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2005/06/19

川島先生、本当ですか?

言うまでもなく、明治憲法下の法典編纂事業は、まず第一次には、安政の開国条約において日本が列強に対して承認した屈辱的な治外法権の制度を撤廃することを、列強に承認させるための政治上の手段であった。
(中略)日本の裁判権の自主性を回復するためには、まず日本の裁判制度および裁判の基準となる法律を、列強の承認するようなものにすることが、前提条件として列強から要求されていた。
(中略)
すなわち、これらの法典が西洋的なものとなったのは、当時の日本の国民生活の大部分において、法律を西洋的なものにするような現実的な或いは思想的な地盤が普遍的にあったからではなくて、不平等条約を撤廃するという政治的な目的のために、これらの法典を日本の飾りにするという一面があったことは否定できない。
『日本人の法意識』川島武宜(岩波新書)は初版1967年。事例が戦時中の疎開や買い出しの話だったり、きだみのるの「きちがい部落」の一描写だったりと、さすがに時代を感じさせはするが、岩波新書でも屈指の名著の定評にまったく偽りはない。こんなに明晰で構成の見事な日本語が書ける人はそうはいないだろう。 本書は、日本人の法意識が前近代的なものであることを、所有権、契約、裁判といった切り口から、鮮やかに浮かび上がらせる。いまでも全くと言っていいほど、わたしたちの法意識は変化していないような気がする。すくなくとも、ここで描かれる「前近代的」な法意識は、他ならぬわたし自身のなかに歴然としてあり、そのあまりの固陋さに我ながら辟易したことを白状せねばならない。

ところで、すこし旧聞に属する話題だが、法意識についての国際比較というのがある。名古屋大学大学院法学研究科教授の加藤雅信さんという方が日本代表でプロジェクトを推進されたらしい。たまたま、この加藤さんが、東大時代は川島武宜のゼミにも所属していた。詳しいことは知らないのだが、「東洋人と西洋人の法意識」という短いレポートが国際交流基金日米センターの「NEWSLETTER」(SUMMER 2003 VOL.22)に出ている。(ここ)
リンク先のPDFファイルは16頁あるが、その3頁と4頁が該当箇所だ。まあ、リンク先に飛んで読んでいただければいいが、それもめんどくさいや、という方も多いと思うので、わたしが意外だった点を簡単に。

日本人は訴訟嫌いで、アメリカは訴訟社会というのは、国際的にも広く共有されている見方なんだそうですが、この研究グループが日本、アメリカ、中国の訴訟提起に対する好悪を判定するためにこんな質問をしたんだそうです。
「ある人が友人に給料ひと月分相当の金額を貸したが、期限が来ても返してくれない。いくら交渉しても返さない。その場合に、その人が裁判所に訴えることについてどう思うか」
つまり友人間での貸金返還訴訟にどの国が一番躊躇するか、という調査です。中国がどうかについてはいまひとつ自信が持てないが、日本については川島テーゼから当然、こういう訴訟をもっとも嫌うと思うでしょ。わたしもそう思った。
ところがどっこい、友人間で貸金訴訟を提起することが「望ましくない」という回答は、アメリカ30%、中国20%、日本15%なんだそうです。

しかし、これはよく考えると、理由はすぐわかりますね。
つまり、日本人は、そんなことしたら銭ゲバ扱いされるから現実にはできないけど、本当のことをいえばそうしたいよなぁ、と思っているのである。逆にアメリカ人は、現実にそんなことが日常茶飯事だから、本当はよくないよね、そんなこと、と反省しているのである。(たぶん)
それにしても、この結果を見た外国の研究者が「そうか、アメリカ人は日本人より日本的なんだ」と言ったてのが笑える。案外そうかもね。

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f)国際・政治・経済」カテゴリの記事

コメント

いろんな意味で、なかなかおもしろい調査結果ですね。
(こういう調査での、「質問の仕方たとえば例題の出し方」というのも微妙なところで、結果の数字に大きく影響するものだと思います。)

川島武宜さんの文章(日本語)については、――「川島武宜著作集」〔全何巻だったでしょうか〕を死蔵している私としては(笑)――いろいろ言いたいこともありますが、よしておきましょう。

投稿: かぐら川 | 2005/06/20 01:24

全11巻みたいですよ。やれやれ、まったくかぐら川さんの本棚はドラえもんのポケットですな。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2005/06/20 22:55

たしかに11冊の本が眠っていました。箱から本を出そうとしたらばパラフィン紙がもう意味もなくちぎれて悲惨でした。

が、なかでも圧巻なのは第9巻「慣習法上の権利2〔入会権・温泉権〕」で、702ページもあります。
「川島法社会学」の戦闘性――こんな言い方を今さらしても良いのでしょうか――の根拠地は、ことばの「明晰性」(多義性の執拗な排斥)とそこを足がかりにしたゆるぎない論理構成にあること、あらためて拾い読みして実感しました。

ぐちゃぐちゃに軟化し活動を停止しつつある脳みそに、温泉権論文の明確さだけでも効能がありました。

投稿: かぐら川 | 2005/06/21 00:14

おはようございます。
日本語の特質なのかどうかわたしにはよくわかりませんが、どうもわたし自身がなにか考えをまとめようとすると、ことばの多義性に安易によりかかり、論理が混濁して、結局、お前はなにが言いたいんだよ、と自分自身につっこみをいれたくなるんですよね。だから、数頁にわたっていくつものパラグラフを積み重ねて、なお、論理の筋道や軌跡がくっきりと読者に見えるような川島の日本語は(美しい日本語であるかどうかは措くとしても)わたしにとって驚きでした。機会があれば、著作集にもあたってみたいと思います。

投稿: かわうそ亭 | 2005/06/21 09:16

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