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2005年8月

2005/08/31

アメリカの反知性主義

『アメリカの反知性主義』リチャード・ホーフスタッター/田村哲夫訳(みすず書房/2003)を読み終えた。
本書は1964年のピュリッツァー賞受賞作品である。かなり浩瀚な本なので、一口に要約することはむつかしいのだが、たいへん面白い。以下、メモとして。

まず著者は、知能と知性について、その質的な違いを人々がどのように考えているかを明らかにする。

だれも知能の価値を疑わない。知能は理想的特性として世界中で尊重されており、知能が並外れて高いと思われる個人は深く尊敬される。知能の高い人はつねに称賛を浴びる。これに対して高い知性をもつ人は、ときには——とくに知性が知能をともなうと考えられるときは——称賛されるが、憎悪と疑惑の目を向けられることも多い。信頼できない。不必要、非道徳的、破壊的といわれるのは知性の人であって、知能の高い人ではない。P.21
このあたりはたとえば、知能にあたるのが智慧であり、知性にあたるのが知識だと考えるとわたしたちにもなじみのある世間の見方だろう。学者なんてものは、いくら知識があってもいざというときには役に立たないものだ。本など読んだことがなくとも真に智慧のある人こそ最後には、われわれがその運命を託すに値する賢者なのだ。あるいは、「論語」になじみのある人ならば「子の曰く、君子は小知すべからずして、大受すべし。小人は大受すべからずして、小知すべし」(衛霊公第十五34)が思い浮かぶかもしれない。解釈が分かれるようだが、岩波文庫の金谷治訳をとりあえずあげておく。「君子は小さい仕事には用いられないが、大きい仕事をまかせられる。小人は大きい仕事をまかせられないが、小さい仕事には用いられる」

さて本書の切り口は大きく分けると四つある。福音主義、民主政治、実業界、教育現場についてである。
それぞれ、ああそうだったのか、と思うような知見に満ちているが、とりあえず福音主義について。
ここで説明されるアメリカの宗教の発展過については、じつは実感としてはよくわからない。著者によれば、メソディスト、バプティスト、長老派の三教派が支配的になって行った(P78)ということだが、そのほかにもプロテスタントにはさまざまな教派がひしめきあっているし、それぞれがどのように違うのかが具体的な人物や言説としてイメージできないからだ。しかし、わたしにとってのここの箇所が面白かったとすれば(本書の中でもここはかなり読み応えがある)、それはスティーヴン・キングやロバート・マキャモンなどの小説によく登場する邪悪な巡回福音伝道者のご先祖に出会えるところだろう。(あまり質のいい読者とはいえないなあ)激しいパーフォーマンスで天国か地獄かの選択を聴衆に迫り、熱狂的で集団ヒステリーのような信仰復興をになって行ったこれらの説教師群像はやはり不気味だ。

ところが根本主義の精神はまるで異質な存在だ。本質的にマニ教的思想をもつ彼らは、世界を絶対善と絶対悪の戦場と見なし、妥協を軽蔑し(彼らの見方に立てば、たしかにサタンとの妥協はありえない)、いかなるあいまいさも許さない。P.117

しかし、娯楽小説のワルモノと同じように彼らをみるのが正しい見方だというわけでもない。歴史的な役割として、彼らが無法と混沌の地域に文明の灯を点していたという側面もたしかにあるようだ。

本書をきちんと紹介するためには、まだかなりの言葉をつらねる必要がありそうだが、まあ、それはわたしの手に余るということで、勘弁していただこう。

この本は内田樹さんと平川克美さんの『東京ファイティング・キッズ』でも(ここ)とりあげられていたが、直接には7月に『教養主義の没落』竹内洋(中公新書)に対するコメント(ここ)のなかで俄然坊さんから一読を勧められたものである。おっしゃるとおりたいへん読み応えがあり、目を開かされるいい本でした。感謝いたします。

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2005/08/27

池澤訳『星の王子さま』

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『星の王子さま』の新訳がたくさん出ている。今年で著作権が切れたことで、新しい出版が可能になったということらしい。背景は「京の昼寝」さんのブログにくわしい。【ここ】
わたしはこれまでの内藤訳と今度の新訳とが、どんな風に違うのかとか、新訳がそれぞれにどう違うのか、なんてことにはあまり興味はない。ただ単に、池澤夏樹さんが翻訳されるというので、「ああ、きっとそれは素晴らしい本になるだろうな」と思っていただけである。
『星の王子さま』サンテグジュペリ/池澤夏樹訳(集英社文庫/2005)を読んでみた感想をいうと、想像以上に素晴らしかった、ということになる。
こういう言い方は、これまでお世話になってきた旧訳の内藤濯に対して礼を失することになるかもしれないが、今回の池澤訳『星の王子さま』で、はじめてわたしはサンテックスがこのオハナシを書いたその源泉にふれたような気がしたな。
これから、はじめて『星の王子さま』を読む人には、わたしは少なくとも岩波の内藤訳よりはこの集英社版の池澤訳を推薦すると思う。ただし文庫版は挿し絵がモノクロでさみしいので、どうせ買うならハードカバーの方がいいだろう。なお、倉橋由美子の『新訳 星の王子さま』(宝島社/2005)も買って読んでみたが、感心しなかった。

池澤訳から——

「どうすれば星を所有することができるの?」
「星は誰のものだ?」とビジネスマンは少し腹を立てて聞き返した。
「知らない。誰のものでもない」
「ならば私のものだ。最初に考えついたのは私だから」
「それだけで?」
「そうさ。誰のものでもないダイヤモンドを見つけたら、それはきみのものだ。持ち主のない島を見つけたら、それはきみのものだ。新しいアイディアを見つけたら特許を取る。そのアイディアはきみのものになる。星が私のものなのは、これまで誰もそれを所有するという考えに至らなかったからさ」
「それはそうだけど」と王子さまは言った。「それで、星をどうするの?」
「運用するのさ」とビジネスマンは答えた。

