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2005年7月

2005/07/27

玉敷句会

京都駅のすぐ近くのキャンパスプラザ京都の和室で句会。
この句会は、席題(当日の句会の席できめる)が三つ各二句で六句、あと自由題が二句の合計八句を出すことになっている。自由題はあらかじめ用意しておくことが可能(今回、わたしはそうした)だが、席題六句は出たとこ勝負である。1時間で六句つくるということは、平均すれば一句つくるための時間は10分足らずということになる。どこも句会というのは、だいたいこんなものなのだろうが、最初の20分くらいは歳時記や国語辞書をぱらぱらめくるだけだから、内心はひやひやである。いつも思うことだが、みんな時間内になんとかなるのは何故なんだろう。不思議だ。(笑)
拙句、右側の目次「2)時々一句」に掲載いたしました。
わたし自身は、

  臺灣の少女時代を捕虫網

が割と気に入っている。出句は「台灣」という表記だったが、どうせなら旧字体に統一したらというアドヴァイスをいただいたのでこういうかたちで記載するのであります。

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2005/07/26

朝寝と漢詩


『石川忠久中西進の漢詩歓談』(大修館書店/2004)は面白い本だった。
中西進さんは日本古代文学の専門家。万葉をはじめ日本の古典と漢詩は切っても切れない関係だから、専門外と言うのは、もちろん正しくないが、石川忠久さんという願ってもない漢詩世界のガイドを得て、自分は気楽な観光客のように能天気をきめこむことにされたご様子。人口に膾炙した漢詩を俎上にとりあげるや、中西さんが思い切った解釈で切り込み、石川さんが該博な知識でそれに応える、というしつらえになっている。まあ、ふふふ、と笑って読むような、肩の凝らない漢詩をめぐる対談集であります。
たとえば、誰でも知っている孟浩然の「春暁」。

  春眠不覚暁   春眠暁を覚えず
  処処聴啼鳥   処処に啼鳥を聴く
  夜来風雨声   夜来風雨の声
  花落知多少   花落つること知る多少

まず石川さんが、世上の鑑賞が春を惜しむという視点に傾きがちなことに異を唱える。

私はそうじゃないと思う。つまり、この作品の背後には、栄華の巷を低く見るような高い精神、高士の姿がある、というのが私の見方なんです。寝ているのは、宮仕えを拒否しているからなんです。宮仕えをすると朝早くに出仕しなくてはいけませんから、寝てはいられません。だけどこの人物はぬくぬくと朝寝を楽しんでいる。「朝は早から宮仕えに出てあくせくしている諸君、どうだ、このおれさまのような生活をしてみろ」とうそぶいているんです。
これに対する中西さんは、思わぬ方面からの奇襲戦法。それは非常に漢詩的な世界だが、日本では「朝寝」の詩と言えば、ちょっと違った世界がありますよ、と言って高杉晋作の「三千世界のカラスを殺し」なんて端唄を持ち出す。つまりこれは、艶情詩、男女の恋の寓意を読むという読み取り方もできはしませんかと、言うのですね。
中西 日本の場合だと、ほとんどがそういう寓意があるんですよ。漢詩の世界はとにかくストイックというか、そういうものは別ということになってますよね。本当にそうなのか、建前がそうなのか。この詩を読んでみますと、そうも読めますでしょう。
石川 読めるかな。
中西 「春眠、暁を覚えず、処々啼鳥を聞く」。これは、日本でいうと、女性の部屋で朝を迎えて、起きて帰らなきゃいけない、となります。「夜来風雨の声」、これはちょっと、エロチックですよ。そして「花落つること」……

ところが、さすがに石川先生、あわてず、じつはそういった解釈もないわけではない、この詩は蘇州の伎女に贈られた恋の詩だという説もある、と応じて、しかし、この解釈は今のところあまり支持を得ていないように思いますね、と答えておられる。
中西説は面白いけど、まあ、それではちょっと、品がないのでは、という気がいたしますなあ。

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2005/07/23

波郷と白泉

『波郷句自解 無用のことながら』石田波郷(梁塵文庫/2003)を読んでいたら、波郷と渡辺白泉が親しい友人であったことが記されていて、ちょっと意外に思った。ホトトギスという俳壇支配の勢力に負けはしないという気概は共有していただろうが、波郷という人は、白泉たちの新興俳句とは一線を画していたという思い込みがあったからだろう。
昭和22年、キャサリン台風が関東を襲った年、波郷は結核に倒れたが、療養所に入るだけの経済的な余裕もまたなかった。馬酔木の古い先輩たちは俳壇から義援金をつのった。(波郷が清瀬の国立東京療養所に入ったのは翌昭和23年のことであった)

