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2005年10月

2005/10/29

この世は悲哀の海だもの

たとえば、あなたが句会に出て「口笛を吹けば港の夜霧かな」なんてのを(冗談ではなく本気で)出句したとする。なるほど十七音の韻律だし、季語も「夜霧」(秋)と入っている。しかし、まともな句会なら、これは見向きもされないだろう。逆選を設けている句会なら「こんなもの」と集中攻撃を受けてしまうに違いない。

一体どこがまずいのか。

もしわたしが逆選の理由を言えと指名されたなら、たった一言「歌謡曲」と吐き棄てるだろう。
手垢まみれの俗臭ぷんぷんたる愚作でオリジナリティのかけらもない貧相な俳句もどき、というニュアンスが「歌謡曲」の一言にこめられるのであります。(われながらひどいこと言うなあ(笑))
しかし、よくよく考えてみると、なにもここまで歌謡曲を軽蔑しなくてもいいじゃないかという気がしないでもない。

『街のサンドイッチマン―作詞家宮川哲夫の夢』辻由美(筑摩書房/2005)を読みながら、歌謡曲も案外いいものだなとふと思った。

名句、名歌と称される短詩でも、その詩に自分の気持を託したり、疲れたこころを癒したり、すさんだ気持を慰めたりするために、ときにその詩を愛唱するという人が何百万、何千万人もいるとはあまり思えない。
しかし、大ヒットを飛ばしたような歌謡曲はこの条件を軽くクリアする。
宮川哲夫作詞の「街のサンドイッチマン」や「ガード下の靴みがき」の歌をリアルタイムで聞いたような世代ではないわたしでも、これらの歌は歌うことができる。カラオケで上司が歌えば、あわせて歌うことだってできないわけではない。(歌わないけど)
「街のサンドイッチマン」の二番の歌詞を引いてみよう。

  嘆きは誰でも 知っている
  この世は悲哀の 海だもの
  泣いちゃいけない 男だよ
  サンドイッチマン サンドイッチマン
  俺らは街の お道化者
  今日もプラカード 抱いてゆく

サラリーマンを長くやっていて、この歌詞にほろりとこない者はいないだろう。もともと、この歌ボツになるところを鶴田浩二が拾い上げ、B面で世に出た。発売元のビクターもヒットするなんて思ってもみなかった。曲をつけてやった吉田正でさえ、すっかり忘れていた。あるとき仕事仲間と新橋の雀荘に行ったとき隣の卓のサラリーマンたちが鼻歌で歌っていることに気づいた。大ヒットはそれから間もなくだった。
ちなみに、このサンドイッチマンにはモデルがいる。
高橋健二という人物だ。連合艦隊司令長官・高橋三吉海軍大将の息子だという。三吉はA級戦犯で巣鴨に収監されたが、のちに岸信介や児玉誉士夫などとともに釈放された。銀座をサンドイッチマンでながす海軍大将の息子を見て、かれを知る人は嘆息したという。

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2005/10/28

英語でよむ万葉集

『英語でよむ万葉集』リービ英雄(岩波新書/2004)を夢中で読んだ。
いったいこの歌をどう英語に置き換えることができるというのだろう、そんなことは不可能だと思いながら、次に英訳を読んでみると、見事な英詩になっている。もちろん、英語の微妙なニュアンスを味わうほどの力はわたしにはないけれど、英訳によって、いいなあこれ、というのがたくさんあって心底驚いた。
また、細かい事だが、いままで万葉集の詞書というのがどうも邪魔なものに思えてならなかったのだが、この英訳を読むと、詞書がじつに生き生きとして、重要なものであることがわかる。あるいは歌を詠んだ人の身分の表記などが日本語と英語ではずいぶん感じが異なる。
例をあげよう。「太宰少弐小野老朝臣(だざいのせうに/をののおゆの/あそみ)」の英訳は"Ono Oyu, the Vice-Commander of the Dazaifu" となる。どうだろう、案外、英語から受ける印象の方が正解なのかもしれないと思わないだろうか。

どの訳も素晴らしいものだが、とくに印象に残ったたものを三つだけ書きとめておきたい。本書にならって、まず日本語を、つぎに英訳をならべてみよう。

沙弥満誓の歌一首

世の中を 何物に譬へむ 朝びらき 漕ぎ去にし船の 跡無きごとし


Poem by Priest Mansei

To what shall I compare
      this life?
the way a boat
rowed out from the morning harbor
  leaves no traces on the sea. 



上宮聖徳皇子の、竹原井に出遊しし時に、龍田山の死人を見て悲傷して御作りたまひし歌一首

家ならば 妹が手巻かむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ


Poem by Prince Kamitsumiya Shotoku, written in his grief when he found the body of a dead man on Tatuta Mountain during his processin to Takaharanoi

If he were home
he would be pillowed
in his wife's arms,
but here on a journey
he lies with grass for pillow---
traveler, alas!



男子、名古日を恋ひし歌三首より

‥‥漸々に 形崩ほり 朝な朝な 云ふこと止み 霊きはる 命絶えぬれ 立ち踊り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 吾が子飛ばしつ 世間の道


from Poems longing for his son Firuhi

....Time slowly
ravaged his features,
morning after morning
he spoke less and less
until his life,
     that swelled with spirit,
            stopped.
In frenzied grief
I leaped and danced,
I stamped and screamed,
I groveled to the earth
and glared at heaven,
I beat my breast and wailed.
I have let fly the child
I held in my hands.
This is the way of the world!

