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2005年3月

2005/03/30

中村稔と齋藤茂吉

大阪中央図書館蔵の斎藤茂吉『作歌四十年』の巻末、中村稔による解説部分がどこかの馬鹿によって切り取られている話をしたが、(ここ)、図書館はもう一冊持っているので司書の方に事情を説明して調べてもらった。もう一冊の方は幸いにも無事だった。せっかくだから失われた8ページのコピーをとってきた。
わたしの推理は、茂吉の戦中の目を覆いたくなるような歌について中村が解説でふれ、それを茂吉崇拝者が他の人の目にふれないように抹殺しようとしたのではないか、というものだ。まあそんなことをしてもあまり意味がないから、たんにその部分が必要で転記したりコピーするのが面倒で切り取って盗んだということかもしれない。いずれにしても、そいつは薄汚い不潔な人間であります。
しかし考え過ぎかもしれないが、もし犯人の意図が「抹殺」であるならば、ここでそれを「復活」させておくのも無意味ではないだろう。というわけで、中村稔の解説の中で、もしかしたら犯人がこれを消したかったのかもしれないなあという部分をここに転載して、できるだけ多くの人の目にふれるようにしたいと思う。ただしわたしは茂吉の多くの短歌を愛しているし、言うまでもなく(解説を引き受けているのだから)中村稔の解説もまっとうで公正なものであり、これによって茂吉の偉大さがいささかも損なわれるようなものではない。むしろ、薄汚い真似をした人間がその人物なりの「使命感」からそれをしたのであれば、そういう行為こそが茂吉を貶めるものであると断言できる。
おそらく問題なのはやはり戦中の歌集にふれた以下の箇所だろう。

『いきほひ』から、(あるいは『のぼり路』から)、『昭和十九年抄』に至る本書の斎藤茂吉はまことに無残である。これらの作品に接して私はほとんど語るべき言葉を知らない。念のためにことわっておくと、戦争協力とか賛美とかを非難するわけではない。表現のあまりの空虚さ、観照の乏しさをいうのである。(斎藤茂吉には、救いがたい愚昧さともいうべきものがあって、これは『小園』、『白き山』の時期にまで、あるいは彼の生涯をつうじてかわらない類のものであった。これがどんな性質の愚昧さであるか、又この愚昧さがいかに彼の偉大さと不可分に絡みあっていたか、を語るには、この解説は適当な場所ではあるまい)

もう一箇所、結語にいたる文章が見事だ。
しかも意識的な近代詩の作者としての斎藤茂吉を考えるとき、彼はあくまで、何をうたうかについては執拗に盲目であった。このことが、本書でいえば、『のぼり路』以降の無残で悲惨な作品群となってあらわれていた。と同時に、このことは、『霜』、『小園』から『白き山』へ深まりゆく孤独にその叙情を潜めることの妨げともならなかった、と私は思う。
私にとって、わが国の短歌、俳句をふくめた近代詩の歴史のなかで、斎藤茂吉ほどに偉大な詩人を他に知らない。しかも、この偉大さ(その意味は又、別に語らねばならないが、)と同時にあわせもっている悲惨さ、というものが、わが国の近代詩のもつ問題の象徴そのものとしか思われない。そして、そういう意味で又、本書こそが、私にとって詩とは何かの反省をしいる最良の書の一であると信じている。

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2005/03/23

うちの四方ころび

昨年の10月27日の条に池内紀さんの『なじみの店』(みすず書房/2001)にあった「四方ころび」の抜粋をした。(ここ)

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法事で田舎に帰ったついでに我が家のものを写真に撮ってきた。この本にあったように、大工が竣工と同時に残していったものだとすれば、およそ百年前のものということになる。
たしかに味があるし、なによりぞんざいに使われつづけている(なにしろゴミ箱を兼ねた踏み台である)にもかかわらずおどろくほど頑丈である。むかしの人はいいものをつくっていたんだなぁ。

