『中濱万次郎—「アメリカ」を初めて伝えた日本人』中濱博(冨山房インターナショナル/2005)を読む。著者の中濱博さんはジョン万次郎の曾孫。
ジョン万次郎については、子供向けの伝記のようなものを小学生のころに読んだような記憶があるが定かでない。断片的な知識しかなかったので、本書の詳細な記録はたいへん興味深く感銘を受けた。
以前から漠然と鎖国の時代にも多くの漂流民がいたことは知っていた。(たとえば大黒屋光太夫もそのひとり)しかし、本書を読むとずいぶんたくさんの日本人が漂流し外国船に助けられたものの帰国できない状態でいたことがわかる。もちろん救助されることなく海の藻くずとなった数は莫大なものだろう。
万次郎は運命のいたずらで、鎖国時代に偶然外国を知った人間ではあるのだが、同じような機会があった多くの人々の中でも、やはり特別の好条件があったように思える。
ひとつは万次郎の年齢である。他の三人の漁師と一緒に鳥島まで漂流し、数ヶ月ののちにアメリカの捕鯨船に救助されたときかれは14歳だった。捕鯨船でハワイまで航海する間に万次郎のことがひどく気に入った船長が、どうだアメリカ本土に一緒に行くかと尋ねたのは、なによりかれが聡明で活発な少年だったからだろう。そして14歳くらいであったことが、外国語を覚える上でも有利であっただろうし、アメリカで一応の教育を受けることができたのもかれがまだ子供だったからではないだろうか。
もうひとつは、万次郎が出会ったのがアメリカ東部のよき人々であったことである。なかでも捕鯨船ジョン・ハウランド号(ジョン万次郎のジョンはこの船からとられたらしい)のホイットフィールド船長一家の交流はしみじみ温かく感動を呼ぶ。
こういう好条件を万次郎は最大限に活かした。
かれは少年期から青年期という人格陶冶の重要な時期を英語を用いて過ごした。ニューイングランドである程度の学業を修めて捕鯨船員となり、実質的な世界周航を日本に帰国する前におこなっている。しかもその航海の最後には船員の投票により副船長にまで昇格している。
しかし、わたしが驚くのは、万次郎が同時に日本語も決して忘れてはいなかったことである。
ここで、万次郎が書いた手紙をふたつ本書より書き写してみよう。
まず、万次郎がサンフランシスコから恩人であるホイットフィールド船長(ニューイングランドのフェアヘーヴンにいる)に宛てて、帰国のために出航するが、きちんとお目にかかって挨拶ができないことを詫びる英文の手紙である。このとき万次郎は23歳。
....... I never forget your benevolence to bring me up from a small boy to manhood. I have done nothing for your kindness till now. Now I am going to return with Denzo and Goemon to native country. My wrong doing is not to be excused but I believe good will come out of this changing world, and that we will meet again. The gold and silver I left and also my clothing please use for useful purposes. My books and stationary please divide among my friends.
John Mung
この時点で、万次郎はこの程度の英文は書くことが出来た。
もうひとつは万次郎が日本に帰国して、やがて幕府直参に取り立てられた頃に高知の母と兄に宛てて書き送った手紙である。このときほとんど誤字がないことを著者も指摘しておられる。
一筆啓上仕候。向寒御座候処、母上様初御機嫌克可被御座目出度奉存候。随而私儀無異儀相勤居候間少も御気遣被成間敷候。当月六日碁厚御公儀御呼出し之筈ニ相成、弐人扶持弐拾俵被下置、小普請格被仰付候へ共、御屋敷御詮議中を以、引蘢り居申候。何も気遣之義無御座候。尚、母上様を御せわ可被成候。追々委敷義申上候。扨、米少し、金子壱両高智へ相頼指立候間、参着次第御請取被成候ハヽ受取書御越可被下候。江戸ハ彼是あめりか用(風)ニ相成申候。度々御状被下度候。此節之御見廻申上度如此御座候。尚、期重便候。恐惶謹言。
十一月十三日 萬次郎
母上様
時蔵様
漂流する前は、万次郎は漁村の無学な少年である。寺子屋にさえ行ったことはなかった。帰国して短期間のうちに猛勉強をしたものだろうか。このとき万次郎は27歳。帰国したのが24歳だからたかだか三年たらずで候文の手紙が書けるようになったわけだ。
最後に面白いエピソードをひとつ。
49ersといえば、いまはNFLのサンフランシスコのチーム名だが、もともとはゴールドラッシュで西部に流れ込んだ人々を指す言葉である。(1848年1月にサクラメント山中の製材所の小川で金が発見されたことが報じられると(屈んでものを拾うことを厭わない人なら誰でも億万長者になれる!)アメリカ東部は言うに及ばず、世界中から人々が殺到した。現地でのラッシュのはじまりが1849年であった)じつは、万次郎は日本への帰国の資金をつくるために、この「黄金狂時代」の山師の一人となっていたのでありますね。ゴールドラッシュのときに東部から西部へ行くルートは、大陸横断ルート、船でパナマまで行きパナマ地峡を踏破し太平洋側をまた船でサンフランシスコまで行くルート、ケープホーン経由ですべて船で行くルートの三つがあった。船乗りとなった万次郎は最後のルートをとったらしい。
本書に、船は「入港したら乗り棄てるつもりであったので」残念ながら万次郎の乗ったスティグリッツ号の入港登録の記録は発見できていない、という記述があって、なんか変な気がしたら、この当時、49ersはサンフランシスコまで辿り着くと、港に船を棄てちゃったんだそうです。つまり乗り捨ては文字どおりの意味なんですね。自転車の乗り捨てじゃあるまいしと思うが、この放置された船が記録では526隻あったいうから驚く。
万次郎はそこからサクラメントへ入り、あらくれ山師に立ち混じって(そのときは二挺拳銃で完全武装していたというからかなり性根が入っていますな)、見事600ドルばかりのカネをつくって下山した。これが日本帰国の元手となりました。
いやはや、世の中にはすごい人はやはりいるもんです。
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