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2005年4月

2005/04/30

4月に読んだ本

『梁塵秘抄』西郷信綱(筑摩学芸文庫/2004)
『湛山除名 小日本主義の運命』佐高信(岩波現代文庫/2004)
『アンジェラの祈り』フランク・マコート/土屋政雄訳(新潮社/2003)
『セレクション俳人22 四ッ谷龍集』(邑書林/2004)
『背中の黒猫』鹿島茂(文藝春秋/2001)
『横井小楠 維新の青写真を描いた男』徳永洋(新潮新書/2005)
『世紀末の肖像』池内紀(みすず書房/2004)
『セレクション歌人10 大野道夫集』(邑書林/2004)
『ダ・ヴィンチ・コード(上・下)』ダン・ブラウン/越前敏弥訳(角川書店/2004)
『中国詩文選20 陸游』小川環樹(筑摩書房/1974)
『運命のチェスボード』ルース・レンデル/高田恵子訳(創元推理文庫/1992)
『すべてきみに宛てた手紙』長田弘(晶文社/2001)
『ローマ教皇とナチス』大澤武男(文春新書/2004)

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4月に観た映画

「コーラス」
製作:ジャック・ペラン
監督・脚本・音楽:クリストフ・バラティエ
出演:ジェラール・ジュニョ、ジャン=バティスト・モニエ、ジャック・ペラン

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2005/04/29

いのちよりも大切なもの

『すべてきみに宛てた手紙』長田弘(晶文社/2001)から。

一つの時代を歴史において際立たせるものは、その時代に人びとが生きた価値観です。そして、二十世紀というこの百年の時代を、歴史に際立たせることになるだろう最たるものが何かを、いまふりかえって言えば、それはじつに端的な一つの価値観だったように思われます。すなわち、時間のかかるものは悪である、という。・・・・
トヨタのカンバン方式やセブンイレブンのロジスティック・センターのようなものに象徴される「優良」をそんなにもてはやす必要があるのだろうか、とつねづねわたしは考える。効率と最適化の極限までの追求がそんなに大切なものなのか。

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2005/04/27

狂の反転

芸術新潮の先月号の特集は「水墨サイケデリック 蕭白がゆく」。
曾我蕭白(1730-1781)は18世紀後半の京都の画家。この時代の京都には池大雅(1723-76)、与謝蕪村(1716-84)、伊藤若冲(1716-1800)、円山応挙(1733-95)など錚々たる大家がいる。実際、蕭白と大雅には親交があった。
蕭白はその生い立ちや修業時代などに不明な点が多いようだ。四十代までは無頼の旅絵師で、腹を空かせて行き倒れになったのを大百姓に救われて、そのお礼に絵を描いたなんていう言い伝えがのこっている。いつも酔っぱらっていたとか、駕篭に後ろ向きに乗って三味線を弾きながら通行したとか、喧嘩で刃物を振り回したとか、かなり放蕩無頼の逸話が多いらしい。

「芸術新潮」の解説は京都国立博物館文化資料課長の狩野博幸さんという方がQ&A方式でなさっているのだが、これがめっぽう面白い。とくにわたしにとって興味深かったのは「狂」という概念の価値反転である。このあたりは、俳諧の流れににもかかわるものかもしれない。すこし長いが、狩野氏の言を引用しよう。

Q.蕭白は一種の突然変異なのでしょうか?それとも18世紀の京都にはこういう絵描きを生みだす土壌があったのか?