最後の歌は山上憶良の愛児への挽歌(万葉集巻5/904)だ。「吾が子飛ばしつ」"I have let fly the child"のところで涙がこみ上げてくる。

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2005/10/27

高野素十のでんぐりがえり

ああ、つまらん日本シリーズ。(笑)
ということで、今日の話は野球と俳句の話。

「野球の命名者は子規──というのはガセ」と、先日「トリビアの泉」でやっていた。まあ、実際はガセというほどのことでもない。子規という人はたくさんの雅号をつくった人で、その号のひとつに「野球」というのがあり、これは自分の名前の升(のぼる)にかけて「のボール」と洒落ていたのであります。つまり子規の「野球」は単なる号で、ベースボールの訳語として「野球」を提唱したわけではないから、これを使うと、緒川たまきちゃんに「ウ・ソ・つ・き」と言ってもらえるらしい。
いいなあ(笑)

でも、子規が野球を好んでいたのは事実であるから、野球という号にかれがベースボールの意味をかけていなかったとはかぎらない。なにも中馬某にそこまで義理立てすることもあるまい。野球の命名者は、すなおに正岡子規でいいんじゃないかとわたしは思う。

さて、昭和初期の俳壇にホトトギスの四Sというのがある。
水原秋櫻子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝の四人の俳号のイニシャルをとって四S。(これは「しいエス」と読むのだと山本健吉がたしか書いていたように記憶する。「よんエス」と読んでは、おめえ俳句に暗えなと言われるよ)まあ、ホトトギス四天王みたいなものだと思ってください。
この時代の俳人は、十代のころからなんらかのかたちで俳句の手ほどきをうけていることが多いのですが、この四Sの一人である高野素十(すじゅう)は三十くらいまで俳句にはぜんぜん興味のないお方であったようです。

じつは、高野素十(本名/与巳:よしみ1893-1976)は東京大学医学部に新設された三田定則教授の血清化学教室で水原秋櫻子(本名/豊:ゆたか1892-1981)と一緒になるのですが、当時東大の医局は教室毎にチームをつくって野球の対抗戦をやっておりました。で、血清化学教室は、高野素十が投手、水原秋櫻子が捕手というバッテリーを組んだのであります。(トーナメントで優勝した)
すなわち、ふたりは野球選手であったのです。

秋櫻子は、はじめ短歌を窪田空穂に、のちに俳句を松根東洋城の「渋柿」(そのころの俳号は水原静夏といいます)に学び、やがてこれにあきたらず虚子の「ホトトギス」に移って新進作家として注目を浴びるようになった人でした。
これに対して、高野素十の方は、非常な秀才でやんちゃなスポーツマンといったタイプだったようですね。お前ら俳諧なんかやってるから空気がしめっぽくなるんだ。さあ、野球やろうぜ。さっさとグラウンドで出た出た。なんてやってたらしい。「お前ら」と素十が言ったのは、秋櫻子の他に緒方春桐という、やはり東洋城系の俳句をやってた男がいたからで、この人がチームの主将、三塁手であった。
ところが、どういう風の吹き回しか、あるときおれにも俳句を教えてくれと秋櫻子に言ってきたから人生は面白い。なにをやらしてもそこそこは出来てしまう秀才の一時の気まぐれかと、秋櫻子は思ったが、意外なことに素十は真剣だった。

素十の「ホトトギス」初出は大正12年(1923)の12月号。この年は9月の関東大震災で俳誌はもちろん多くの出版物が一時的な発行中止を余儀なくされたが、虚子の陣頭指揮のもと、「ホトトギス」は毎号の発行を行った。(このあたりが虚子のすごいところ)
当時、虚子が選をした雑詠欄の清書は、池内たけし(虚子の甥)がやっていたので、その月の巻頭が誰であるか、だれが何句とられているかは、かれが真っ先に知ることになった。秋櫻子は「ホトトギス」が印刷に回される前にたけしからその情報を聞ける立場にいた。すると、驚いたことに、はじめて「ホトトギス」に出句した素十が四句とられているという。当月の順位は、巻頭が大阪の藤田耕雪、ついで秋櫻子、花蓑と続き素十はいきなりの十位である。秋櫻子は耳を疑った。
このあたり、俳句をなさらない方にはいまひとつぴんと来ないだろうが、当時、ホトトギス雑詠欄の上位に名前が出るということは、これはたいへんなことでありまして、多くの俳人がこれに一喜一憂したのであります。そのありさまは、ちょうど天徳歌合で、平兼盛の「しのぶれど」に敗れた「恋すてふ」の壬生忠見が食が細って死んでしまったようなものでしょうか。(笑)

このとき虚子がとった四句は次の通りでした。
 
 せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ   素十
 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
 門入れば竃火見えぬ秋の暮
 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

このうち、「くわらんと」の句は元は「がらんと」であったものを、秋櫻子が直してやったものだと言いますね。

秋櫻子は、素十の家へ駆けつけた。以下は村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)より——

玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、
「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。
「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。
P.210

はは、素十のこういうあたりが、やはり虚子に愛されたのではなかろうか。
のちに秋櫻子は虚子に弓引く奴と嫌われ、素十はホトトギスの客観写生の正しい継承者と認められるが、それはまだまだ先のオハナシ。

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2005/10/25

子規の一夜妻と大正の一茶

病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ
『病牀六尺』冒頭に描かれる子規の自画像だ。 ところでその『病牀六尺』の百四の段にこんな話がある。あるとき孫生と快生という二人の客がやってきて、渡辺さんのお嬢さんがあなたにお目にかかりたいというのでお連れしましたと意外なことを言う。会ってみて子規は一目惚れをする。
そのうち孫生は玄関の方へ出て行て何か呼ぶやうだと思ふと、すぐにその渡辺のお嬢さんといふのを連れて入這つて来た。前からうすうす噂に聞かぬでもなかつたが、固より今逢はうとは少しも予期しなかつたので、その風采なども一目見ると予て想像して居つたよりは遥かに品の善い、それで何となく気の利いて居る、いはば余の理想に近いところの趣を備へて居た。余はこれを見るとから半ば夢中のやうになつて動悸が打つたのやら、脈が高くなつたのやら凡て覚えなかつた。
しばし談笑のあと三人は暇乞いをして帰りかける。子規は病床にありながらどうにも自分の恋着をおさめることができず、孫生を呼び戻して気持ちを明かした。孫生は、ならばお嬢さんだけは今晩あなたの部屋に置いて行きますよ、と承諾し、子規の理想に近い渡辺さんのお嬢さんは一夜を子規と過ごしたのである。
「ええ?」と思うでしょ。
まあ、真相を知っている人は、別に驚かない。 一番最後で、子規はこのお嬢さんの正体をこう明かしているのですね。「お嬢さんの名は南岳艸花画巻」。つまり画であります。「なあんだ」って話。 なお、このあとで、子規はこの画を自分の掌中のものにできたので、ただしくは「一夜妻」ではありませんでした。(笑)

