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2005年5月

2005/05/31

5月に読んだ本

『遺骨』アーロン・エルキンズ/青木久恵訳(ハヤカワ文庫/1994)
『愛の続き』イアン・マキューアン/小山太一訳(新潮社/2000)
『現代日本の詩歌』吉本隆明(毎日新聞社/2003)
『英米ゴーストストーリーズ傑作選』佐藤嗣二訳(新風書房/1996)
『黄色い街』ベーツァ・カネッティ/池内紀訳(法政大学出版局/1999)
『大江戸歳時記 捕物帳傑作選 冬の巻』(河出文庫/1990)
『世界を読み解く』イマニュエル・ウォーラーステイン/山下範久訳(藤原書店/2003)
『東京ファイティングキッズ』内田樹・平川克美(柏書房/2004)
『群衆と権力(上)』エリアス・カネッティ/岩田行一訳(法政大学出版局/1971)
『詩歌の待ち伏せ(上)』北村薫(文藝春秋/2002)
『漢詩を読む 陸游100選』石川忠久(NHKライブラリー/2004)
『群衆と権力(下)』エリアス・カネッティ/岩田行一訳(法政大学出版局/1982)
『脱商品化の時代—アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』イマニュエル・ウォーラーステイン/山下範久訳(藤原書店/2004)
『詩歌の待ち伏せ(下)』北村薫(文藝春秋/2003)
『映画の構造分析/ハリウッド映画で学べる現代思想』内田樹(晶文社/2003)
『「おじさん」的思考』内田樹(晶文社/2002)
『図像探偵 眼で解く推理博覧会』荒俣宏(光文社文庫/1992)
『ためらいの倫理学』内田樹(冬弓舍/2001)
『大江戸歳時記 捕物帳傑作選 春の巻』(河出文庫/1990)
『レヴィナスと愛の現象学』内田樹(せりか書房/2001)

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5月に観た映画

「8人の女たち」
監督:フランソワ・オゾン
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベアール、イザベル・ユペール、ファニー・アルダン

「グッバイ・レーニン」
監督/脚本:ヴォルフガング・ベッカー
出演:ダニエル・ブリュール、チュルパン・ハマートヴァ、カトリーン・ザース、マリア・シモン

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2005/05/30

レヴィナスと愛の俳句

ちょっと変なんだけど、内田樹さんの『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房/2001)を読みながら俳句のことをしきりに考えている。
この本には(もちろん)俳句のことはまったく出てこない。しかし「これって俳句のことだよな」と思うことがあまりに多いのであります。
そんな感想を言ったら、内田先生はびっくりされるだろうか。いや、たぶんそんなことはなさそうだ。
たとえば、こういうくだりが本書にある。

テクストを読むという行為は、テクストの究極的意味を空虚な仕方で現前させることではない。そうではなくて、読むということの固有の本質に属しているのは、「おのれに固有の読み方」をするということであり、かつ、どのような「おのれに固有の読み方」を通じても、テクストの意味の統一は揺らぐことがない、ということなのである。(107頁)

これは内田さんが、現象学についてのフッサールの言葉を、レヴィナス的に言い直したものだ。「レヴィナスに俳句のことが書いてあるって?それがなにか」。(笑)

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そういえば、今日の朝日新聞(関西版だけ?)は、ほぼ全面を使って神戸女学院大学教授内田樹を紹介していた。「ウチダが読み解く現代俳句の歴史と発展」なんて絶対面白そうなんだが、ここまで売れちゃうと、そんなマイナーな仕事までしてもらえる可能性はもうないだろうなあ、残念。

さてレヴィナスの思想(として内田さんが祖述しているもの)と俳句の相似については、とりあえずつぎの決定的な一点をあげておきたい。
わたしの言葉でぐだぐだ書いても分かりにくいだろうから、たとえば、ということで二箇所引用する。

師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境地がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。(18頁)

「弟子である」ということは、師の全知の前にうなだれて黙することでも、師の言葉をそのままおうむ返しにすることでもない。そうではなくて、師との「対話的運動」を通じて、これまでも。そしてこれから先も「彼以外の誰によっても語られることのない」言葉を発するために呼びもとめられることである。(119頁)

