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2005/02/11

王朝の恋ちょっといい話

『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫/1991)から。

9世紀の半ば、平安時代初期の貴族に藤原高藤(たかふじ)という人物がいた。(836−900)
系図をたどると祖父は藤原冬嗣だかられっきとした北家の一員だが、なにしろ藤原氏というのは枝葉の繁茂した一族でそれぞれの家が熾烈に競っているから、なかなか簡単に出世はできないものだ。この人も若い時から将来を約束されたというほどの立場ではなかったようだ。しかし人生、さきはどうなるかわからない。

あるとき高藤は鷹狩りに出かけた山科で雷雨にあい、さる豪族の邸に逃げ込む。となるともちろんその邸の娘とはからずも一夜を過ごすと言うのがお約束でありますね。その女を愛しいと思いながらも事情があってもういちど訪ねる願いも叶わなかった。数年後、やっと高藤が山科まで足をはこぶと、女はいよいよ美しくなり、そばには可愛らしい童女までいるではないか。童女はあの雨やどりの一夜の契りでできた子でありました。

高藤は純情な青年であったらしく思われる。喜んで母子を邸へ引き取り、他に妻を持たず、生涯仲よく連れ添い、二人の男の子、定国、定方をもった。
さて、この雨宿りでできた姫君もやがて年頃となり、高藤に婿ができた。男の名前は源定省(さだみ)という。この源定省は光孝天皇の第七皇子で、母は桓武天皇の孫であります。

光孝天皇(830−887)は「少ニシテ聡明好ンデ経史ヲ読ミ容止閑雅」(日本三代実録)といわれ、光源氏のモデルという説もある。天皇となられたのが五十五歳と高齢であったのは、その前の陽成天皇が無道の振舞ありとして十七歳で退位させられ、急遽人格円満なこの人に白羽の矢が立ったからであります。ほんとうなら皇位につかれる予定はなかった。この光孝天皇が即位されたあとで(884)皇子の源定省は源朝臣を賜姓され臣籍降下したのであります。
すなわち臣籍降下したあとでかれは高藤の婿殿となったわけ。そしてすぐに男の子を設けたのですね。

ところが、光孝天皇は即位からわずか三年後に病重篤となります。父天皇が臨終となるや源定省は皇位継承者として皇族に復帰、崩御当日に立太子、即日践祚という運びになりました。
こうして、あれよ、あれよという間に高藤の婿殿は天皇となり可愛い孫は皇太子になってしまった。この天皇が宇多天皇、孫が醍醐天皇であります。高藤は内大臣、息子の定方は右大臣まで累進を果たしたのであります。まあ、考えてみると、雨宿りの一夜の契りの縁を無情にあつかわなかったことが運のつきはじめだったのかも知れませんな。

山科の村娘との恋の話を、醍醐天皇はその母君にでも聞かれることがあったのだろうか。その故地をなつかしく思われ、〈死後の陵はそのあたりに〉と遺勅があったという。
雨やどりした豪族の家をのちの寺にしたのが勧修寺(かんしゅじ)で、高藤系の氏寺となった。

藤原定方の歌が百人一首には採られています。邸が三条にあったので三条右大臣と呼ばれる。

 名にし負はば逢坂山のさねかづら
     人に知られでくるよしもがな   三条右大臣

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コメント

実に良い心がけです(笑)。
情けは人のためならず・・・・

投稿: なぎ | 2005/02/12 00:37

うーん、いい夫の話題でなぎさんのお褒めにあずかるたびに(以前はアガサ・クリスティと芝浜で褒めてもらつた)、悪亭主仲間を裏切ったような後ろめたい気になるのはなぜなんでせうか。(笑)
わたしは読んでいませんが、これは「今昔物語」にあるそうですね。野育ちの可憐な母子が都から迎えに来た美しい玉輿に乗って野を過ぎって行く不思議な光景は長く村人に語り伝えられ、「玉の輿」という言葉がここから生まれたとか。

投稿: かわうそ亭 | 2005/02/12 20:30

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