名前、ふたりのマリコ
『空からの花束』太田治子(中央公論/1996)は著者四十代の短いエッセイを集めた本だが、ほとんど全編が幼い愛娘、万里子ちゃんのことで埋まっている。ご本人のおっしゃるには、遅い結婚・出産で賜ったお子さんだから、愛おしさもひとしおということなのだろう。しかし、ここまでくると微笑ましいというよりも少々親バカがすぎるのではなかろうか、と正直なところ辟易しながら読んでいた。
ところが本書の終りの方に収録された「罪の意識」という文章を読んで、ちょっと厳粛な気持ちになった。
太田治子さんは、いうまでもなく太宰治の子供である。お母さんは太田静子といって、太宰の『斜陽』のモデル。当時妻子のいた太宰は文学を志す太田静子といつしか関係をもった。生まれてきた娘に、太宰は「治」の一字を与えて認知したけれど、太田静子は未婚の母として治子さんを育てることになる。本書によれば、倉庫会社の賄い婦として働いておられたらしい。
ところで太田静子が太宰治に出会うきっかけは、静子が手紙を送ったことにある。静子が自分の文章を読んでほしいと書き送ったのである。死んだ娘への思いを綴ったものだという。太宰は一度訪ねていらっしゃいと返事をした。
母が、最初の結婚相手の会社員のKさんとの間に生まれた満里子のことを、あんなにも愛しく思い続けていたということは、自分がわが子を死なせてしまったという罪の意識があったからだった。と「罪の意識」というエッセイははじまる。
暴力をふるうKさんをどうしても愛することのできなかった母は、赤ちゃんが生まれたことでますます悩むようになった。
この子を夫の許に置いて家を出ることは、死んでも考えられなかった。こうなったら死ぬしかないとまで思いつめた時、赤ん坊は死んでしまったのだった。
私の身代わりに満里子は死んだのだ。もし夫を愛していたら、この子は死ななかっただろうという自責の念にかられた母は、離婚してからもずっと悩み続けた。
マリコは、自分の母が生涯で一番嬉しかったこととして語った最初の子供——治子さんにとっては生きていれば姉にあたる人——の名前だった。
父の名前をもらった太田治子さんは、この世ではまみえることのできなかった姉の名前を(字は異なるけれど)自分の娘につけたことになる。
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