理性を信じない人々との共生(その2)
昨日の続き。
ではヨーロッパ社会で生まれたムスリム二世たちはどうか。親世代は無理でも世代交代すれば、ムスリムも政教分離、世俗主義、民主主義、多文化主義、人権などといった「普遍的」な価値を共有するようになるのではないかとヨーロッパの人々は思った。ところが、これもまた、期待を裏切る結果となる。内藤正典さんの本では、トルコ系のドイツ人青年が所帯をもとうとするときの結婚観についてこんな紹介がある。
若い男性たちにも、自分よりドイツ語ができて、ドイツ社会に適応した二世の女性との結婚を好まない傾向があった。すでにドイツ社会でコンプレックスにさいなまれていた男たちは、家庭の中で家父長的に振舞うことを願っていた。彼らは親の希望どおり、母国トルコから教育レベルの高くない配偶者を迎える選択をしたのである。
『ヨーロッパとイスラーム』p.35
かくして、第二世代のムスリムもホスト社会にとっては、異質な人々でありつづけた。
ヨーロッパのホスト社会にとって、移民は貧しい母国から働きにきた憐れな存在なら許すことができた。「遅れた社会」から先進的なヨーロッパに来て、自分たちを見習ってくれるなら我慢できた。だがムスリム移民はヨーロッパ社会の中に見習うものと忌避すべきものをはっきりと分けていった。ヨーロッパはこれをイスラームによる挑戦と受け止めたのである。
『ヨーロッパとイスラーム』p.35
ホスト社会はやがてこの不快を公然と表明するようになる。そしてわたし自身はこれに対してヨーロッパの人々に同情的である。なぜなら、上に述べた価値をわたし自身も人類が歴史のなかで獲得してきた「普遍的」なものだと考えているからだ。そういう意味で、わたしもムスリムの価値観を不快なもの(だが我慢するしかないもの)と考えていることになる。
しかし、ここがムスリムとの決定的な違いになると、内藤さんは言う。これらの価値観はムスリムにとっては「普遍的」なものではまったくない。
何故か。
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