狩野 あったのだと思います。バックボーンになるような時代精神が。それを私は二つのキーワードで言い当てられるのではないかと考えています。狂狷と寓言。儒学の理想像は、ご存知の通り中庸にありますが、すでに孔子は中庸の人と行動をともにすることができない場合は、狂狷の人を友にせよと言っています。毒にも薬にもならない善人ではなく、狂の人を選べ。ところが明代になると中庸・狂狷の序列に逆転が起こる。むしろ狂の人こそが聖人の道に近いのだ、というわけです。このような狂を尊び個性の発露を重視する陽明学左派の考えは、中国では揚州八怪と総称される一群の表現者たちの登場を促しました。18世紀の京阪地方に伝播したこの新思潮が、蕭白という画家を生み出す背景にあったのではないか。
陽明学左派の理論の紹介者に、儒学者の芥川丹邱(たんきゅう1710-85)がいますが、丹邱と池大雅は親友であり、大雅は蕭白が胸襟をひろげて話すことのできる数少ない友人のひとりでしたから、蕭白は必ずやこの新理論を耳にしたに違いない。蕭白にさほどの学問があったとは思えませんが、あたかも自らの反世間的な行動と奇怪な芸術を根拠づけてくれるような丹邱らの狂をめぐる議論を聞いて救われる思いを抱いたことでしょう。早くに天涯孤独な身となり、おのれの才能だけを頼りに突っ走ってきた自身の生き方が、そのまま聖人の道にもかなっているいるということなんですから。

「曾我蕭白——無頼という愉悦」展は京都国立博物館(5月15日まで)。今度の句会の日、朝一で行ってみるかな。

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2005/04/26

スパイ詩人・陸游

陸游(りくゆう)は南宋の詩人。号は放翁。五十一歳のときに四川省総督の参議官となったが、「頽放」(なげやりでしまりがない)であるという讒言をうけ、職務怠慢をもって罷免された。そのときの讒言をそのまま号にしたなかなか気骨のある人物である。生年は北宋の末の1125年。この翌年、女真族の金は首都開封に攻め込み、戦乱の中で北宋は滅亡した。生後間もない陸游は宋の高官であった父とともに一族の故郷である浙江省の紹興へ逃げ落ちた。南宋は1127年に始まる。陸游はまさに異民族によって国を蹂躪され、国土を奪われた南宋のルサンチマンを一身に体現したような生い立ちである。このことがのちの彼の政治行動の原点となる。すなわち、南宋の政治上の言論は、北方を支配した金王朝との共存をはかる平和論と、金への徹底抗戦、反攻失地回復を主張する抗戦論に二分されたが、陸游は典型的な抗戦論者となる。陸游が愛国詩人と称される所以である。

『中国詩文選20 陸游』小川環樹(筑摩書房/1974)から。

銭鍾書氏は言う、「愛国の情緒は陸游の全生命にみちみちて、彼の全部の作品にあふれ出た。彼は一幅の馬の画をみ、花のいく枝かを目にし、雁の声を聞き、酒をいく杯か飲み、何行かの草書をかいたとき、それだけでいつも国の仇をうち、国の恥をすすぎたいとの心のはしを引きおこし、血液は沸きかえり、その熱血は昼まの生活の境界を突き破って、彼の夢の世界にも流れひろがった。これはほかの人の詩集では見られないものである」(『宋詩選註』)

中国人の「愛国」に関連して、あるところで陸游の詩のことを教わった。陸游のそういう部分は日本ではあまり受け入れられず、むしろ閑適の詩がよく読まれたという。おもしろいご指摘である。(本の日記)
ということで、よくわからないまま碩学小川環樹の本を読んだのだが、本書のなかに興味深い説が紹介されていた。
陸游は四十七歳のとき(1172年)に四川省の宣憮使王炎の幕僚となり、南鄭(漢中)に在った。当時の宋と金の国境に近く、軍事上の要地であり、いわば最前線であった。ここから北に進んでまず長安を奪還せよとの主張が抗戦論者のなかで唱えられた。陸游は当然、この抗戦論者の一派である。長安から驪山一帯は金の支配地域となっていたが、漢族のゲリラ、レジスタンスが活動する地域でもあった。金から見れば賊であるが南宋から見れば義兵であった。陸游はこのレジスタンスと連絡をとり、長安奪回を目指す北征の準備工作という秘密任務を帯びて敵中深く侵入したスパイではなかったかというのだ。(もっとも、この説を小川環樹は否定的に紹介しているのだが)
その傍証としてたとえばこんな陸游の詩——。