わが友渡辺白泉は遠く山陽に移り住んでゐたが、「砂町の波郷死なすな冬紅葉」の一句を某紙に発表した。私は涙にくるゝ思ひで

   砂町は冬樹だになし死に得んや

と酬いた。
俳句の出来はともかく、なんかいい話である。
調べてみたら、この二人は、ともに1913年(大正2年)生まれ。俳句に対する考えは異なっても、同い年というのはやはり同志的な気持ちが生まれるものなのかな。

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2005/07/20

OUT OF AFRICA

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『OUT OF AFRICA』Isak Dinesen (The Modern Library)を読み終えた。
イサク・ディーネセンに関してはこの3月に『草原に落ちる影』(こちらはカレン・ブリクセン名義だが、名前の使い分けは前回の記事を参照してください)を読んだときに簡単にふれた。(ここ)
そのときも、素晴らしい本であるという以外の感想は書かなかった。いや、正確には何も書く気になれなかったのである。
『OUT OF AFRICA』という本もまったく同じだ。困ったことだ。まことに能のないことで恐縮だが、感想はいまのところ書く気になれない。まあ、それくらいよかったのであります。
ところで今回は英語で読んでみたので、その話だけ書いておこう。
イサク・ディーネセンの文章は比較的長いセンテンスが続くのだが、同じ長いセンテンスでも、平明なものと難解なものがくっきりとわかれるような気がした。平明な長文は風景や自然を映像的に描写するときに多くみられ、難解な長文は人間の歴史、文化などを語るときに見られるような気がするが、それほど自信はない。まあ、単に当方の語学力のせいかも知れない。
平明なものはたとえば、こんな文章だ。デニスと一緒に飛行機で鷲を追うすばらしい場面。本書の中でも一番好きな箇所だ。

In the Ngong Hills there also lived a pair of eagles. Denys in the afternoons used to say: "Let us go and visit the eagles." I have once seen one of them sitting on a stone near the top of the mountain, and getting up from it, but otherwise they spent their life up in the air. Many times we have chased one of these eagles, careening and throwing ourselves on to one wing and then to the other, and I believe that the sharp-sighted bird played with us. Once, when we were running side by side, Denys stopped his engine in mid air, and as he did so I heard the eagle screech.(p.252)

ああ、人生は短い、てなことを思わずにはいられないが、こういう文体がこの作家の最良の部分ではないかという気がするな。

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2005/07/19

黄瀛の詩について

黄瀛の詩集を図書館で探してみたが、残念ながら個人詩集はみつからなかった。1953年に発行された『日本詩人全集』第9巻昭和編(4)(創元文庫)に詩集『瑞枝』から数編の詩が採られていたので、美しいものを書き写してきた。なお、この『日本詩人全集』では黄瀛の戦後の消息は不明と記されている。
この詩人の作品が人の目に触れる機会はさほど多くはないと思うのでここに紹介する。戦前の詩だがおどろくほど瑞々しい。このときすでに黄瀛は、中国で蒋介石軍の将校になっていたはずだ。どのような経緯で詩集が日本で上梓されたのかは知らない。発行の書肆は東京、ボン書店と記されている。ちなみにこの詩集の発行年1934年というのは中原中也の『山羊の歌』が出た年である。

われらのSouvenirs

われらのSouvenirs
青葉につゝまれた五月を迎へた

われらのSouvenirs
動けば動くものがある
口を緘しては一線の平静
オレ、僕、自分、小生
變りはてたオレはオレの聲をなつかしがる

久しく人間らしい言葉に接しないオレは
この青葉の風景の中に立ちすくんでをる
口を動かしてもうおいのりの段でもあるまい
一言、二言、それはむづかゆいことだ
人を信じ、信じられることは今後何囘とくるか知らないが……。
オレは今實際一寸の時間しかない
その中で何を考へたらいゝか?
オレはオレだ
君は君だ
首と首との遥かな距離
淡彩の瑞々しい立體
あれから何年かの月日が流れて行つた

これはこゝでおしまひになるものだと自覺する
オレの出発はこゝから始まる
それならばX光線で見透かされたオレのみすぼらしさは?
——いや、いや、歴史は光輝ある名譽
古めかしい匂ひのまゝでいゝ

われらのSouvenirsを
一切のそれを天に昇らせ、大地に埋める

一人が一人、二人が一人
一人が一人
この心安さを季節の夕風がそよそよ吹いてくれる

パツとおちついた色彩の灯がついた!


