理性を信じない人々との共生(その4)
このタイトルでの記事は今回で終了。柄でもないのに、ついついこういう分不相応な文章を書き連ねてしまったのは、じつは「マーケットの馬車馬」さんのところの「問われるべき責任」という記事に触発されたからであった。(ここ)
「マーケットの馬車馬」さんは、イスラームの名を借りたテロは、いわばイスラームの権威のハイジャックであり、これによってテロとは無縁のムスリム穏健派の生活と利益を損なっていることを正しく指摘した上で、大半のムスリムには「問われるべき責任」は一切ないが、かれらの宗教指導者は別だと言われる。『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディには先を争うように死刑宣告のファトワ(イスラーム法にもとづく法的裁定)を出したくせに、ビン・ラーディンにはたった1枚のファトワすら出すことをしない穏健派指導者までも被害者のように免責するのには違和感を持つというのだ。
まったく同感なのだが、たぶんそれは怠惰や怯懦(も多分にあるだろうが)だけではないような気が直感的にわたしにはする。かりに宗教指導者たちがテロリストたちを名指して、これらの者はイスラームの名を借りた悪魔であり、最後の審判においてアッラーによって裁かれ天国の門をくぐることは決してできないという裁定をくだせば、たしかにテロへの人材の供給をかなり狭めることはできるだろう。しかし、こういう発想じたいが、おそらく、テロ集団への人材供給を絶つにはどうすればいいか、といった理性的、合理的なロジックにもとづくものだとムスリムの人々は思うのではないか。テロに対する嫌悪というのは、ムスリム穏健派も共有するとしても、人間の理性そのものを神の前では単なる浅知恵にすぎないというふうに見なしている人々が、テロをなくしたいという人間側の必要性が神の啓示よりも優先されるなどということは受け入れがたいはずである。
だから、宗教指導者がこういう裁定をくだす可能性はあまり高くないだろうし、もしもある宗派の指導者がそういう裁定をくだせば、ただちにそれが宗派間の紛争の火種になるのではないだろうか。そしてその場合は、イスラエルや米国に迎合した「誤った解釈」としてテロを非難した側が不利になるような気がわたしにはする。
結論はでない。
理性を信じない人々との共生は、これからもかなり長い間つづくのだろう。気の重い話ではある。
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コメント
かわうそ亭さん、TBありがとうございます。大変興味深く拝見しました。
確かに、テロを減らして大多数のムスリムの利益に資する、という考え方それ自体が彼らの思考体系から外れている可能性は十分あるわけですよね・・・宗教家としては、それが当然なのかもしれません。このエントリーを読んでいて気がついたのですが、私のエントリーでは宗教指導者たちに対して「為政者としての」責任を問うべきだ、というロジックになっているのですね。ところが、政教一致のこの国々ではそこが非常にあいまいになってしまっている、と。やはり政教一致体制は根源的な問題点だと考えていいような気がしてきました。ただ、結局今のような政教一致体制を作った一因は王政に対して批判的なアメリカの態度にもあったわけで(全てが全てアメリカのせいではありませんが)、いやいやなんとも・・・。とりあえず、サウジの王政なども大切にした方がいいような気がしてきました。ある意味、理性的な対応ではないのかもしれませんが・・・
投稿: 馬車馬 | 2005/07/24 02:22
馬車馬さん コメントありがとうございました。
正直なところ、政教一致の国には嫌悪感しかもてませんし、さりとてサウード家のアラビア王国のような統治スタイルも好感がもてない。——ということで、なんだかなあ、というのが多くの人の気持ちなんでしょうね。
投稿: かわうそ亭 | 2005/07/25 21:47