憶昔

憶昔西遊變姓名   憶う昔 西遊して姓名を変ぜしことを
猟圍屠肆押豪英   猟囲して屠肆に豪英を押す
淋漓縦酒滄溟窄   淋漓として酒を縦ままにすれば滄溟窄く
慷概狂歌華岳傾   慷概して狂歌すれば華岳傾く
壮士有心悲老大   壮士心有りて老大を悲しみ
窮人無路共功名   窮人路の功名を共にする無し
生涯自笑惟詩在   生涯自ら笑う惟だ詩の在るを
旋種芭蕉聴雨聲   旋って芭蕉を種えて雨声を聴く

思い出す 西への旅行、変名で出かけた昔を。
巻き狩のあと、肉屋の店で、豪傑たちをもてなしたとき。
したたかに酒に酔いしれて、大海原も狭く見え、
心たかぶるままに狂気じみて歌っていると、
華岳の山も傾くばかりであった。
若者は心やさしく老いゆく私をあわれんでくれても、
先の見えた人間に栄誉をともにする路はもはやない。
私の生活に残ったのは詩だけだと自分を笑う。
やっぱり芭蕉を庭にうえ、雨の音を聞くことにする。

(訓読・訳/小川環樹)

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2005/04/22

名前、ふたりのマリコ

『空からの花束』太田治子(中央公論/1996)は著者四十代の短いエッセイを集めた本だが、ほとんど全編が幼い愛娘、万里子ちゃんのことで埋まっている。ご本人のおっしゃるには、遅い結婚・出産で賜ったお子さんだから、愛おしさもひとしおということなのだろう。しかし、ここまでくると微笑ましいというよりも少々親バカがすぎるのではなかろうか、と正直なところ辟易しながら読んでいた。
ところが本書の終りの方に収録された「罪の意識」という文章を読んで、ちょっと厳粛な気持ちになった。

太田治子さんは、いうまでもなく太宰治の子供である。お母さんは太田静子といって、太宰の『斜陽』のモデル。当時妻子のいた太宰は文学を志す太田静子といつしか関係をもった。生まれてきた娘に、太宰は「治」の一字を与えて認知したけれど、太田静子は未婚の母として治子さんを育てることになる。本書によれば、倉庫会社の賄い婦として働いておられたらしい。

ところで太田静子が太宰治に出会うきっかけは、静子が手紙を送ったことにある。静子が自分の文章を読んでほしいと書き送ったのである。死んだ娘への思いを綴ったものだという。太宰は一度訪ねていらっしゃいと返事をした。

母が、最初の結婚相手の会社員のKさんとの間に生まれた満里子のことを、あんなにも愛しく思い続けていたということは、自分がわが子を死なせてしまったという罪の意識があったからだった。
と「罪の意識」というエッセイははじまる。
暴力をふるうKさんをどうしても愛することのできなかった母は、赤ちゃんが生まれたことでますます悩むようになった。
この子を夫の許に置いて家を出ることは、死んでも考えられなかった。こうなったら死ぬしかないとまで思いつめた時、赤ん坊は死んでしまったのだった。
私の身代わりに満里子は死んだのだ。もし夫を愛していたら、この子は死ななかっただろうという自責の念にかられた母は、離婚してからもずっと悩み続けた。

マリコは、自分の母が生涯で一番嬉しかったこととして語った最初の子供——治子さんにとっては生きていれば姉にあたる人——の名前だった。
父の名前をもらった太田治子さんは、この世ではまみえることのできなかった姉の名前を(字は異なるけれど)自分の娘につけたことになる。

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2005/04/20

新教皇と『ダ・ヴィンチ・コード』

雨の休日。カウチに寝そべって『ダ・ヴィンチ・コード』を終日読む。
ちょうど新しい教皇が選出された日だった。新教皇ベネディクト16世はヨハネ・パウロ2世の側近中の側近ということなので、教義的には自由化の方向には向かわないと見られる。ネタばれをするつもりはないのだが、このミステリーにはオプス・デイ(Opus Dei)というカトリックの組織が重要な役割を演じる。
オプス・デイは、1928年にスペインで創設された教団だが、1982年にヨハネ・パウロ2世によって、カトリック教会の正規の位階制度に含まれる属人区(プレラトゥーラ・ペルソナーリス)として認可された。その教義は、ヨハネ・パウロ2世の超保守派の立場をさらに強烈にしたようなもので、前教皇とのつよい結びつきが指摘されているらしい。