詩集『瑞枝』(ボン書店/1934)より

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黄瀛のこと

昨日の朝日新聞に“黄瀛(こう・えい)と「もう一つの祖国」”という王敏さんのコラムが掲載されていた。王敏さんは『花が語る中国の心』(中公新書/1998)や『宮沢賢治、中国に翔る想い』(岩波書店/2001)を読んで以来、親近感を持っている方である。だから、あまり読まない新聞でもたまにこの方が書いていたりすると、そこだけは目を通したりするわけだ。
しかし、今回のコラムを読んで少々驚いた。なんと王敏さんは黄瀛の教え子だというのだ。

ここで黄瀛について王敏さんのコラムから引用する。

黄瀛には日本と中国の血が流れている。
母は日本人、太田喜智(1887-1933)という。千葉県八日市場の金物商の長女で、小学校では2回も飛び級し、18歳で女子師範学校を卒業。優等訓導として地元小学校の教員になった。

日清交換教員となり重慶に赴任、重慶師範学校校長、黄沢と結婚し、黄瀛と妹(黄寧馨)を生む。日清戦争後の日本人の中国人観を考えると、よほどの信念があったとみるべきだろう。黄沢の死後、一家は日本に移った。黄瀛8歳、1914年のことであった。
黄瀛は日本の小学校を主席で卒業し、志望の中学に合格しながら「混血」を理由に入学を拒否されたという。日本が中国への侵略の意図をあらわにし、中国人蔑視が当然という悲しい世相であった。
黄瀛は東京の私立中学からチンタオの中学に編入する。この頃から詩作にはげむようになり、『日本詩人』に応募した「朝の展望」が千家元麿の推戴で新人第一席となって、一躍注目を浴びることとなった。黄瀛はふたたび日本を留学先にえらび、神田に開校した文化学院に入る。

わたしがこの詩人の名前を知ったのは、木山捷平の小説をすこしまとめて読んだときである。木山捷平は1925年に上京し東洋大学文化学科に入学するが、このとき赤松月船主宰の詩誌「朝」(同年「氾濫」に改題)の同人となった。そして同人のなかに黄瀛がいたのである。ちなみに同人には、木山、黄瀛のほか、佐藤八郎、大木篤夫、村田春海、吉田一穂、草野心平、大鹿卓がいた。
そのころの黄瀛の詩はこういうものだ。

  白いパラソルのかげから
  私は美しい神戸のアヒノコを見た
  すっきりした姿で
  何だか露にぬれた百合の花のやうに
  涙ぐましい処女を見た
  父が——
  母が——
  その中に生まれた美しいアヒノコの娘
  そのアヒノコの美しさがかなしかつた
  
  あゝ、私はコールテンのヅボンをならし乍ら
  その美しい楚々たる姿に
  パナマハットの風を追はうとした
  彼女の白いパラソルの影で
  その美しい眼と唇に
  聖い接吻を与へようと
  ふと途上のプラタナスの下で
  七月の情熱をたかめてしまつた

  「七月の情熱」

ふたたび王敏さんのコラムから。

詩才と詩友に恵まれた黄瀛だが、20年代後半の山東出兵から30年代に入ると日中の間では柳条湖事件など不穏な影が覆う。
母は黄瀛を軍人に育てることを決意した。詩では食っていけないという考えもあったろう。それよりも。二つの祖国を持った子には父の祖国を守らせ、日中の相互理解に尽力させるという大義の道を選択させた。
27年、黄瀛は文化学院を中退し、市谷の陸軍士官学校に進む。2年後に卒業すると中国に渡り、蒋介石軍に参加した。

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終戦後、中国にとどまった黄瀛は日本人の帰還を担当するが、その経歴が災いして10数年の投獄生活を余儀なくされた。このあたりは先日読んだ『真実——日中、ふたつの国の天と地』李珍(講談社/2005)の父親とよく似ている。文化大革命が完全に終息し、62歳となった黄瀛はようやく自由の身となる。四川外国語学院の教壇に立ち、若い世代に日本を教えることとなった。王敏さんは、その教え子の第一期生なのだという。
黄瀛は王敏さんによれば、84年、91年、96年、そして2000年に来日を果たしている。新聞に掲載されている写真は2000年の来日、千葉県銚子市に建てられた「銚子ニテ」の詩碑の前で教え子である王敏さんが恩師を撮ったものだ。このとき黄瀛は93歳か。矍鑠としたものだ。
現在、黄瀛は重慶で闘病の身ながら98歳の高齢で余生を送っているとのこと。

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2005/07/18

理性を信じない人々との共生(その4)

このタイトルでの記事は今回で終了。柄でもないのに、ついついこういう分不相応な文章を書き連ねてしまったのは、じつは「マーケットの馬車馬」さんのところの「問われるべき責任」という記事に触発されたからであった。(ここ)