さてここに出てくる孫生と快生という二人の客だが、名前からしてお寺の関係者だろうという想像はつく。なんだか石川淳の小説にでも出てきそうなコンビである。
いま読んでいる村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店/1980)に、このコンビの一人の紹介があった。
PICT0001.JPG
明治末年から大正初年にかけて、新傾向俳句の動きが活発となり、これがやがて自らを守旧派と称して虚子の俳句復帰の決意につながっていくのだが、ちょうどその頃の俳壇に東京は本郷の新緑社という俳句の会があった、というのですね。新緑社は本郷区西片町十番地の斉藤知白の家に中野三允、田山耕村が集まって出来、そこに中山稲青、石川桐芽、山田三子、高田蝶衣、伊東牛歩、来馬胡鏡らが加わって毎月十句集を出したり、句会を開いたりしていた。みな一癖も二癖もあり、「広く俳句会に名を知られたさむらいの集まりだった」とある。

じつはこのなかの伊東牛歩というのが、『病牀六尺』に登場する快生なんだそうです。面白い人だったようでね。以下、『大正俳壇史』より転記。

牛歩は綾瀬正王寺の住職で、子規の「病牀六尺」に「南岳草花画巻」を届けた人として出て来る快生その人で、僧籍にある身ながら、法衣を纏ったまま吉原遊郭を素見して牛太郎をまごつかせたり、牛鍋は俺の名前の共喰いになるからと馬肉を食い、馬肉庵牛歩と名乗ったという逸話があり、大正の一茶ともいわれていた。

こんな句を詠んだ。

見世物の大女は男なりし足袋   牛歩
死ぬる時舌を噛みきる海鼠かな
某月某日河豚に死すと自叙伝を石に
男の子可愛ければ北風の軒にさらしとけ

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2005/10/22

漱石と池田菊苗

『夏目金之助ロンドンに狂せり』末延芳晴(青土社/2004)は、1900年9月8日の横浜出航から1902年12月5日にロンドンを発って帰国の途に着くまで、約2年4ヶ月にわたる漱石の精神的な苦闘をさまざなテキストから克明に追った労作。読む方も、けっこうたいへん。(笑)
「夏目漱石ロンドンに狂せり」ではなく、「夏目金之助ロンドンに狂せり」となっているところに、本書の大きな主題がある。
大雑把に言えば、漱石はロンドンで小説家・夏目漱石を二回「殺した」というのが著者の見立てである。一度目はロンドン塔で幻視したものを文学として表出する衝動を封じ込めたとき、二度目は、自分のほんとうの望みは文学「研究」ではないとはっきり意識しながら、ほとんど狂気と紙一重の引きこもりのなかで、官費留学生として明治国家の負託にこたえるべく「文学論」のノートを完成させたときだという。帰朝後に「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を漱石名義で発表するとほとんど時を同じくして、「帝国文学」(東京帝国大学の学術誌)に『倫敦塔』を夏目金之助名義で発表したことは、一度は自分の手で扼殺した小説家・夏目漱石を再び蘇らせるという意味をもっていた、と著者は言う。

偽善的な自己犠牲や自己中心的な厭世的・傍観者的思想と生活態度の故に、本来のあるべき自己、あるいは自己の根源的欲求を封殺し、あとになってそのことによって受けた傷の深さに気付き、死に物狂いで自己回復を図ろうとする『それから』の代助や『こころ』の先生に見る、自己抹殺と自己回復の奇妙にねじれた葛藤のドラマの原形が、このときの「夏目金之助」と「夏目漱石」の対立葛藤に見ることができるだろう。
ここの分析がおそらく本書の白眉だと思う。(図書館の本だが、以前に借りた人が雑な赤線をこの箇所に引いている。困っちゃうなあ、ここ引用するけど、わたしじゃないよ、こんな阿呆(笑))

しかし、率直に言って、あまりぴんと来ない。

まあ、こういうのはわたしの文体上の趣味の問題にすぎないけれど、テキストを読み抜くことで、なになにはこういう意味であったに違いない、とか、なんとかであったことは間違いないなどという言明(がこの著者にはやたらに多い)は、どうも鬱陶しい。そんなこたあ、本人だってわからんよ、とわたしなんかは不貞腐れて思ってしまう。

だから、本書を読んで面白かったのは、例によってどうでもいい細部である。たとえば、池田菊苗のこと。
漱石はロンドンで五回下宿を移っているが、四番目の下宿、ブレット一家とともにトゥーティング・グレーヴェニーのステラ・ロード二番地の家に引っ越したあとで、化学者の池田菊苗がライプツィッヒからロンドンのロイヤル・アカデミーにやって来て同じ家で暮らすことになる。この池田菊苗という人物を漱石はたいへん高く評価している。

(前略)金之助は下宿人が二人しかいないこともあって池田と盛んに意見を交わし、化学者という枠を超えて広い知識と深い思想を持つ池田に尊敬の念を深めている。すなわち、五月九日の日記に「池田氏ト英文学ノ話ヲナス同氏ハ頗ル多読ノ人ナリ」とあり、十五日には「池田氏ト世界観ノ話、禅学ノ話抔ス氏ヨリ哲学上ノ話ヲ聞ク」、二十日に「夜、池田ト話ス。理想美人ノdescriptionアリ。両人共頗ル精シキ説明ヲナシテ両人現在ノ妻ト此理想美人ヲ比較スルニ殆ンド比較スベカラザル程遠カレリ。大笑ナリ」など、心のコミュニケーションを深めたことがうかがえる。金之助は、池田の人格の高さと学識の深さに畏敬の念を持ったのだろう、九月十二日付けで寺田寅彦に「頗る立派な学者だ」。「大なる頭の学者であるといふ事は慥かである。同氏は僕の友人の中で尊敬すべき人の一人と思ふ。君の事をよく話して置いたから暇があったら是非訪問して話をし給へ。君の専門上其他に大に利益がある事と信ずる」と手紙を書き送っている。(p.425)