俳句をやろうとするときに、われわれがひとつ態度を決めないといけないのは、俳句結社に入るか入らないかということですよね。普通、俳句の入門書(たいていは有力な結社の主宰と言われる俳人が書いています)では、自分の尊敬できそうな俳人が主宰する結社にぜひともお入りなさい、もしそこが自分に合わないと感じたら、別の結社に移ればいいけれど、もしほんとうに俳句が上手くなりたいなら一人でやってても駄目ですよ、なんて書いてあることが多い。その理由は、もともと俳句は座の文芸である俳諧に根をもつものだから、とか、結社で競い合う俳友ができるのはいいものだとか、そういうプラスアルファーみたいなことも付け足しで書いてあるけれど、突き詰めて言うと、たったひとつのことに極まるとわたしは見ています。
すなわち、俳句をつくっていれば誰でも一定のレベルには達する。しかし「真のブレークスルーは師に仕えることによってしか果たせない」((C)内田樹)
で、ここで多くの人がつまづくのね。(現にわたしもそうであります)
われわれが仕えるべきなのは「詩」であって「師」ではない、というのはまさに正論でありまして、いやしくも知的で自由な精神の持ち主であるワタクシが、なんで「稲畑汀子」なんかに「仕え」なきゃならんのだというのは、もっともな考えであります。そうだよね。
(ここで「稲畑汀子」というのはあくまでわたしの場合ですので、俳句愛好者各位におかれましては、お好みで「藤田湘子」でも「金子兜太」でも「長谷川櫂」でも「中原道夫」でも代入していただきたい)

しかし、ここでどうしても考え込まねばならないことがある。
それは、わたしたちの心をとらえてはなさないすぐれた俳句を、まぐれあたりではなく、コンスタントにつくれる俳人が過去から現在にいたるまで厳然として存在するが、この人たちはほぼ例外なく、卓越した師を得てこれに仕えたことをなにより幸運なことであったと、一様に語っていることであります。この場合この方たちの師事というのは、カルチャースクールで習ったのなんてレベルの話ではないのは言うまでもない。師がカラスは白いと言えばカラスは白いのである、てなレベルの師事でありますね。
どうも俳句が素人のレベルからもう一段上の境地に離陸する仕掛けとして、結社なかんずく「師に仕える」という経験が有効だと言うことは疑うことが難しいような気がする。そしてそのあたりのヒントが、(もしかしたら)レヴィナスにある、なあんてことはないものかしら、と思いながら読書をしている今日この頃であります。

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2005/05/25

だっち君家族

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カミさんに可愛いポストイットをもらった。中央公論新社の本のカバーの応募マークを送ると「もれなくもらえるだっち」ということらしい。(ここ)

わたしは栞がわりにポストイットを使う。愛用しているのは紙ではなく、フィルム素材でできたフラッグというタイプである。先端部分には色がついているがボディは透明なので、活字を隠してしまうことがないからだ。
ところで、知っている人も多いと思うが、もともとこのポストイットという商品は、研究者の「失敗」から生まれたらしいね。つまりすぐ剥がれてしまう「のり」ができてしまったので、こりゃ使い物にならんわ、とお蔵入りさせていたのが元であった。ええと「のり」がシニフィアン、「剥がれない」がシニフィエなんて考えて暇つぶしをする。構造主義で読み解く商品開発なんて、すでにたくさん出ていそうだな。あ、ぼろが出るから、この話題はやめよう。

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2005/05/24

俳句の構造分析

『映画の構造分析』内田樹(晶文社/2003)に、こんな一節あり。

私たちがあるテクストを読んでいるときに、「意味のつながらないところ」「意味の亀裂」のようなものに遭遇することがあります。「意味の亀裂」を私たちはそのままにしておくことができません。私たちはそこに「橋」を架けます。「意味のつながらないところ」に「架橋する」ことで、私たちは話の前後のつじつまを合わせようとします。
この「意味の架橋」こそ、実は私たちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う「物語発生装置」なのです。
私たちが意味の亀裂を弥縫するためにその裂け目に架ける「橋」のことを、私たちは通常「解釈」と呼んでいます。(52頁)
うーん、これって、「意味の亀裂」という表現にすこし難があるが、ほぼこのまま、俳句の「切れ」の説明に応用できそうな気がするなあ。この本を内田さんは「誰でも知ってる映画を素材に使った、現代思想の入門書」と定義している。誰でも知ってる名句を素材に使った現代思想の入門書なんてものがあったら、わたしは読みたいが、これはまず売れないような気がするなあ。現代思想サイドでも、俳句サイドでもパスとなりそうな。(笑)

