« 背教者ミゲルの生涯(承前) | トップページ | 阿房ノ頂上、議員ト為ル »

2005/08/10

仁平勝と水中花

仁平勝さんの『俳句のモダン』(五柳書院/2002)を読んでいたら、こんな箇所があった。

ついでだからいってしまうと、近代的な自我の表現なるものは、俳句でも昨今はあまりはやらない。今日の俳人たちは、おそらく近代的な自我を主張することに疲れてきて、全体的な傾向としてはあきらかに、虚子や立子に代表される世界にまたもどりつつある。白状すれば、わたし自身もその例外ではない。p.203
本書は、角川の「俳句」の1998年3月号から2000年3月号までの連載を単行本にしたものだ。ここのところはなかなか重要な意味を持っているようにわたしは思う。2002年の「水中花」問題に対して、仁平勝さんは坪内稔典さんとともに、櫂未知子さんの抗議に対して冷淡(あるいは批判的)であったけれど、その立場はおそらくこういう考え方がベースにあったのかなと思う。「近代的な自我を主張する」ということと、表現者として譲れない部分を主張するということは、微妙に違うような気はするけれど、おそらくあの問題がおこったときに、あえて火中の栗を拾う、(というか問題をさらにややこしくする)動機は、このような俳句観に基づくものだったのではないかなあ。わたしは水中花問題に関しては、抗議は当然だと思っている。そのことが近代的な自我の主張と同列で「疲れるよな、実際」とはまったく思わない。むしろ、そういう文脈に、あの騒動をおくのは、ちょっとずるい気がするな。ただし、冒頭の仁平さんの書いておられることにたいしては異論はない。そうだよな、と共感する。
(「水中花」問題が何のことかわからない方は【ここ】を参照してください)

|

« 背教者ミゲルの生涯(承前) | トップページ | 阿房ノ頂上、議員ト為ル »

d)俳句」カテゴリの記事

コメント

先日は迅速なメールご対応をありがとうございました。「時々一句」の7月、5月のお作から三句紹介させていただきました。
ところで、「水中花」問題は恥ずかしながら知らなかったのでリンク先を読ませてもらったんですが、面白い!(と言ってはいけないかな。ごめんなさい。)私もこの執筆者の方に賛成。かわうそ亭さんのおっしゃる「抗議は当然」のご意見に同じです。福田和也はある著書で「抑圧は一見良心的な表現を装ってやってくる」と書いていましたが実にその通りだと思う。

投稿: hebakudan | 2005/08/12 17:36

いまそちらのコメントに書き込んで参りました。遅くなりまして、申し訳ありません。どうもありがとうございました。
抑圧といえば、とにかく、右でも左でもすぐに翼賛会が幅を利かすようなご時世ですから、「いや、わたしはそれは違うと思う」ときちんと言うべきことは言いたいものでありますね。

投稿: かわうそ亭 | 2005/08/16 19:09

 読みました。水中花問題の「ここ」はNot Foundでした。後で自ら関連検索をしようと思います。そうですね、私の少ない知見によれば櫂未知子さんと言う俳人は結構クリティカルな俳人の様で、稲畑汀子さんに噛み付いたりといろいろあるようです。仁平勝さんは名前しか知らなかったのでその一端を知る事が出来て良かったです。「水中花問題」をよく知ってからまたコメントするかもしれません。

投稿: らまさ | 2012/04/15 17:05

こんにちわ。リンク先はたしか藤原龍一郎さんだったと思いますが、すでにウェブ上から消えてしまっているいるようですね。
すでに見つけておられるかもしれませんが、以下の島田牙城さんの「剽窃考」でも「事件」の経緯はよくわかると思います。

http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/hyousetu.htm

投稿: かわうそ亭 | 2012/04/16 08:57

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 仁平勝と水中花:

« 背教者ミゲルの生涯(承前) | トップページ | 阿房ノ頂上、議員ト為ル »