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2005/09/07

樋口一葉とモンゴメリー

『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』田中優子(集英社新書/2004)は、変わった題名だなあ、と思いながら読み始めたのだが、これはたいへん面白いだけでなく、これまでにない樋口一葉像をわたしたちの前に立ち上がらせてくれた、いい評論だと思う。
ところで、本書のなかに、著者が教えている大学生たちが、むつかしくてわかんない、しょうがないので現代語訳を読んじゃった、なんて言う声が紹介されていた。えっ、樋口一葉の現代語訳なんてあるのか、と思わずのけぞったが、ネットで調べてみるとたしかにあるね。
現代語訳樋口一葉「十三夜 他」藤沢周/阿部和重/篠原一訳(河出書房新社)
【ここ】
「パンク派新人三人が翻訳」と書いてある。ま、いいけど。

それで、思ったのだが、先日書いた『赤毛のアン』のモンゴメリーと、樋口一葉はじつは似たような年回りである。モンゴメリーは1874年生まれ、一葉は1872年生まれ。一葉の『たけくらべ』が発表されたのは1895年、「文学界」の連載だった。『赤毛のアン』の出版は1908年。
作品の舞台を見て行くと、11歳のアンがグリーンゲーブルズにやって来たのは、だいたい1882年前後と思われ(注)、14歳(たぶん数え年)の美登利が少女から大人になるのは、作品発表当時と同じ1885年のあたりだと思われる。
要は、『赤毛のアン』と『たけくらべ』は同時代の作品というわけだ。
このふたつの作品とも、テクスト全文がネットで入手できる。こころみに、それぞれの冒頭を並べてみる——

Mrs. Rachel Lynde lived just where the Avonlea main road dipped down into a little hollow, fringed with alders and ladies' eardrops and traversed by a brook that had its source away back in the woods of the old Cuthbert place; it was reputed to be an intricate, headlong brook in its earlier course through those woods, with dark secrets of pool and cascade; but by the time it reached Lynde's Hollow it was a quiet, well-conducted little stream, for not even a brook could run past Mrs. Rachel Lynde's door without due regard for decency and decorum;  .......

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし(以下略)

どちらも、長いセンテンスなので途中で切ったけれど、たしかに樋口一葉の方は現代語訳の余地があるかも知れないなあ。(しかし、近代文学専攻ならちゃんど原文読めよ、大学生(笑))そこへ行くと、英語と言うのは、いま読んでも(多少言い回しがまわりくどいが)基本的には変わらない。

(注)
『アンの夢の家』では、総選挙で自由党が18年間ぶりに保守党から政権を奪ったことになっている。カナダはたしかに1878年から1896年まで保守党が政権を握っていた。この『アンの夢の家』の最初のところで、マリラが昔を回想して、「アンがグリーン・ゲイブルズにやって来たのは14年前だった」と語っている。ここから計算すると、アンがアボンリーに来たのは1882年となり、彼女の生年は1871年となる。ただし、これに矛盾する時代背景もあって(たとえば、アンとダイアナがミス・バリーの家に泊まり込みで出かけたシャーロットタウンでの共進会だが、これががひらかれるようになったのは1890年という考証もある)、モンゴメリーは必ずしも時代背景を厳格につくってはいないようだ。

以上は『赤毛のアン A to Z』奥田実紀(東洋書林/2001)より。

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コメント

河出文庫の現代語訳買いましたがまったく読んでいません。
現代語訳でも、一葉の「語り的文語」――「雅俗折衷体」というのが正式なのかも知れませんが、むしろ文語体での一葉的「言文一致」だと思うのですがいかがでしょう――で上手に省略された部分は補えないですね。
(円地文子さんの訳?は、いいです。)

近年、男性の書いたすぐれた一葉論がないのはなぜ・・・。

投稿: かぐら川 | 2005/09/12 02:17

へえ円地文子訳の『たけくらべ』もあるんですね。
『たけくらべ・山椒太夫 少年少女日本文学館』講談社 ; ISBN: 4061882511
少年少女文学館ですか。ふーん。
男性の書いた一葉論と言えば、美登利がはじめて大人の髪型である島田に結った日にうち沈んでいたのは、初潮があった日だろうという説と、いや吉原の遊女としてはじめての客がついた「水揚げ」があった日だろうという説があり、男性は(わたしもはじめて読んだときからそうに違いないと思いましたが)たぶん「水揚げ説」が説得的だと思うような気がします。これに対して田中優子さんは、それはどっちだっていいのよ、と言います。「いやあ、それって結構重大な問題じゃないの」とはじめはわたしなんかは思ったのですけれど、本書を読むとたしかに田中さんのおっしゃることにも一理ある気がします。まあ、このあたりが、一葉をめぐる男女の微妙な差になるのでしょうか。

投稿: かわうそ亭 | 2005/09/12 23:40

 拙文へのTBとコメント、ありがとうございました。面白く読んでいただけて何よりです。田中優子さんの本はまだ読んでいないのですが、今度ぜひ読んでみます。
 水揚げ=初店説の側の大きな欠点については、拙文で書いたとおりです。
 この欠点を克服するため、佐多稲子さんは「秘密の初店」といった新解釈を持ち出していますが、ちょっと強引すぎる気がします。何か別の有効な解釈がありましたら、ぜひご教示ください。  

投稿: 小林信也 | 2006/01/21 01:40

こんにちわ。コメントありがとうございます。
いや、幸か不幸か、花柳界の粋なしきたりに詳しくなる機会がないので、解釈というほどのものは持ち合わせておりませんが(笑)、ああいうことは、楽しみというよりむしろ旦那衆としての義務だったのではないかと思っております。

投稿: かわうそ亭 | 2006/01/21 21:09

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