『ダ・ヴィンチ・コード』の世界では、新教皇はヨハネ・パウロ2世の超保守派の軌道修正をはかる人物が選出され、そのことがオプス・デイにとっての危機になるのだが、現実世界では、どうやらオプス・デイは安泰ということなのだろうか。

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本書でのオプス・デイのあつかいは、どちらかといえばカルトにちかいような描き方だと思う。ネットの検索でも、やはりいろいろな陰謀説のなかであまり好意的な意見はない。まあ、無信仰な人間がとやかく言うようなことではないから、興味のある方は自分で調べてください。

ところで、新聞やテレビの報道ではPopeは「法王」という表現で統一されているようだ。『ダ・ヴィンチ・コード』では「教皇」という表記になっている。調べてみたら、カトリック中央協議会のサイトでこういう説明があった。
「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい?

「新聞を見ると『ローマ法王』と書いてあり、教会の文書には『ローマ教皇』と書いてあります。どちらが正しい表記ですか?」 このような質問が多く寄せられます。簡単に説明します。
教会では「ローマ教皇」を使います。
以前はたしかに、日本のカトリック教会の中でも混用されていました。そこで日本の司教団は、1981年2月のヨハネ・パウロ2世の来日を機会に、「ローマ教皇」に統一することにしました。「教える」という字のほうが、教皇の職務をよく表わすからです。
その時以来、たびたびマスコミ各社に「ローマ教皇という名称を使ってください」とお願いしていますが、残念ながら実現していません。

バチカン大使館は、「ローマ法王庁大使館」

ところが東京都千代田区三番町にある駐日バチカン大使館は「ローマ法王庁大使館」といいます。なぜでしょうか?
日本とバチカン(ローマ法王庁、つまりローマ教皇庁)が外交関係を樹立した当時の定訳は「法王」だったため、ローマ教皇庁がその名称で日本政府に申請。そのまま「法王庁大使館」になりました。日本政府に登録した国名は、実際に政変が起きて国名が変わるなどしない限り、変更できないのだそうです。
こうしていまでも「法王」と「教皇」が混用されているのです。
皆様には、「教皇」を使っていただくよう、お願いする次第です。

というわけで、当事者がそう呼んでくださいと言うのなら、「教皇」にすればいいのにと思うのだが、まあ、これについても、それほどこだわりがあるわけではない。

肝心の『ダ・ヴィンチ・コード』の出来だが、これほど刺激的で面白い材料を使いながら、ここまでお粗末なオハナシが書けるのは、ある意味ですごい。プロットは陳腐、登場人物は平板、ストーリーはご都合主義で無内容。おやまあ、これは「名探偵コナン」かね、と読み終えてあきれかえった。
「へぇ」の一種として推薦するならともかく、こんなものを平気で絶賛するミステリ批評家というのは、いくら商売とはいえ、恥知らずもいいところでありますね。

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2005/04/19

マーラー、シェーンベルク、ツェムリンスキー

グスタフ・マーラーとアルノルト・シェーンベルクの年の差は14歳あるが、世紀末ウィーンの同時代の人である。
池内紀の『世紀末の肖像』(みすず書房/2004)から。

マーラーの完全主義は、他方では、彼が開拓者ではなく、完成者であったこと、ワーグナーやブルックナーやブラームスの遺産を受け継いだ最後の相続人であったことを告げている。この遺産相続人にはシェーンベルクとともに始まった新しい時代の音楽は、不可解であった。にもかかわらず、自分に不可解な新音楽を、おしみなく擁護した。それは、むろん、マーラーの偉大さを示すものにちがいない。アルマの回想によると、シェーンベルクの『室内交響曲』作品九が、初めて音楽協会で演奏されたとき、口笛が鳴り、これ見よがしに椅子が引かれるなかで、マーラーは立ちあがり、端然として拍手を送りつづけたというのだ。帰路、マーラーは妻にいったという。
「私にはシェーンベルクの音楽がわからない。しかし、彼は若い。おそらく、彼が正しいのだろう」
ところで、ここにもうひとりアレキサンダー・フォン・ツェムリンスキーという男がいる。音楽ファンにはよく知られたエピソードらしいのだが、わたしははじめて知ったことなので、以下メモとして。