内藤濯の著作権継承者である内藤初穂さんの「星の王子さま」というタイトルを新訳につかうならば法的手段に訴えるなんて当初の動きは、なんとも見苦しいもので、このくだりをすぐに思い出した。ただし、それと今回の本の評価はまったく関係がない。

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2005/08/25

シンディー・シーハン

asahi.comの今日の記事から。シンディー・シーハンさんがキャンプ・ケーシーに帰ってきたらしい。

死亡米兵の母親、反戦行動に戻る 米テキサス

AP通信によると、母親の看病のため、テキサス州にあるブッシュ大統領の牧場近くの反戦行動現場を離れていたシンディ・シーハンさんが24日、1週間ぶりに現場に戻った。シーハンさんが不在の間も、支援者らによる反戦行動は続いていた。

この件にについてはこちらを参照してもらうとわかりやすい。【暗いニュースリンク】

政治がらみの社会現象であればわたしは距離をおくが、少々胸を突かれたのは、シンディの年齢だ。48歳である。従軍し戦死した息子を持つ母親の年がわたし自身より下だということにあらためて深い感慨を覚える。わたしの父が招集されたときその母(すなわちわたしの祖母)が、やはり48歳であったと先日聞いた。
なぜか「岸壁の母」のことを思い出した。このモデルとなった端野いせさんが、息子の帰還を信じて大陸からの引き揚げ船が着くたびに舞鶴の岸壁に立ち尽くしたのはいったい何歳の頃のことなんだろうとふと思った。ネットで調べてみると、彼女は1981年に81歳で亡くなっている。ということは、1945年の敗戦が45歳、それから6年間、岸壁に立ち続けたというから、やはり48歳くらいの年齢というのはそういう年頃なんだろうなあ。

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2005/08/24

オオカミなんかこわくない

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「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘『シンジケート』より

蘊恥庵庵主さんのサイト「不二草紙 本日のおススメ」の昨日の話題は『三びきのこぶた』。図書館の読み聞かせで、チェロを弾かれた由、楽器のできる人は羨ましいですね。
たまたま、わたしが昨日から読んでいたのが『Who's Afraid of Virginia Woolf?』 Edward Albee(Penguin Plays)でした。再読ですが、面白いね、これ。昔読んだときは、まだ独身でしたが、ちゃんと理解できていたのかヲレ、と思ってしまった。テキの弱みを知り尽くした中年夫婦の冷戦恐るべし。いや、いくらなんでもここまでの神経消耗戦は我が家でもありませんけど。(笑)

え、三匹の子豚となんの関係があるかって?

この戯曲の題名『バージニア・ウルフなんかこわくない』はディズニーの『三びきのこぶた』の主題歌“Who's Afraid of A Big Bad Wolf?”(オオカミなんかこわくない)からきているのでありました。そんだけ。

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河村瑞賢と鈴木清風

『川の名前で読み解く日本史』岡村直樹・監修(青春出版社/2002)から。

江戸時代、淀川の治水に功績のあった河村瑞賢という人物がいる。洪水がおこるたびに天下の台所が水浸しでは困るということで、幕府が調査にあたらせた。瑞賢は洪水がおこる原因が淀川と大和川の河口出口をふさぐかたちになっていた九条島にあると原因をつきとめ、この九条島を貫くかたちの新しい水路をひらく工事を行った。こうしてできたのが幅90メートル、長さ1.5キロの安治川である。当時の地形は、いまの地図からは想像することがむつかしいが、中之島から弁天埠頭あたりまでの運河をひらいて水はけをよくしたという感じだろうか。安治川の安治とは瑞賢の名前だとか。
この河村瑞賢(1618 - 1699)という人は面白い人のようで、もともとは三重の貧農の息子だったが、江戸で人夫から身を起こし、材木で財をなした。明暦の大火のときに木曽の山林を買い占め、復興需要で莫大な資産を築いたという。その後、土木や治水の大事業を幕府から請け負うような豪商となったのでありますね。

この人は酒田の繁栄にもたいへん重要な役割を果たしている。
江戸時代の日本の物流は、阿武隈川河口から江戸へと向かう東廻り航路と、酒田から下関を経て、大阪さらに紀州を経て江戸へと向かう西廻り航路のふたつのルートがあり、これが物資の大動脈となっていたのですが、このふたつの海運ルートをつくったのも河村瑞賢であった。酒田からは米ももちろん輸送されたのですが、この地方に莫大な富をもたらしたものはじつは特産品の紅花であった。

紅花は主産地である村山盆地から大石田に運ばれ、船積みされて最上川を酒田まで下り、廻船で京、大阪へと向かった。紅花を扱う商人として名を馳せたのが鈴木清風である。京都、大阪での紅花の需要はひきもきらず、まさに金のなる植物だった。当時は一反歩の紅花の利益は三反歩の田の稼ぎに匹敵するといわれたと伝わっている。
その紅花を商う商人たちは「紅花大尽」と称され、大きな財を積み上げていったのだが、なかでも清風は豪商の名を欲しいままにしていた。
ここでぴんときた人はえらい。「おくのほそ道」で芭蕉が「 尾花沢にて清風と云ものを尋ぬ。かれハ富るものなれども心ざしいやしからず。都にも折々かよひてさすがに旅の情をも知たれバ、日比とヾめて長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る」とあるのがこの鈴木清風。
この人は、あんまり大儲けがすぎると、江戸の商人に紅花の買いつけボイコットをされたことがある。買い手がつかなければ、大損をするはめになる。しかし清風はあわてなかった。品川の浜にうずたかく積まれた荷を焼いて灰にした。紅花の値が急騰した。最高値とみるや、清風は焼いた筈の紅花を一気に売りまくって莫大な利益をあげた。じつは焼いたとみせた紅花はカンナ屑で本物の紅花は隠していたいうから抜け目がないや。

