようなものではない、と。
しかし、大切なことはそういう現象があるということではない。大切なことは雲海を抜けた上にある透明で澄んだ青空なのだ、と言われる。
そういうものかも知れない。

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2005/02/16

もんきりがたも大事だよ

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『英語クリーシェ辞典』ベティ・カークパトリック/柴田元彦監訳(研究社出版/2000)というたのしい本がある。挿絵が「きたむらさとし」さんで、これがめちゃくちゃたのしいんだなぁ。この人の絵は、線がベン・シャーンを思わせる。
さてクリーシェ(cliche)というのは、もんきりがた表現という意味だ。著者のベティ・カークパトリックの定義を引く。

クリーシェとは、軽蔑的な用語であり、当初の新鮮さを、さらにはその有効性を失った、にもかかわらず広く使われ、時には愛されてもいる表現をさす。

時には愛されてもいる、というあたりがおかしいね。
つまり、アレだ、俳句でいうと手垢にまみれているという表現であります。本人が粋なつもりであればあるほど、周りの失笑を買うという困ったやつ。
だから、こういうもんきりがた表現は本来はすごくカッコ悪いはずなんですが、そのカッコ悪さを踏まえてわざと反対の意味でつかったりすることもあるからややこしい。
たとえば、とてもすてきなものという意味の「a bowl of cherries」 の例文として本書があげているのは・・・
I'm late for work, the car won't start, I've got oil on my shirt. Isn't life just a bowl of cherries?
(仕事には遅れる、エンジンはかからない、シャツにはオイル。ねえ、人生ってステキじゃない?)
Life is just a bowl of cherries. というのはミュージカルの歌詞にもありますが、こういうのは一度ためしてみたいセリフではありますな。

話は急にかわるのだが、井沢元彦さんの『逆説の日本史9 鉄砲伝来と倭冦の謎』(小学館/2001)を読んでいたら、ユダヤ人のことを説明した箇所があって、べつにその事自体はいいのだけれど、いかにユダヤ人が現代のアメリカに食い込んでいるかの証拠としてこんな例をあげている。

たとえば一九九六年に制作された映画『インデペンス・デイ』(ローランド・エメリッヒ監督)の一シーンに、こういうのがある。エイリアンの侵攻により地球の最期がせまる。主人公の父親(ユダヤ教徒)は、子供たちを集めて神にお祈りをする。そこへ軍のスタッフの一人がやってくる。父親は「君も入らないか」というが、スタッフは「いや、私はユダヤ教徒じゃないから」と断る。するとその父親は何と答えたか。「人間、誰にも欠点はあるさ(Nobody is perfect)」と言ったのである。

つまり、こんな台詞をつくれるところがユダヤがアメリカで力を持っている証拠だと、力んでおられる。おもわず苦笑してしまった。先生、そりゃちがうよ。いや、まあ全然ちがうというんでもないのだが、このセリフはごく普通の映画好きならたぶん誰でも知っていますよね。
ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」のラストシーン。たぶん、アメリカ映画史上でもっとも有名な決め台詞の一つ。
ギャングから逃げるために女装したジャック・レモンに懸想したのが大金持ちのジョー・E・ブラウン。結婚を迫るが、ジャック・レモンは「タバコ吸うわよ」だの「浮気するから」なんて言って逃げようとする。ブラウンは「かまわん」「ゆるす」と意に介さない。たまりかねたレモンがかつらをとって叫ぶ。
I'm a man!
ブラウン、あわてず、
Nobody's perfect.
で幕を閉じるというおしゃれな演出でしたね。
だから、インデペンデンス・デイのシーンはそもそもが軽いくすぐりだし、深読みするとしてもせいぜい、ほらねおれたちユダヤ人ってやっぱりヘンだろという自分たちにむけた諧謔で、まあそれくらい余裕がある、というだけのことですな。こんなどうってことないシーンを鬼の首取ったように言い立てたりしちゃダメですよ。