上の引用にも出てくるマーラーの妻は、アルマ・シントラーといって、マーラーと結婚する前は、ウィーン社交界の花であった。「抱擁」で有名なクリムトもその頃の男友達であったが、一番の恋人とされたのは、音楽家のアレキサンダー・フォン・ツェムリンスキーだった。詩人のホフマンスタールが若き天才音楽家としてツェムリンスキーを讃えた手紙もあるという。アルマは一流の芸術家にしか興味のない女であるから、さっそくこのツェムリンスキーを自分の音楽家庭教師にして唾をつけた。やがてウィーンの音楽界で特等席をしめるにちがいない一級の才能の青田買いであります。
ところが、ここにマーラーが現れた。彼はこのときウィーン歌劇場新任の指揮者兼音楽監督であった。池内さんの言葉を借りれば「まだ昇らぬ将来の星よりもすでに空に輝いている星の方が眩しい」というわけで、アルマはさっそくマーラーに乗り換えて妊娠、二人は結婚する。18歳の年の開きがあった。のちにマーラーは彼女の不貞に悩みフロイトの診察も受けるのですが、まあ、それはまた別の物語。
つまりツェムリンスキーはマーラーに恋人を奪われた男である。しかし、マーラーは彼の才能を高く評価していたらしい。もう一人、その才能に惚れた男がいた。

ツェムリンスキーは才気あふれた人物だった。だからこそ剛毅なシェーンベルクが、あれほどまでに私淑したのだろう。作曲のイロハから対位法一切を彼から学んだ。若いシェーンベルクにとってツェムリンスキーは恩義あるマエストロというものだった。
そして、シェーンベルクはツェムリンスキーの妹マチルダを娶ることになる。たまたまマーラーの結婚と同じ年(1901年)のことであった。ところが、やはりこの結婚も、マチルダが年下の画家と駆け落ちするという不幸な成り行きとなる。しかも、友人の奔走でマチルダがシェーンベルクのもとに戻ると、その年下の画家リヒャルト・ゲルストルが自裁するというメロドラマ。シェーンベルクをめぐる本に使われる肖像画はきまってこのゲルストルの手になるものであるそうな。
かくして、輝かしい将来を約束されていた男は、20世紀のふたつの巨星マーラーとシェーンベルクをつなぐ架け橋という使われ方で音楽史に名を残した。もっとも、知らないのはわたしのような素人だけで、のちにニューヨークに渡ったツェムリンスキーはもちろんかなりの業績をあげているのだそうですな。

余談ながら、マーラーの死後、アルマはあいかわらず一流の芸術家を渡り歩き、画家オスカル・ココシュカ、建築家のヴァンター・グロピウス、詩人のフランツ・ヴェルフェルを伴侶とした。「四芸術の未亡人」という少々意地の悪い称号が捧げられた。芸術家未亡人のグランド・スラムでありますね。(笑)

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2005/04/15

ブクログが速くなった

ネット書友の何人かの方も利用されている「ブクログ」だが、面白いサービスではあるものの、これまではレスポンスがよくないのが玉にきずだった。とにかく重くて、実際にはつかいものにならないなぁ、というのが率直な感想であった。
ところが昨日、どうやらサーバーを増設し、システムの最適化をはかったようで、今日はほとんど普通の掲示板なみの動作をしている。これなら、結構使えるのではないかな。
ちなみにわたしの本棚はこちらであります。
めんどくさいので評価もレヴューもなしですが。
たまに「この本を所有している本棚」をクリックして、同じ本を読んだ方の「本棚」に飛ぶと、知っている方だったりする。(笑)