この本に出てくる川は、淀川、九頭竜川、球磨川、利根川、筑後川、多々良川、千曲川、姉川、手取川、長良川、四万十川、信濃川、吉野川、富士川、天竜川、最上川、北上川、石狩川、その他。コンパクトにまとまってなかなか面白い本であります。

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2005/08/21

二挺拳銃のジョン万次郎

『中濱万次郎—「アメリカ」を初めて伝えた日本人』中濱博(冨山房インターナショナル/2005)を読む。著者の中濱博さんはジョン万次郎の曾孫。
ジョン万次郎については、子供向けの伝記のようなものを小学生のころに読んだような記憶があるが定かでない。断片的な知識しかなかったので、本書の詳細な記録はたいへん興味深く感銘を受けた。

以前から漠然と鎖国の時代にも多くの漂流民がいたことは知っていた。(たとえば大黒屋光太夫もそのひとり)しかし、本書を読むとずいぶんたくさんの日本人が漂流し外国船に助けられたものの帰国できない状態でいたことがわかる。もちろん救助されることなく海の藻くずとなった数は莫大なものだろう。
万次郎は運命のいたずらで、鎖国時代に偶然外国を知った人間ではあるのだが、同じような機会があった多くの人々の中でも、やはり特別の好条件があったように思える。

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ひとつは万次郎の年齢である。他の三人の漁師と一緒に鳥島まで漂流し、数ヶ月ののちにアメリカの捕鯨船に救助されたときかれは14歳だった。捕鯨船でハワイまで航海する間に万次郎のことがひどく気に入った船長が、どうだアメリカ本土に一緒に行くかと尋ねたのは、なによりかれが聡明で活発な少年だったからだろう。そして14歳くらいであったことが、外国語を覚える上でも有利であっただろうし、アメリカで一応の教育を受けることができたのもかれがまだ子供だったからではないだろうか。
もうひとつは、万次郎が出会ったのがアメリカ東部のよき人々であったことである。なかでも捕鯨船ジョン・ハウランド号(ジョン万次郎のジョンはこの船からとられたらしい)のホイットフィールド船長一家の交流はしみじみ温かく感動を呼ぶ。

こういう好条件を万次郎は最大限に活かした。
かれは少年期から青年期という人格陶冶の重要な時期を英語を用いて過ごした。ニューイングランドである程度の学業を修めて捕鯨船員となり、実質的な世界周航を日本に帰国する前におこなっている。しかもその航海の最後には船員の投票により副船長にまで昇格している。
しかし、わたしが驚くのは、万次郎が同時に日本語も決して忘れてはいなかったことである。
ここで、万次郎が書いた手紙をふたつ本書より書き写してみよう。
まず、万次郎がサンフランシスコから恩人であるホイットフィールド船長(ニューイングランドのフェアヘーヴンにいる)に宛てて、帰国のために出航するが、きちんとお目にかかって挨拶ができないことを詫びる英文の手紙である。このとき万次郎は23歳。

....... I never forget your benevolence to bring me up from a small boy to manhood. I have done nothing for your kindness till now. Now I am going to return with Denzo and Goemon to native country. My wrong doing is not to be excused but I believe good will come out of this changing world, and that we will meet again. The gold and silver I left and also my clothing please use for useful purposes. My books and stationary please divide among my friends.

John Mung

この時点で、万次郎はこの程度の英文は書くことが出来た。

もうひとつは万次郎が日本に帰国して、やがて幕府直参に取り立てられた頃に高知の母と兄に宛てて書き送った手紙である。このときほとんど誤字がないことを著者も指摘しておられる。

一筆啓上仕候。向寒御座候処、母上様初御機嫌克可被御座目出度奉存候。随而私儀無異儀相勤居候間少も御気遣被成間敷候。当月六日碁厚御公儀御呼出し之筈ニ相成、弐人扶持弐拾俵被下置、小普請格被仰付候へ共、御屋敷御詮議中を以、引蘢り居申候。何も気遣之義無御座候。尚、母上様を御せわ可被成候。追々委敷義申上候。扨、米少し、金子壱両高智へ相頼指立候間、参着次第御請取被成候ハヽ受取書御越可被下候。江戸ハ彼是あめりか用(風)ニ相成申候。度々御状被下度候。此節之御見廻申上度如此御座候。尚、期重便候。恐惶謹言。
   十一月十三日     萬次郎
母上様
時蔵様

漂流する前は、万次郎は漁村の無学な少年である。寺子屋にさえ行ったことはなかった。帰国して短期間のうちに猛勉強をしたものだろうか。このとき万次郎は27歳。帰国したのが24歳だからたかだか三年たらずで候文の手紙が書けるようになったわけだ。