ロンドンで漱石は孤独地獄にいたようにわたしなどは思い込んでいたが、短期間だったにせよ、こうして対等で心をゆるせるような人物と友情をもつことがあったというのはなにかほっとするような思いがする。

この池田菊苗(きくなえ)という人は「味の素」の発明者で、調べてみると、この味の素の特許で莫大な資産を築いたようだ。
以下いささか脱線するが、明治、大正期の「おいしい」話。
池田は1908年に「グルタミン酸を主成分とする調味料の製造法」についての特許を申請。これを聞きつけたのが鈴木三郎助という男で、池田と二人で製品化に成功、味の素と名づけて爆発的なヒット商品となる。
のちに特許期限がきれる1922年に、鈴木三郎助(味の素株式会社)は特許期限延長を宮内庁、政界を巻き込んで猛烈におこなったため特許庁はこれをみとめたが、このときに特許権の共有者である池田菊苗の同意が必要だった。このため「味の素」は池田に百万円の一時金と終身の年間十万円の寄付を提供。池田はこれによって悠々自適の研究生活を送ったのだそうな。ちなみに当時の百万円は、現在の価値では約20億円だとか。いいなあ。(笑)
くわしくは、【こちら】を参照。

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2005/10/19

生命の量子論レシピ

最近、松岡正剛さんの千夜千冊で、エルヴィン・シュレディンガーの『生命とは何か』(岩波新書)という本の紹介(第千四十三夜【ここ】)を読んで、ものすごい刺激を受けて、これはなんとしてでも読まなければと思った。ところが、いつも利用している大阪府立中央図書館の蔵書検索では、この本は個人貸出不可の扱いとなっているのだなあ。傷みがひどいとか、貴重な書籍だとか、そういう理由なんだろうけれど、残念だ。
しかし、そういう思いが、引き寄せたのだろうか、なぜかいままで読んだことのなかった「NATURE」(487/06.oct.2005)を手に取ったら、ポール・デイヴィスというオーストラリアの学者のエッセイが目に飛び込んで来た。不思議なこともあるもんだ。タイトルは"A quantum recipe for life"という。
20世紀、もっとも影響力の大きかった物理学の本のひとつはエルヴィン・シュレディンガーが書いたけれど、それは実のところ物理学の本じゃなくて、生命科学の本だったんだよね。かれの連続講義をまとめた『生命とは何か(What is Life?)』がそうなんだ、という具合にエッセイは始まる。

へえ、こういう見方って松岡正剛さんだけじゃないんだな、とびっくりした。(失礼。あまり、信用していなかったことになるな(笑))

内容は、まあわたしが要約すると、とんでもない話になりそうだが、生命の起源というのは、アミノ酸のスープをつくっていろんなガスをフラスコに充満させて、そこに雷を落とすなんて実験(有名なこの実験は1952年なんだって)じゃ、うまくいかないさ。そうじゃなくて、もし生命の起源が情報複製なんだったら、それはまさに量子現象なんだから、60年も前に、シュレディンガーが言ったように、それは複雑な化合物の媒体なんかなくても、冷たい星間物質の原子世界からだって直接発生する。量子論からのアプローチで、人類の最大の謎である生命起源の解明ができるのじゃないかなあ、なんて内容だと思う。(たぶんね)
soup
つまり、このエッセイの題名「生命の量子論レシピ」(でいいのかな)というのは、どうも有機化合物から生命を生み出そうという試みを下手なスープ料理にみたてた皮肉なんだと思う。気の利いたタイトルだよね。

もちろん、わたしはシュレンディンガーなんて「ああネコで有名なヒトね」なんて浅はかな知識しかないのではありますが(笑)、直感として、量子論的な「ゆらぎ」によって無から宇宙が生まれたということと、生命のない物質から生命が生まれたということは、もしかしたらなにか関係があるのではないかしら、なんて気がしないでもない。このあたりを数学的にきちんとフォローできるアタマがあったら、老後も退屈しないんだろうなあ。うらやましいや。

photo by striatic on Flickr. thanks for sharing.

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2005/10/18

小池光と靖国神社

たまたま靖国神社のことには違いないのだが、昨日の総理参拝とはまったく関係のない話。
「短歌」10月号の「大特集 小池光」をぱらぱらと読んでいたら、島田修三さんの「遊就館逍遥のことなど」という文章が目にとまった。なんだか意外な二人の一面(といっても短歌の好きな方には周知のことなのかもしれない)を見るようでやたら可笑しかった。
「小池光と初めて会ったのは、十三年前の初夏」だった、と島田さんの文章は始まる。「短歌研究」の座談会で、もうひとり穂村弘さんもいたのだそうだ。座談会が終わったのが土曜の午後の中途半端な時間だったので、小池さんが近くの靖国神社にでも行かないか、とふたりを誘い、人気のない境内を三人でぶらつき、やがて遊就館に入った。遊就館は、かつて帝国陸海軍が実際に使用した兵器を陳列した戦争博物館でもあるが、それらの陳列を見ながら二人が競い合うように互いの軍事知識を披瀝しあう仕儀となったというのだな。しかし、その知識というのがふたりとも、半端ではない。たとえば、島田のこういう蘊蓄を読んでみよう。

小池の歌にはときおり重巡洋艦摩耶が登場するが、同艦型の愛宕は私が子供時分から偏愛する巡洋艦である。ともに昭和十九年十月、レイテ湾突撃に向かう栗田健男中将の指揮下にあって、途上のパラウン島西海域でアメリカの潜水艦に撃沈されている。愛宕と摩耶は、前面がほぼ垂直に屹立した巨大な艦橋をそなえており、高速艦としてのバランスは必ずしも良くなかったらしいが、実に美しいシルエットをもつ巡洋艦である。

まいったね。だから、このふたりが張り合いだすと饒舌をきわめることとなり、ついには乃木・ステッセルのタブローの前で戦前の文部省唱歌「水師営の会見」をふたりで唄い始めたというのであります。「軍神橘中佐」も「広瀬中佐」も唄ったかもしれない、と島田さんは書いているが、そりゃ絶対に唄っているね。
大いに迷惑だったのは穂村だろう。ひねこびた軍国少年まがいのオヤジ二人に、心優しい『シンジケート』の歌人は浮かぬ顔をしながらも辛抱強くつきあってくれた。
三人の年齢を調べてみた。