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転送された一枚の葉書

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか  中城ふみ子

『詩歌の待ち伏せ(下)』北村薫(文藝春秋/2003)のなかに、中井英夫と中城ふみ子の往復書簡のことがでている。東京創元社の『中井英夫全集10』に収録されたふたりの往復書簡は、昭和29年3月22日、中城ふみ子宛中井英夫葉書から始まる。「短歌研究」第一回五十首募集で、編集長であった中井英夫自身が、選者三人がそろってBの評価に過ぎなかった「冬の花火—ある乳癌患者のうた—」をあえて一位と独断で決定し、そのことを中城に伝える葉書である。この時点では、中井は中城の歌をフィクションとしてとらえていた。

これは「冬の花火」の一位決定を伝え、あわせて題名を作中の語からとって「乳房喪失」とさせて貰えないか、また写真も送ってほしいと頼む事務的な通信です。(194頁)
このあたりの経緯については、中井の『黒衣の短歌史』で、すでになじみのある事柄であったが、つぎのことは北村さんの本で初めて知った。おもわず目頭がかっと熱くなった。
中井はこの葉書を連絡先としてあった帯広に送った。中城ふみ子はもうひとつ札幌医大の病室名も一時的な連絡先として知らせていたが、中井はその意味するところがわかっていなかったのである。葉書は実家の呉服店から札幌医大の中城へと転送された。
ところが、この葉書には、書簡集には活字となっていない部分があると北村さんは、証言するのですね。東京創元社で担当の編集者に葉書を見せてもらったのだそうです。
葉書の左隅には一行、こう墨書されているのです。
◎大イニ感心ス(父ヨリ)
中井の激賞は。もとより中城に身の浮くような喜びを与えたことでしょう。それに加えて、波乱に満ちた人生を送って来た娘にとって、父の書き添えたこの言葉が、どれほど嬉しかったでしょう。筆をとり、この一行を贈った父にも、無量の思いがあった筈です。中井の葉書は、帯広と札幌の親子を結んだのです。

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誤配の可能性に賭ける

イマニュエル・ウォーラーステインの『脱商品化の時代』(山下範久訳/藤原書店/2004)を読んだ。題名だけ見ると、ビジネス街の書店の棚に並ぶ中身がスカスカのビジネス専門書みたいである。「iPod──アップルの脱・商品化戦略のビジネス・モデル」、なんてね。
(違うよ)
しかし広告代理店やら商品企画畑のみなさんには、勘違いして、とりあえず経費でばんばん注文してもらいたい。間違いでも、読めば面白いに決まっているし、たまにはみなさんも経費でまともな本の販売に貢献すべきであります。なにしろ版元は藤原書店だ。ダイヤモンドやプレジデントではないからね。ああいうところから出ているビジネス本をせっせと読んで、阿呆丸出しの文章をアップしているブログも結構多いが、お友達にはなりたくないものである。
まあ、むこうもそう思っているだろうから、これはおあいこ。こういうのを読書系ブログの棲み分け理論と言う。

と、ここまで書いて、まだ読んでいなかった訳者の「あとがき」を読んで大笑いしてしまった。

(前略)本書はその邦題を、少しばかり思い切って『脱商品化の時代』とした。いささか解釈が強すぎる懸念をなしとはしないが、この邦題によって、いわば本書が日本語の読者に創造的に誤配される可能性に賭けたいと思う。
ははは、なんだ同じことを考えてるんじゃん。
原著のタイトルは『The Decline of American Power: the U.S. in a Chaotic World』、邦題の副題『アメリカンパワーの衰退と来るべき世界」がやや原題に近いが多少ニュアンスが異なっているのはご賢察の通り。個人的には、あまり訳者が題名を「日本語読者のために」いじってもらうのは好ましくないと思っているのだが。