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2005/03/20

二歳の北杜夫像

『作歌四十年』には長男齋藤茂太を詠んだ歌がたくさん採られているが、次男宗吉(北杜夫)を詠んだと明記してある歌は一首しか見当たらなかった。その一首——

 年ふたつになりしをさなご着ぶくれてわがゐる前を幾度にても走る

情景が目に見えるようないい歌だな。

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2005/03/18

茂吉と戦争

今読んでいる『作歌四十年』から戦中の茂吉の歌を抜いてみる。

 国のために直に捨てたる現身の命の霊を空しからしむな
 神と共に進み進みて絶待に迫りて迫る包囲の大軍陣
 敵軍の根拠の滅び徹底して大きアジアの暁明いたる
  『寒雲』

 大きなる勝鬨あげてもろともに迎ふる皇紀二千六百年
 ひたぶるに命ささげしもののふをわが天皇は神としたまふ
 おほきみのおほきまにまにみ民らが進むあゆみのおとをこそ聞け
 大君の全けくもぞ統べたまふひとついきほひのくにの現実ぞ
 (現実:うつつ)
 天とほく南のくにに親しむとすめらみ軍はやも動きぬ
 (軍:いくさ)
 大君は神にしいませ永遠の平和をしぞみちびかせたまふ
 (永遠:とことは・平和:たひらぎ)
 あめつちにすめらみくには日に新たいよよ新たに栄ゆくものぞ
  『のぼり路』

 つらぬきて徹らむとするいきほひに碧眼奴国の悔をゆるさず
 くに民のひとりびとりのやまと魂の炎とのぼる時をし知らむ
  『いきほひ』

 何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまむ
 「大東亜戦争」といふ日本語のひびき大きなるこの語感聴け
 皇国の大臣東条の強魂をちいはやぶる神も嘉しとおぼさむ
 (皇国:すめぐに・大臣:おとど)
 神もゆるしたまはぬ敵を時もおかず打ちてしやまむの大詔勅
 (敵:あた・大詔勅:おおみことのり)
 大きみの統べたまふ陸海軍を無畏の軍とひたぶるおもふ
 もろもろは声をかぎりにをたけびし十二月八日を常にこそおもへ
  『とどろき』

写していてさすがにいやになった。こんな歌がまだまだ延々と延々と続くのである。これをいったいどう考えたらいいのか、正直わたしは途方にくれる。

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2005/03/17

切り取られた8ページの謎

『作歌四十年』齋藤茂吉(筑摩叢書/1971)を読んでいる。
本書は茂吉が作歌をはじめた明治三十八年から昭和十九年まで、まる四十年になるのを記念して本にしようとしたものであったが、前半がなかなかまとまらず発行がおくれているうちに書肆に変動があったために発行のめどが立たなくなった。

然らば執筆も止めた方が好かろうと、おもったのであるが、本書は必ずしも世に公にする必要がないとせば、自らのおぼえのために書いておいても何かのたしになろうかとおもい、一気呵成に書いてしまった。そして参考書が座右にないため、事柄は書かぬことにして、簡単な感想を書くにとどめたのであった。私の歌集全部は大体次のごとくでである。
赤光(七六〇首)。あらたま(七五〇首)。つゆじも(六九五首)。遠遊(六二五首)。遍歴(八二八首)。ともしび(八九五首)。たかはら(四五〇首)。連山(七〇五首)。石泉(一〇一三首)。白桃(一〇一七首)。暁紅(九六九首)寒雲(一一一五首)。のぼり路(七三六首)。いきほひ(六二三首)。とどろき(一〇二九首)。くろがね(六二五首)。昭和十九年集。
「作歌四十年」はその一部を抄して、その大体を示したものである。それでも分厚なものになってしまった。そして原稿は、推敲を経ぬまま、数冊の製本となり、東京を離れることになるであろう。どうか無事であれ。昭和十九年七月二十九日箱根強羅。茂吉山人識。

このあとがきからもわかるように、「敵空襲必至」の情勢を茂吉は認識していた。本書の脱稿は、もし「あとがき」の日付だとすれば「昭和十九年八月五日夕、強羅山荘にて」となっていいるので、八日ほどで書き上げたことになるのだろうか。後半の草稿はすでに完成していたとしても、この集中力には恐れ入る。このとき茂吉は六十三歳である。

