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2005/08/31

アメリカの反知性主義

『アメリカの反知性主義』リチャード・ホーフスタッター/田村哲夫訳(みすず書房/2003)を読み終えた。
本書は1964年のピュリッツァー賞受賞作品である。かなり浩瀚な本なので、一口に要約することはむつかしいのだが、たいへん面白い。以下、メモとして。

まず著者は、知能と知性について、その質的な違いを人々がどのように考えているかを明らかにする。

だれも知能の価値を疑わない。知能は理想的特性として世界中で尊重されており、知能が並外れて高いと思われる個人は深く尊敬される。知能の高い人はつねに称賛を浴びる。これに対して高い知性をもつ人は、ときには——とくに知性が知能をともなうと考えられるときは——称賛されるが、憎悪と疑惑の目を向けられることも多い。信頼できない。不必要、非道徳的、破壊的といわれるのは知性の人であって、知能の高い人ではない。P.21
このあたりはたとえば、知能にあたるのが智慧であり、知性にあたるのが知識だと考えるとわたしたちにもなじみのある世間の見方だろう。学者なんてものは、いくら知識があってもいざというときには役に立たないものだ。本など読んだことがなくとも真に智慧のある人こそ最後には、われわれがその運命を託すに値する賢者なのだ。あるいは、「論語」になじみのある人ならば「子の曰く、君子は小知すべからずして、大受すべし。小人は大受すべからずして、小知すべし」(衛霊公第十五34)が思い浮かぶかもしれない。解釈が分かれるようだが、岩波文庫の金谷治訳をとりあえずあげておく。「君子は小さい仕事には用いられないが、大きい仕事をまかせられる。小人は大きい仕事をまかせられないが、小さい仕事には用いられる」

さて本書の切り口は大きく分けると四つある。福音主義、民主政治、実業界、教育現場についてである。
それぞれ、ああそうだったのか、と思うような知見に満ちているが、とりあえず福音主義について。
ここで説明されるアメリカの宗教の発展過については、じつは実感としてはよくわからない。著者によれば、メソディスト、バプティスト、長老派の三教派が支配的になって行った(P78)ということだが、そのほかにもプロテスタントにはさまざまな教派がひしめきあっているし、それぞれがどのように違うのかが具体的な人物や言説としてイメージできないからだ。しかし、わたしにとってのここの箇所が面白かったとすれば(本書の中でもここはかなり読み応えがある)、それはスティーヴン・キングやロバート・マキャモンなどの小説によく登場する邪悪な巡回福音伝道者のご先祖に出会えるところだろう。(あまり質のいい読者とはいえないなあ)激しいパーフォーマンスで天国か地獄かの選択を聴衆に迫り、熱狂的で集団ヒステリーのような信仰復興をになって行ったこれらの説教師群像はやはり不気味だ。

ところが根本主義の精神はまるで異質な存在だ。本質的にマニ教的思想をもつ彼らは、世界を絶対善と絶対悪の戦場と見なし、妥協を軽蔑し(彼らの見方に立てば、たしかにサタンとの妥協はありえない)、いかなるあいまいさも許さない。P.117

しかし、娯楽小説のワルモノと同じように彼らをみるのが正しい見方だというわけでもない。歴史的な役割として、彼らが無法と混沌の地域に文明の灯を点していたという側面もたしかにあるようだ。

本書をきちんと紹介するためには、まだかなりの言葉をつらねる必要がありそうだが、まあ、それはわたしの手に余るということで、勘弁していただこう。

この本は内田樹さんと平川克美さんの『東京ファイティング・キッズ』でも(ここ)とりあげられていたが、直接には7月に『教養主義の没落』竹内洋(中公新書)に対するコメント(ここ)のなかで俄然坊さんから一読を勧められたものである。おっしゃるとおりたいへん読み応えがあり、目を開かされるいい本でした。感謝いたします。

