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2005/06/07

誰が教養を殺したか(承前)

誰が教養を殺したかについての、もうひとつの物語。
『街場の現代思想』(NTT出版/2004)で内田樹さんが「文化資本」という概念を紹介しておられる。もともとはフランスの社会学者ピエール・ブルデューの社会理論だということだが、とりあえず内田先生の紹介されている内容を自分なりに追ってみたい。(面白い本なのでご一読をおすすめする)

  1. 文化資本(capital culturel)には二種類ある。
  2. ひとつは家庭において獲得された趣味や教養やマナーなどであり
  3. もうひとつは学校などで学習によって獲得された知識、技能、感性などである。
  4. 前者は、気がついたら身についてしまっていたという意味で「身体化された文化資本」とよばれる
  5. 後者は後天的な努力によって獲得された学歴、資格、人脈、信用などであるため「制度化された文化資本」とよばれる
  6. このふたつの間には質的な差があり、後者が前者のレベルに達することはない(理由は後述する)
  7. これによって社会には階層ができる
  8. リアルかつクールに、本人の努力とは無関係に「もう、すでに、そこに存在する」ものとして社会の階層はたち現れる
  9. フランスはそういう社会である
  10. いま日本もそういう社会になりつつあり、すでにかなりの部分はそうなってしまっている

「身体化された文化資本」というのはどういうイメージかといえば——

家の書斎にあった万巻の書物を読破したとか、毎週家族で弦楽四重奏を楽しんだので絶対音感になってしまったとか、家にしょっちゅう外国から友人が来るので英語フランス語中国語スワヒリ語などを幼児期から聞き覚えてしまったとか、家伝の武芸を仕込まれて一〇代で免許皆伝を得てしまったとか、家のギャラリーでセザンヌや池大雅を見なれて育ったので「なんでも鑑定眼」が身についてしまった・・・・・

なんてものだ。もちろん面白おかしく書いてあるわけだが、これに類するヒトって、でも実際いるよなあ、と案外多くの人が身近なところで経験しているのではないか。とくに、ここ最近。

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さてここで、唐突だが向田邦子の話をしたい。
この人は生涯をかけてその見識や趣味を高める努力を惜しまなかったように思える。父親は保険会社のサラリーマンだったが、若い頃は勤めのかたわら夜間の商業学校に通っていた。戦前のことだから、サラリーマンというのはいまとは違って庶民のあこがれの的である。それでも学閥が幅をきかす戦前の大企業で、学歴の低い父親には鬱屈した思いがあっただろう。向田邦子の後年の駆り立てられるような向上心、知識欲、もっと古典を読みたい、映画を見たい、舞台を見たい、音楽を聴きたい、美術品を見たい、外国に行きたい、本物の料理を味わいたい、書画骨董を鑑賞したい、という憑かれたような、ある意味、痛ましいほどの行動はおそらく父親の悔しさが淵源であると見て間違いはないと思う。(病気で余命を限られたという思いも無関係ではないだろうが、それだけならばあのような知的な「見せびらかし」に向かうとはかぎらないだろう)
そして、こういう心性は戦後の高度成長期を支えるもうひとつのエートスではなかったか。
生まれながらに、当たり前のように、気づいたときは獲得していたという「身体的文化資本」は自分にはない。だからこそ、自分の努力でそれを獲得するのだ、自分の趣味は自分で高めることができ、生まれながらの上流に負けることはないはずだ。まさに彼女こそは「制度化された文化資本」獲得の象徴のように思える。スノッブと呼びたければご自由に、でも、わたしはそれを向上心と呼ぶわ、てなもんでありますね。そういうタイプのちょっとまぶしいような女性が一族のなかにはかならずいたもんである。

ところが、バブルの頃が潮の境目であったでしょうか、こういう「制度化された文化資本」と「身体化された文化資本」が不幸にも、同じキャンパスや同じ職場で遭遇するということが頻発するようになりました。そりゃそうですよね、一方は明確な目標として上昇するつもりなんだから、同じ場所を占めるようになるのは避けられない。(社会の階層化が完了してしまえばこういう不幸な同居はなくなるし、いまはすでにそうなっているらしいね、不愉快な話だが)そのときになにが起こったか。いささか長くなるが内田先生の言葉を引きます。

文化資本は先ほど述べたように、「気がついたら、もう身についていた」ものであり、「気がついたら、身についていなかった」人は、すでにほとんど回復不能の遅れをとっている。というのは、芸術の鑑賞眼についても美食についても作法についても、そのようなものを身につけたいという欲望を持つということは、すでに「文化資本が身体化されている人」と、そうでない人との間に、歴然とした社会的な差異が生じていることの効果だからである。
(中略)
つまり「すでに出遅れている」「すでに差をつけられている」という感覚を持つ人間だけが文化資本を欲望するのである。そして、そのような欲望に動機づけられた「成り上がり文化貴族」たちは成り上がれば成り上がるほど「生まれつきの文化貴族」に対する「手の届かなさ」を痛感することになる
(中略)
例えば、自分の子供を「生まれつきの文化貴族」にしようと必死になって英才教育を施そうとする人々はあらわに「ビンボくさい」。
(中略)
つまり、文化資本を手にして社会階層を上昇しようという動機づけそのものが、彼が触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということにある。「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化貴族」へのドアを閉じてしまうのである。
ひどい話だ。
「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。