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本書は例によって大阪中央図書館から借りたものだが、誰か最後の8ページ(茂吉のあとがきの次のページから)をカッターで切り取った者がいる。目次で確かめると中村稔の解説に該当することがわかる。この解説部分は先日読んだ『私の詩歌逍遥』に収録されていたかどうか、いま記憶があいまいなのだが、下手人(まったく酷いことをする人間がいるもんだな)の動機は、盲目的な茂吉崇拝者で、批判的な解説をこの世から抹殺したかったのではないかなんて想像する。大阪中央図書館の図書検索によれば、この本は書庫に二冊収蔵されている。一冊はいまわたしが借りている瑕をつけられたものだが、もう一冊はどうだろう。今度、返却のときにたしかめてみよう。

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2005/03/15

カーレン・ブリクセンまたはイサク・ディーネセン

ここ数日、『草原に落ちる影』カーレン・ブリクセン/桝田啓介訳(筑摩書房/1998)というすばらしい本のことを書こうとしては、書き継ぐことができず、結局あきらめた。ときにはそういう本もある。
とりあえず、続いて『Out of Afirica』を読んでみようと、アマゾンに注文する。

カーレン・ブリクセン Karen Blixen
別名
イサク・ディーネセン Isak Dinesen
1885 - 1962
デンマークの作家。デンマーク語と英語のふたつで作品を発表している。英語版の筆名がイサク・ディーネセンらしいのだが。以前読んだ『バベットの晩餐会』桝田啓介訳(筑摩書房1989)はイサク・ディーネセン名義だった。訳者の桝田さんによれば、『草原に落ちる影』は著者の最晩年の本で、デンマーク語版にはかなり加筆訂正が施されたが、もはや英語版の原稿にまで手を加える時間も体力も作者には残されていなかったとのこと。本書はデンマーク語版からの翻訳である。

以下本書の「年譜」から自分用のメモとして。
KarenBlixen
カーレンはのちに自分の一生は父の生涯の繰り返しではないかと思う、と述べた。
父親はユトランド半島の荘園領主。軍人だったが普仏戦争従軍のときパリ・コミューンの市街戦を目撃、『コミューン下のパリ』という本を出版した。その後、アメリカにわたり、ウィスコンシンの原生林でハンターとして暮らす。帰国後クリミヤ戦争に従軍。デンマーク国会議員、著述家として高名。カーレンが十歳のときに縊死している。
遠縁(従兄弟?)のブリクセン=フィネッケ男爵家のブローアと結婚。男爵夫人としてアフリカでコーヒー農場を営むことになるが、やがて医師に梅毒感染の事実を告げられる。夫ブローアの責任であったらしい。その後この後遺症に悩む。ナイロビで英国陸軍のパイロット、デニス・フィンチ=ハットンと出会い交際、夫との離婚後、デニスの子を宿すが流産と推測されている。アフリカの農場は破産で売却せざるを得なくなる。デニスはタンガニーカで小型飛行機の墜落事故により死亡。1931年、デンマークに帰国する。
『Out of Afirica』の出版は1937年。ナチス占領下のデンマークでナチ批判の寓意を込めた長編小説をピエール・アンドレゼルの筆名で発表。晩年はノーベル文学賞の候補でもあった。

(photo:From Wikipedia, the free encyclopedia;Karen Blixen in Kenya, 1918)