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2005/05/21

ふたつの幻視

『群衆と権力(上・下)』エリアス・カネッティ/岩田行一訳(法政大学出版局)を読んだのだが(そしてそれなりに面白いと思ったのだが)、これをどう紹介すればいいのか、じつはわたしにはよくわからない。決して難解な本とは思わない。それでも、これは「これこれについて書かれた書物である」と言ったとたんにそこからこぼれおちてしまうような本であることだけは間違いない。
この本がはじめて出版された時代には、ナチズムとヒットラーが、すべての行間に潜んでいるように読まれたに違いないと思う。しかし、今回、わたしの念頭にいつもあったのは別の顔である。ヘーゲルにならっていえば、二度目、三度目は茶番の道化かもしれないが、だからといって危険でないというわけではない。なんせ、今度のやつはもしかしたら核を持っている。

本書を読みながら、頭に浮かんでいたのはこんな幻想だ。
壮大な王宮に群衆がなだれ込む。群衆はかつては生ける神の如く崇めていた小男を求めて何千というドアを蹴破る。やがて群衆は小部屋に身を隠していた王を発見し鯨波の声をあげる。かれは群衆の前に引きずり出される。群衆は王宮前の広場に高く高く絞首用の仕掛けをつくる。王の首に縄がかけられる。何千という群衆が縄を引く。王は国中の人々が見守る前で高く高く吊るされる。群衆は逆光のなか頭上高くぶらりぶらりと揺れる王を見上げて静まり返る。なにか巨大な災厄が近づいている。

もうひとつの幻想もある。
王は死に瀕している。人々に死をもたらし、恐怖のなかで絶対的な力を誇っていたはずのかれも死ぬときがきたことをさとる。しかし権力は最後に生き残る人間であることを希求する。自分がやがて死ぬのであれば、その前に、彼の民すべてに死をあたえなければならぬとかれは思う。かれは軍に憎むべき敵国の首都を焼き滅ぼす命令をくだす。これは同時に、かれの国が一瞬で焼き尽くされることを意味する。かれは山岳地帯の地下壕でおのれの民が滅びてゆくのを見守りつつ、かれらが死に絶えたあとでも、まだ自分が生きている(たとえわずかな間だけであろうとも)ことに陶然としつつ息を引き取る。

前者の幻想は、もしかしたら本人やその眷族がみる悪夢にそのままあらわれるものかもしれないし、むしろそうであってほしいと思う。現実にそうなることを願っているかどうかは、正直なところよくわからない。単純にはそうだが、そうなった後の真空を埋めるもののほうが制御できない危険や暴力ではないかと理性は教えるからだ。
後者の幻想は、わたしの知る限りでは、どこでもまともな考察とはみなされない。(それは当然そうだろう)少なくともフセインは、そういうパラノイア患者ではなかったようだ。しかし、今度もそうであるかどうかはわからない。わたしは後者の幻想が妄想であることを祈っている。

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2005/05/18

キラキラ詩が千首

『陸游100選』石川忠久(NHKライブラリー/2004)を読み終える。
やはり、激しい愛国の情より閑適のポーズが好ましいように感じるのは、わたしも日本人であるということかなあ。
たとえば、「東郊に村酒を飲みて大酔せし後の作」。

東郊飲村酒大酔後作  

丈夫無苟求  丈夫はかりそめに求める無く
君子有素守  君子はもとより守る有り
不能垂竹帛  竹帛に垂るる能わずんば
正可死隴畝  正に隴畝に死す可し
邯鄲枕中夢  邯鄲枕中の夢
要是念所有  要は是れ所有を念ずればなり
持枕与農夫  枕を持して農夫に与うれば
亦作此夢否  また此の夢をなすや否や
今朝櫟林下  今朝櫟林の下
取酔村市酒  酔を取る村市の酒
未敢羞空嚢  未だ敢て空嚢を羞じず
爛漫詩千首  爛漫たり詩千首

