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2005/08/08

背教者ミゲルの生涯(承前)

一昨日の続き。『千々石ミゲルの墓石発見』

四少年のひとり千々石ミゲルの人生は、ほかの三使節と比較して、あまりにもドラマチックである。遣欧使節正使として華々しい経歴で彩られた前半生とイエズス会脱会後の転落と苦悶の後半生、その「明」と「暗」にはっきり分けられる人生は、いまも多くの人々の関心を惹きつけてやまない。p.44
天正遣欧使節が長崎に帰着したのは天正18年(1590)、およそ8年半にもおよぶ長い旅だった。出発のとき十二、三歳だった少年たちもいまや立派な青年貴族である。四人が旅立った天正10年(1582)には、本能寺の変がおこっている。すでに天下は秀吉のものとなっていた。信長の時代とは異なり(注1)秀吉はバテレンに対しては、猜疑心を抱いていた。とくに九州平定は天下統一の総仕上げだから、九州の諸大名とバテレンの関係には神経をとがらせていたはずである。天正15年(1587)には、遣欧使節を送り出した大村純忠と大友宗麟が相次いでなくなった。この年に秀吉はキリスト教宣教師追放令を発している。高山右近の追放や京都と大阪の南蛮寺の破壊はこのときのこと。時代はキリシタン禁制へ大きく傾きつつあった。

帰国の翌年、天正16年(1588)、四人は巡察師ヴァリニャーノとともに聚楽第の関白秀吉に謁見した。じつは、ヴァリニャーノはインド管区長としてゴアでかれらを迎えているのだが(ゴアでもこの再会は街をあげての大事件となった)、この職を他の司教に譲ってかつての教え子たちとふたたび日本へ赴いたのでありますね。いや、まったくすごい行動力であります。信心には勝てん。
今回ヴァリニャーノはイエズス会の神父としてではなく、インド副王メネーゼスの使節として親書を奉呈するという名目の来日であったが、もちろんそれは表向きの話で、秀吉にキリシタン禁制を解くように依頼するのが目的であっただろう。しかし、それは成功しなかったばかりか、秀吉はミゲルの出自を執拗に訊くことで、ますます九州の諸大名とバテレンの関係を疑うようになった。

千々石ミゲルは島原半島の出身である。現在の地名は南高来郡千々石町。生年は不明だがおそらく1570年頃と推定される。秀吉が執拗に問いただしたという出自は有馬氏に関することである。
ここで右の系図を参照してもらいたい。
有馬一族は一番上の晴純(1483-1566)の代に肥前国内で勢力を拡大した。しかし晴純自身はキリシタンを弾圧したようだ。(『日本歴史人物辞典』の記述による)この晴純の直系の孫が有馬晴信(1561-1612)であり、晴純の子供が最初のキリシタン大名大村純忠(1533-1587)である。それぞれイエズス会の記録では有馬の王ドン・プロタジオ晴信、大村の王ドン・バルトロメウ純忠と記される。言うまでもなく、天正遣欧使節としてミゲルを名代に立てたのがこのふたりの領主。さて、この晴純にはもうひとり息子がいてこれを千々石直員(のうかず)といい、この人物こそがミゲルの父親である。この人もキリシタンで洗礼名をジョアンという。この千々石直員は——

ミゲル誕生の翌年、佐賀の龍造寺氏の攻撃を受けて自刃、ほかの兄弟も戦死したため、(注2)ミゲルは母一人子一人の不遇な家庭に育った。
大村藩の史料によると、彼が四歳になったとき、故あって乳母に抱きかかえられて大村に来たと記されている。なぜ千々石を離れることになったのかその理由はわからないが、母ではなく乳母に抱えられて来たという表現から考えると、「来た」というよりも大村を頼って「逃れてきた」というのが実態に近いように思われる。一家に何らかのさし迫った事情が起こったのだろうか。この一文は、いかにもミゲルの後半生を暗示しているようで興味深い。p.44

四人の使節は無事役目を終え、全員が天草コレジオのイエズス会に入会し、司祭をめざして勉強することになる。ただ、ミゲルだけが10年後にイエズス会を脱会、還俗し名を千々石清左衛門(せいざえもん)と改め、妻帯し子を設けた。1610年頃に成立した『伴天連記』には「伴天連を少しうらむる子細ありて寺を出る」と記されているという。
千々石ミゲルはキリシタン側からみれば背教者であり、裏切り者であり宗旨の大敵である。しかし、キリシタン禁制の流れの中で、同じくキリスト教を棄教し弾圧に乗り出した大村藩の初代藩主、大村喜前(よしあき)——大村純忠の子供なのでミゲルにとっては従兄弟にあたる——からも、命を狙われるような目にあい、ここを逃れてさらに頼って行った、これまた従兄弟の有馬晴信のもとでも(ここは大村とは反対にキリシタンの保護区のようなものだから)憎い背教者めということでやはり瀕死の重傷を負わされたという。かつてローマ教皇の抱擁と接吻を受けた栄光の人物は、いまやキリシタンからも反キリシタンからも逃げ惑う故郷喪失者、その名を口にすることもはばかられるタブーのような人間になったのである。しかし、それでもミゲルは「なかなか枯れない雑草であった」。ミゲルに関する最後の記録は、1622年頃の『ルセナ回想録』にこのように記されているという。「噂によれば前と同じく異教徒、あるいは異端者として長崎に住んでいる」。これを最後にミゲル千々石清左衛門の足取りは消える。いつどこで死んだのか、どんな晩年であったのか、すべて謎だったのである。