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2005/03/13

木の名前からとりとめもなく

石田郷子さんの『句集 木の名前』(ふらんす堂/2004)を読んだ。うまい俳句をつくる人だな。

 押し合つてゐる海と川初ざくら
 雛の間のとなりのしんとしてをりぬ
 さへづりのだんだん吾を容れにけり

句集の題名は

 掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ

からとったもの。

句集に収めた作品の多くは、長らく住んだ東京郊外、かつての里山だったという国立市谷保城山(じょうやま)周辺でつくったもので、この句も城山で詠んだものだ。

—という「あとがき」を読んで、そういえばつい数日前にも国立市谷保村のことを読んだなと思った
『男性自身 巨人ファン善人説』山口瞳(新潮文庫)だ。この中の「観月会」というエッセイに家の近所の谷保天満宮の境内を借りて観月会を催す話があるのだが、谷保天満宮というのはヤボテンの語源になったところだとある。この天満宮は菅原道真の三男道武が父の配流後にやはり谷保に流され、道真が死んだときに木像を祀ったことが起源らしい。
山口瞳の本の解説を嵐山光三郎が書いているのだが、それによれば国立のこの谷保一帯の旧地主から土地を買って開発し日本ではじめての分譲住宅地にしたのが箱根土地会社であるそうな。この会社のオーナーはピストル堤こと堤康次郎、いわずとしれたコクドであります。
堤義明が逮捕される直前の朝日新聞にこの堤一族の系図が出ていましたが、うちのカミさんが堤康次郎ってこんなに奥さんがいたの、と感心するので、なに、これは代表的な本妻、権妻だけでね、葬式のときは認知を求める母子が長蛇の列をなしたという悪口がある、と言ってやったら、ふーん男のロマンやね、とぬかしやがった。あーあ。(笑)

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2005/03/12

鬼畜ルメイの叙勲について

昨日のエントリーで、ルメイの叙勲が1962年12月としたが、これは1964年12月の間違いでした。
この件については、公式の記録(官報など)のコピーを取っておこうと思っているのですが、(あまり熱心に調べてもいないけれど)まだ発見できていません。
国会の議事録にはこの件の質疑が残っているようですが(ここ)、読むには長くてどこにルメイの叙勲の質問があるかわかりにくいので、該当箇所をここに再録しておこうと思います。

第071回国会 社会労働委員会 第16号
昭和四十八年七月三日(火曜日)
   午前十一時十五分開会
(中略)
  出席者は左のとおり。
    委員長         大橋 和孝君
    理 事
                玉置 和郎君
                丸茂 重貞君
                須原 昭二君
                小平 芳平君
    委 員
                石本  茂君
                上原 正吉君
                川野辺 静君
                君  健男君
                斎藤 十朗君
                高橋文五郎君
                寺下 岩蔵君
                橋本 繁蔵君
                山下 春江君
                田中寿美子君
                藤原 道子君
                矢山 有作君
                中沢伊登子君
                小笠原貞子君
       発  議  者  須原 昭二君
   国務大臣
       厚 生 大 臣  齋藤 邦吉君
   政府委員
       総理府統計局長  加藤 泰守君
       厚生省公衆衛生
       局長       加倉井駿一君
       厚生省援護局長  高木  玄君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        中原 武夫君
   説明員
       外務省アメリカ
       局外務参事官   角谷  清君
       文化庁文化部長  鹿海 信也君
    ―――――――――――――
  本日の会議に付した案件
○職傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正す
 る法律案(内閣提出、衆議院送付)
○戦時災害援護法案(須原昭二君発議)

(中略)