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頷聯の「不能垂竹帛」「正可死隴畝」は、歴史に名を留められないのであれば、田野に死ぬがよいのである、というほどの意味。邯鄲枕は言うまでもなく、出世を夢見る廬生が仙人に枕を借りて栄枯盛衰の一生の夢を見たら、それが飯を炊く時間にも満たないはかないものだった、という物語をふまえている。しかし、そもそもそんな夢を見るというのは、富を所有をしたいという思いがあるせいだろう。ためしに農夫にその枕を与えてみるがいい。そんな夢をはたしてみるか否か。
あとは意味の取りにくいところはない、じつに簡明な詩だ。
「今朝、櫟の林の下、村の市で買った酒でたっぷり酔った。袋の中身が空っぽだろうが、ちっとも恥ずかしいとは思わない。袋の中には、キラキラと詩が千首詰まっているのだから。」
いいね、その意気だ。詩人はこうでなくてはいけない。ご先祖の俳句結社をつかって蓄財にはげむのは「家元」というべきでしょうな。

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2005/05/17

虎よ、虎よ

keitenさんのブログ「雲の中の散歩」(ここ)にライオンとトラについての面白い記事があった。フランス語の熟語に
 le cœur de lion
 le cœur de tigre
というのがあって、直訳すればそれぞれ「ライオンの心臓」、「トラの心臓」となるが、熟語としての意味は、前者が「勇猛な心」、後者は「残忍な心」という意味になるのだとか。(フランス語でcœurは心臓という意味)
同じネコ科の猛獣なのに、なんだかトラの方が冷遇されている。(笑)
C.S.ルイス の『ナルニア国物語』シリーズでもライオンのアスランはあからさまなキリストの象徴でしたから(だからこのファンタジーはわたしは大嫌いである)キリスト教世界ではライオンの方が正しい勇猛さを意味しているのかなあ。
ちなみにエリアス・カネッティの『群衆と権力』にはこのような記述がある。

権力の決定的行為が人間たちと同様に動物たちのあいだでももっとも顕著に見られる補足の瞬間は、常に人間たちにもっとも強烈な印象を与えてきたし、虎や獅子のような猫族の猛獣に対する人間たちの迷信的な畏怖の念もそれにもとづいている。(中略)この行動のエネルギー、その冷酷さ、その遂行にあたっての自信満々たる態度、殺す者の疑問の余地もない優越性、猛獣が自分の好きなように獲物を選べるという事実——こうしたすべてのことがその強大な威信に寄与してきたのである。われわれがそれをどう考察してみたところで、それが権力の最高の集中であることに変わりなく、それ自体が、あらゆる国王は獅子となることを望んできたという拭いがたい印象を人間に与えている。
上巻302頁

中島敦の『山月記』で、博学才穎ながら性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった李徴が変身しなければならなかったのは虎でした。中国には獅子はいないから、というのではなく、やはりここは虎でなくては様にならないような気がする。
ライオンとトラはかくして、昼と夜、太陽と月、ビートルズとローリングストーンズ(?)という関係なのであります。
そういえば、ウィリアム・ブレイクの「虎よ、虎よ」も夜の森ですね。

  Tiger, tiger, burning bright
  In the forests of the night,
  What immortal hand or eye
  Dare frame thy fearful symmetry?

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2005/05/13

東京ファイティングキッズ

『東京ファイティングキッズ』内田樹・平川克美(柏書房/2004)は読むと元気の出る刺激的な本だ。
まあ、元気が出ると言っても、このお二人(小学校の同級生時代からの付き合いなんだそうな)1950年生まれだから、今年で55歳のジジイである。いくらなんでも「キッズ」はないんじゃないかと思うけどなあ。(笑)
二人の往復書簡のかたちで、思いつくままに対話がなされているような面白さがあるな。語られている内容は、ビジネスモデル、武道と身体論、アメリカ、大学、イラク戦争など多岐にわたるが、わたしの見るところでは、通奏するのは「知性とは何か」ということだろう。乱暴に要約すると知性とは「知ったかぶりしないこと」ということにつきるような気がするが、まあ、さすがにこれでは要約がすぎるかもしれない。面白い本なので一読をお勧めする。インターネットでも本書のテキストが公開されている。(ここ)ただし、内田樹さんの「はじめに」という文章が読み応えがあって面白いので本になったものを読む方がいいと思う。
わたしはあんまり内田樹さんのことは知らないのだが(ブログの「内田樹の研究室」はときどき覗いているけれど)離婚歴があったなんてのは初めて知ったことでした。まあ、どうでもいいことだけどさ。
わたしが、はたと膝を打った(というか爆笑した)のは、マザーシップに関連してアメリカのゲイが取り上げられている箇所でした。そこのところを紹介する前に、まず内田さんの「マザーシップ」という言葉の意味合いを説明しておかなくてはいけない。「mother ship」というのは正確には英語では「母船」という意味しかない。(ということを内田さん自身も書いている)しかし、ここでは、いわゆる母性(mother hood)が生物学的なそれや親族名称として、すなわち最初から在るものとして扱われるニュアンスなのに対し、たとえばクラフトマンシップみたいな感じで「経験的に習得された後天的資質」という意味合いを持たせている。つまりマザーシップとは、ハーバー・ライトでありセンチネル(見張り番)であるという社会的機能を引き受ける人である、ト。
さて、そこでアメリカのゲイである。内田先生いわく——

