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2005/07/19

黄瀛のこと

昨日の朝日新聞に“黄瀛(こう・えい)と「もう一つの祖国」”という王敏さんのコラムが掲載されていた。王敏さんは『花が語る中国の心』(中公新書/1998)や『宮沢賢治、中国に翔る想い』(岩波書店/2001)を読んで以来、親近感を持っている方である。だから、あまり読まない新聞でもたまにこの方が書いていたりすると、そこだけは目を通したりするわけだ。
しかし、今回のコラムを読んで少々驚いた。なんと王敏さんは黄瀛の教え子だというのだ。

ここで黄瀛について王敏さんのコラムから引用する。

黄瀛には日本と中国の血が流れている。
母は日本人、太田喜智(1887-1933)という。千葉県八日市場の金物商の長女で、小学校では2回も飛び級し、18歳で女子師範学校を卒業。優等訓導として地元小学校の教員になった。

日清交換教員となり重慶に赴任、重慶師範学校校長、黄沢と結婚し、黄瀛と妹(黄寧馨)を生む。日清戦争後の日本人の中国人観を考えると、よほどの信念があったとみるべきだろう。黄沢の死後、一家は日本に移った。黄瀛8歳、1914年のことであった。
黄瀛は日本の小学校を主席で卒業し、志望の中学に合格しながら「混血」を理由に入学を拒否されたという。日本が中国への侵略の意図をあらわにし、中国人蔑視が当然という悲しい世相であった。
黄瀛は東京の私立中学からチンタオの中学に編入する。この頃から詩作にはげむようになり、『日本詩人』に応募した「朝の展望」が千家元麿の推戴で新人第一席となって、一躍注目を浴びることとなった。黄瀛はふたたび日本を留学先にえらび、神田に開校した文化学院に入る。

わたしがこの詩人の名前を知ったのは、木山捷平の小説をすこしまとめて読んだときである。木山捷平は1925年に上京し東洋大学文化学科に入学するが、このとき赤松月船主宰の詩誌「朝」(同年「氾濫」に改題)の同人となった。そして同人のなかに黄瀛がいたのである。ちなみに同人には、木山、黄瀛のほか、佐藤八郎、大木篤夫、村田春海、吉田一穂、草野心平、大鹿卓がいた。
そのころの黄瀛の詩はこういうものだ。

  白いパラソルのかげから
  私は美しい神戸のアヒノコを見た
  すっきりした姿で
  何だか露にぬれた百合の花のやうに
  涙ぐましい処女を見た
  父が——
  母が——
  その中に生まれた美しいアヒノコの娘
  そのアヒノコの美しさがかなしかつた
  
  あゝ、私はコールテンのヅボンをならし乍ら
  その美しい楚々たる姿に
  パナマハットの風を追はうとした
  彼女の白いパラソルの影で
  その美しい眼と唇に
  聖い接吻を与へようと
  ふと途上のプラタナスの下で
  七月の情熱をたかめてしまつた

  「七月の情熱」

ふたたび王敏さんのコラムから。

詩才と詩友に恵まれた黄瀛だが、20年代後半の山東出兵から30年代に入ると日中の間では柳条湖事件など不穏な影が覆う。
母は黄瀛を軍人に育てることを決意した。詩では食っていけないという考えもあったろう。それよりも。二つの祖国を持った子には父の祖国を守らせ、日中の相互理解に尽力させるという大義の道を選択させた。
27年、黄瀛は文化学院を中退し、市谷の陸軍士官学校に進む。2年後に卒業すると中国に渡り、蒋介石軍に参加した。

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終戦後、中国にとどまった黄瀛は日本人の帰還を担当するが、その経歴が災いして10数年の投獄生活を余儀なくされた。このあたりは先日読んだ『真実——日中、ふたつの国の天と地』李珍(講談社/2005)の父親とよく似ている。文化大革命が完全に終息し、62歳となった黄瀛はようやく自由の身となる。四川外国語学院の教壇に立ち、若い世代に日本を教えることとなった。王敏さんは、その教え子の第一期生なのだという。
黄瀛は王敏さんによれば、84年、91年、96年、そして2000年に来日を果たしている。新聞に掲載されている写真は2000年の来日、千葉県銚子市に建てられた「銚子ニテ」の詩碑の前で教え子である王敏さんが恩師を撮ったものだ。このとき黄瀛は93歳か。矍鑠としたものだ。
現在、黄瀛は重慶で闘病の身ながら98歳の高齢で余生を送っているとのこと。

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コメント

ネット書友のかぐら川さんが、日記「めぐり逢うことばたち」のなかで黄瀛について触れておられます。
2003年12月16日の条。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&start=11&log=200312&maxcount=35

投稿: かわうそ亭 | 2005/07/20 16:28

この項を拝読したときに、ひとこと書き込もうと思ったのですが、そのままになってしまいました。
少し余裕ができたので落書きでもと思いここにやってきましたらかわうそ亭さんのコメントがありました。今まで気づきませんでした。
おかげで2003.12の自分の日記を読むことができました。

あまりにも雑多な話題が並んでいることに我ながら驚きました。

なお、歌手の一青窈さんの話題にでてくる石川県鹿島郡鳥屋町は、近隣の鹿島郡鹿西町・鹿島郡鹿島町と合併して〔2005.03.01〕、鹿島郡中能登町となっています。

投稿: かぐら川 | 2005/07/31 15:33

かぐら川さん どうもです。「めぐり逢うことばたち」で紹介されていた『黄瀛 その詩と数奇な生涯』は大阪図書館も所蔵しているようなので、今度借りてこようと思っています。

投稿: かわうそ亭 | 2005/07/31 23:00

「7月30日、中国重慶市内の病院で白血病で死去、98歳。」の報道に接す。ご冥福を祈る。

投稿: かわうそ亭 | 2005/08/02 21:31

黄えい氏はまだ無名だった宮沢賢治の詩を
みとめて、生前に訪問した5指に満たぬ人の
一人です。
その弟子の王敏さんが「雨ニモマケズ」に出
会ったのがきっかけで日中の掛け橋となって
いるのは不思議です。
同じく韓国の呉善華さんも「雨ニモマケズ」に
であって東海大で賢治研究で学位取得し、日
韓の掛け橋となっています。
賢治の法華信仰が実を結んでいるようです。

投稿: けんいち | 2005/08/04 14:31

こちらに、黄瀛氏の記事があったのですね。私が一青窈の記事を書いたとき、かぐら川さんが参照を求められていた記事に同氏のことがあり、印象深かったです。ついでといってはなんですが、宮沢賢治の一篇の詩をTB致します。彼の、弱い人や悲しむ人への眼差しと、はどこから来ているのか。私は法華経を知らないのでわからないのですが、19世紀後半のロシア・ナロードニキとの親近性をちょっと感じたりもします。

投稿: renqing | 2007/05/01 01:19

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