「マーケットの馬車馬」さんは、イスラームの名を借りたテロは、いわばイスラームの権威のハイジャックであり、これによってテロとは無縁のムスリム穏健派の生活と利益を損なっていることを正しく指摘した上で、大半のムスリムには「問われるべき責任」は一切ないが、かれらの宗教指導者は別だと言われる。『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディには先を争うように死刑宣告のファトワ(イスラーム法にもとづく法的裁定)を出したくせに、ビン・ラーディンにはたった1枚のファトワすら出すことをしない穏健派指導者までも被害者のように免責するのには違和感を持つというのだ。

まったく同感なのだが、たぶんそれは怠惰や怯懦(も多分にあるだろうが)だけではないような気が直感的にわたしにはする。かりに宗教指導者たちがテロリストたちを名指して、これらの者はイスラームの名を借りた悪魔であり、最後の審判においてアッラーによって裁かれ天国の門をくぐることは決してできないという裁定をくだせば、たしかにテロへの人材の供給をかなり狭めることはできるだろう。しかし、こういう発想じたいが、おそらく、テロ集団への人材供給を絶つにはどうすればいいか、といった理性的、合理的なロジックにもとづくものだとムスリムの人々は思うのではないか。テロに対する嫌悪というのは、ムスリム穏健派も共有するとしても、人間の理性そのものを神の前では単なる浅知恵にすぎないというふうに見なしている人々が、テロをなくしたいという人間側の必要性が神の啓示よりも優先されるなどということは受け入れがたいはずである。
だから、宗教指導者がこういう裁定をくだす可能性はあまり高くないだろうし、もしもある宗派の指導者がそういう裁定をくだせば、ただちにそれが宗派間の紛争の火種になるのではないだろうか。そしてその場合は、イスラエルや米国に迎合した「誤った解釈」としてテロを非難した側が不利になるような気がわたしにはする。

結論はでない。
理性を信じない人々との共生は、これからもかなり長い間つづくのだろう。気の重い話ではある。

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2005/07/17

理性を信じない人々との共生(その3)

10年ばかり前、なにを思ったのか、新刊で出たばかりの『歴史の終わり』フランシス・フクヤマ/渡部昇一訳(三笠書房)を読んだ。

第二次大戦で全体主義国家を打ち破り、続く冷戦でもソ連・東欧の共産主義体制を解体させた時点で、民主主義・自由主義と市場経済体制は、人類という種にとってもっとも適した社会システムであることが明らかとなった。
もちろん国家間の経済分野での摩擦はこれからも絶えないだろう、宗教や民族の違いからくる紛争もあるかもしれない。しかし、それらは民主主義・自由主義、市場経済体制をゆるがすようなものにはならない。なぜならこれらと拮抗できるような原理はもはやないからである。イデオロギーの対立、闘争、止揚という弁証法的な歴史の進歩はもうありえない。「歴史」は終焉を告げたのだ。

こうした世界認識が、十数年後の現時点から見ていかにお気楽に見えようと(現に見えるが)、基本的にはこのフクヤマの見方は誤ったものではないとわたしは思う。
歴史の本質は理性であり、人類は長い長い時間をかけて理性が「よりよい」と告げる方向に歩んできたと思うからだ。
啓蒙思想が登場したとき、たとえば社会契約説というアイデアは、絶対王政の王権神授説という「真理」からみて忌避すべき過激派の言説であっただろう。しかし、理性はやがてこのアイデアの方が、社会システムとしては「よりよい」ものだと告げたはずである。国家と教会の関係についても同様である。理性は、政教分離の方が、人々が幸せになる可能性が高いと、すなわち「よりよい」ものだと告げたはずである。信仰は個人にとって代え難いものであるとしても、教典は教典、科学は科学として、知の探求を認めた方が、人間にとって幸せであると告げたのは、理性である、とわたしは思う。

だから、理性を信じる限りでは、いまの世界が(細かい差異を無視すれば)共通にもつ民主主義・自由主義と市場経済体制というシステムを正当なものだとした時点で、たしかに歴史は終わったのだと言ってもいい。

では、理性を信じない人々はいまはもういないのか。もちろんいる。それはなにもムスリムに限ったことではないが、やはり、これからの世界をゆるがす勢力としてのムスリムが一番の問題になるだろう。