小池光   昭和22年6月28日生
島田修三  昭和25年8月18日生
穂村弘   昭和37年5月21日生

13年前の初夏なら、たぶん小池四十四歳、島田四十一歳、穂村は三十歳か。なんだ、爆弾でも投げりゃいいのに、ホムホム、けっこういい奴じゃん。(笑)
なんで、このふたりが作風に似つかわしくもない軍事オタクみたいな知識があるのか、島田さんの語るところを聞こう。

(前略)私たちの少年時代の数少ない娯楽だった「冒険王」「少年」などの漫画雑誌には厚紙で組み立てる戦艦大和だの零戦だのの旧日本軍の兵器が毎号のように付録についていたし、プラモデルもまた第二次世界大戦当時の日米英独の機動兵器が主流だった。むろん企画したのは私たちの父たち、つまり戦争でしこたま辛酸をなめさせられた敗兵世代である。戦勝国アメリカの民主主義と平和思想の洗礼真っ最中の伜たちに、どういう料簡でこんなものを与えたのか知らぬが、私たちはそれらを意外にも堪能した。小池や私の兵器好き、戦史好きはこのあたりに端緒があるはずだ。
わたしは島田よりさらに5歳ばかり下になるが、これはじつに、そうそう、そうなんだよね、という分析だなあ。お正月号なんかの、付録でぱんぱんに膨らんだ「少年」を町の本屋さんがスーパーカブで届けてくれるのをどれほど待ちこがれていたことか。(笑)

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2005/10/15

彼方なる歌に耳を澄ませよ

『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド/中野恵津子訳(新潮社/2005)の最後のあたりを夜の電車で読んでいた。これまでも、通勤電車の中で本を読んでいて、目頭が熱くなり、あわてて吊り広告に目をやって涙がこぼれるのを必死で堪える(いい年をしたおっさんが電車の中でぼろぼろ泣いていたんじゃみっともないからね)なんて経験は数え切れないが、今回はまいった。
この本、前日から、比較的、淡々と読み進めてきたのである。以前に読んだ、短編集の『冬の犬』のエピソードを記憶の底からさぐってみたり、あいかわらず地味だけどうまい作家だなあなんてぼんやり思いながら。
ところが、べつに特別な仕掛けがあるわけでもなく、そこだけ取り出せばなんてこともない場面で、一気にそれまでに積み重ねたきたものがはじけた。突然こころが激しく揺り動かされた。涙を堪えるなんてもんじゃない。つきあげてくるエモーショナルなものをどうやって受け止めればいいのか、鳴咽がもれるのをどうやってごまかすか、ほとんどパニックになってしまったのであります。幸いにも、さほど混雑した車内ではなかったので助かったが、これが満員の車内だったら、「号泣オジサン」とかなんとか呼ばれるところであった。くわばら、くわばら。(笑)
ということで、すみませんが書評のようなものはとても書けそうにありませんので、以下にとても素敵な書評のリンクを貼っておきます。
まあ、わたし的には、いまのところ本年度のベストですね。

豊崎由美さんの書評(ここ)

池澤夏樹さんの書評(ここ)

すみ&にえ「ほんやく本のススメ」の書評(ここ)

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2005/10/12

川の司祭 十二の塔の物語

『川の司祭 十二の塔の物語』池内紀(マガジンハウス/1999)は装幀が洒落ている。ちょっと変わったサイズだが、あるいはドイツなどにはこういう版型があるのかも知れない。文字の印刷は濃いめの茶色で統一されている。副題のとおり十二の短編からなっているが、すべて同じ中欧の街の物語で、登場する人々も微妙に重なり合う。池内さんご自身が翻訳したベーツァ・カネッティの『黄色い街』(法政大学出版局/1999)の様式を借りたものだろう。登場人物の性格付けにもどこか通じるものがある。
池内さんの書くものには、いつも、知らなくても別に困らないけれど、知っていることで多少は人生が豊かになったような錯覚をおぼえるような「トリヴィア」がある。たとえば、こんな感じ。

リンツからチェコ国境はすぐである。国境近くにフライシュタットという町があった。「自由都市」といった意味で、ドナウの河船で富をためこんだ商人たちが、独立した町をつくった。十四世紀の塔がそのままのこっている。聖母教会のステンドグラスがみごとだった。
国境を越えると、ドナウ河の支流にそってクルマウの町がある。画家エゴン・シーレは、親戚がいたのでよくやってきた。いくつもの「クルマウ風景」をのこしている。さらに行くとブドヴァイスだ。古くからビールの生産で知られ、名前だけがアメリカへ渡り、バドワイザーとして世界を征服した。

あるいは、こういう一節もある。
シュルツ氏は酒を飲まない。だから酒場へ出かけていって歌ったり、酒場女とふざけたりもしない。無意味なムダごとだと思っている。シュルツ氏によると、たしかに「酒と女と歌を愛さぬ者は生涯の痴れ者」とルターはいった。しかし、世の人は忘れているが、ルターはつづいてこうもいったのである。「女と歌と酒瓶の友であろうと、だからといって利口とはかぎらない」。世の人は都合の悪いことを、なんとやすやすと忘れることだ。

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2005/10/10

惑星規模の知性体

今日の話は昨日の続き。【ここ】

1984年、サウサリートで、テッド・ネルソンがケヴィン・ケリーに持ち前の早口で説明したのはおおよそこういうことだ。

世界中のすべての文書にさ、この文書はほかのこういう文書に関連がありますって脚注をつけるんだよ。世界中のありとある文書どうしをつないじゃうわけ。ね、コンピュータならそれがやれるし、コンピュータならそうやってつながった文書の間で交信があると、その文書の著作者に利用者がお金を払うことだってできるじゃん。そうやって神経組織を張り巡らせるように知の構造体をこの惑星につくっちゃうんだよ。こうやってぼくらは愚かさから世界を救うことができるのさ——