最後に面白いエピソードをひとつ。
49ersといえば、いまはNFLのサンフランシスコのチーム名だが、もともとはゴールドラッシュで西部に流れ込んだ人々を指す言葉である。(1848年1月にサクラメント山中の製材所の小川で金が発見されたことが報じられると(屈んでものを拾うことを厭わない人なら誰でも億万長者になれる!)アメリカ東部は言うに及ばず、世界中から人々が殺到した。現地でのラッシュのはじまりが1849年であった)じつは、万次郎は日本への帰国の資金をつくるために、この「黄金狂時代」の山師の一人となっていたのでありますね。ゴールドラッシュのときに東部から西部へ行くルートは、大陸横断ルート、船でパナマまで行きパナマ地峡を踏破し太平洋側をまた船でサンフランシスコまで行くルート、ケープホーン経由ですべて船で行くルートの三つがあった。船乗りとなった万次郎は最後のルートをとったらしい。
本書に、船は「入港したら乗り棄てるつもりであったので」残念ながら万次郎の乗ったスティグリッツ号の入港登録の記録は発見できていない、という記述があって、なんか変な気がしたら、この当時、49ersはサンフランシスコまで辿り着くと、港に船を棄てちゃったんだそうです。つまり乗り捨ては文字どおりの意味なんですね。自転車の乗り捨てじゃあるまいしと思うが、この放置された船が記録では526隻あったいうから驚く。
万次郎はそこからサクラメントへ入り、あらくれ山師に立ち混じって(そのときは二挺拳銃で完全武装していたというからかなり性根が入っていますな)、見事600ドルばかりのカネをつくって下山した。これが日本帰国の元手となりました。
いやはや、世の中にはすごい人はやはりいるもんです。

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2005/08/18

神は細部に『のだめカンタービレ』

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うわさの『のだめカンタービレ』二ノ宮知子(講談社コミックスkiss)をどれどれと手に取ってみたら、あんまり面白くて、とりあえず今出ている12巻まで一気読み。
どうもみんな、こういうかたちでハマるらしいなあ。
この漫画、もちろん「たははは」と気楽に笑って楽しめばそれでいいのだけれど、巻末の「Special thanks」の頁を見ると、小道具として使った譜面でも、それが正しく描かれているかどうかちゃんとチェックする係の人がいるらしく、ずいぶん手がかかっている。大半の読者は譜面なんか読めないわけだから、ストーリーだけを追うならば、でたらめなスコアで、雰囲気だけつくればいいようなものだが、そういう細部にこだわるところが受けているのだと思う。
たとえば、第1巻のはじめの方で、千秋がピアノの指導教官江藤先生と衝突する場面で、床に総譜が落ちて広がるシーンがある。なんでピアノ科のおまえが総譜(指揮者用の全部の音部をまとめたスコア)なんか持っとんのや、という重要な場面だが、さほど大きなコマでもなく、よく目をこらさないと五線譜もよく見えない。ところが、これはメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の第3楽章なんだそうです。
じつは「のだめ」に出てくる音楽を一覧表にして解説したサイトがあるのですね。【のだめカンタービレ クラシック作品辞典】
これをみると、だいたい1巻に15曲くらいの音楽(まあ、クラシックばかりでもないけど)が登場していることがわかる。ユニークな(変人ぞろいの)キャラも立っているけれど、この漫画、じつは音楽そのものが主人公という前代未聞の作品なのであります。

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2005/08/17

ハリー・ポッター第6巻はベストのひとつ

ハリー・ポッターの第6巻『Harry Potter and the Half-Blood Prince』J.K.Rowling(Scholastic/2005)を読み終えた。
このシリーズは周知のように各巻がハリーの誕生日前の夏から始まり(かれの誕生日は7月31日、ホグワーツ魔法魔術学校の新学期は毎年9月1日である)、そして1学年が終わって子供たちが帰省する6月の第3週で終わるようにできている。したがって、今回ハリーは冒頭で16歳を迎え、6年生に進級したことになる。

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シリーズものというのはたとえば映画「フーテンの寅さん」のように、きまったパターンというものがあって、もちろんこれがマンネリにつながりもするのだが、ハマッた人にはこれがないとものたりないということになる。寅さんで言えば、毎回、せっかく柴又に帰ってきた寅さんが馬鹿なことをしでかしてまたおいちゃんの店を飛び出していくというのがオープニングのお約束。そういえばハリポタも毎回叔父さんの家からオハナシが始まるな。

ホグワーツ魔法魔術学校の課業や行事も毎年変わることはない。
新学期早々の9月第2週からはじまるクィディッチの寮代表選手選抜。ハローウィンのお祭りが10月末。週末のホグズミードでの息抜きは本当に楽しそうだ。クィディッチの最初の寮対抗試合が始まるのは11月。そして12月は前期が終わりクリスマス休暇に入る。ハリーは例年通りウィズリー一家とともに過ごすことになる筈だ。1月、生徒たちが学校に戻り、やがて2月のイースター休暇。3月1日はロンの誕生日。春の訪れる美しい4月はたいていおだやかに過ぎ、5月の終わりにクィディッチの最終戦で優勝チームが決定すると、6月からはとうとう試験が始まる。そして終業式、生徒たちはホグワーツ特急でキングズクロス駅の「Platform Nine and Three Quarters」に向けて出発する。
これが基本的なハリー・ポッター世界の「歳時記」で、本書まで続いている。(注)うつくしく閉じた世界。いつまでもどこまでも続いてほしいと願いながら、読者はそれがかなわない夢であることを知っている。子供から大人になるまでの時間が、はかなく過ぎて二度と戻ってこないことを悲しいまでにわれわれは知っているから……

本書に限ったことではないが、このシリーズは物語の中身にふれることがむつかしい。とくに今回は最終巻となるはずの次回作の前編のような位置づけでもあり、どんなストーリーなのかちょっとしたヒントだけでも読者の楽しみを奪う恐れがあるような気がする。だから、中身の話はいっさいなしだ。ただひとつ、わたしの見るところでは、これまでの6作のなかでも、おそらくベストのひとつではないかと思う。
ああ、いよいよラストが待ち遠しい。

