陸游(りくゆう)は南宋の詩人。号は放翁。五十一歳のときに四川省総督の参議官となったが、「頽放」(なげやりでしまりがない)であるという讒言をうけ、職務怠慢をもって罷免された。そのときの讒言をそのまま号にしたなかなか気骨のある人物である。生年は北宋の末の1125年。この翌年、女真族の金は首都開封に攻め込み、戦乱の中で北宋は滅亡した。生後間もない陸游は宋の高官であった父とともに一族の故郷である浙江省の紹興へ逃げ落ちた。南宋は1127年に始まる。陸游はまさに異民族によって国を蹂躪され、国土を奪われた南宋のルサンチマンを一身に体現したような生い立ちである。このことがのちの彼の政治行動の原点となる。すなわち、南宋の政治上の言論は、北方を支配した金王朝との共存をはかる平和論と、金への徹底抗戦、反攻失地回復を主張する抗戦論に二分されたが、陸游は典型的な抗戦論者となる。陸游が愛国詩人と称される所以である。
『中国詩文選20 陸游』小川環樹(筑摩書房/1974)から。
銭鍾書氏は言う、「愛国の情緒は陸游の全生命にみちみちて、彼の全部の作品にあふれ出た。彼は一幅の馬の画をみ、花のいく枝かを目にし、雁の声を聞き、酒をいく杯か飲み、何行かの草書をかいたとき、それだけでいつも国の仇をうち、国の恥をすすぎたいとの心のはしを引きおこし、血液は沸きかえり、その熱血は昼まの生活の境界を突き破って、彼の夢の世界にも流れひろがった。これはほかの人の詩集では見られないものである」(『宋詩選註』)
中国人の「愛国」に関連して、あるところで陸游の詩のことを教わった。陸游のそういう部分は日本ではあまり受け入れられず、むしろ閑適の詩がよく読まれたという。おもしろいご指摘である。
(本の日記)
ということで、よくわからないまま碩学小川環樹の本を読んだのだが、本書のなかに興味深い説が紹介されていた。
陸游は四十七歳のとき(1172年)に四川省の宣憮使王炎の幕僚となり、南鄭(漢中)に在った。当時の宋と金の国境に近く、軍事上の要地であり、いわば最前線であった。ここから北に進んでまず長安を奪還せよとの主張が抗戦論者のなかで唱えられた。陸游は当然、この抗戦論者の一派である。長安から驪山一帯は金の支配地域となっていたが、漢族のゲリラ、レジスタンスが活動する地域でもあった。金から見れば賊であるが南宋から見れば義兵であった。陸游はこのレジスタンスと連絡をとり、長安奪回を目指す北征の準備工作という秘密任務を帯びて敵中深く侵入したスパイではなかったかというのだ。(もっとも、この説を小川環樹は否定的に紹介しているのだが)
その傍証としてたとえばこんな陸游の詩——。
憶昔
憶昔西遊變姓名 憶う昔 西遊して姓名を変ぜしことを
猟圍屠肆押豪英 猟囲して屠肆に豪英を押す
淋漓縦酒滄溟窄 淋漓として酒を縦ままにすれば滄溟窄く
慷概狂歌華岳傾 慷概して狂歌すれば華岳傾く
壮士有心悲老大 壮士心有りて老大を悲しみ
窮人無路共功名 窮人路の功名を共にする無し
生涯自笑惟詩在 生涯自ら笑う惟だ詩の在るを
旋種芭蕉聴雨聲 旋って芭蕉を種えて雨声を聴く
思い出す 西への旅行、変名で出かけた昔を。
巻き狩のあと、肉屋の店で、豪傑たちをもてなしたとき。
したたかに酒に酔いしれて、大海原も狭く見え、
心たかぶるままに狂気じみて歌っていると、
華岳の山も傾くばかりであった。
若者は心やさしく老いゆく私をあわれんでくれても、
先の見えた人間に栄誉をともにする路はもはやない。
私の生活に残ったのは詩だけだと自分を笑う。
やっぱり芭蕉を庭にうえ、雨の音を聞くことにする。
(訓読・訳/小川環樹)
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