『イスラーム主義とは何か』大塚和夫(岩波新書/2004)にはこうある。

現在、世界に十三億人ほどいるといわれるムスリム(イスラームの信者)の大半は、その聖典・クルアーンは唯一絶対神、世界の創造主であるアッラー(神)の言葉の集成であると信じており、したがって無謬であるとみなしている。クルアーン無謬説は、ほとんどのムスリムが堅持している立場なので、この基準をあてはめれば、ほとんどのムスリムが「原理主義者」となってしまう。
また、「千年王国論」も、必ずしも「原理主義者」と呼ばれているムスリムのすべてが共有している考え方ではない。この世の終末とアッラーによる最後の審判が存在するという発想はほとんどのムスリムが信じているといえようが、それが必ずしも救世主待望論と結びつくわけではない。
p.8
注意深く読んでいただくと、この引用の文脈は正確には「イスラム原理主義」という表現の不適切さ──サイードの「オリエンタリズム」批判のような意味で──をあきらかにする箇所であることがわかるかもしれない。ただし、そういう立場の学者も、ムスリムとはこういう人々であると語っている。わたしは、こういう人々を理性を信じる人々だとは思わない。

ふたたび『ヨーロッパとイスラーム──共生は可能か』内藤正典(岩波新書/2004)から。

覚醒を経たムスリムは社会の進歩を促す人間の力を認めない。その力の源泉が人間の理性から導かれる叡智だということを認めないのである。彼らにとって、社会とは進歩するものではない。正しい道というものは、神によって下された規範であって、イスラームが誕生して以来変わるものではない。
p.197

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2005/07/16

ハリー・ポッター到着

今回は652ページなので前作に比べれば(物理的に)多少軽いか。
今夜、さっそく徹夜で読み上げてしまう人もたくさんいるんだろうなあ。

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理性を信じない人々との共生(その2)

昨日の続き。
ではヨーロッパ社会で生まれたムスリム二世たちはどうか。親世代は無理でも世代交代すれば、ムスリムも政教分離、世俗主義、民主主義、多文化主義、人権などといった「普遍的」な価値を共有するようになるのではないかとヨーロッパの人々は思った。ところが、これもまた、期待を裏切る結果となる。内藤正典さんの本では、トルコ系のドイツ人青年が所帯をもとうとするときの結婚観についてこんな紹介がある。

若い男性たちにも、自分よりドイツ語ができて、ドイツ社会に適応した二世の女性との結婚を好まない傾向があった。すでにドイツ社会でコンプレックスにさいなまれていた男たちは、家庭の中で家父長的に振舞うことを願っていた。彼らは親の希望どおり、母国トルコから教育レベルの高くない配偶者を迎える選択をしたのである。
『ヨーロッパとイスラーム』p.35

かくして、第二世代のムスリムもホスト社会にとっては、異質な人々でありつづけた。
ヨーロッパのホスト社会にとって、移民は貧しい母国から働きにきた憐れな存在なら許すことができた。「遅れた社会」から先進的なヨーロッパに来て、自分たちを見習ってくれるなら我慢できた。だがムスリム移民はヨーロッパ社会の中に見習うものと忌避すべきものをはっきりと分けていった。ヨーロッパはこれをイスラームによる挑戦と受け止めたのである。
『ヨーロッパとイスラーム』p.35

ホスト社会はやがてこの不快を公然と表明するようになる。そしてわたし自身はこれに対してヨーロッパの人々に同情的である。なぜなら、上に述べた価値をわたし自身も人類が歴史のなかで獲得してきた「普遍的」なものだと考えているからだ。そういう意味で、わたしもムスリムの価値観を不快なもの(だが我慢するしかないもの)と考えていることになる。
しかし、ここがムスリムとの決定的な違いになると、内藤さんは言う。これらの価値観はムスリムにとっては「普遍的」なものではまったくない。
何故か。

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2005/07/15

理性を信じない人々との共生(その1)

昨年末に読んだ『ヨーロッパとイスラーム──共生は可能か』内藤正典(岩波新書/2004)をざっと再読。本書が取り上げているのはドイツ、オランダ、フランスの三国でイギリスの分析はない。その理由を著者はこのようにあとがきで語っている。

イギリスに暮らすムスリム移民の多数は、インドかパキスタン、バングラデシュなど、旧植民地からの移民である。イギリスの植民政策自体が、大英帝国のアジア・アフリカ支配の歴史と深く関っている。イスラームとの関係よりも、旧植民地(英連邦)出身者としての特殊な地位に焦点を当てる必要があるため、紙幅の関係から割愛せざるを得なかった。
しかし今回のロンドンの事件の背景についての記事をBBCニューズで読むかぎりでは、基本的な構図はイギリスにおいても他のヨーロッパ諸国と同じような印象をうける。そのあたりを以下メモとして。(おそらく何回かにわけて書くことになりそうだ)現地の事情に詳しい方のご教示がいただければ、さらにうれしい。