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コメント

かわうそ亭さま

お忙しい中を、思いのほか早い機会にホーフスタッター『アメリカの反知性主義』をお読みいただき、またまた適格な書評をご披露いただき、有り難うございました。
この本が1963年に書かれたこと、その考証のスタートがアイゼンハワーとスティーヴンソンの大統領選挙や「赤狩り」の時代で、さらにその時代を歴史を遡って明らかにしていることに、驚いた記憶があります。まさに今の時代、ブッシュが大統領になるアメリカを予言しているようです。
時節柄、私も福音主義の反知性主義というくだりを、一番興味深く読みました。
日本では内村鑑三、新島譲、新渡戸稲造など、福音主義のキリスト教徒(教会によらないキリスト者)こそ知性主義の中核にあったはずで、日米のこの違いは、それ自体面白いテーマです。
知能(智慧)と知性(知識)の違いについては、私は同じ『論語』でもむしろ、「学びて思はざれば罔く、思ひて学ばざれば殆ふし」の方を思い出しました。勿論「学ぶ」のは知性(知識)で、「思う」の智慧のなすわざです。
日本では智慧は主に知識の上に成り立つと考え、しかし知識でとどまっていては十分ではないと、教えられてきたような気がします。(勿論、無学文盲の知恵者が居ることは認め、それは尊敬されてきましたが)
明治以来、近代化という大きな使命を担った大学もまずは知識を求め、それを消化して智慧にまで高めることが究極の目的とされていました。
学生時代にアメリカ史の故N教授が講義で(と言えば分かってしまうでしょうが)、「俺の友人に、コペルニクスの名前のスペルにPはいくつあったかを研究して、学位を取った奴がいる。馬鹿な奴だ。そんなことは歴史に何の関係もない」と言ったので、この人にはちょっと付いてゆけないなと感じたのを思い出しました。学問というのはそういう、一見つまらぬ知識の積み上げの先にあると思っていたからです。これがアメリカ史の教授の言葉だったのが、いま考えると面白い。
選挙で絶叫している議員候補たちも一応「思ひ」はあるのでしょうが、そのうちどれだけが「思ひて学ぶ」ことを実践していることか、よく見極めたいと思いますが。

我善坊

投稿: 我善坊 | 2005/09/01 23:56

我善坊さま 丁寧なコメントをありがとうございました。
日本では内村鑑三、新島譲、新渡戸稲造といった人々こそ知性主義の中核にあったはずだというご指摘は、なるほどと思いました。じつはわたしも、この福音主義のところで神谷美恵子さんのことをちらっと思い浮かべました。生涯の親友である浦口真左に出会い、医学を志し、重要な人格形成をしたと思われる時期に神谷が過ごしたのが、フィラデルフィアのクエー力ー教徒の学寮ペンドル・ヒルでしたから。
「日本では智慧は主に知識の上に成り立つと考え、しかし知識でとどまっていては十分ではないと、教えられてきた」というのも、深く頷かざるをえないご説明です。たいへんいいヒントを与えていただき感謝しています。
ところでアメリカ史のN教授の講義のエピソード、面白いですね。わたしも、ご意見に同感です。いかに小さな積み上げであろうとも、そうやって、知はその視界を広げてきたのではないかと思います。
「思而不學則殆」まこと、論語は味わい深いですね。

投稿: かわうそ亭 | 2005/09/02 23:10

かわうそ亭さん、「教養」については、何時もこちらに伺う事になります。

「社会の小児化」も、世界的にホットな話題と思います。毎日の時事に幾つも可笑しな現象を見出す時、「教養」は真っ先に思い浮かぶ言葉でもあります。

「原理主義のアンチテーゼ」 [ 文化一般 ] / 2005-09-25のコメントで紹介させて頂きました。

投稿: pfaelzerwein | 2005/09/28 20:31

pfaelzerwein さん 「原理主義のアンチテーゼ」拝見致しました。日本のアニメ、アメリカのアニメというのは、あまり考えてみたことがなかったのですが、ちょっと面白い切り口があるかもしれませんね。ご紹介、どうもありがとうございます。

投稿: かわうそ亭 | 2005/09/29 22:00

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