アメリカの反知性主義
『アメリカの反知性主義』リチャード・ホーフスタッター/田村哲夫訳(みすず書房/2003)を読み終えた。
本書は1964年のピュリッツァー賞受賞作品である。かなり浩瀚な本なので、一口に要約することはむつかしいのだが、たいへん面白い。以下、メモとして。
まず著者は、知能と知性について、その質的な違いを人々がどのように考えているかを明らかにする。
だれも知能の価値を疑わない。知能は理想的特性として世界中で尊重されており、知能が並外れて高いと思われる個人は深く尊敬される。知能の高い人はつねに称賛を浴びる。これに対して高い知性をもつ人は、ときには——とくに知性が知能をともなうと考えられるときは——称賛されるが、憎悪と疑惑の目を向けられることも多い。信頼できない。不必要、非道徳的、破壊的といわれるのは知性の人であって、知能の高い人ではない。P.21
このあたりはたとえば、知能にあたるのが智慧であり、知性にあたるのが知識だと考えるとわたしたちにもなじみのある世間の見方だろう。学者なんてものは、いくら知識があってもいざというときには役に立たないものだ。本など読んだことがなくとも真に智慧のある人こそ最後には、われわれがその運命を託すに値する賢者なのだ。あるいは、「論語」になじみのある人ならば「子の曰く、君子は小知すべからずして、大受すべし。小人は大受すべからずして、小知すべし」(衛霊公第十五34)が思い浮かぶかもしれない。解釈が分かれるようだが、岩波文庫の金谷治訳をとりあえずあげておく。「君子は小さい仕事には用いられないが、大きい仕事をまかせられる。小人は大きい仕事をまかせられないが、小さい仕事には用いられる」
さて本書の切り口は大きく分けると四つある。福音主義、民主政治、実業界、教育現場についてである。
それぞれ、ああそうだったのか、と思うような知見に満ちているが、とりあえず福音主義について。
ここで説明されるアメリカの宗教の発展過については、じつは実感としてはよくわからない。著者によれば、メソディスト、バプティスト、長老派の三教派が支配的になって行った(P78)ということだが、そのほかにもプロテスタントにはさまざまな教派がひしめきあっているし、それぞれがどのように違うのかが具体的な人物や言説としてイメージできないからだ。しかし、わたしにとってのここの箇所が面白かったとすれば(本書の中でもここはかなり読み応えがある)、それはスティーヴン・キングやロバート・マキャモンなどの小説によく登場する邪悪な巡回福音伝道者のご先祖に出会えるところだろう。(あまり質のいい読者とはいえないなあ)激しいパーフォーマンスで天国か地獄かの選択を聴衆に迫り、熱狂的で集団ヒステリーのような信仰復興をになって行ったこれらの説教師群像はやはり不気味だ。
ところが根本主義の精神はまるで異質な存在だ。本質的にマニ教的思想をもつ彼らは、世界を絶対善と絶対悪の戦場と見なし、妥協を軽蔑し(彼らの見方に立てば、たしかにサタンとの妥協はありえない)、いかなるあいまいさも許さない。P.117
しかし、娯楽小説のワルモノと同じように彼らをみるのが正しい見方だというわけでもない。歴史的な役割として、彼らが無法と混沌の地域に文明の灯を点していたという側面もたしかにあるようだ。
本書をきちんと紹介するためには、まだかなりの言葉をつらねる必要がありそうだが、まあ、それはわたしの手に余るということで、勘弁していただこう。
この本は内田樹さんと平川克美さんの『東京ファイティング・キッズ』でも(ここ)とりあげられていたが、直接には7月に『教養主義の没落』竹内洋(中公新書)に対するコメント(ここ)のなかで俄然坊さんから一読を勧められたものである。おっしゃるとおりたいへん読み応えがあり、目を開かされるいい本でした。感謝いたします。
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