と、ここでわたしの皮肉な内なる声が。
テクノラティという検索エンジンがある。【ここ】RSS検索に特化しているので、どんな話題が、いま(日本の)ブログスフィア上で、もっとも活発にやりとりされているかをみるひとつの指標になる。トップページに上位10位が表示されているのだが、1位から3位くらいまでだいたいいつも同じような話題。見るとげんなりするよ。
インターネットが知の構造で世界を愚かさから救うというのは(いまのところ)いささか怪しい。(笑)

閑話休題。
いまから10年前、1995年には、まだウェブは社会の主流になるとは必ずしも思われていなかった。2005年、現在ではどうだろう、とケヴィン・ケリーは問いかける。
ウェブ・ページは自動生成されるものを含むと、その総数はいまや6000億ページを軽く超えて日々急増し続けている。

かつて人工知能というものが紹介されたとき、そのイメージは、一台のスーパー・コンピュータという箱ものだった。だが、いま現れようとしているのは、たぶん別の「マシーン」だ。
ぼくらの脳を考えてみよう。人間の脳には思考を生み出すように最初からプログラムされた部位があるわけではない。脳の活動は基本的には信号のやり取りにすぎない。それが思考を生み、自意識を生むとはどういうことか。
ウェブもまた、信号のやり取りに過ぎない。しかし、もしかしたらウェブが新しい「マシーン」になる可能性はまったくないのか。
mouse
この新しい「マシーン」のソフトウェアは誰が書いているのか。ぼくら全員である、とケヴィンは言う。ぼくらは、自分のブログを書き、Wikipedia*に記事を投稿したり他人の記事を訂正したりして、日々相互参照を完璧なものに近づけて行く。Flickr*に写真をアップロードし、それにタグをつけてその写真の意味や人間がそれをどういう感情でとらえているのかを教える。情報と情報はリンクで結ばれ、人々がリンクをたどることでその重要度が明らかとなる。現在世界中の人々がリンクをたどるためにマウスをクリックをする回数は1日あたり1000億回と推定されている。こうしてリンクはさらに鍛え上げられる。

なんのために?

D・F・ジョーンズという英国の作家が1960年代に『コロサス』というSF小説を書いている。コロサスはアメリカ国防省のスーパーコンピュータの名称だ。ソ連との核戦争を自分の判断で遂行し勝利できるように「知能」がプログラミングされる。オハナシではソ連も(当然)同じようなスーパーコンピュータ(ガーディアンという名前)をつくるのでありますね。やがて両国は戦争に突入する。すると、この二台(二人?)のコンピュータは突如自意識をもっていることに気づき、対話を始め、ついには人類を支配下に置いて共存することにするのであります。中学生のころにこれを読んでなにしろ冷戦下のことだから印象が深かった。いまでは忘れられたSFの名編だと思う。映画「ターミネーター」のスカイネットももしかしたらこれをふまえているのかもしれない。

コンピュータは、どこまでいっても自意識などもつわけはないというのがまともな大人の常識である。わたしも、一応まあそれはそうだろうな、と思う。しかし、先日、『スピノザの世界 神あるいは自然』上野修(講談社現代新書/2005)を読んだのだが、スピノザを経由すると、自意識というものがコンピュータ(正確にはそのネットワークであるウェブ)にあることになっても別に不都合ではないような直感が芽生えた。ただしこのあたりをうまく説明する自信はない。

いま、ウェブで起こっていることは、わたしたちがその渦中にあることは、もしかしたら、とてもすばらしいことなのかもしれない、とケヴィンは言う。
3000年ばかり後から、21世紀初頭を振り返る知性体があったら、たぶんこの時代に人類は知性を地球上のフィールドで繋ぎ合うことを始めたというだろう。どの惑星の歴史においても、そんなことはたった一回しかおこらない。それからあとは惑星規模の知性「マシーン」が誕生し、加速度をあげてはたらきはじめる、大切なことは、それがおこる臨界点のようなものは一回だけで、いま、ぼくらの時代がまさにそうなんだよ、とケヴィンは言うのであります。

ばかばかしい?
まあ、でもたいくつしのぎにはなったでしょ。


photo by h on Flickr. thanks for sharing.

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2005/10/09

たった10年で世界は変わる

「ワイアード・マガジン」の編集者であるケヴィン・ケリー(Kevin Kelly)が"We are the Web"というエッセイを書いている。(ここ)ちょっと長い英文なので、気軽にご一読をとは言えないが、インターネットの前史、そして近未来を考えるうえでなかなかスリリングな内容だ。

インターネットのもっとも核心となるハイパーリンクというアイデアを最初に提唱した人物はバナバー・ブッシュ(Vannevar Bush)*という人物で、1945年のことであった。しかし、実質的にいまのウェブのコンセプトをつくったのはテッド・ネルソン(Ted Nelson)*だろう、とケヴィンはこのエッセイの冒頭で言う。1965年当時のことだったという。ted nelson

そのテッド・ネルソン(がどういう人物かは【ここ】を参照するとわかりやすい)にケヴィンが会ったのは、カリフォルニアの港町サウサリートの薄暗いドックサイドのバー。折りたたんだ長い紙で膨れ上がったノートをポケットから引っ張り出し、首から紐でぶらさげたボールペンでテッドはかれのアイデアを熱っぽく語った──

いや、なんか古きよき時代だなあ、という感じだが、なんのことはない、これは1984年の話である。しかし、それから10年後にはネットスケープというブラウザーによってウェブが実際に使えるものとなり、最初は、「インターネットはよくて90年代のCBラジオ」なんていうシニカルな評価とは裏腹に、瞬く間に、これなしにはメディアもビジネスも成り立たないような社会的なインフラになっていくのは、これはもうわたしたちの同時代史というものだろう。

ウェブは現代社会にどのように受け入れられたか。最近、ケヴィンはアーミッシュの村を訪ねたという。ハリソン・フォードの映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」をご覧になった方は「ああ、あれね」と思い出されるだろう。男は髭を生やし麦藁帽子、女はボンネット、近代以降の文明をかたくなに拒否して、家にはテレビもなく、クルマは用いず馬車で外出する。(そういえば、先日読んだキングの『回想のビュイック8』がアーミッシュの村を管区に含む警察署の話だったな)
ところが、訊ねてきたケヴインに、彼らが「ぼくらのウェブ・サイトではね」と言ったのだそうだ。

「アーミッシュのウェブ・サイトだって?」
「うん、だってほらぼくらだってお店の宣伝はしなきゃならないし」
「まあそうだね、でもさ」
「ああ、ぼくらはね、公共図書館で端末使うんだよ。それとヤフー!」

このあとにケヴインいわく──

I knew then the battle was over.

