この世は悲哀の海だもの
たとえば、あなたが句会に出て「口笛を吹けば港の夜霧かな」なんてのを(冗談ではなく本気で)出句したとする。なるほど十七音の韻律だし、季語も「夜霧」(秋)と入っている。しかし、まともな句会なら、これは見向きもされないだろう。逆選を設けている句会なら「こんなもの」と集中攻撃を受けてしまうに違いない。
一体どこがまずいのか。
もしわたしが逆選の理由を言えと指名されたなら、たった一言「歌謡曲」と吐き棄てるだろう。
手垢まみれの俗臭ぷんぷんたる愚作でオリジナリティのかけらもない貧相な俳句もどき、というニュアンスが「歌謡曲」の一言にこめられるのであります。(われながらひどいこと言うなあ(笑))
しかし、よくよく考えてみると、なにもここまで歌謡曲を軽蔑しなくてもいいじゃないかという気がしないでもない。
『街のサンドイッチマン―作詞家宮川哲夫の夢』辻由美(筑摩書房/2005)を読みながら、歌謡曲も案外いいものだなとふと思った。
名句、名歌と称される短詩でも、その詩に自分の気持を託したり、疲れたこころを癒したり、すさんだ気持を慰めたりするために、ときにその詩を愛唱するという人が何百万、何千万人もいるとはあまり思えない。
しかし、大ヒットを飛ばしたような歌謡曲はこの条件を軽くクリアする。
宮川哲夫作詞の「街のサンドイッチマン」や「ガード下の靴みがき」の歌をリアルタイムで聞いたような世代ではないわたしでも、これらの歌は歌うことができる。カラオケで上司が歌えば、あわせて歌うことだってできないわけではない。(歌わないけど)
「街のサンドイッチマン」の二番の歌詞を引いてみよう。
嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく
サラリーマンを長くやっていて、この歌詞にほろりとこない者はいないだろう。もともと、この歌ボツになるところを鶴田浩二が拾い上げ、B面で世に出た。発売元のビクターもヒットするなんて思ってもみなかった。曲をつけてやった吉田正でさえ、すっかり忘れていた。あるとき仕事仲間と新橋の雀荘に行ったとき隣の卓のサラリーマンたちが鼻歌で歌っていることに気づいた。大ヒットはそれから間もなくだった。
ちなみに、このサンドイッチマンにはモデルがいる。
高橋健二という人物だ。連合艦隊司令長官・高橋三吉海軍大将の息子だという。三吉はA級戦犯で巣鴨に収監されたが、のちに岸信介や児玉誉士夫などとともに釈放された。銀座をサンドイッチマンでながす海軍大将の息子を見て、かれを知る人は嘆息したという。
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『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド/中野恵津子訳(新潮社/2005)の最後のあたりを夜の電車で読んでいた。これまでも、通勤電車の中で本を読んでいて、目頭が熱くなり、あわてて吊り広告に目をやって涙がこぼれるのを必死で堪える(いい年をしたおっさんが電車の中でぼろぼろ泣いていたんじゃみっともないからね)なんて経験は数え切れないが、今回はまいった。
『川の司祭 十二の塔の物語』池内紀(マガジンハウス/1999)は装幀が洒落ている。ちょっと変わったサイズだが、あるいはドイツなどにはこういう版型があるのかも知れない。文字の印刷は濃いめの茶色で統一されている。副題のとおり十二の短編からなっているが、すべて同じ中欧の街の物語で、登場する人々も微妙に重なり合う。池内さんご自身が翻訳したベーツァ・カネッティの『黄色い街』(法政大学出版局/1999)の様式を借りたものだろう。登場人物の性格付けにもどこか通じるものがある。

『CDブック声で楽しむ「平家物語」名場面』鈴木まどか(講談社/2004)を聴いている。著者および演奏者である鈴木さんは1969年生まれと若い方だが、前田流平家詞曲相伝である。

















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