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2005/07/17

理性を信じない人々との共生(その3)

10年ばかり前、なにを思ったのか、新刊で出たばかりの『歴史の終わり』フランシス・フクヤマ/渡部昇一訳(三笠書房)を読んだ。

第二次大戦で全体主義国家を打ち破り、続く冷戦でもソ連・東欧の共産主義体制を解体させた時点で、民主主義・自由主義と市場経済体制は、人類という種にとってもっとも適した社会システムであることが明らかとなった。
もちろん国家間の経済分野での摩擦はこれからも絶えないだろう、宗教や民族の違いからくる紛争もあるかもしれない。しかし、それらは民主主義・自由主義、市場経済体制をゆるがすようなものにはならない。なぜならこれらと拮抗できるような原理はもはやないからである。イデオロギーの対立、闘争、止揚という弁証法的な歴史の進歩はもうありえない。「歴史」は終焉を告げたのだ。

こうした世界認識が、十数年後の現時点から見ていかにお気楽に見えようと(現に見えるが)、基本的にはこのフクヤマの見方は誤ったものではないとわたしは思う。
歴史の本質は理性であり、人類は長い長い時間をかけて理性が「よりよい」と告げる方向に歩んできたと思うからだ。
啓蒙思想が登場したとき、たとえば社会契約説というアイデアは、絶対王政の王権神授説という「真理」からみて忌避すべき過激派の言説であっただろう。しかし、理性はやがてこのアイデアの方が、社会システムとしては「よりよい」ものだと告げたはずである。国家と教会の関係についても同様である。理性は、政教分離の方が、人々が幸せになる可能性が高いと、すなわち「よりよい」ものだと告げたはずである。信仰は個人にとって代え難いものであるとしても、教典は教典、科学は科学として、知の探求を認めた方が、人間にとって幸せであると告げたのは、理性である、とわたしは思う。

だから、理性を信じる限りでは、いまの世界が(細かい差異を無視すれば)共通にもつ民主主義・自由主義と市場経済体制というシステムを正当なものだとした時点で、たしかに歴史は終わったのだと言ってもいい。

では、理性を信じない人々はいまはもういないのか。もちろんいる。それはなにもムスリムに限ったことではないが、やはり、これからの世界をゆるがす勢力としてのムスリムが一番の問題になるだろう。

『イスラーム主義とは何か』大塚和夫(岩波新書/2004)にはこうある。

現在、世界に十三億人ほどいるといわれるムスリム(イスラームの信者)の大半は、その聖典・クルアーンは唯一絶対神、世界の創造主であるアッラー(神)の言葉の集成であると信じており、したがって無謬であるとみなしている。クルアーン無謬説は、ほとんどのムスリムが堅持している立場なので、この基準をあてはめれば、ほとんどのムスリムが「原理主義者」となってしまう。
また、「千年王国論」も、必ずしも「原理主義者」と呼ばれているムスリムのすべてが共有している考え方ではない。この世の終末とアッラーによる最後の審判が存在するという発想はほとんどのムスリムが信じているといえようが、それが必ずしも救世主待望論と結びつくわけではない。
p.8
注意深く読んでいただくと、この引用の文脈は正確には「イスラム原理主義」という表現の不適切さ──サイードの「オリエンタリズム」批判のような意味で──をあきらかにする箇所であることがわかるかもしれない。ただし、そういう立場の学者も、ムスリムとはこういう人々であると語っている。わたしは、こういう人々を理性を信じる人々だとは思わない。

ふたたび『ヨーロッパとイスラーム──共生は可能か』内藤正典(岩波新書/2004)から。

覚醒を経たムスリムは社会の進歩を促す人間の力を認めない。その力の源泉が人間の理性から導かれる叡智だということを認めないのである。彼らにとって、社会とは進歩するものではない。正しい道というものは、神によって下された規範であって、イスラームが誕生して以来変わるものではない。
p.197

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