○須原昭二君 カーチス・ルメイという人は有名な人ですよ。アメリカの空軍大将です。日本にとっては重大なかかわりのある人です。大臣が御存じないから私は御説明を申し上げなければならないはめに入りましたけれども、戦時中の日本人にとってはニミッツ、マッカーサーに並ぶ「鬼畜ルメイ」といわれた男です。当時は米空軍の第二十一爆撃隊司令官だった。この東京空襲の皆殺し戦略爆撃のみならず、全日本本土の爆撃はもちろん、広島、長崎に投下した原爆の直接的な責任者です。――わかりましたか。(笑声)
○国務大臣(齋藤邦吉君) わかりました。
○須原昭二君 このルメイ大将に日本政府は、前佐藤総理の時代ですね、これ。昭和三十九年十二月七日の日に勲一等旭日大綬章を授章さしたという、大綬章を与えた、授章の目的は何でした、授章の理由は何ですか。日本人たくさん殺したから。
○国務大臣(齋藤邦吉君) 私はその勲章のほうの所管でございませんので、存じておりません。
○須原昭二君 総理府、見えるだろう。
○政府委員(加藤泰守君) 私も統計局長でございますので、存じません。
○須原昭二君 ルメイ大将は戦後日本の航空自衛隊の育成に協力したというのがその授章の目的だと、授章の理由だと私は聞いています。太平洋戦争末期の日本の爆撃に大きな役割りを果たし、何百万人の人に被害を与えた人に、しかもあの地球上に二回しかない原爆の投下にも深い関係があった人に勲一等旭日大綬章を与えたということは国民的感情としてもいまなお私は納得ができません。このような政府だから人間としての節操と尊厳を忘れたことができるのですよ。生活に困ったら生活保護でお情けにすがりなさい。原爆被災者も、民間の戦災障害者も社会保障の体制でお粗末ですけれどもその中で取り扱えばいいと、こういうきわめて冷淡な、おそろしくけちなことで放任している無神経が私はここにうかがわれると思う、ルメイ大将の一件から見てもですね。このような矛盾を私たちは納得ができません。これは与えたのは総理大臣ですから、佐藤榮作さんですから、所管も総理府の所管でありますから、厚生大臣の所管ではないけれども、この一つの事実を見てもおかしいなと思われませんか、厚生大臣。
○国務大臣(齋藤邦吉君) その件について私は答弁する資料も持ち合わしておりませんし、資格もございませんが、私はやはり日本国民全体がしあわせになるように、ほんとうにいろいろな障害を受けておられる方々に対しましてもあたたかい援護の手を差し伸べてしあわせな生活を送っていただくようにということだけを念願して努力をいたしておるつもりでございます。
○須原昭二君 そのルメイ大将が勲一等旭日大綬章を受けたその昭和三十九年十二月の七日の午後には防衛庁を訪れて、当時の三輪事務次官にあいさつをしております。そして、昭和四十年の三月十日付の朝日新聞の「天声人語」にこう書いてこの問題に触れております。「歴史の変転と皮肉を思わずにはいられぬ」、こういっております。日にちがたてばたつほど世の中、変わっていくもんだ、皮肉なもんだということですよ。だから二十八年も民間の戦災犠牲者はほかっておかれておるのですよ。これまた皮肉と言わざるを得ません。厚生大臣は、きょうはぼつぼつ前向きのような御答弁がありますから、あまり攻撃はしたくはございませんけれども、この事実からきても早急にこの問題を解決しなくてはなりませんが、その点の御所見をもう一ぺんくどいようですが、お尋ねをしておきたいと思います。
(以下略)

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2005/03/11

東京大空襲から60年

昨日3月10日は1945年の東京大空襲から60年の日であった。
BBCのサイトもこれにふれていた。(ここ)

People in Tokyo have been marking the 60th anniversary of a massive US night-time bombing raid which destroyed much of the city in 1945.
Several memorial services have been held across the city to remember the more than 100,000 people who died.
The raid was part of an American strategy to try to wear down Japanese morale ahead of a possible invasion.
It has remained controversial because of the death toll, but a ceremony expressed little anger towards the US.

この作戦が老人や病人や子供などの非戦闘員を無差別に殺戮することを目的としていたことは明らかだが、戦争に勝った国は戦争犯罪で裁かれることはない。
以下の文章は、昨年の9月29日に旧サイトの掲示板に書き込んだものである。しつこいようだが、ここに再録しておきたい。日本人としてこれはきちんと知っておくべきことだと思うからだ。