かくして、向田邦子の子供たち(彼女自身には子供はいなかったようだが)の世代のあたりで、このゲームのルールに気づいた若者が「制度化された文化資本」=教養の獲得競争から降り始めたというのが、もうひとつの物語の「あらすじ」である。この場合は教養を殺したのは教養主義だということになり、教養は自殺したという説話になるのだろうか。

さて、では、あんたはどう思うのだ、ということになるのだろうが、よくわからない。
ただ直感的に教養主義はそんなに簡単に死んでしまうものなのかしら、という思いはある。村上春樹だっているし、内田樹だっているし、まあ、だいぶレベルは落ちるとはいえ、及ばずながらここにおいらだっているじゃんか、てなもんであります。みなさんはどうお考えになるだろう。

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コメント

たいへん興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。
読書に関して云えば、たしかに古典は読まれなくなりましたね。高校生なんかは源氏物語もまんが、歴史もまんがで勉強するさまです(苦笑)。それと社会一般の意識が「生れつき貴族」には寛容で、「成り上がり族」には冷たくなったような気がします。あくまで主観ですが。万事競争を強いられることに疲れているのかもしれません。

投稿: chaotzu | 2005/06/08 23:05

こちらこそ、お読みいただきましてありがとうございました。たいていの場合、ものごとは、それほど極端ではない、というのがわたしの平凡な考えで、「生まれつき貴族」のみなさんも、超人というわけではないので、あまり過大な評価や嫉視をしないほうがいいのかも知れません。ただ、競争に辟易しているというのは、まったくおっしゃるとおりかもしれません。

投稿: かわうそ亭 | 2005/06/08 23:24

かなり以前から拝読していますが、コメントを入れるのは初めてです。今日のテーマ、興味深く拝見しました。

「身体化された文化」というのがよく分からない。

例えば英国の、ジェーン・オースティンやイーヴリン・ウォーなどの小説に出てくる、貴族とまで言わなくても富裕層の家庭教育には、「身体化された」と言えるような何かがあったようですが、日本の明治以降にそんなものはあったでしょうか?もしそんな確かなものがあったら、一度戦争に負けたくらいで華族が消滅することにはならなかったでしょう。

僅かに見られたのは、士族や地方の素封家の家庭教育ですが、それ自体が禁欲的な、知的上方志向を伴ったものでした。新興華族とか、有名な学者・芸術家の子弟も、彼らが若し知的上方志向を持ち合わせなければタダの「ドラ息子、馬鹿娘」で、尊敬も羨望もされなかった。
つまり日本に限っては、「気がついたらもう身に付いていた」文化など初めからなく、実利に背く知的な、禁欲的な上方志向がなくなれば、後は殺伐とした世界が残るだけだったのでは?

なぜそれがなくなったか?竹内洋氏の分析は説得的でしたが(『教養主義の没落』中公新書ほか)、もうひとつ分からない。なかなか興味あるテーマです。

投稿: 我善坊 | 2005/06/08 23:51

はじめまして。
なるほど、おっしゃるとおりかもしれません。とくに「禁欲的な知的上方志向」というのが大切なポイントなのでしょうね。竹内洋氏の『教養主義の没落』は未読ですので、近いうちに読んでみようと思います。
どうもありがとうございました。

投稿: かわうそ亭 | 2005/06/09 22:18

「釵頭鳳」へのTBありがとうございます。TBさせていただきました。トピックはちがうのですが、こちらにコメントさせていただきます。我善坊 さんの「日本に限っては、「気がついたらもう身に付いていた」文化など初めからなく」に同感します。正直、そのような文化を感じさせてくれる日本人はきわめて稀だと思います。個人的には、中国の古典を読む伝統がなくなったのが、日本の「教養主義」にとって大きなマイナスとなったと考えています。

投稿: azumando | 2005/06/23 18:23

azumando さん、 コメントありがとうございました。
ご指摘の中国の古典について、ふと、思い出したのが、マーク・ピーターセンの『英語の壁』(文春新書)にあった話。
かれはアメリカの高校でラテン語の授業をとっていたのだが、それは学校がラテン語を習得すると英語の力がつくという理由で推奨していたからだった——と説明したあとで、さりげなく、こう付け加えていました。「いわば、日本人の漢文のようなものであった」。
中国古典を読みたいという意欲は必ずしもなくなってはいないように思いますが、漱石や鴎外や荷風や石川淳が自然に身につけたような教養環境にないことは明らかですね。

投稿: かわうそ亭 | 2005/06/23 22:01

こんにちは。いつも拝見させて頂いてます。

こちらの充実した教養論議にコメントするのも恐れ多いですので、リンクだけでも張らせて頂きました。同時にTB貼ります。

投稿: pfaelzerwein | 2005/07/13 07:24

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» トンカツの色の明暗 [Wein, Weib und Gesang]
三つ目の対話は、ドイツ人の教育と躾である。「ドイツ人は、恥の意識をまだ全て失っていないので、安心だ。」とこの元教育者は言った。 道の真ん中で立ち話をしていて場所を譲ったりする気持ちまでを恥の意識とすると、成る程いくらかは存在するのかも知れないのだが、これも殆んど信用出来ない。厚かましさと自己主張を基礎教育から叩き込まれて、痛ましい過去を克服してきた。元来が自意識や自尊心が他の文化先進国からすると弱いドイツ精神は、�... [続きを読む]

受信: 2005/07/13 07:25

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