ということでクリーシェやみんなが知ってる決め台詞って奴は知らないでやたら力んで使うと、やっぱりかなりはずかしい。(笑)

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2005/02/12

あっぱれドンファンの心意気

昨日の続き。(ノートとして)

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こうして再び皇族に返り咲き、思わぬ皇位まで手に入れた宇多天皇ですが、この人もまた色好みで知られているらしい。

宇多天皇は三十五歳で退位され、醍醐天皇に位をお譲りになりますが、このとき醍醐帝はまだ十三歳でした。この時代の権勢は藤原基経の一家にあります。宇多天皇は基経に対してはある事件から遺恨を抱いておられます。それでなくとも、藤原氏の専横をいかに押さえるかは天皇家にとって重要な課題でありました。宇多さんが菅原道真を重用し異例の抜擢をされたのもこのためであります。

さて一方の藤原基経の方は、息子の時平の子の褒子(ほうし)を醍醐帝の後宮に入内させようとしていました。ところが、上皇となられた宇多さんが「これは老法師賜りぬ」とおっしゃってさっさとこの姫を連れてお帰りになり自分のものにしてしまわれた。いや、やるもんだねぇ。(笑)
この褒子さんを京極御息所と呼びます。たいそう美しい方であったようですな。のちのことですが、志賀寺の朝勤上人という高徳の老僧が参詣に来た御息所を一目かいまみるなり激しい恋に落ち、ふらふらと後を追って、御所のお庭まで入り込んで二夜三夜恋いこがれてたたずんでいたというくらいの美人であった。恋に狂った老僧を哀れと思し召した御息所は御簾の内からわずかに手をさしだし、老僧に握らせてやったというから、心根もやさしい方でありますね。

さて、かように京極御息所はときの上皇の寵姫であったわけですが、これに敢然と恋を仕掛けた男がおりました。元良親王というお方であります。
『御撰集』恋の部に「事いできてのちに京極御息所につかはしける」として、

 わびぬれば今はたおなじ難波なる
       みをつくしても逢はむとぞ思ふ    元良親王

百人一首の二十番です。
じつはこの元良親王というのは、陽成天皇の第一皇子です。
ほら宇多天皇の父である光孝天皇が五十五歳で天皇に即位したのは、甥である若い陽成天皇が御門にあるまじき無道の行い(こともあろうに清涼殿で人を殴り殺したという風聞)があるとして、無理矢理退位させられたからでした。この元良親王は、陽成退位後のお子さんですが、そこはやはり宇多上皇には腹に含むものがあったとしてもおかしくはないでしょうな。その上皇の寵愛する京極御息所に堂々と恋を仕掛けて、この御歌であります。大岡信さんは、これを「あっぱれドンファンの心意気」とおっしゃったとか。
いや、そう思って読むとじつにいいですね、この歌。

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2005/02/11

王朝の恋ちょっといい話

『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫/1991)から。

9世紀の半ば、平安時代初期の貴族に藤原高藤(たかふじ)という人物がいた。(836−900)
系図をたどると祖父は藤原冬嗣だかられっきとした北家の一員だが、なにしろ藤原氏というのは枝葉の繁茂した一族でそれぞれの家が熾烈に競っているから、なかなか簡単に出世はできないものだ。この人も若い時から将来を約束されたというほどの立場ではなかったようだ。しかし人生、さきはどうなるかわからない。

あるとき高藤は鷹狩りに出かけた山科で雷雨にあい、さる豪族の邸に逃げ込む。となるともちろんその邸の娘とはからずも一夜を過ごすと言うのがお約束でありますね。その女を愛しいと思いながらも事情があってもういちど訪ねる願いも叶わなかった。数年後、やっと高藤が山科まで足をはこぶと、女はいよいよ美しくなり、そばには可愛らしい童女までいるではないか。童女はあの雨やどりの一夜の契りでできた子でありました。