(引用開始)
エロール・モリスの撮った「フォグ・オブ・ウォー」を観てきました。
ロバート・マクナマラというと、ハルバースタムの『ベスト・アンド・ブライテスト』できびしい批判を浴びた国防長官ですが、いまのラムズフェルドなんかに比べると、いかにも冷戦時代の重厚さがあった。
いろいろ思うことの多い映画ですが、ひとつだけ。
マクナマラが太平洋戦争従軍中に上官だったのがカーティス・ルメイで、この名前と映像がこの映画には何度も何度も登場します。よく覚えておくべき名前ですね。
このカーティス・ルメイ、のちにキューバ危機の時、戦略空軍最高司令官で、もっともキューバ爆撃にこだわったタカ派の将軍のひとりですが、日米戦のときは南方からのB29による爆撃の指揮官でした。映画のなかでは、マクナマラが1945年3月の東京大空襲にふれて、われわれは統計的な分析から低空からの焼夷弾の絨毯爆撃という戦法を考案し、たった一夜で10万人の市民を焼き殺したんだ、と率直に語っています。東京大空襲だけではない。日本中の主要な都市を焼き尽くし、原爆の投下もかれらの指揮であります。ルメイは、「おれたちゃ戦争犯罪人だぜ——もし負けてたらな」とマクナマラに言ったと証言しています。
日本人の一人としては、たとえ勝ってもお前らは間違いなく戦争犯罪人だと思いますが、それはいい。それはいいが、映画のなかではこのルメイがほかならぬ日本政府によって勲章を授けられたことは全然ふれられていませんでした。
19621964年12月、日本国内閣総理大臣佐藤栄作はルメイに勲一等旭日大綬章を授与しました。こういうのを売国奴というのではなかったか。中国や韓国から日本人の「歴史認識」云々を言われるたびに、うざいなぁ、と率直に思うが、しかし当っている気もしますね。
(引用終わり)

今日は加藤楸邨の『達谷往来』(花神社/1978)を読んでいた。

 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ (『火の記憶』)

アメリカ軍の空襲によって燃え上がった家から、加藤楸邨は病気の弟を背負い、妻とかろうじて脱出した刹那、「庭が真昼のように明るくなって、その中に牡丹が一輪みごとにひらいていた」。
この句、牡丹という季語から俳句に親しんでいる方ならば、ああ夏だったんだなとわかるはずだが、たしかに被災したのは5月23日の夜のことである。この日もアメリカ空軍の大編隊が侵攻し無辜の人々を虐殺してまわったのである。10万人を一晩で殺した3月の大空襲以後も、連中は虫けらのように日本人の非戦闘員を殺しつづけたことがこれからもわかる。

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2005/03/09

THE REMAINS OF THE DAY

去年の冬から読み始めてなかなか進まなかった『THE REMAINS OF THE DAY』KAZUO ISHIGURO (VINTAGE BOOKS)、昨日と今日で残った100ページばかりを片付けた。

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あんまり上品な英語なもんで意味をとらえるのに苦労するような箇所もあるが、スティーヴンスとミス・ケントンの会話の部分を声に出して読むと、かたくなに抑制された主人公たちの感情がじかに伝わるような気がしてせつなくなる。これは一級の恋愛小説でもある。
感情に身をまかせない生き方を選び、それを誇りにしてきた人間が、もう人生の残りを考えるようになったときの悔恨というのは、じつに身につまされる。最後の方で主人公が述懐するこんなところ・・・

After all, what can we ever gain in forever looking back and blaming ourselves if our lives have not turned out quite as we might have wished?

思わず胸がつまったなあ。

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2005/03/08

ナツメロ倉庫

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疲れて乾涸びてしまった自分に水をやる必要があるんだと言い訳しながら、iPodを買った。(笑)
新しい6ギガのミニのグリーンを狙っていたのだが、予約になってしまうのと、やはりどうせなら容量の多い方がいいやと思い、普通の20ギガのモデルにする。まあ、聴きたい曲がそんなにたくさんあるわけでもないのだが、母艦のiTunes の方も50年代のジャズや60年代のポップスを中心にそれなりに充実して来たので、そろそろいいかなというわけだ。こうして感覚的にはほとんど好きなだけいくらでも取り込むことができるとなると、結局その人のナツメロ倉庫みたいなものができてしまうような気がするな。好きな曲をシャッフルで流しているとなかなかこれはご機嫌なおもちゃであります。

