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2005/05/21

ふたつの幻視

『群衆と権力(上・下)』エリアス・カネッティ/岩田行一訳(法政大学出版局)を読んだのだが(そしてそれなりに面白いと思ったのだが)、これをどう紹介すればいいのか、じつはわたしにはよくわからない。決して難解な本とは思わない。それでも、これは「これこれについて書かれた書物である」と言ったとたんにそこからこぼれおちてしまうような本であることだけは間違いない。
この本がはじめて出版された時代には、ナチズムとヒットラーが、すべての行間に潜んでいるように読まれたに違いないと思う。しかし、今回、わたしの念頭にいつもあったのは別の顔である。ヘーゲルにならっていえば、二度目、三度目は茶番の道化かもしれないが、だからといって危険でないというわけではない。なんせ、今度のやつはもしかしたら核を持っている。

本書を読みながら、頭に浮かんでいたのはこんな幻想だ。
壮大な王宮に群衆がなだれ込む。群衆はかつては生ける神の如く崇めていた小男を求めて何千というドアを蹴破る。やがて群衆は小部屋に身を隠していた王を発見し鯨波の声をあげる。かれは群衆の前に引きずり出される。群衆は王宮前の広場に高く高く絞首用の仕掛けをつくる。王の首に縄がかけられる。何千という群衆が縄を引く。王は国中の人々が見守る前で高く高く吊るされる。群衆は逆光のなか頭上高くぶらりぶらりと揺れる王を見上げて静まり返る。なにか巨大な災厄が近づいている。

もうひとつの幻想もある。
王は死に瀕している。人々に死をもたらし、恐怖のなかで絶対的な力を誇っていたはずのかれも死ぬときがきたことをさとる。しかし権力は最後に生き残る人間であることを希求する。自分がやがて死ぬのであれば、その前に、彼の民すべてに死をあたえなければならぬとかれは思う。かれは軍に憎むべき敵国の首都を焼き滅ぼす命令をくだす。これは同時に、かれの国が一瞬で焼き尽くされることを意味する。かれは山岳地帯の地下壕でおのれの民が滅びてゆくのを見守りつつ、かれらが死に絶えたあとでも、まだ自分が生きている(たとえわずかな間だけであろうとも)ことに陶然としつつ息を引き取る。

前者の幻想は、もしかしたら本人やその眷族がみる悪夢にそのままあらわれるものかもしれないし、むしろそうであってほしいと思う。現実にそうなることを願っているかどうかは、正直なところよくわからない。単純にはそうだが、そうなった後の真空を埋めるもののほうが制御できない危険や暴力ではないかと理性は教えるからだ。
後者の幻想は、わたしの知る限りでは、どこでもまともな考察とはみなされない。(それは当然そうだろう)少なくともフセインは、そういうパラノイア患者ではなかったようだ。しかし、今度もそうであるかどうかはわからない。わたしは後者の幻想が妄想であることを祈っている。

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