(注)正確には続かない部分があり、もしかしたらこの「歳時記」は次回はどうなるかわからない。ただしこれ以上は書けません。

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2005/08/16

阿房ノ頂上、議員ト為ル

むかし花田清輝の『いろはにほへと』を読んでいたら、こんな一節があった。

尾崎行雄がはじめて代議士になったとき、日ごろ、小言ばかりいっている先生の福沢諭吉のところを訪問しました。たぶん先生も、こんどは、少しくらい、ほめてくれるだろうと、内心期待していたのですが、福沢諭吉は、おめでとうともなんともいわず、そばにあった筆をとって、つぎのような詩をかいて弟子に与えたということです。

   道楽の発端、有志と称す
   馬鹿の骨頂、議員と為る
   売りつくす、先祖伝来の田
   かち得たり、一年八百円

当時、代議士の歳費は八百円でした。

この夏、中津の福沢旧邸を訪ねたら、隣接の資料館に同じような書き付けが展示されていた。

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文面は微妙に違うようだ。

  道楽ノ発端有志ト稱シ
  阿房ノ頂上議員ト為ル
  累代ノ田畑賣飛バシ去ッテ
  貰ヒ得タリ一年八百圓

   題ス田舎議員

最後の名前らしきところは判読できない。どなたかにご教示いただければ幸いであります。これが花田清輝のいう書き付けなんでしょうか。

堀江貴文くん、フジテレビ株売り飛ばし去って、阿呆の頂上の議員となるもまたよきかな。

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2005/08/10

仁平勝と水中花

仁平勝さんの『俳句のモダン』(五柳書院/2002)を読んでいたら、こんな箇所があった。

ついでだからいってしまうと、近代的な自我の表現なるものは、俳句でも昨今はあまりはやらない。今日の俳人たちは、おそらく近代的な自我を主張することに疲れてきて、全体的な傾向としてはあきらかに、虚子や立子に代表される世界にまたもどりつつある。白状すれば、わたし自身もその例外ではない。p.203
本書は、角川の「俳句」の1998年3月号から2000年3月号までの連載を単行本にしたものだ。ここのところはなかなか重要な意味を持っているようにわたしは思う。2002年の「水中花」問題に対して、仁平勝さんは坪内稔典さんとともに、櫂未知子さんの抗議に対して冷淡(あるいは批判的)であったけれど、その立場はおそらくこういう考え方がベースにあったのかなと思う。「近代的な自我を主張する」ということと、表現者として譲れない部分を主張するということは、微妙に違うような気はするけれど、おそらくあの問題がおこったときに、あえて火中の栗を拾う、(というか問題をさらにややこしくする)動機は、このような俳句観に基づくものだったのではないかなあ。わたしは水中花問題に関しては、抗議は当然だと思っている。そのことが近代的な自我の主張と同列で「疲れるよな、実際」とはまったく思わない。むしろ、そういう文脈に、あの騒動をおくのは、ちょっとずるい気がするな。ただし、冒頭の仁平さんの書いておられることにたいしては異論はない。そうだよな、と共感する。
(「水中花」問題が何のことかわからない方は【ここ】を参照してください)

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2005/08/08

背教者ミゲルの生涯(承前)

一昨日の続き。『千々石ミゲルの墓石発見』

四少年のひとり千々石ミゲルの人生は、ほかの三使節と比較して、あまりにもドラマチックである。遣欧使節正使として華々しい経歴で彩られた前半生とイエズス会脱会後の転落と苦悶の後半生、その「明」と「暗」にはっきり分けられる人生は、いまも多くの人々の関心を惹きつけてやまない。p.44
天正遣欧使節が長崎に帰着したのは天正18年(1590)、およそ8年半にもおよぶ長い旅だった。出発のとき十二、三歳だった少年たちもいまや立派な青年貴族である。四人が旅立った天正10年(1582)には、本能寺の変がおこっている。すでに天下は秀吉のものとなっていた。信長の時代とは異なり(注1)秀吉はバテレンに対しては、猜疑心を抱いていた。とくに九州平定は天下統一の総仕上げだから、九州の諸大名とバテレンの関係には神経をとがらせていたはずである。天正15年(1587)には、遣欧使節を送り出した大村純忠と大友宗麟が相次いでなくなった。この年に秀吉はキリスト教宣教師追放令を発している。高山右近の追放や京都と大阪の南蛮寺の破壊はこのときのこと。時代はキリシタン禁制へ大きく傾きつつあった。

帰国の翌年、天正16年(1588)、四人は巡察師ヴァリニャーノとともに聚楽第の関白秀吉に謁見した。じつは、ヴァリニャーノはインド管区長としてゴアでかれらを迎えているのだが(ゴアでもこの再会は街をあげての大事件となった)、この職を他の司教に譲ってかつての教え子たちとふたたび日本へ赴いたのでありますね。いや、まったくすごい行動力であります。信心には勝てん。
今回ヴァリニャーノはイエズス会の神父としてではなく、インド副王メネーゼスの使節として親書を奉呈するという名目の来日であったが、もちろんそれは表向きの話で、秀吉にキリシタン禁制を解くように依頼するのが目的であっただろう。しかし、それは成功しなかったばかりか、秀吉はミゲルの出自を執拗に訊くことで、ますます九州の諸大名とバテレンの関係を疑うようになった。

