背教者ミゲルの生涯
『千々石ミゲルの墓石発見』大石一久(長崎文献社/2005)はたいへん面白い本だった。
千々石(ちぢわ)ミゲルは天正10年(1582)に長崎を出航した天正遣欧使節の一人。
天正遣欧使節は、ご存知の通り、九州のキリシタン大名、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠が、ローマ教皇への恭順を示すために、自分たちの名代として、四人の少年をヨーロッパに派遣したもの。正使は伊東マンショと千々石ミゲル、副使は中浦ジュリアン、原マルチノの計四名であった。
「主よ見そなわせ、ローマから遥か遠く、世界の果ての日本という国まで、われらカトリックの威光は及んでおりますぞ」てなノリで、教皇はじめヨーロッパのカトリック世界をあっと言わせようと言うことではなかっただろうか、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノという人物が実際はこれを企み実現させた。当然、こんな世界の果てにカトリックに改宗させるに足りる優れた民族が存在していることを、実物を通して強烈にアッピールする必要があったわけで、おそらくこの少年たちは眉目秀麗、頭脳明晰、家柄最良のベスト・アンド・ブライテストであったことは間違いない。実際、当時のヨーロッパ最強の君主フェリペ二世の謁見を皮切りに、ふたりの教皇(1585年にグレゴリオ十三世に謁見するのですが、この興奮のせいかどうか知らないが、謁見の数日後にこの教皇が死んでしまったので、次の教皇シスト五世にも謁見を賜っているのですね)の謁見も大成功で、当時のヨーロッパ中の記録文書にこの天正遣欧使節のことは最大級の出来事として記録された。なにしろ、グレゴリオ十三世のときは教皇個人の謁見ではなく、全枢機卿が参列していたし、シスト五世のときは謁見だけにとどまらず、サンピエトロ大聖堂の戴冠式のミサ聖祭で、教皇の手に水を注ぐ大役を仰せつかった。ヴァチカン宮殿のシスト五世の間にはそのときの少年使節が馬上にあり長い随行の模様が天井絵としていまも残る。そのときの行列の長さは3キロにも及んだとか。
それから270年後の安政5年(1859)、日英修好通商条約締結のため来日したイギリスの特使エルギン伯(以前記事を書きました、ここ)の紀行において、この天正少年使節の事績がふれられていることでもそれは証しされる。残念ながら、そののちキリシタン禁制やなにやかやで、日本ではすっかりかれらのことは忘れ去られていたのだが。
さて、本書はそういう世界史的な栄光に一度は包まれた、千々石ミゲルの帰国後の半生を、ひとつの墓石を手がかりに追って行く──
続きは、また明日。(たぶん)
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