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2005/04/13

「コーラス」という映画

ガーデンシネマで「コーラス」を見た。

製作/ジャック・ペラン
監督・脚本・音楽/クリストフ・バラティエ

とてもいい映画だった。
おそらくは国立コンセルヴァトワール出身者。一流の音楽家としての成功を夢見ていた男、クレマン・マチュー(ジェラール・ジュニョ)。いつかは自分の好きな音楽だけで生きていくんだ、いつかはきっと自分の才能が認められるはずだと、しがない音楽教師で身過ぎ世過ぎの数十年。気がつけば独り身の孤独な中年男である。頭だってもう禿げてしまった。ひとつの学校を解雇されるたびにだんだんとひどい場所に落ちてゆく。たどり着いたところが、その名も「池の底」という寄宿学校の舎監である。学校とは表向き、ありようは少年鑑別所で、反抗者は二週間も暗く狭い懲罰室にぶちこまれる。
校長は教育者を気取り、叙勲の運動こそ抜け目がないが、生徒のことなどこれっぽっちも考えてはいない。まるで強制収容所の所長と見まがうようないんちきな男である。そんなところで、音楽教師が荒んだ生徒の心をつかむためにはじめた合唱団だったのだが・・・

映画はフランスで大ヒットした。それは物語としての面白さもさることながら、ジャン=バティスト・モニエという少年の歌声の美しさによるところが大きいだろう。ほとんど予備知識なく見に行った映画だったので、この物語の子供側の主役(大人側の主役はもちろん音楽教師マチュー)が合唱団のなかでソロをとる場面で、突然止めようもなく涙があふれて、わがことながら驚いた。フランス語の歌詞の意味などほとんどわからないのに、澄んだその歌声が直にこちらの情動を刺激するのである。宗教のことはまったくこの映画には出てこないのだが、そのときわたしはカトリックのことを考えていた。的外れかもしれないけれど。

物語のはじめから、わたしたちにはマチューが無名の音楽教師で一生を終えるであろうことはほとんどわかっている。それはさびしいけれども、わたしたちの大半の人間にとって親しく共感をもって受け入れる自分との折り合いのつけ方でもある。
だから、映画の冒頭で、かれが見いだしたひとりの少年が、世界的な音楽家としてその才能を開花させたことが語られていることは、夢の実現であり上昇の方向性を意味してはいるが、それだけでは映画としては十分とは言えない。エピローグで語られるもうひとりの少年とマチューのふれあいこそが、マチューにとっての恩寵であり癒しであり赦しでもあったことが、わたしたちには感じられるし、このいわば大地に根付くような方向性が、映画のプロローグと照応して、深い感動と満足を与えてくれるのだと思うのだ。

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2005/04/11

アンジェラの灰と祈り

『アンジェラの灰』フランク・マコート/土屋政雄訳(新潮社/1998)
『アンジェラの祈り』フランク・マコート/土屋政雄訳(新潮社/2003)

1997年のピューリッツァー賞(伝記部門)全米図書賞受賞の『アンジェラの灰』は、アイルランド系のニューヨークの高校教師が書いた自伝小説の傑作。映画ではエミリー・ワトソンが主人公の母親を演じたが、映画だけ見た人はなんで題名が「灰」なのかわからないかもしれない。

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もともと作者のフランク・マコートの計画では、母アンジェラの遺灰を故郷のアイルランドの町に戻すところで回想録を終えるつもりだった。というわけでタイトルは『アンジェラの灰』。ところが実際に書き出すと子供時代を送ったアイルランドのリムリックだけでほとんど分厚い一冊の本になってしまった。だから『アンジェラの灰』は回想録の上巻にあたり、フランクが19歳でニューヨークにやってくるところで終わっている。灰のエピソードはそこには入っていないというわけだ。
下巻にあたるのが『アンジェラの祈り』(原題は『'Tis : a memoir』)である。この「祈り」のエンディングでフランクはアンジェラの遺灰をリムリックのマングレット修道院墓地に撒くことになる。

しかし『アンジェラの灰』と『アンジェラの祈り』は、ひとつの作品の上下巻のようなものかというと必ずしもそうは言えないような感想をわたしは持つ。
この二冊の上梓の間に、草稿の段階でどれほどの時間的な間隔があったのかはさだかではないけれど、『アンジェラの灰』の方が圧倒的に瑞々しく感動も大きい。『アンジェラの祈り』は巧いのだが少々鼻につくといった感があるのだ。
まあ、これは文体によるというよりも、回想の対象となるのが無垢な子供時代であるということの要素の方が大きいかもしれない。