千々石ミゲルは島原半島の出身である。現在の地名は南高来郡千々石町。生年は不明だがおそらく1570年頃と推定される。秀吉が執拗に問いただしたという出自は有馬氏に関することである。
ここで右の系図を参照してもらいたい。
有馬一族は一番上の晴純(1483-1566)の代に肥前国内で勢力を拡大した。しかし晴純自身はキリシタンを弾圧したようだ。(『日本歴史人物辞典』の記述による)この晴純の直系の孫が有馬晴信(1561-1612)であり、晴純の子供が最初のキリシタン大名大村純忠(1533-1587)である。それぞれイエズス会の記録では有馬の王ドン・プロタジオ晴信、大村の王ドン・バルトロメウ純忠と記される。言うまでもなく、天正遣欧使節としてミゲルを名代に立てたのがこのふたりの領主。さて、この晴純にはもうひとり息子がいてこれを千々石直員(のうかず)といい、この人物こそがミゲルの父親である。この人もキリシタンで洗礼名をジョアンという。この千々石直員は——

ミゲル誕生の翌年、佐賀の龍造寺氏の攻撃を受けて自刃、ほかの兄弟も戦死したため、(注2)ミゲルは母一人子一人の不遇な家庭に育った。
大村藩の史料によると、彼が四歳になったとき、故あって乳母に抱きかかえられて大村に来たと記されている。なぜ千々石を離れることになったのかその理由はわからないが、母ではなく乳母に抱えられて来たという表現から考えると、「来た」というよりも大村を頼って「逃れてきた」というのが実態に近いように思われる。一家に何らかのさし迫った事情が起こったのだろうか。この一文は、いかにもミゲルの後半生を暗示しているようで興味深い。p.44

四人の使節は無事役目を終え、全員が天草コレジオのイエズス会に入会し、司祭をめざして勉強することになる。ただ、ミゲルだけが10年後にイエズス会を脱会、還俗し名を千々石清左衛門(せいざえもん)と改め、妻帯し子を設けた。1610年頃に成立した『伴天連記』には「伴天連を少しうらむる子細ありて寺を出る」と記されているという。
千々石ミゲルはキリシタン側からみれば背教者であり、裏切り者であり宗旨の大敵である。しかし、キリシタン禁制の流れの中で、同じくキリスト教を棄教し弾圧に乗り出した大村藩の初代藩主、大村喜前(よしあき)——大村純忠の子供なのでミゲルにとっては従兄弟にあたる——からも、命を狙われるような目にあい、ここを逃れてさらに頼って行った、これまた従兄弟の有馬晴信のもとでも(ここは大村とは反対にキリシタンの保護区のようなものだから)憎い背教者めということでやはり瀕死の重傷を負わされたという。かつてローマ教皇の抱擁と接吻を受けた栄光の人物は、いまやキリシタンからも反キリシタンからも逃げ惑う故郷喪失者、その名を口にすることもはばかられるタブーのような人間になったのである。しかし、それでもミゲルは「なかなか枯れない雑草であった」。ミゲルに関する最後の記録は、1622年頃の『ルセナ回想録』にこのように記されているという。「噂によれば前と同じく異教徒、あるいは異端者として長崎に住んでいる」。これを最後にミゲル千々石清左衛門の足取りは消える。いつどこで死んだのか、どんな晩年であったのか、すべて謎だったのである。

ということで、いよいよ、千々石ミゲルの墓石発見のオハナシに入っていくのであるが、もちろん、ここから先は読書の楽しみをスポイルすることになるので内容は書きません。ただ、映画の予告編のような真似をすると、こんな感じかな。

ミゲルの四男、千々石玄蕃の墓だという言い伝えのあった墓石はなぜその両親、すなわちミゲルとその妻のものだと断定できたのか。
その墓を先祖代々、大切に供養を続けてきた井出さんという方が語った先祖の不思議な言い伝えとは。
墓に刻された「妙法」という銘は法華宗の様式である。ミゲルは日蓮宗に改宗したのか。
天草の乱が鎮圧されてから約八ヶ月後、マカオのマノエル・ディアス司祭がイエズス総長にあてた書簡より。
《有馬のキリシタンはキリシタンであるが為に殿から受ける暴虐に耐え切れず、十八歳の青年を長に選んで領主に反乱を起こしました。その青年は昔ローマへ行った四人の日本人の一人ドン・ミゲールの息子であると言われています。彼らは城塞のようなものを造ってそこに立てこもりました》

いや歴史というのはホント最高の道楽でありますね。




(注)

  1. 拾い読みの『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』若桑みどり(集英社/2003)にこんな記述がある。「朝廷が信長を倒そうと考えるには、ただ政治的に圧迫されたというだけでは根拠が弱い。もっと朝廷の力を脅かすような恐ろしいことを信長がやろうとしていたから、朝廷を中心とする既存勢力が一致して信長打倒のシナリオを書いたのだと考えた方がいい。考えられるのは、馬揃えで信長が最高の賓客としたのが朝廷ではなくて宣教師ヴァリニャーノだったということからもわかるような、信長のキリスト教保護政策であり、決定的だったのが、総見寺参拝事件である。キリスト教の導入も、信長教も、どちらも、伝統的な宗教の構造と、その上にのっている朝廷の考える神聖な国家のかたちを破壊するものであった。」
  2. 本題とは関係ないことなのだが、野呂邦暢の『落城記』がたしか龍造寺一族に滅ぼされる一家の物語であったと記憶する。残念ながら例によって、本が手元にないので、確かめることができない。どなたか、この物語と千々石が関係があるのかないのか、ご教示いただけるとありがたい。

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2005/08/07

背教者ミゲルの生涯

『千々石ミゲルの墓石発見』大石一久(長崎文献社/2005)はたいへん面白い本だった。

千々石(ちぢわ)ミゲルは天正10年(1582)に長崎を出航した天正遣欧使節の一人。
天正遣欧使節は、ご存知の通り、九州のキリシタン大名、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠が、ローマ教皇への恭順を示すために、自分たちの名代として、四人の少年をヨーロッパに派遣したもの。正使は伊東マンショと千々石ミゲル、副使は中浦ジュリアン、原マルチノの計四名であった。