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2005/03/05

モルガンお雪

モルガンお雪にちょっと興味があって『妖婦の伝説』三好徹(実業之日本社/2000)を読んだ。この本は、明治の新聞などで「毒婦」だの「妖婦」だのと講談調に書き立てられた女性を取り上げて、それぞれを八つの短篇にしたものである。
短篇の題と名前を全部あげてみよう。

夜嵐おきぬ(原田きぬ)
毒婦の伝説(鬼神のお松こと高橋お伝)
実説箱屋殺し(花井お梅)
黒き運命の矢(菅野すが)
虚栄の令嬢(千坂光子)
美貌に罪あり(植村千代子)
モルガンお雪(ユキ・モルガン)
妖婦歌子(下田歌子)

山田風太郎の明治小説でおなじみの登場人物もいれば、はじめて知る名前もある。短篇で短くまとめてあるために、やや背景の説明不足の感は否めないが、簡潔にそれぞれの人物や事件を知るには参考になる。
面白おかしく扇情的に取り扱われた女たちの実像を、出来る限り事実に即して明らかにしようという試みなので、どちらかといえばこの時代の新聞の悪辣さが浮き彫りになって、なかにはこれは女の方が可哀想だと思えるようなものもある。しかし、商売としての事件報道というのは昔も今も品のないものであるのは仕方がないだろう。まあ、新聞が全部「PHP」になったら偉大なる将軍様を讃える国みたいなもんだろうから、えげつない記事が大手を振っているのは逆に健全な証かもしれない。

ところで祇園の芸妓お雪はアメリカに渡ってモルガン財閥の一族になり、第二次大戦のとき京都を空襲から救うことに力を尽くしたと何かで読んでいたのだが、これはどうもあやしい。本書によれば、明治37年1月21日に横浜で結婚式を挙げ、アメリカに渡ったものの、そこは決して住みいいところではなく、結局ふたりはフランスに居を据えた。1915年にジョージ・デニソン・モルガンが死んだあとも一人ニースで暮らしていたようだ。しかしヨーロッパに戦雲が漂いはじめた1938年に日本に帰国している。となれば、お雪がモルガン家を動かして云々というのはどうも信憑性がないような気がするなあ。
お雪が死んだのは1963年5月18日、ネットで調べるとお墓は東福寺の同聚院にあるようだ。今度、散歩がてらに訪ねてみるか。

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2005/03/03

嘘だと言ってよ、Flickr

flickrのユーザーおよび愛好者としてはちょっと気になる話。
ヤフーとグーグルが争そっていたFlickrの買収はヤフーに軍配が、という噂がシリコンバレーで流れているというのだが。個人的にはライブドアとフジテレビなんかよりこっちの方が気になるなあ。(笑)

くわしいことはこちら↓
Flickr, Yahoo Deal Rumored
ただしこの記事の信憑性はいっさいわたしにはわかりません。

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2005/03/02

ネット記念日

アット・ニフティからのメールで、今日はニフティに入会してちょうど14年目であることを知った。当時はニフティ・サーブとたしか言っていたはずで、会員にはカラーの冊子が郵送で毎月送られてくる、そんな時代だったな。通信環境ときたら、1200bpsで、ピーガーというモデムの音を鳴らせながら接続したもんだ。電話代を気にしながらやったチャット(当時はRTと称した)もなつかしい。あれからもう14年か、ちと感慨にふけりますな。

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ミリオンダラー・ベイビー

クリント・イーストウッドが監督した「ミリオンダラー・ベイビー」が、第77回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演男優賞(モーガン・フリーマン)の主要4部門に輝いた。
ゴールデン・グローブの時にテレビでトレーラーを見て、ああ、「ロッキー」を女にしてイーストウッド流の演出の渋さでまとめた作品かいな、と勝手に思い込んでしまったが、もちろん例によっての勘違いである。もともとこの映画、ある倫理をめぐって政治的な思惑もからみ議論を呼ぶ内容であったようだが、今回オスカーを取ったことで、ますます大きな批判にもさらされているらしい。
てなことを、退屈男さんのブログの記事で知った。(ここ)
退屈男さんのところから、町山智浩さんの「はてな」(ここ)に飛び、さらに詳しい内容はCNN.comにある。(ここ)この記事はAP発だがとてもよくまとまった内容で感心する。
しかし、記事の内容はいわゆる「ネタバレ」であるので、これを読むことで映画の楽しみを台無しにしてしまうおそれがある。——ということで、記事の頭にアラートがついている。

Spoiler alert: The rest of this story could ruin the movie for you.