『ヨーロッパとイスラーム』によれば、西ヨーロッパのムスリムの人口は現在1千5百万人から2千万人と推計されると言う。ずいぶん数に幅がある。それだけ人口統計で拾うことがむつかしい人々なのだろう。
ヨーロッパは第二次大戦後の復興に必要な重労働や危険作業をいとわない労働者としてムスリムを大量に受け入れた。この頃は、ヨーロッパにとってもかれらは単なる出稼ぎ労働者であり、別に目障りな存在ではなかった。不適切なたとえかもしれないが、華やかなホテルのパーティ会場に集う人たちにとって、トイレ掃除のオバサンや重いテーブルを運ぶ会場設営係の男たちは見えても「いない」のと同じような感じだったのではないかと推測する。ムスリムの人々にとっても、それはそれほど問題ではなかった。かれらにとって、ヨーロッパ、上のたとえで言えば「ホテル」は単にカネを稼ぐ場であり、着飾った人々がかれらを無視しようと、あるいはわざとらしく人間として認めているよと言わんばかりに挨拶をしてくれようと、そんなことはどうでもよかっただろうと、わたしは思う。大切なのは、故郷だったはずだ。いずれ本国に帰り同胞の尊敬を得ることができればそれでよかっただろう。

BBCの記事によれば、転機は1970年代だったという。『ヨーロッパとイスラーム』では1973年と特定している。第一次オイルショックで経済の先行きが不透明になり失業がヨーロッパの人々にのしかかると、それまでの外国人労働者の受入れが問題視されこの政策をヨーロッパ各国は停止する。出稼ぎのムスリムには不安がよぎったが、しだいにあきらかになったことは別の事態だった。新たな出稼ぎ労働者の受入れは締め付けるが、すでにヨーロッパにいるムスリムの定住は認める。さらに、それだけでなく、ヨーロッパ人権規約によりかれらに「家族の統合」を基本的人権として認めるということが明らかにされたのである。早い話が、本国から妻子の呼び寄せが可能となったのだ。
出稼ぎから、定住移民への転換である。

移民には多くのムスリムが存在していたので、ヨーロッパ社会はイスラーム社会を内包することになった。ムスリムは、単身で生活するときよりも、家族で暮らすときの方が、はるかにイスラーム的規範や価値に敏感になる。イスラームでは、信徒共同体の統一性をたいへん重んじるのだが、その共同体の基礎は家族にあると意識しているからである。
ヨーロッパには、イスラームが禁じる酒や売春、そして麻薬にいたるまで、あらゆる欲望が渦巻いている。労働者たちは、自分たちだけならいざしらず、配偶者や子どもがイスラームの道を踏み外すことに恐怖を覚えた。そこで、イスラームの信仰実践に熱心になっていき、同じ思いを抱く信徒同士の結合が促進されたのである。
『ヨーロッパとイスラーム』p.14

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2005/07/13

桃尻語訳・枕草子

「春って曙よ!」で始まる桃尻語訳枕草子。これまで「きわもの」の類いと思っていたが、先日『「わからない」という方法』を読んで、すこし認識が変わった。
なにしろ、ご本人が『——方法』に書いておられることを信じれば(わたしは信じるが)、この訳はおそろしく手間がかかっている。「ここは、断定の助動詞に完了の助動詞がくっついて、しかも推量なんだよな」なんて調子で、原文をいちいち品詞分解し、それを全部現代語におきかえるという作業を延々と何万回も繰り返したというのだな。さらにそのようにして出来上がった第一稿を読み直して、原文との突き合わせをし、直しを入れる作業が少なくとも三回。直しも書いたものの横に第二案をシャープペンシルで書き込むという用心深さだ。(再度見直して原案の方がいいと思う場合もあるから)
それを四回ばかり繰り返し読んでようやく万年筆による清書に入る。清書も完了までに最低三回は書き直し。ようやく原稿が完成して出版社に渡したあとも、校正作業で赤を入れ続ける。ふつうは作家は初校と再校までやればいい方で、あとは編集者の仕事となるのだが、『桃尻語訳枕草子』の場合は三校は当然、編集者しか見ない念校まで手を入れるという執念深さである。(この人の「くどさ」はまったくただごとではない)
とくに面白いのは次のコメントだ。

しかもあきれることに、そのシチめんどくさいことをやればやるほど、清少納言の言葉は「桃尻娘の言葉」に接近してしまうのである。

つまり、橋本さんがあきらかにしようとしたのは「清少納言の文章の構造は、現代の若い娘の話し言葉と同じだ」ということであった。

ということで、今回は1987年の初版の『桃尻語訳 枕草子(上)』を読んでみた。
率直な感想は、やりすぎでしょ、というミもフタもないものだが、これは本人も多少感じておられたことらしい。
たとえば、人口に膾炙した第一段の夏の箇所——