ところで、フランクは父親が家を捨てたために、子供の時から家族を養うために働き、ほとんどまともな教育を受けていないわけだが、そういうかれがどうやってニューヨークの進学校の英語教師になることができたのか『アンジェラの祈り』を読むまでぴんとこなかった。
ここでの鍵は軍隊だった。陸軍に入り、除隊後に復員兵援護法の適用を受けてニューヨーク大学(NYU)にもぐり込むのだ。それにしても、フランクの学歴は14歳までである。高校卒の資格はないので、ほんとうなら、いかに復員兵援護法があろうともかれの入学はありえない。1953年頃の話である。
じつはここで重要な決定をしてくれたのが大学の事務局長だった。彼女の権限で、特別に仮の入学を許可されるのだ。1年間Bの成績を維持できれば正式の在学を認めるというのである。
大学なんて、ほんとうに勉強したい若者がいれば、こうやって機会を与えてやる方がいいのかもしれないなあ。そういえば、町田宗鳳さんもハーヴァードの学位は同じような感じで得たものだったはず。いやなところも多いが、こういうところはアメリカのよさだろう。

フランクが長く教師をつとめたのはピーター・スタイビサント高校である。アメリカでも有数の進学校で、卒業生にはジェームズ・キャグニー、セロニアス・モンクがおり、ノーベル賞受賞者もいるという学校であるそうな。

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2005/04/07

三木武吉という男

『湛山除名 小日本主義の運命』佐高信(岩波現代文庫/2004)から、三木武吉のエピソード。

戦後まもなく、郷里の高松から衆議院選挙に立った三木を、対立候補が立会演説会で、こう攻撃した。
「ある有力な候補者は、あろうことか東京で長年にわたってつくったメカケ三人を連れて郷里に帰り、小豆島に一緒に住まわせている。かかる不義不道徳な輩を、わが香川県より選出すれば、県の名折れであり恥辱である」
これを聞いて登壇した三木は、
「先ほど聞いておると、ある無力なる候補は、ある有力なる候補者は、といったが、つまりそれは私のことを指したのである。私はたしかに有力な候補者で、私のことをいった男が無力な候補者であることは明らかである。その無力な候補者は、私がメカケを三人も連れて帰ったといっているが、物事は正確でなければいけないので訂正しておきますが、女の数は三人ではありません。五人であります」
と切り返して満場の爆笑を買った。そして一転、しんみりした調子で、
「高松を飛び出してから、随分、私も苦労しましたが、その間には、いろいろな事情から多くの女との関係ができました。そのかかわりを持った女たちは、いずれも年をとっていわば今は廃馬であります。けれども、彼女たちが私を頼る限り、私の都合で捨て去ることはできません。この人々を養うことは、私の義務だと思っております。それも三人じゃない、五人です。訂正しておきます」
と続けて、割れるような拍手をもらったのである。

ははは、政治家はまず役者でなければならないなあ。ヘボには絶対絶命と見える危機もプロには好機にすぎないという不思議な局面が勝負事にはあるものだが、これもそういうもののひとつだろうか。あるいは、道徳や正義を押し立てた非難には人情で応戦するのが有効だということか。まあ、さすがに現代ではもうこの手は使えないだろうなあ。

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2005/04/06

火狐に乗り換え

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「MacPeople」5月号の特集「絶対、Firefox主義!」を読んでブラウザーをFirefoxに乗り換えた。いろんな拡張機能を簡単に付加できるのが面白い。たとえば「FoxyTunes」などはブラウザーからiTunesを制御できるので、いちいちiTunesにきりかえなくともいいという横着な使い方ができる。ほかにもたくさんの拡張機能があるので、検索やブラウジングなどの使い勝手はかなりよくなった。
ツールバーのボタンなどの外観のデザインもお好みで選べるのも楽しくてよい。
とくに今回の記事で役に立つのは高速化の方法だ。

