キラキラ詩が千首
『陸游100選』石川忠久(NHKライブラリー/2004)を読み終える。
やはり、激しい愛国の情より閑適のポーズが好ましいように感じるのは、わたしも日本人であるということかなあ。
たとえば、「東郊に村酒を飲みて大酔せし後の作」。
東郊飲村酒大酔後作
丈夫無苟求 丈夫はかりそめに求める無く
君子有素守 君子はもとより守る有り
不能垂竹帛 竹帛に垂るる能わずんば
正可死隴畝 正に隴畝に死す可し
邯鄲枕中夢 邯鄲枕中の夢
要是念所有 要は是れ所有を念ずればなり
持枕与農夫 枕を持して農夫に与うれば
亦作此夢否 また此の夢をなすや否や
今朝櫟林下 今朝櫟林の下
取酔村市酒 酔を取る村市の酒
未敢羞空嚢 未だ敢て空嚢を羞じず
爛漫詩千首 爛漫たり詩千首
頷聯の「不能垂竹帛」「正可死隴畝」は、歴史に名を留められないのであれば、田野に死ぬがよいのである、というほどの意味。邯鄲枕は言うまでもなく、出世を夢見る廬生が仙人に枕を借りて栄枯盛衰の一生の夢を見たら、それが飯を炊く時間にも満たないはかないものだった、という物語をふまえている。しかし、そもそもそんな夢を見るというのは、富を所有をしたいという思いがあるせいだろう。ためしに農夫にその枕を与えてみるがいい。そんな夢をはたしてみるか否か。
あとは意味の取りにくいところはない、じつに簡明な詩だ。
「今朝、櫟の林の下、村の市で買った酒でたっぷり酔った。袋の中身が空っぽだろうが、ちっとも恥ずかしいとは思わない。袋の中には、キラキラと詩が千首詰まっているのだから。」
いいね、その意気だ。詩人はこうでなくてはいけない。ご先祖の俳句結社をつかって蓄財にはげむのは「家元」というべきでしょうな。
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コメント
なるほど、日本人好みの詩という感じがしますね。底流に「無常観」があるような気がします。
投稿: Keiten | 2005/05/19 22:12
石川忠久さんによれば、陸游は杜甫の挫折の人生に自分を重ね合わせていたということですが、こういう社会的な挫折と、しかしそれでもおれにはまだ帰るべき故郷があるというパターンが、おそらく少し前までは日本人にも共感を誘ったのではないでしょうか。いまでもこれが有効かどうかはわかりませんけれど。
投稿: かわうそ亭 | 2005/05/19 23:03