「主よ見そなわせ、ローマから遥か遠く、世界の果ての日本という国まで、われらカトリックの威光は及んでおりますぞ」てなノリで、教皇はじめヨーロッパのカトリック世界をあっと言わせようと言うことではなかっただろうか、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノという人物が実際はこれを企み実現させた。当然、こんな世界の果てにカトリックに改宗させるに足りる優れた民族が存在していることを、実物を通して強烈にアッピールする必要があったわけで、おそらくこの少年たちは眉目秀麗、頭脳明晰、家柄最良のベスト・アンド・ブライテストであったことは間違いない。実際、当時のヨーロッパ最強の君主フェリペ二世の謁見を皮切りに、ふたりの教皇(1585年にグレゴリオ十三世に謁見するのですが、この興奮のせいかどうか知らないが、謁見の数日後にこの教皇が死んでしまったので、次の教皇シスト五世にも謁見を賜っているのですね)の謁見も大成功で、当時のヨーロッパ中の記録文書にこの天正遣欧使節のことは最大級の出来事として記録された。なにしろ、グレゴリオ十三世のときは教皇個人の謁見ではなく、全枢機卿が参列していたし、シスト五世のときは謁見だけにとどまらず、サンピエトロ大聖堂の戴冠式のミサ聖祭で、教皇の手に水を注ぐ大役を仰せつかった。ヴァチカン宮殿のシスト五世の間にはそのときの少年使節が馬上にあり長い随行の模様が天井絵としていまも残る。そのときの行列の長さは3キロにも及んだとか。
それから270年後の安政5年(1859)、日英修好通商条約締結のため来日したイギリスの特使エルギン伯(以前記事を書きました、ここ)の紀行において、この天正少年使節の事績がふれられていることでもそれは証しされる。残念ながら、そののちキリシタン禁制やなにやかやで、日本ではすっかりかれらのことは忘れ去られていたのだが。

さて、本書はそういう世界史的な栄光に一度は包まれた、千々石ミゲルの帰国後の半生を、ひとつの墓石を手がかりに追って行く──

続きは、また明日。(たぶん)

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2005/08/03

本屋がいちばん売りたい本

『本の雑誌』増刊号「本屋大賞2005」をぱらぱらと眺めて、おやおや、と思った。

「本屋大賞」は全国の書店員が「いちばん!売りたい本」を選ぶ賞として、二〇〇四年の四月に誕生した。書店員が「読んでよかった」「もっと売りたい」と思った本を選んで投票し、その集計結果のみで大賞が決定する仕組みで、新刊書店に勤務する書店員(含むアルバイト、パート書店員)なら誰でも投票資格を有する、かつてない開かれた賞である。

昨年の第1回目の受賞が小川洋子さんの『博士の愛した数式』(新潮社)で、受賞後に30万部を超えるベストセラーになったというから、はじまったばかりの賞にしては影響力は大きい。なにより、書店の皆さんが自分たちがオススメの本だという意識があるので、売り場を工夫して平積みにしたり、店頭の手書きのPOPで販売促進をしたりするのだろうか。

第一次投票ベスト30という表から10位まで、書名と著者名を転記してみる。

 1 夜のピクニック(恩田陸)
 2 家守奇譚(梨木香歩)
 3 袋小路の男(絲山秋子)
 4 チルドレン(伊坂幸太郎)
 5 明日の記憶(荻原浩)
 6 私が語りはじめた彼は(三浦しおん)
 7 犯人に告ぐ(雫井脩介)
 8 黄金旋風(飯島和一)
 9 対岸の彼女(角田光代)
10 そのときは彼によろしく(市川拓司)

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「おやおや」と思ったのは受賞した本について多少なりとも不満があるとか、意外だったとかいうようなことでは全然ない。
じつは恥ずかしながらベストテンの中に読んでいた本が一冊もなかったのである。それどころか、ベスト30の中で、わたしが読んでいたのは、たった一冊、26位の『アフターダーク』(村上春樹)だけだったのだ。いやそれを言えば、そもそもこのベスト30のラインナップのなかで名前を知っている作家はわずかに6人だけである。具体的にあげれば恩田陸(しかしわたしはこの人はいままで男と思っていた。インタビューの写真を見る限りでは女性ですよね?)、角田光代、舞城王太郎、原りょう、矢作俊彦、村上春樹の6人。さらにこのうち読んだことがあるのは原さんと村上さんだけ。(笑)あとの24人は、申し訳ないが、あんた誰、てなもんである。(もちろんわたしにとっては、という意味)

結局、わたしは新刊書をほとんど読まないヒトであった。読む本はほとんどが図書館の本なので、こういうことになるんだろうなあ。といっても、いまさら態度を改めようとはまったく思わないけどさ。

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2005/08/02

イモリの黒焼、カワウソはいらんかね

高津の宮(祭神は仁徳天皇)の舞台の傍を、坂に随ひて西に下りたる南側に、古くより住みて、獣類虫類など、種々の黒焼を商ふ店あり、世に高津の黒焼屋として其名高し、商ふ中に居守の黒焼最も能く売れ行くと云へり、如何なる疾病に効能あるものにや
『大阪繁盛誌』宇田川文海編(1898)

まだ「イモリの金玉、数いくつ」の決着を見ないので(笑)(ここ)、イモリの本などぱらぱら見ていたら、大阪の高津(こうづ)に有名ないもりの黒焼屋があったということを発見。高津というのは賑やかな道頓堀からもほど近い街中だが、ここの高津西坂の下に二軒の黒焼屋があって商売を競っていたらしい。