高藤は純情な青年であったらしく思われる。喜んで母子を邸へ引き取り、他に妻を持たず、生涯仲よく連れ添い、二人の男の子、定国、定方をもった。
さて、この雨宿りでできた姫君もやがて年頃となり、高藤に婿ができた。男の名前は源定省(さだみ)という。この源定省は光孝天皇の第七皇子で、母は桓武天皇の孫であります。

光孝天皇(830−887)は「少ニシテ聡明好ンデ経史ヲ読ミ容止閑雅」(日本三代実録)といわれ、光源氏のモデルという説もある。天皇となられたのが五十五歳と高齢であったのは、その前の陽成天皇が無道の振舞ありとして十七歳で退位させられ、急遽人格円満なこの人に白羽の矢が立ったからであります。ほんとうなら皇位につかれる予定はなかった。この光孝天皇が即位されたあとで(884)皇子の源定省は源朝臣を賜姓され臣籍降下したのであります。
すなわち臣籍降下したあとでかれは高藤の婿殿となったわけ。そしてすぐに男の子を設けたのですね。

ところが、光孝天皇は即位からわずか三年後に病重篤となります。父天皇が臨終となるや源定省は皇位継承者として皇族に復帰、崩御当日に立太子、即日践祚という運びになりました。
こうして、あれよ、あれよという間に高藤の婿殿は天皇となり可愛い孫は皇太子になってしまった。この天皇が宇多天皇、孫が醍醐天皇であります。高藤は内大臣、息子の定方は右大臣まで累進を果たしたのであります。まあ、考えてみると、雨宿りの一夜の契りの縁を無情にあつかわなかったことが運のつきはじめだったのかも知れませんな。

山科の村娘との恋の話を、醍醐天皇はその母君にでも聞かれることがあったのだろうか。その故地をなつかしく思われ、〈死後の陵はそのあたりに〉と遺勅があったという。
雨やどりした豪族の家をのちの寺にしたのが勧修寺(かんしゅじ)で、高藤系の氏寺となった。

藤原定方の歌が百人一首には採られています。邸が三条にあったので三条右大臣と呼ばれる。

 名にし負はば逢坂山のさねかづら
     人に知られでくるよしもがな   三条右大臣

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2005/02/09

琳派の列車

電車やバスのボディ全体を広告に使う広告媒体のことをラッピング広告というらしい。フィルムを貼り付ける方式と聞くと、かつてのプラモ少年としては出来上がった零戦の仕上げに水に浮かせた日の丸をそっと貼り付けたことを思い出したりする。(笑)

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いまや全国の乗り物が派手でにぎやかになっているようだが、(事故さえ起こさなければ別に文句はないのだが)あんまり品のない乗り物が目の前にやって来るのは閉口であるな。利益のためとはいえ、なにもそこまでしなくても、と思わないでもない。一応は公共の乗り物なんだしさ。テレビCMでうさんくさい整形外科の広告電車なんかだとげんなりするわな。
今日、最寄りの駅に入って来た電車(京都市営地下鉄から近鉄乗り入れ)はなんと琳派の屏風絵でありました。いやはや・・・

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2005/02/08

菱沼聖子ファンクラブ

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軽い話題など。
「食卓の魔術師」や「家族の肖像」の頃からの佐々木倫子さんのファンである。なかでも「動物のお医者さん」の菱沼聖子は大好きなキャラクターだ。
今日、読みかけだった永田和宏さんの『饗庭』(砂子屋書房/1998)の続きをコタツにもぐり込んで読んでいたら、こんな歌があって大笑い。

 低血圧低体温のゆらゆらと菱沼聖子はまだ学位がとれぬ

ははは、先生も佐々木倫子のファンと見えます。
マンガなど読まないまじめな歌詠みは、永田教室にこういう学生でもいるのかと勘違いしているのではなかろうか。永田さんが好きになるなあ。(笑)