たった10年で世界は変わる。まったくね。
近未来のオハナシの方も面白いので、明日また書くとしよう。


Ted Nelson photo by matlock on Flickr.
thanks for sharing.

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2005/10/08

峰の嵐か松風か(承前)

昨日のつづき。(ここ)
小督は嵯峨野にひっそりと隠れ棲んだ。

しかし高倉天皇は美しい小督のことが忘れられない。
いかに岳父清盛の不興があろうと、小督を取り戻したいと願う。
ついに仲秋名月の夜、源仲国(なかくに)という北面の武士を召すと嵯峨野あたりにいるということだけをたよりに小督を捜し出すように命じます。
仲国は笛をたしなむ。小督の琴と和したこともある。この月を見れば、小督殿のことである、必ず主上のことを想い琴を弾くはずと月の嵯峨野を馬でめぐる──

 亀山の辺近く松の一村有る方に
 幽かに琴ぞ聞こえける
 峯の嵐か松風か
 尋ぬる人の琴の音か
 覚束無くは思へども
 駒を早めて行くほどに
 片折戸したる内に琴をぞ弾き澄まされたる
 控へて是を聞きければ
 すこしも紛ふ可(べう)も無く
 小督の殿の爪音なり
 楽は何ぞと聞きければ
 夫を想ふて恋ふとよむ
 想夫恋といふ楽也けり

仲国は小督を探しあて、主上の深い嘆きに心を動かされた小督は宮中に戻り、姫君を生むのであります。しかし、それを知った清盛は小督をとらえて剃髪させ出家させてしまうのであった。こうして、高倉は生きる希望を失って身を儚くされたのでありますね。

ところで、これは知っている人には「なにをいまさら」のことなんでしょうが、この平家の「小督」、黒田節の二番の歌詞になっています。

 酒は飲め飲め飲むならば
 日の本一のこの槍を
 飲みとるほどに飲むならば
 これぞまことの黒田武士

 峰の嵐か松風か
 尋ぬる人の琴の音か
 駒をひきとめ立ち寄れば
 爪音高き想夫恋

いまわたしたちが聞く黒田節は昭和の作。もともとは筑前今様がもとになったらしい。どこで平家の小督と黒田長政の家中がつながったかはわからないが、まあ主君の恋の手助けをするのも、もののふの道ということであるのかもしれませんな。

 嵐山藪の茂りや風の筋  芭蕉

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2005/10/07

峰の嵐か松風か

平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)が高倉天皇のもとに入内したのは承安元年(1171)のこと。徳子十七歳、高倉天皇は十一歳でありました。
高倉天皇はわずか七歳ばかりで帝位につき退位して上皇となったのが二十歳そこそこというお方だが、平家物語のなかでは仁徳すぐれた主上として描かれています。しかし、その治世は父である後白河法皇と岳父である平清盛の間にはさまれて神経をすり減らす毎日であった。
やがて父、後白河は平家打倒の密議のかどで鳥羽離宮(現在の地名では伏見区中島)に幽閉される。鳥羽離宮、別名「鳥羽殿」──とくれば、俳句好きの方は当然

  鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分哉   蕪村
 
を思い浮かべなくてはいけない。

さて、ここで、高倉天皇の年表をつくってみます。

 1161年 誕生、後白河天皇の第四皇子  
 1168年 即位
 1171年 平清盛女徳子入内
 1172年 徳子中宮に
 1178年 言仁親王(安徳天皇)誕生
 1179年 後白河の鳥羽殿幽閉
 1180年 退位、安徳即位
 1181年 崩御

御歳わずかに二十一で薨去なされた、なんとも痛ましいような生涯である。
この高倉天皇、平家物語で有名なのが小督の局との悲恋。
年表で言うと、中宮徳子が安徳を生む前のあたりのこと。徳子のお付きの女房に仕える葵前(あおいのまえ)という少女に高倉は恋をします。しかしあまりの身分の違いから、葵前は宮中を去りやがて儚くなってしまう。その悲しみを癒すためにお側に上がったのが琴の名手で絶世の美女であった小督(こごう)でありました。ところが、小督にはそのとき通ってくる男がいたのでありますね。冷泉隆房(たかふさ)といいます。しかしすでに小督は帝の寵愛を受ける身となったわけですから、隆房はいさぎよく身を引くべきなんですが、そこが未練でありまして(なにしろ当時の宮中一の美女であった)文を届けてくるから小督も困って、その文を見ないまま庭に投げたりなんかする。隆房の嘆きは深い。

ところが、困ったことにこの冷泉隆房という公達はたまたま平清盛の女婿であったのですね。清盛からすれば、高倉天皇もむすめ婿、冷泉隆房もむすめ婿であります。ふたりを迷わすような小督などいっそ殺してしまおうと決心した。
それを知った小督はひそかに宮中を去ると嵯峨野あたりに身を隠すのです。

というところで、長くなったので続きは明日。(たぶんね)

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2005/10/05

平家物語を聴く

『CDブック声で楽しむ「平家物語」名場面』鈴木まどか(講談社/2004)を聴いている。著者および演奏者である鈴木さんは1969年生まれと若い方だが、前田流平家詞曲相伝である。
平家物語を聴くといえば、耳無し芳一のお話が頭に浮かぶが実際に聴いたことはいままでになかった。これを平家琵琶と呼ぶ。楽器そのものを指すときも平家琵琶、伝承芸能としての演奏も平家琵琶である。平家琵琶はまた平曲あるいは平家詞曲とも呼ばれることをはじめて知った。
このCDブックがどういうものであるかは、「まえがき」の一部を引くのが一番いいだろう。