元祖本家黒焼屋の津田黒焼舗と一切黒焼屋の高津黒焼惣本家鳥谷市兵衛本舗の二軒が隣合せに並んでいて、どちらが元祖かちょっとわからぬが、とにかくどちらもいもりをはじめとして、虎足、縞蛇、ばい、蠑螺(さざえ)、山蟹、猪肝、蝉脱皮、泥亀頭、鼹手(もぐら)牛歯、蓮根、茄子、桃、南天賓などの黒焼を売っているのだ。
『大阪発見』織田作之助

このイモリの黒焼の製法と使用方法はいかなるものかと言いますと——、

「さ、ただのいもりを黒焼きにしたって、効くもんやない。ほんとうのいもりの黒焼きなら効く」
「ホントのいもりの黒焼きて、どんなもんでんねん」
「これは交尾しているいもりを使うねん。その最中のヤツを、無理やり左右に引き離して、別々に素焼きのつぼに入れて、これを蒸し焼きにする。焼き上げてからふたを取ると、山一つ越えてでも、その煙が一緒になるというぐらい、いもりというのは淫欲の強いもんや。その焼き上げたオスのいもりの粉を、自分につけて、メスのを相手にふりかける。そうした時に、初めて効くねん。ただのいもりの黒焼きをふりかけたかて、効くもんちゃうねん」
「ははあ、なるほど。そんなん、どこで売ってまっしゃろ」
「高津の黒焼き屋へ行て、ホンマのいもりの黒焼きをくれと言うたら、ちょっと高いかもしれんけど。これなら効き目がある」
『米朝ばなし——上方落語地図』

そら効くかもしれんが、そんな酷いことをして、むしろ、わたしはいもりの祟りの方が恐いような気がするぞ。(笑) (そういえば、いま読んでる『HARRY POTTER AND THE HALF-BLOOD PRINCE』にも、ラブ・ポーションが出てくるな。ネタバレになるからくわしいことは書けないけれど。)

ところがおかしいのがこの黒焼屋があるところの高津西坂の名前。現在は「くの字」にふたくだりの坂なんだが、当時は三つくだりと半分、つまり「みくだりはん」だったので、人々はこれを「縁切り坂」「離縁坂」と呼び、女たちは此処を通ることを避けたとか。まあ明治中期にいまのように改修して相合坂と名付けるのだが、どっちにしても黒焼屋のロケーションを意識しているような気がするなあ。(笑)

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さて、この高津の黒焼屋ですが、写真の「摂津名所図絵」の二枚の絵のちょうど真ん中あたりにご注目。なんとこれ、カワウソでありますよ、みなさん。写真にリンクしているFlickrに飛んで、どうぞ拡大画面(写真の上辺にある「ALL SIZES」をクリック)で確かめてくださいませ。
清水雅洋さんの『本心 小説「石門心学」』(文芸社)に、江戸時代の人が薬食いとしてカワウソを好んで食べていたと書いてあったが、こういう店で売っていたんですねえ。なんちゅうことをすんねん、まったく。まあ、むかしはカワウソは立派な害獣なんでしょうけど、それにしたってねえ。(笑)

以上、本日のネタはすべて『イモリと山椒魚の博物誌』碓井益雄(工作舍/1993)の拾い読みから。

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2005/08/01

7月に読んだ本

『ヴェネツィアで消えた男』パトリシア・ハイスミス/富永和子訳(扶桑社ミステリー/1997)
『攝津幸彦全句集』(沖積舎/1997)
『お役者文七捕物暦 比丘尼御殿』横溝正史(徳間文庫/2002)
『「わからない」という方法』橋本治(集英社新書/2001)
『ちぐはぐな部品』星新一(角川文庫/1995)
『桃尻語訳 枕草子・上』橋本治(河出書房新社/1987)
『俳人はぎ女』福田俳句同好会・編(桂書房/2005)
『イスラーム主義とは何か』大塚和夫(岩波新書/2004)
『OUT OF AFRICA』Isak Dinesen (The Modern Library)
『俳句をつくろう』仁平勝(講談社現代新書/2000)
『波郷句自解 無用のことながら』石田波郷(梁塵文庫/2003)
『石川忠久中西進の漢詩歓談』(大修館書店/2004)
『大庭みな子全詩集』(めるくまーる/2005)
『地中海1環境の役割』フェルナン・ブローデル/浜名優美訳(藤原書店/1991)

(内容の一部を再読)
『ヨーロッパとイスラーム──共生は可能か』内藤正典(岩波新書/2004)

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7月に観た映画

黙秘(原題:DOLORES CLAIBORNE)
監督:テイラー・ハックフォード
出演:キャシー・ベイツ、ジェニファー・ジェイソン・リー、クリストファー・プラマー

幸せになるためのイタリア語講座
監督:ロネ・シェルフィグ
出演:アンダース・W・ベアテルセン、ピーター・ガンツェラー、ラース・コールンド、アン・エレオノーラ・ヨーゲンセン、アネッテ・ストゥーベルベック、サラ・インドリオ・イェンセン

トリコロール/青の愛
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
出演:ジュリエット・ビノシュ、ブノワ・レジャン、フロランス・ペルネル、エマニュエル・リバ

トリコロール/白の愛
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
出演: ズビグニエフ・ザマホフスキー、ジュリー・デルピー、ヤヌシュ・ガヨス

トリコロール/赤の愛
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
出演:イレーヌ・ジャコブ、ジャン=ルイ・トランティニャン

ボーン・スプレマシー
監督: ポール・グリーングラス
出演: マット・デイモン、ジョーン・アレン、ブライアン・コックス、ジュリア・スタイルズ、 カール・アーバン

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