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2005/02/06

大丈夫、心配しなくていい

『仏教発見!』西山厚(講談社現代新書/2004)は、決して要領よくまとまった本とは言えないが、温かく大きな力に満ちている。
西山さんは現在、奈良国立博物館資料室長。
2002年に大仏開眼千二百五十年記念の「東大寺のすべて展」を博物館は開催した。このとき東大寺整肢園の子供たちに話をすることになった。小さな車椅子に乗った二十六人の子どもたち。このなかには目の見えない子もいる。言葉を解しない子もいる。

展示を見終えたときに先生から声を掛けられた。「質問があるそうです」。足元の男の子の目線にあわせてしゃがむと、両足をあげた状態で車椅子に固定されており、体のあまりの小ささが私の胸を衝いた。質問内容は、大仏の手の形の意味だった。大仏の右手の形は施無畏印(せむいいん)といい、畏れを取り除くポーズである。「あれはね、大丈夫、心配しなくていい、大丈夫、っていってるんだよ」と言って、形を真似た右手を男の子の胸にそっと当てると、うれしそうにしていた。そばにいた先生が「よかったね、よかったね、心配しなくていいっていう意味なんだね」と興奮されていたのが印象的だった。帰っていく子どもたちのうしろ姿を見ながら、私は涙が止まらなかった。

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正木ゆう子さんの俳句

数年前から気に入った詩句(俳句、短歌、漢詩、連句、英詩)を抜き書きするための専用の小さなノートをつくっている。思いついたときだけの作業なので、なにかの資料になるようなものではないのだけれど、ときどき自分の作句の参考にながめてみたりする。(そういえばしばらく俳句をつくっていない)
今日は『セレクション俳人20 正木ゆう子集』(邑書林/2004)を読んでいたのだが、すぐに、ああこの人の句は前に抜き書きしたぞ、と思い出した。

 サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる

 いつの生か鯨でありし寂しかりし

 いま遠き星の爆発しずり雪

家に帰ってたしかめてみると、これらの句を入れて全部で16句抜いていたが、何の本から書き写したのかは憶えていない。しかし今回読んでも、ほとんど同じ句に心を惹かれるのはやはり波長が合うのかなと思う。

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溢れんばかりの詩情を定型の中に圧縮し、句を読んだ読者の意識のなかで溢れさせるという技がある。好きだな、この人の俳句。
「セレクション俳人」はかならず散文も収録されているのだが、この人の俳論も、むつかしいことを言わず、すっとわかるようなよさがある。
正木さんは「沖」能村登四郎の門下。能村のあとを継いで現在読売俳壇選者とのこと。

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2005/02/03

エルギンの論理

『略奪』アーロン・エルキンズ/笹野洋子訳(講談社文庫/2001)は、美術探偵ベン・リヴィア登場の第一作。もっともご承知のように、エルキンズにはシアトル美術館の学芸員クリス・ノーグレンものという美術探偵シリーズがあるので、まあ二番煎じの感は否めない。
ただし、本書、ミステリの出来不出来より途中の蘊蓄が面白いのはいつもどうり。
ナチによって略奪された大量の美術品の一部が終戦の混乱のなかでソ連の手に渡ったことが本作の事件の発端である。
主人公のリヴィアが当時の情報をもとめてサンクトペテルブルクの美術館員のところへ行くと、大祖国戦争のときにドイツから押収した美術品を保有しているのは合法的な措置であり、ドイツによる残虐行為に対する賠償としてロシアはこれを保有する権利があるんだなんて言う。リヴィアはこの分野の専門家なのでこの見解には驚かない。かれの独白。