ということで、いよいよ、千々石ミゲルの墓石発見のオハナシに入っていくのであるが、もちろん、ここから先は読書の楽しみをスポイルすることになるので内容は書きません。ただ、映画の予告編のような真似をすると、こんな感じかな。

ミゲルの四男、千々石玄蕃の墓だという言い伝えのあった墓石はなぜその両親、すなわちミゲルとその妻のものだと断定できたのか。
その墓を先祖代々、大切に供養を続けてきた井出さんという方が語った先祖の不思議な言い伝えとは。
墓に刻された「妙法」という銘は法華宗の様式である。ミゲルは日蓮宗に改宗したのか。
天草の乱が鎮圧されてから約八ヶ月後、マカオのマノエル・ディアス司祭がイエズス総長にあてた書簡より。
《有馬のキリシタンはキリシタンであるが為に殿から受ける暴虐に耐え切れず、十八歳の青年を長に選んで領主に反乱を起こしました。その青年は昔ローマへ行った四人の日本人の一人ドン・ミゲールの息子であると言われています。彼らは城塞のようなものを造ってそこに立てこもりました》

いや歴史というのはホント最高の道楽でありますね。




(注)

  1. 拾い読みの『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』若桑みどり(集英社/2003)にこんな記述がある。「朝廷が信長を倒そうと考えるには、ただ政治的に圧迫されたというだけでは根拠が弱い。もっと朝廷の力を脅かすような恐ろしいことを信長がやろうとしていたから、朝廷を中心とする既存勢力が一致して信長打倒のシナリオを書いたのだと考えた方がいい。考えられるのは、馬揃えで信長が最高の賓客としたのが朝廷ではなくて宣教師ヴァリニャーノだったということからもわかるような、信長のキリスト教保護政策であり、決定的だったのが、総見寺参拝事件である。キリスト教の導入も、信長教も、どちらも、伝統的な宗教の構造と、その上にのっている朝廷の考える神聖な国家のかたちを破壊するものであった。」
  2. 本題とは関係ないことなのだが、野呂邦暢の『落城記』がたしか龍造寺一族に滅ぼされる一家の物語であったと記憶する。残念ながら例によって、本が手元にないので、確かめることができない。どなたか、この物語と千々石が関係があるのかないのか、ご教示いただけるとありがたい。

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コメント

トラックバックありがとうございます(遅ればせながら・・・)。
大変興味深い本ですね。でも、地方の出版社のようなので、レアものでしょうか・・・。
墓を訪ねて行きたいものですね。

投稿: 某子 | 2005/09/28 17:48

あ、コメントどうもありがとうございます。
本自体はアマゾンやbk1でも扱っているようですが、街の書店ではちょっと見つからないかも知れませんね。わたしは、図書館で借りて読みましたが。

投稿: かわうそ亭 | 2005/09/28 19:28

昨日、雲仙普賢岳登山に行ってきました。その後、温泉に入り、島原城に行きました。
島原城の2Fはキリシタン関係の展示となっておりました。
多数の殉教者の説明があり、2005年にローマ法王から福者の称号を得られたという記事がありました。
私が感じたのは、惨い拷問にも迫害にも島原の農民が信教を捨てなかった理由は何だったのだろうという事でした。
島原の乱の時の農民の訴状に、有馬様から松倉様に統治が移ってからの30数年、心が安堵する事なしという記述も見られました。
当時、幸薄い農民が宣教師より天子様も将軍様もお殿様も、同じ人間であり、神の下では平等である。そなたたちの苦難は云々といった信仰の理由がつづられていました。
そして天正少年使節のコーナーがあったのですが、千々石ミゲルだけが他の三人と区別され名前のタグが黒色に加工されていました。
一農民でさえ、棄教せず信仰をまっとうしたのに、何故、正使のミゲルが棄教したのだろうという疑問が城内で湧きました。
島原の乱後、島原半島の信者は全て殺され、新たに大村、諫早あたりから新しい仏教徒の農民がつれてこられたのに対し、天草ではまだまだ切支丹が残っていて、隠れ切支丹となるが、宣教師も指導者もない中、独自に異教化していったという記述が興味深かったです。

投稿: セッチ | 2012/05/09 13:53

セッチさま
コメントをありがとうございました。そうですか、千々石ミゲルの名札はやはり区別されているんですか。面白いですね。
しかし、ヴァチカンを見た少年が、日本に帰って、どんなことを思い、どんな生涯を送ったのか、想像力をかきたてられます。

投稿: かわうそ亭 | 2012/05/10 08:27

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