宗教と科学
死に消えてひろごる君や夏の空 三橋敏雄
冬麗の微塵となりて去らむとす 相馬遷子
photo: Voodoo Zebra on Flickr
今日の朝日新聞に梅原猛さんが「二種廻向と親鸞」というエッセイを書いておられる。(「反時代的密語」)
悪人正機説より、親鸞の思想で重要なのは二種廻向(えこう)である。称名念仏によって極楽浄土へ旅立つ「往相廻向(おうそうえこう)」と、極楽浄土から、衆生救済の為にまたふたたびこの世に生まれ帰る「還相廻向(げんそうえこう)」。ゲノムというのは、まさにこれではないか、という内容だ。
この見解は15年以上も前に『誤解された歎異抄』梅原猛(光文社/1990)で、述べておられたものとほぼ同じように見えるが、今回のエッセイでは、次のような結語が印象に残る。
悪人正機説に甘える近代真宗学には、永遠性の自覚と利他行の実践の思想が欠如しているように思われる。二種廻向の説を中心として近代を超える真宗学を樹立することが切に望まれる。自分のアーカイブから古いもの引き出してくるのはいささか気がひけるが、これに関連した文章をふたつばかり再録しておきたい。
かわうそ亭読書日記2004年6月6日(日)の条
『われわれはなぜ死ぬのか—死の生命科学』柳沢桂子(草思社/1997)を読む。著者の本を読むのはこれがはじめて。生命にとって死は必要なものか、という問いは素人にとっては不思議なものに思える。生命に終わりがあるのは当たり前だと教えられてきたからだ。
しかし、原初に誕生した生命というシステムにはかならずしも死という機構は必要ではなかったのかも知れない。
ただし、死という機構をもったシステムだったからこそ生命は不死のまま36億年の時間旅行をいまも続けている。分子レベル、細胞レベルの死の仕組みによって生命は形態をもつことができ、個体レベルの死の仕組みによって生命は時間を超えて自己を伝えていくことができる。死と生命はそういう意味で同じものである。
しかし、われわれが普通に考える死はそういうものではない。われわれが考えるのはあくまで自分という意識の死である。ほかならぬこの私が死んで全宇宙のなかに存在しなくなることが死ぬということだと考える。ここをどう受けとめるかというのは、やはりむつかしい。
この日記に反応してくださった方の掲示板の書き込みに対する返事の一部。
ビッグバン宇宙論が説くように、もしいまこの宇宙に存在するすべてのモノが、われわれのこの宇宙の始まりのその瞬間に一点に凝縮していたとするなら、「わたし」というこの意識ももとをたどれば始源の宇宙の卵のなかにすでにあったのでしょうか。この宇宙に在るすべてのものは「使いまわし」だとすれば、「わたし」は死んでもまた別の形で「使われる」のでしょうか。往相回向と還相回向というのを、ぼくは勝手にそういう風に理解しているんですけれどね。
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