これはたしかに現政権の方針なのだ。軍隊がソ連に持ちかえったすべての美術品を国有化する法案が、一九九七年に議会を通過している。世界中から非難されるのをおそれたエリツィンが、法案に拒否権を行使したが、他国の意見をそれほど気にしない議会は、すぐさまエリツィンの拒否権を覆して法案を通過させた。
ふむふむ、つい最近のことではないか。
そしてこのロシアの美術館員はあの混乱のなかでロシアが美術品を押収したことは、美術品を戦争の破壊行為から守ったことになると考えられはしないか、とリヴィアに問うのですね。これはたしかにいいポイントをついている。同じくリヴィアの独白。
そうは考えない、とがっくりしながらわたしは思った。これはようするに、この業界でエルギンの論理といわれるものだ。もしこの絵(あるいはエッチング、彫刻版、彫像、タピストリー)を盗まなかったら(あるいはもち去らなかったら、没収しなかったら、横領しなかったら、押収しなかったら)、戦争(あるいは天候、不注意、無知、蛮行)によって、荒廃(あるいは破壊、紛失、破損、汚染)の憂き目を見たのではないだろうか、というわけだ。エルギン伯爵が、後世の人のためにトルコの破壊行為から守るのだという理屈をつけて、パルテノンの正面から六〇メートルのみごとな彫刻群をはぎ取りイギリスにもち帰って以来、この理屈は、二百年のあいだ悪党どもや世界に名だたる美術館に、さまざまな形で利用されてきた。


去年、大英博物館展に行ったとき、たまたま隣にいた年配の女性が「さすがにイギリス人はいろんなものを発見してきたのねぇ」とひどく感銘を受けておられるので、心の中でひそかに「いや発見したんじゃなくて盗んで来たのですよ」と言ったことを思い出す。やれやれ。
まあ、それはそれとしてこの有名な(といってもわたしは今回はじめて知ったのですけれど)エルギン・マーブル(大理石)蒐集を大英博物館に売却したエルギン伯爵トマス卿というのは19世紀初頭のやり手のイギリス外交官(パルテノンの彫刻を剥ぎ取ったときは駐トルコ英国大使。当時ギリシャはオスマントルコの支配下にあった)なのですが、しらべてみたら彼の息子は日本とも関わりがあることがわかりました。アロー号事件のときの中国特派使節で、幕末の日英通商条約を結んだ時のイギリス全権公使、サー・エルギン・ジェームスがその息子でありました。
まあ、日本の場合は削って持って帰れるような美術品がなくてよかった。父を見習って、ごっそり持っていかれるところでありました。(笑)

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2005/02/02

ハウルの動く城に失望

宮崎駿の「ハウルの動く城」は登場人物たちの関係がよくわからん映画だった。映画に意味なんか求めるなよ、と言われればそれまでだが、もっときちんと編集し構成を練るべきなんではないかなぁ。封切りのスケジュールに間に合わせるために中途半端なものを出してしまったのかと疑う。
今回の宮崎監督作品については「王様は裸だ」的批評が多いようだが、まあそれも当然かな。たとえば週刊文春の「2004年最低映画・文春きいちご賞」ではきちんと第4位になってますね。(笑)
この作品をほめる人に聞きたいのだが、たとえばハウルとカルシファーの契約上の「秘密」が何だったかわかってますか(わたしはまったくわからない)。もしわからなかったら気になりませんか。ハウルが当初戦っていた魔物たちを動かしていたのは荒れ地の魔女だったはずですが、当の魔女がサリマンによって無力化されたあとは誰があの魔物を動かしていたのですか(わたしにはまったくわからない)。もしそれもわからなかったら気になりませんか。
サリマンは簡単に戦争を終わらせることができる力をもっているのに、そうしなかったのはなぜですか。(これはいろんな解釈ができるが、映画の中では説明はないね)
手間ひまかけて、美しい映像をつくってみても、肝心のオハナシがぼろぼろに破綻している。反戦のメッセージを乗せるための作品に莫大な資本を投下し、それを回収する商業主義の論理を優先させたという印象。いたく失望。

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