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2005/07/26

朝寝と漢詩


『石川忠久中西進の漢詩歓談』(大修館書店/2004)は面白い本だった。
中西進さんは日本古代文学の専門家。万葉をはじめ日本の古典と漢詩は切っても切れない関係だから、専門外と言うのは、もちろん正しくないが、石川忠久さんという願ってもない漢詩世界のガイドを得て、自分は気楽な観光客のように能天気をきめこむことにされたご様子。人口に膾炙した漢詩を俎上にとりあげるや、中西さんが思い切った解釈で切り込み、石川さんが該博な知識でそれに応える、というしつらえになっている。まあ、ふふふ、と笑って読むような、肩の凝らない漢詩をめぐる対談集であります。
たとえば、誰でも知っている孟浩然の「春暁」。

  春眠不覚暁   春眠暁を覚えず
  処処聴啼鳥   処処に啼鳥を聴く
  夜来風雨声   夜来風雨の声
  花落知多少   花落つること知る多少

まず石川さんが、世上の鑑賞が春を惜しむという視点に傾きがちなことに異を唱える。

私はそうじゃないと思う。つまり、この作品の背後には、栄華の巷を低く見るような高い精神、高士の姿がある、というのが私の見方なんです。寝ているのは、宮仕えを拒否しているからなんです。宮仕えをすると朝早くに出仕しなくてはいけませんから、寝てはいられません。だけどこの人物はぬくぬくと朝寝を楽しんでいる。「朝は早から宮仕えに出てあくせくしている諸君、どうだ、このおれさまのような生活をしてみろ」とうそぶいているんです。
これに対する中西さんは、思わぬ方面からの奇襲戦法。それは非常に漢詩的な世界だが、日本では「朝寝」の詩と言えば、ちょっと違った世界がありますよ、と言って高杉晋作の「三千世界のカラスを殺し」なんて端唄を持ち出す。つまりこれは、艶情詩、男女の恋の寓意を読むという読み取り方もできはしませんかと、言うのですね。
中西 日本の場合だと、ほとんどがそういう寓意があるんですよ。漢詩の世界はとにかくストイックというか、そういうものは別ということになってますよね。本当にそうなのか、建前がそうなのか。この詩を読んでみますと、そうも読めますでしょう。
石川 読めるかな。
中西 「春眠、暁を覚えず、処々啼鳥を聞く」。これは、日本でいうと、女性の部屋で朝を迎えて、起きて帰らなきゃいけない、となります。「夜来風雨の声」、これはちょっと、エロチックですよ。そして「花落つること」……

ところが、さすがに石川先生、あわてず、じつはそういった解釈もないわけではない、この詩は蘇州の伎女に贈られた恋の詩だという説もある、と応じて、しかし、この解釈は今のところあまり支持を得ていないように思いますね、と答えておられる。
中西説は面白いけど、まあ、それではちょっと、品がないのでは、という気がいたしますなあ。

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コメント

かわうそ亭さま、はじめまして。TBありがとうございます。
石川忠久さんの本は何冊か読んだことがありますが、この本は読んだことありませんでした。すごくおもしろそうな本ですね。かわうそ亭さんの文章を読んでいて、この本を読みたくなりました。
漢詩って漢字だらけだから(当たり前だけど)、ちょっと堅苦しいかなぁ、なんてイメージあるけど、そうじゃないんですね。もっといろんな解釈を楽しみながら読んでもいいんだぁ、と思いました。
さっそく読んでみます。

投稿: 鹿の子(カノコ) | 2005/07/26 21:53

本を読んでいないのですが、かわうそ亭さんの掲載で私も石上説に傾斜です。仮に中西説を解釈するとすれば、恋人に送った詩であったなら、それは夜中に雨が降る音が聞こえて(という事は眠りが浅い独り寝で)、降る雨に花弁を散らした花もあっただろうなあ、という思いが起こった事がマズ第一で、その情景を浮かべて花を恋人に例えたとすれば、恋人が居ない夜に、その儚さを理解する男心を伝えたかったのでは。また、烏はカラスかカケスかと思うのですが、寝が浅かった為に明け方になって眠り込んで暁を過ぎた時に鳥の声に目覚めたのではないか? 漢詩の文法の時間の使い方がよく分からないままに、そう思っているのですが、仮に真夜中に烏が鳴く声が聞こえたとしたら、それは、闇の中に着々と起こる事象表現か、あるいは、その中に同じく小さく存在している詠み手を浮き彫りにしたい主旨。これが個人的な解釈です。
春暁は、これ、私は漢字が多少分かる様になった頃から、壁にかかった掛け軸の前に座って眺めてばかりいて、その度に母は同じ事を繰り返して説明してくれていた詩で、今でも掛かって居るに違いないのですが、懐かしく思い出しました。
サンキュー。

投稿: Io | 2005/07/26 22:15

鹿の子さん コメントありがとうございます。詩吟をなさる方は、漢詩の楽しみ方もまた格別なんでしょうね。わたしの場合は、とりあえず我流の四声と音読みのちゃんぽん(チュン・ミエン・プウ・かく・ぎょう——「覚」と「暁」は四声の読みを知らないから日本語読みにする(笑))で読むというあまり人には言えないような大胆なことをして、それから訓読してみるなんてやりかたですが、当然というか、恥ずかしながらというか訓読はたいていは間違っています。(笑)

Ioさん はじめまして。掛け軸の詩を子供の頃から眺め、お母様がその説明をなさるというのは、すぐれて東洋的なご家庭の環境でありますね。掛け軸の詩というのは、また読みにくいものなので、主人の帰りを待っている客がたどたどしく解読しようとしていると、お茶をもってきたご令室が、「ああ、なんでもこう読むんだそうでございますよ」なんて言う——そんな戦前風の生活にわたしなんかは勝手に憧れておるのですが。はは。

投稿: かわうそ亭 | 2005/07/27 09:37

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