夏は夜 月の頃はさらなり 闇もなほ 蛍のおほく飛びちがひたる またただ一つ二つなどほのかにうち光りゆくもをかし

わたしの読んだ初版ではこう訳してある。

夏は夜よね。
月の頃はモチロン!
闇夜もねェ・・・・・。
蛍が一杯飛びかってるの。
あと、ホントに一つか二つなんかが、ぼんやりボーッと光ってくのも素敵。

これが、『——方法』のなかでは、このように改められている。

夏は夜よね。
月のころはもちろん。
闇もねェ・・・・・。
蛍が多く飛びかってる——あと、たった一つ二つなんかがぼんやり光ってくのも素敵。

じつは初版ではと書いたが、これは文庫版でも同じである。つまり「新訳」は今回『——方法』であきらかにされたわけだ。橋本さんはこう書いておられる。

微妙に違うのは、古い訳の方が「若い娘らしさ」を過剰にしていることである。「若い娘の話し言葉と同じ」だけでやっていたから、「若い娘らしさ」にいささか振り回されているのである。
(中略)
「あ、そうか。もう一度訳し直そうと思ってたけど、これで新しい方針が立ったな」と喜ぶ私ではあるが、だからと言って、絶対に「さっさとやろう」なんて思わない。

いやはや、そのうち『新訳・桃尻語訳・枕草子』を出すらしいや。まあ、わたしは、あと中と下を読んだら、新訳までは結構ですって感じだが。
でもこの『桃尻語訳・枕草子』の註は文句なしに素晴らしい。ああ、そういうことだったのか、とこれでわかったことがたくさんある。とくに着るものについての説明はスグレモノ。すこし長くなるが例をあげた方がわかりやすいと思うので——。

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“狩衣”っていうのはスポーツ・ウェアね。昔、狩に行く時に着てたから狩衣っていうんだけど、普段の時に着る直衣が“背広”だとするんならさ、狩衣はそれよりももっとくだけたブルゾン、ジャンパーの感じね。直衣と違うところはさ、袖が離れてるってこと。普通着物ってさ、胴体に袖をくっつけるでしょ?別に着物じゃなくたって、みんな袖は胴体にくっつけるもんだけどさ、でも狩衣っていうのは半分しかつけてないのね、後ろはちゃんと縫い合わせてあるから、後ろから見ると普通に着物なんだけど、前は縫ってないの。だから狩衣を前から見るとさ、胴体と袖の間が開いていて、そこから下の生地が見えるのよね。だから袖と胴体のすき間に手ェ入れちゃえばさ、狩衣の袖だけをパッと後ろに脱げちゃうこともできる訳。袖と胴体の間が離れてるから活動的だしね。狩の時に着てったって、分かるでしょ?——もっともあたし達の時代に男の人が実際弓矢持って狩に行く行くなんてことはなかったけどさ。だからさ、狩衣っていうのは鎌倉時代になっちゃうと武士の正装になっちゃうのね。あたし達の時代はホントの略装なんだけど。

いやあ、そうだったのか。

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2005/07/09

読まず嫌いの橋本治

『「わからない」という方法』橋本治(集英社新書/2001)を読む。橋本治さんの本を読むのはこれがはじめて。
べつにゲイだから嫌いだったというわけではないと思うのだが、これまでなぜか読む気がしなくてパスしていた。しかし、もちろん読めば面白いのはわかっている(それくらいの鼻は利く)。読まず嫌いの作家だったということになるのかな。
本書、三分の一ほど読んで「ええい、くどい文章だなこりゃ」と舌打ちしたら、すかさず「わたしの文章はくどい」と書いてあってのけぞった。この辺で、読者が「くどい!」と舌打ちするように書いてやがる。
まいった、まいった。
というわけで、どうも「桃尻語訳枕草子」が近々の「課題図書」になりそうな塩梅である。

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2005/07/06

攝津幸彦全句集

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ひと月ばかりかけて『攝津幸彦全句集』(沖積舎/1997)を通読した。

ここを訪れてくださるみなさんの中には、俳句に詳しい方ももちろんおられるだろうが、現代俳句にさほど興味のない方も多いだろう。攝津幸彦の句は、むしろ俳句にあまり興味がない方の方が、「へえ、なんかよくわかんないけど、こんなのもアリなのね」とおもしろがってくれるような気がする。

何句か自分なりの鑑賞をしてみたいものもあるのだが、とりあえず今回はこの魅力的な俳人の句集から比較的よく知られた句と、わたしが個人的に気に入った句を抜いてみる。一読、意味不明で困惑すると思うけれど、たぶんそれでいいはずです。とにかく好きなように空想を広げてみることをお勧めする。