なるほど、ネタバレ注意はこう表現するのか。
ここまで書いて言うのもなんだが、やっぱり読まない方がいいかも。(笑)

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2005/03/01

中村稔の詩歌論

『私の詩歌逍遥』中村稔(青土社/2004)はとても素晴らしい本だ。
なにより、この本はわかりやすい。ごくふつうの日常の言葉で書かれている。しかし、その内容は明晰で、意味や論理にいささかも曖昧さがない。こんな文章を書くことはもちろん誰にでもできることではない。しかし、せめて一歩でも半歩でも近づくための努力はしたいと思わせるような気高さがある。

さて、ここにとりあげられているのは、多くの弔辞(これがまたすばらしい)を捧げられた人々をとりあえず除いても、以下のような顔ぶれである。

正岡子規、中原中也、宮沢賢治、萩原朔太郎、三好達治、井伏鱒二、中村真一郎、安東次男、田村隆一、石川啄木、斎藤茂吉、加藤楸邨、森澄雄、飯田蛇笏。

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誰もが一度は目を通したり口にしたりしている詩人、歌人、俳人たちだ。人によってはかなり長い暗唱もできるのではないだろうか。
だから本書を読む楽しさのひとつは、中村さんが朗読するごとく引用するこれらの詩人の作品を、もういちど味わうことにある。(いくつかの論考は講演録から起こされているので、中村さんは実際に朗読をされているのである)
日本語はかくも美しい言語であったかとこころから感動する。
たとえば、井伏鱒二の『厄除け詩集』冒頭の「なだれ」。短い詩なので全文を引いてみる。

なだれ

峯の雪が裂け
雪がなだれる
そのなだれに
熊が乗つてゐる
あぐらをかき
安閑と
茛をすふやうな格好で
そこに一ぴき熊がゐる

この非現実的な光景、しかしなんとも愉快な詩について中村さんは井伏鱒二の初期の詩や、例の漢詩の訳(「サヨナラ」ダケガ人生ダ)などを縦横に引いてみせ、井伏の文学者、詩人としての資質や姿勢をわたしたちにあきらかにし、最後の最後で、わたしはこの詩をこんな風に考えていますなんていって解釈してみせる。わたしは、あっと言って、なんでそんな簡単なことが自分には見えなかったのかと恥じ入った。(興味がある方はぜひ本書を手に取ってほしい。この井伏論は本書のなかでも出色のもののひとつ)

詩人が「選ばれた人間」であるかどうか。昂然と社会に対して自分の詩人意識を掲げ疑問に思わない生き方を、中村さんは詩人としての出発点から忌避している。ここはまだよくわたし自身の考えがまとまらないが、俳句というものがいわゆる詩や芸術とどこかすれ違うポイントかもしれないな、という気がする。とりあえず、中村さんの子規につらなる人々と新詩社の系譜の人々との違いをのべた箇所を引用する。ここはもうすこし自分なりに考えてみたいことでもある。

子規において強烈な自己主張はあったが、その自己は決して狷狂にして世と乖離する、といった性質のものではなかった。そして、そういう自己のあり方は子規の系譜につらなる多くの歌人や俳人たちとひとしく、鉄幹に認められ、また多くの新詩社の系譜につらなる人々の自己のあり方と異なっていた。たとえば、高村光太郎、萩原朔太郎、宮沢賢治、中原中也らの現代詩人たちは、極端にいえば、みな親の遺産の上に徒食した人々であったが、子規の系譜につらなる人々は、ほとんどすべて、まことに健全な生活者であった。幸か不幸かは別として、わが国の現代詩は健全な生活者であることに背を向けることによって成立したといってもよい。

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