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2005/04/27

狂の反転

芸術新潮の先月号の特集は「水墨サイケデリック 蕭白がゆく」。
曾我蕭白(1730-1781)は18世紀後半の京都の画家。この時代の京都には池大雅(1723-76)、与謝蕪村(1716-84)、伊藤若冲(1716-1800)、円山応挙(1733-95)など錚々たる大家がいる。実際、蕭白と大雅には親交があった。
蕭白はその生い立ちや修業時代などに不明な点が多いようだ。四十代までは無頼の旅絵師で、腹を空かせて行き倒れになったのを大百姓に救われて、そのお礼に絵を描いたなんていう言い伝えがのこっている。いつも酔っぱらっていたとか、駕篭に後ろ向きに乗って三味線を弾きながら通行したとか、喧嘩で刃物を振り回したとか、かなり放蕩無頼の逸話が多いらしい。

「芸術新潮」の解説は京都国立博物館文化資料課長の狩野博幸さんという方がQ&A方式でなさっているのだが、これがめっぽう面白い。とくにわたしにとって興味深かったのは「狂」という概念の価値反転である。このあたりは、俳諧の流れににもかかわるものかもしれない。すこし長いが、狩野氏の言を引用しよう。

Q.蕭白は一種の突然変異なのでしょうか?それとも18世紀の京都にはこういう絵描きを生みだす土壌があったのか?

狩野 あったのだと思います。バックボーンになるような時代精神が。それを私は二つのキーワードで言い当てられるのではないかと考えています。狂狷と寓言。儒学の理想像は、ご存知の通り中庸にありますが、すでに孔子は中庸の人と行動をともにすることができない場合は、狂狷の人を友にせよと言っています。毒にも薬にもならない善人ではなく、狂の人を選べ。ところが明代になると中庸・狂狷の序列に逆転が起こる。むしろ狂の人こそが聖人の道に近いのだ、というわけです。このような狂を尊び個性の発露を重視する陽明学左派の考えは、中国では揚州八怪と総称される一群の表現者たちの登場を促しました。18世紀の京阪地方に伝播したこの新思潮が、蕭白という画家を生み出す背景にあったのではないか。
陽明学左派の理論の紹介者に、儒学者の芥川丹邱(たんきゅう1710-85)がいますが、丹邱と池大雅は親友であり、大雅は蕭白が胸襟をひろげて話すことのできる数少ない友人のひとりでしたから、蕭白は必ずやこの新理論を耳にしたに違いない。蕭白にさほどの学問があったとは思えませんが、あたかも自らの反世間的な行動と奇怪な芸術を根拠づけてくれるような丹邱らの狂をめぐる議論を聞いて救われる思いを抱いたことでしょう。早くに天涯孤独な身となり、おのれの才能だけを頼りに突っ走ってきた自身の生き方が、そのまま聖人の道にもかなっているいるということなんですから。

「曾我蕭白——無頼という愉悦」展は京都国立博物館(5月15日まで)。今度の句会の日、朝一で行ってみるかな。

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