「姉にアネモネ」[1973]
 首枯れてことりこ鳥子嫁ぐかな

「鳥子」(とりこ)[1976]
 かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や
 人の世に水汲む姿ありにけり
 くぢらじやくなま温かき愛の際
 南浦和のダリヤを仮のあはれとす
 南国に死して御恩のみなみかぜ

「輿野情話」(よのじょうわ)[1977]
 菊月夜君はライトを守りけり
 ぼんなうの猿買ひにゆく元気かな
 あたし赤穂に流れていますの鰯雲
 愛はらはらと桃色電話に愛国者

「鳥屋」(とや)[1986]
 淋しさをゆるせばからだに当たる鯛
 新しき猿欲し彗星去らむ日に
 あをによし奈良市の棺に余る紐
 太古よりあゝ背後よりレエン・コオト
 ダリヤ焼く明日も水野鉄工所
 日章旗垂らして猫を洗濯す
 生き急ぐ馬のどのゆめも馬

「鸚母集」(おうむ)[1986]
 芝刈機しづかに雲に当たりけり
 眼鏡の露より昭和はじまれり
 性欲や翁が秘むる複葉機

「陸々集」(ろくろく)[1992]
 国家よりワタクシ大事さくらんぼ
 ふるさとは水が出るまで掘る遊び
 わが恋を黒くつゝみぬ雨合羽
 人死んで厠に桜散り込みぬ
 何となく生きてゐたいの更衣
 さようなら笑窪荻窪とろゝそば
 路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな
 あゝ乙な心のくぎり梅錦
 ミルクてふビー玉ありぬ最澄忌

「鹿々集」(ろくろく)[1996]
 荒星や毛布にくるむサキソフォン
 比類なく優しく生きて春の地震(なゐ)
 遠ざかる子がゐていつも夏帽子
 人生を視る術なくて平目かな
 花八つ手しやんしやんしやんで果てにけり
 チェルノブイリの無口の人と卵食ふ
 猿股やすなわち想ふ「種の起源」
 月の道無用の鍵束持ち歩く

「四五一句(未刊句集)」[1997]
 のうキクチサヨコ眠れよ幕下りぬ
 「悔い改めよ」野鼠の夜が又来るぞ
 船団も女体も何も信長忌
 即興の馬の睫毛に雪降れり

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2005/07/03

がんばれエヴェッサ

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知りあいに「EVESSA TIMES」というチラシをもらった。
エヴェッサってなんじゃらほい、と思ったら、大阪のプロ・バスケットボール・チームのニックネームであった。そういえば、プロのバスケットボール・リーグの話題を最近、めざましTVで見たなと、記憶をたどると、そうかコービー・ブライアントの父親が東京のチームで現役で出るとかいう話題であった。ジョー・ブライアント氏は50歳。まあ、もとNBAの選手だから十分通用するのかなあ、という思いと、通用するようではこのリーグってどうよ、という思いが交錯する。
しかし、バスケットボールは好きなスポーツなので、このリーグがなんとか成功してくれるといいと思う。リーグ戦のスタートは11月5日である。ささやかながら応援したい。桜木花道や、流川楓はいるのだろうか。
なお、エヴェッサは「戎さん(えべっさん)」でありますね、言うまでもないことではありますが。

日本プロ・バスケットボール・リーグの公式ホームページはこちら
大阪エヴェッサの公式ホームページはこちら

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2005/07/01

6月に読んだ本

『続・詩歌の待ち伏せ』北村薫(文藝春秋/2005)
『真実——日中、ふたつの国の天と地』李珍(講談社/2005)
『街場の現代思想』内田樹(NTT出版/2004)
『かかし長屋』半村良(集英社文庫/2001)
『海辺のカフカ(上下)』村上春樹(新潮文庫/2005)
『定本 夕暮の諧調』塚本邦雄(本阿弥書店/1988)
『アメリカの心の歌』長田弘(岩波新書/1996)
『日本人の法意識』川島武宜(岩波新書/1974)第8刷
『わが「転向」』吉本隆明(文藝春秋/1995)
『映画は死んだ』内田樹・松下正己(いなほ書房/1999)
『教養主義の没落』竹内洋(中公新書/2003)
『入門・ブローデル』(藤原書店/2003)
『私の身体は頭がいい』内田樹(新曜社/2003)

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6月に観た映画

月のひつじ(原題:THE DISH)
監督:ロブ・シッチ
出演:サム・ニール、ケヴィン・ハリントン、トム・ロング、

DANNY DECKCHAIR
Directed by Jeff Balsmeyer
Rhys Ifans, Miranda Otto, Justine Clarke

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