ではアメリカ社会で「マザーシップ」の社会的機能を担っているのは誰でしょう?
ぼくの見るところ、どうやらアメリカでは二種類の人間たちがそれを担っているように思われます。「ゲイ」と「じいや」です。
ゲイが「マザーシップ」の担保者であるということはすぐに分かると思います。
アメリカでは「美術関係」と「現代詩関係」者はまず例外なく「ゲイ」だということになっているそうですが、これはむしろアメリカ社会が「マザーシップ」を人格のコアとするようなタイプの男性を組織的に「非男性」にカテゴライズしていることの結果であろうとぼくは思っています。
高校時代にフェルメールの絵を見たり、ランボーの詩を読んだりする男の子は、クラスの「フットボール少年」あたりに「ゲイだろ、お前」と決めつけられて、「そ、そうなのかなあ・・・」と心理的に強いられ、そんな風に組織的にゲイ・ピープルが育成されているということはないでしょうか。
わはは、わかる、わかるこれ。ジャック・ニコルソンとヘレン・ハントが主演した「恋愛小説家」という映画、お気に入りの一つなんだが、このなかにゲイの画家(グレッグ・キニア)がいい感じで出てきますね。あれなんかが、この社会的に育成されたゲイの典型なんだろうな。
もうひとつの非男性化されるタイプの「じいや」は、ひとつだけ例をあげるとパーフェクトに理解できる。『赤毛のアン』のマシューがその典型であります。

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2005/05/11

朝鮮の核

北朝鮮がいよいよ核実験を行うという観測が強まっている。
これとは直接は関係はないのだが、イマニュエル・ウォルターステインの3月15日付のコメンタリー(ビンガムトン大学フェルナン・ブローデル経済・史的システム・文明研究センターのサイトに毎月1日と15日に掲載される)「東アジアと世界・10年後」が興味深い内容だった。(ここ)
要点は東アジア、すなわち中国・日本・南北朝鮮で構成される三つの地域が今後の10年間で、世界システムの中でもっとも中心的な役割を果たすようになるかもしれないという意見である。これらの国々が相互に持つ特有の問題(日本の歴史認識云々はその端的なものだろう)は欧州のそれと比較してもとくに克服できないようなものではない、として、この三地域がアメリカの凋落と平行して、経済的、政治的、そして軍事的にも単一の地域として統合とブロック化を進めて行くという物語を描いているように見える。このあたりは、日本人として読むと、それはないだろうという気持ちになるけれど、そういう見方をされているということも知っておいた方がいいのだろうな。
とくに目を引いたのが以下の文章。

In both South Korea and Japan, there will be the question of whether they go forward with developing nuclear weapons.
ウォルターステインの用語の使い方では、単にKoreaと記した場合は、これは「韓国/北朝鮮」を意味する。(『世界を読み解く2002-3』イマニュエル・ウォルタースタイン/山下範久訳/藤原書店の110頁註)
いうまでもなく、北朝鮮はすでに核兵器の開発に着手しているから、ここではわざわざSouth Koreaと正確に記しているわけだ。
しかし、今回、北朝鮮が核実験に成功して、正式に核保有国の名乗りをあげたら、潜在的には韓国も(近い将来の南北統一によって)核保有国になるわけで、このあたりの微妙な「嬉しさ」が韓国政府のコメントにあらわれているように思うのは考え過ぎか。率直に言って日本の核保有という選択はない。だとすれば、軍事的には核保有国の中国と朝鮮とつきあっていくことになるのだろう。中国は朝鮮半島に核保有国が誕生することをどう感じるのかな。まもなく起こる北朝鮮の崩壊後、中国と韓国が敵対することは日本にとっては有利なことなのか、危険なことなのか。