Firefoxに限らず多くのブラウザーは、遅いネットワークで使ったときも問題なく動作するように、処理速度が意図的に落とされている。

これを6カ所、直接いじって値を上げてやり、また新しい設定も3つ追加するというテクニックだ。(ほかの方の参考になるかもしれないので書いておくと、わたしの環境では「browser.turbo.enabled」の設定をいじるとサイドバーにおいているflickrのThe Daily Zeitgeistが止まってしまうようだ。したがってここは変更していない)
これによってたしかに表示が体感的にもかなり速くなった。こういうわずかな差が操作の快適性につながるのは経験上もよくわかる。
ただし、CPUへの負荷が多少大きいのか、Safariのときより冷却ファンの音がすこし大きくなるような気がする。
また、windowsやlinuxではそのマシンの標準のブラウザに変更できるようなのだが、Macの場合はあくまでも標準ブラウザはSafariであるようで、ほかのソフトからブラウザを呼び出すとFirefoxではなくてSafariが立ちあがる。まあ、たいしたことではないのだが、このあたりの対処法が今後の宿題だな。

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2005/04/01

3月に読んだ本

『うその学校』池内紀・松山巌・絵:高岸昇(筑摩書房/1994)
『妖婦の伝説』三好徹(実業之日本社/2000)
『六甲山房記』陳舜臣(岩波書店/1990)
『クジラが見る夢』池澤夏樹(新潮文庫/1998)
『THE REMAINS OF THE DAY』KAZUO ISHIGURO (VINTAGE BOOKS)
『男性自身 巨人ファン善人説』山口瞳(新潮文庫/1987)
『達谷往来』加藤楸邨(花神社/1978)
『句集 木の名前』石田郷子(ふらんす堂/2004)
『草原に落ちる影』カーレン・ブリクセン/桝田啓介訳(筑摩書房/1998)
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋/2004)
『作歌四十年 自選自解』齋藤茂吉(筑摩叢書/1971)
『百鬼夜行 陰』京極夏彦(講談社文庫/2004)
『現代秀句』正木ゆう子(春秋社/2002)
『あかるたへ』水原紫苑(河出書房新社/2004)
『私の引出し』吉村昭(文藝春秋/1993)
『みち草』大岡信(世界文化社/1997)

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3月に観た映画

日の名残り
監督:ジェームズ・アイボリ
出演:アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、ジェームズ・フォックス、クリストファー・リーブ、ヒュー・グラント

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梁塵秘抄と山椒大夫

『梁塵秘抄』西郷信綱(ちくま学芸文庫/2004)から。

我が子は十余に成りぬらん 巫(かうなぎ)してこそ歩くなれ
田子の浦に汐汲むと いかに海人(あまびと)集ふらん
まだしとて 問ひみ問はずみなぶるらん いとおしや
(三六四)

幼い歩き巫女にして別れた我が子、もう十余歳になったはず、まだ巫女としては幼稚で未熟だと汐汲みの海人たちが寄ってたかってなぶっているのではないか、かなしいいとおしい、といういうほどの意。
ここの「汐汲む」は原本「汐ふむ」となっているらしい。これに対して西郷のコメントがなかなか痛快。

それを古典体系本は「汐踏む」とし、田子の浦で「世間の艱難をなめ苦労していると聞くが」と我が子のことに解そうとしているけれど、そういういいかたは、どだい成りたつまい。日本語の表現をぶちこわしてまで原本に忠勤をはげむ義理はさらさらないわけで、梁塵秘抄のように誤写のかなり多い原本が一つきりしかない場合は、とくにそうだといえる。

が、これを紹介するのは、じつはここが眼目ではない。
あっと驚いたのは「汐汲み」という言葉に対する以下の考察である。
真煮法による製塩の仕事は、多大の人力を要する重労働であった。山椒大夫のもとで厨子王は柴刈り、安寿は汐汲みをやらされたが、どちらも塩作りのための労役に他ならない。

そうか、「山椒大夫」興産は塩作りも行う多角経営であったのか。そう言われてみると、たしかにあの姉弟がなんであの仕事をさせられていたのか腑に落ちる。
鴎外は「奉公初めは男が柴苅り、女が汐汲みときまっている。」と記しているが、なぜそうなのかは説明していない。むかしはそんなこと、説明するまでもなかったのだろう。

(註)西郷信綱の本は「真煮法」としているが、もしかしたらこれは「直煮法」の誤写かもしれぬ。あるいは「真煮法」というのもあるのか。ここは不明。

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