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2005/05/10

捕物帖ファン

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『大江戸歳時記 捕物帳傑作選』縄田一男編(河出文庫)は歳時記という名前通り春夏秋冬に新年を加えた五冊のシリーズになっているらしい。たまたま、ブックオフで「冬の巻」を入手した。他の巻も読みたいけれど、たぶん全册そろえるのはむつかしいだろうなあ。
捕物帳というのはミステリの中でも割と好きなジャンルで、以前はいろいんな出版社のアンソロジーを読み耽った。こういう本の宿命として、いつの間にか全部散逸してしまうのだけれど。
ちなみに本書「冬の巻」には、半七捕物帳、右門捕物帖、若さま侍捕物手帖、風車の浜吉捕物綴、ゆっくり雨太郎捕物控、菊太郎事件控、まん姫様捕物控、安吾捕物控が収録されている。探偵のキャラがすぐに思い出せる人はかなりのマニアでありますね。このシリーズに入っているかどうか調べてはいないが、わたしのお気に入りのキャラクターは久生十蘭の顎十郎捕物帳。たしか都筑道夫が新シリーズを書き継いでいたはずだが、こちらは読んだことがあるかどうか定かでない。

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2005/05/08

ウィーンのベネツィア

ベーツァ・カネッティの『黄色い街』(池内紀訳/法政大学出版局)を読んだ。一九三〇年代のウィーンのユダヤ人街の群像を描いたじつに印象深い作品だ。池内さんの解説によればモデルとなったのはレオポルド町といってドナウ河とドナウ運河にはさまれた界隈とのこと。一九三八年十一月、ナチによる「水晶の夜」でこの町は焼き打ちにあい壊滅状態となった。だがベーツァが本書のもとになる作品を発表したのは一九三二年の「アルバイター・ツァイトゥング(労働者新聞)」の懸賞募集だったから(一等なし、二等がベーツァ)、本書には直接にはホロコーストにいたるユダヤ人の迫害が描かれているわけではない。しかし、ここに登場する大半がユダヤ人と思われる人々の肖像のなんと因業なこと、池内さんの言葉をそのまま引けば、

まるで死滅する世界を予告する仮装舞踏会さながらである。
ベーツァ・カネッティはその名前からわかるように一九八一年のノーベル文学賞受賞者エリアス・カネッティの妻である。本名はベネツィアーナ・タウブナー=カルデロン。一八九七年のウィーン生まれ。幼いときからベネツィアーナを略してベネツィアと称した。高校卒業後、独学で英語を習得、人知れず創作をはじめた。エリアスと出会ったのが二十八歳のとき、エリアスはそのとき二十歳だった。ベーツァは一九三二年と一九三三年の二年間のみ作品を発表したが、それ以降は筆を折った。一九三四年にエリアスと結婚、一九三九年にエリアスとともにイギリスに亡命してからは、主婦として家事に勤しみエリアスを支えた。文壇的にはまったくの無名で終わったのである。一九六三年、ロンドンで死去。
彼女の死後、エリアスが刊行した本は一冊を除いて、すべてがベーツァに捧げられた。「彼女に負っている山のように大きな感謝の気持ちを表したいから」だとエリアスが書いている。エリアスの前書き「ベーツァのこと」から。
人生の重荷をせおいつつベーツァがつねに信じていた二つの指針があった。一つは詩人への信頼である。それは世界をたえず新しく創造する人であって、詩人がいなくなれば、すぐさま世界はひからびてゆく。もう一つは、女が自己存在をかけて想像するところに対する深い敬愛だった。そのときこそ女は美しく、魅力をもち、誇らかで、そして聡明だった。通常の男の英知ではない。この世の支配者となりはてた男とはまるで異質の聡明さをそなえている。おそらく今日の女性たちが、当然のようにとしてもつものと、ほぼひとしい信条にちがいない。だが彼女は、あの当時にすでにそれをもっていた。これみよがしに権利を主張する攻撃的なものではない。ベーツァはつねに美しさと無私と献身への眼差しを失わなかった。

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2005/05/04

ええい、じれっTiger

Macユーザーにはお約束の見飽きたタイトルで、ホントにどうもスイマセン。

Mac OS X 10.4 Tigerをインストールしました。
いまのiMac G5は買ってからまだ半年にもならないこと。アップル社はしばらくOSのメジャー・アップデートはしないとアナウンスしていること。このふたつの理由から、しばらくMacで遊ぶ以上、新しいシステムにした方が自己満足できそうだと思ったのだ。
同じように少し前にiMac G5を買った人で、PantherからTigerへ変えるべきかどうか迷っている方もいると思う。Pantherは動作がすごく安定しているし、どうしようかなぁというのが、実際わたし自身の気持ちでもあった。
ということで、以下参考まで。

「MacPeople」も「MacFan」も、当然ながら今月号はTigerのインストールがメインの特集で、(わたしが買ったのは「MacPeople」)どちらも「アップグレード(上書きインストール)」は避けたほうがよいという説明になっている。つまりいままでのOS X環境でいろいろな不具合が生じていたら(そしてコンピュータは使いこめば、ある程度この不具合は避けがたい)それをそのままTigerの環境に引き継いでしまうというのだ。
もっともな説明で、これが一番ラクチンだと思っていたのだが、きちんとデータのバックアップをとって、いったんハードディスクを初期化してから、クリーンなインストールを行うという、もっともメンドクサイ方式(「消去してからインストール」)でいくことにした。まず、Tigerをインストールして、あとは昨年iMac G5を買ったときに付いていた付属ソフトのインストール・ディスクでバンドルされていたiLifeを、もういちど組み込むという方針をたてたのでありますね。

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さて、上で「少し前にiMac G5を買った人で」と断ったのには理由がある。じつは、この「消去してからインストール」を選択したために少々困ったことになったのである。じつは、iMac G5に組み込まれていたiLife4のうち、なんとiPhoto4が付属ソフトのインストール・ディスクの「Install Bundled Software Only」のなかに見当たらないのだ。(わたしのインストール・ディスクのバージョンはOS X 10.3.5)
つまり、初期化してTigerをインストールすると、iPhotoがなくなってしまうのです。
ここのところ、「MacPeople」の付録の「保存版Tiger インストール Perfect guide」も罪な説明で、同冊子53頁の「付属ソフトをインストール」のスクリーンショットにはたしかにiPhotoがiDVD、iMovieに並んでリストアできるように書いてあるのですね。これ見れば誰だって、iPhotoももう一度組み込めると思うじゃないか。

はっきり言って、ほかの方はどうか知らないが、わたしはiLifeというパッケージではiPhotoしか使わないのですね。iDVDもiMovieもGarageBandも極端に言えばぜんぜん必要ない。だから、このiLifeのバージョンアップにはさほど魅力を感じなかった。まさか、こんな姑息なやりかたでiLife5を買わせようというのではあるまいが、じつに不親切でありますね。

結局、わたしの場合どのようにしたか。
いったんTigerにしたOSをもういちど初期化して、Pantherを組み込み(iPhoto4はこのやり方でしかわたしのiMacには組み込めない)、さらにそのあとで「アップグレード(上書きインストール)」でTigerにしたのであります。
つまり、わたしは3回OSのインストールをしたことになる。
このクラスのOSのインストールをした方なら、わかってくれると思うが、その時間たるや・・・ああ。(笑)
こういう作業が嫌いな人は、耐えられないだろうが、まあ、わたしはどっちかといえば好きな方なのでさほど苦ではなかったけれど、まあ、時間を無駄にしたなあ。

いまPantherで問題がない人が、あえてTigerにする必要があるかと言えば、たぶんないでしょうね。
ただ、スポットライトという機能はすごく便利でよろしい。あと、ウィジェットという名前の小道具がなんとなくかっこいいという自己満足かなあ。(笑)

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