平家詞曲の教則本は『平家正節(まぶし)』といいます。物語を一九九の「句」に分け、教習順に編さんされており、曲節(旋律形式)や節博士(節まわしをあらわす譜)が示されています。
合戦の場面や和歌の詠唱には、それぞれ特有の曲節がありますから、古文の文法が苦手でも、語り手が淡々と語ることによって、だいたいの内容は理解できるようになっています。
淡々と、いっても、七五調で書かれた詞(ことば)をわざわざ長くのばして語ったり、読みづらい詞を調子よく語ったり、お話として人気のある句をかえって単調に語ったりと、意外なこともあります。
本書では、読んでも、聴いても、語っても面白い句を二五句選び、原文とあらすじと平家詞曲の聴きどころを紹介することにしました。
本書によれば、もともとはお茶室やお堂など、あまり広くない空間で語られるものだった。大きめの会場で演奏するときは屏風などが音響的によい効果を生むようだ。また絵や書をバックにして演奏することも相乗的な効果があったという。たとえば那須与一(平家物語巻之十一)の語り——

 弓は強し
 鏑は浦響く程に長鳴りして
 誤たず
 扇の要際一寸ばかり置て
 ひいふつとぞ射切たる
 鏑は海に入りければ
 扇は空へぞ上がりける
 春風に
 一揉
 二揉み揉まれて
 海へ颯とぞ散たりける

聴いていると「一揉、二揉み揉まれて」の箇所は長く長く引きのばされ、眼前に扇がひらり、ひらり、ひらりとスローモーションで落ちてゆくのが見えるようだ。

夕日のような色を重ねた絵の前で「那須与一」を語ったときは、ちょうど絵のなかに想像の扇が舞い落ちていくようだった、という感想をいただいた。
ああ、これは美しいだろうなあ。
この場面、NHKの大河ドラマではジャニーズ事務所の今井翼くんが演じるのをたまたま見たが、なかなか様になっていたように思う。やはり日本人の血肉になっているということか。

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2005/10/01

がんばれ朝日伝聞社

内田樹さんが朝日新聞をもう取るのはやめた、と書いておられる。「内田樹の研究室」(ここ)

コンテンツが悪いと申し上げているのではない。
「語り口」が気に入らないのである。
「イデオロギッシュ」なのである。
「イデオロギッシュ」といっても、偏向しているとか左傾しているとか、そのようなレベルのことを申し上げているのではない。
問題はコンテンツじゃないんだから。
内容ではなく、そのコンテンツの「差し出し方」が私の疳に障る、と申し上げているのである。
どのような問題についても「正解」があり、それを読者諸君は知らぬであろうが、「朝日」は知っているという話型に対する膨満感が限度を超えたのである。

ははは。
我が家も朝日新聞だが、べつに他の新聞より朝日が好きだと言うわけではない。個人的にはいまのエラそうな朝日新聞は嫌いである。
世代が知れてしまうが、むかし高橋留美子の「うる星やつら」に面倒終太郎くんという愉快なキャラクターがいた。かれは家が大富豪なもんで人に謝るということをしたことがないのね。一応悪いことをしたら謝らなければいけないということをアタマでは知っているので謝ろうとするのだが、どうしてもカラダがそれを裏切っちゃう。謝る相手を前にして「悪かったな」といって、あごをくいっと上げてふんぞり返ってしまうのであります。
今回の、《NHK特集番組改編問題》にからんで秋山耿太郎(こうたろう)社長の記者会見なるものを見て、あはは、面倒終太郎くん健在だ、と笑ってしまった。
我が家では、わたしは朝日新聞社のことを朝日伝聞社と呼んでいる。まあ、どうせ目を通すのは社外の人が書いているコラムぐらいだし、「ののちゃん」とテレビ欄くらいかなあ、多少なりとも愛着があるのは。
朝日新聞をまともなジャーナリズムだと信じている人は、いまではほとんどいないだろう。
もっとも、だからといって、日本社会党が消滅したように朝日新聞も衰退していくだろうと思っているわけではない。
たしかにクオリティ・ペーパーとは恥ずかしくて自分でも名乗れない(まともな神経がもしあれば。まあないだろうけど)だろうが、巨大なメディアというバケモノの機能は持っている。これを生かす道については、マーケットの馬車馬さんのエントリー「しんぶん伊勢丹化計画」がたいへん面白い。(ここ)

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9月に読んだ本

『サウジアラビア中東の鍵を握る王国』アントワーヌ・バスブース/山本知子訳(集英社新書/2004)
『子規と啄木』中村稔(潮ライブラリー/1998)
『赤毛のアン』L.M.モンゴメリー /掛川恭子訳(講談社文庫/2005)
『セレクション俳人 04 大木あまり集』(邑書林/2004)
『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』田中優子(集英社新書/2004)
『池内紀の仕事場 4 自由人の暮らし方』(みすず書房/2005)
『地中海2 集団の運命と全体の動き1』フェルナン・ブローデル/浜名優美訳(藤原書店/1992)
『りかさん』梨木香歩(新潮文庫/2003)
『からくりからくさ』梨木香歩(新潮文庫/2001)
『中国激流—13億のゆくえ』興梠一郎(岩波新書/2005)
『人物叢書 河村瑞賢』古田良一(吉川弘文館/1987)
『スコットランドの漱石』多胡吉郎(文春新書/2004)
『名句十二か月』岸本尚毅(富士見書房/2000)
『わが手に雨を』グレッグ・ルッカ/佐々田雅子訳(文芸春秋/2004)
『東京奇譚集』村上春樹(新潮社/2005)
『新版 日本語の世界』大野晋(朝日選書/1993)
『池内紀の仕事場 5 文学の見本帖』(みすず書房/2004)
『辻まことの世界』矢内原伊作編(みすず書房/1977)

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9月に観た映画

ゴスフォード・パーク(2001 アメリカ)
監督:ロバート・アルトマン
出演:マギー・スミス 、マイケル・ガンボン 、エミリー・ワトソン、ケリー・マクドナルド

メゾン・ド・ヒミコ
監督:犬童一心
脚本:渡辺あや
出演:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、歌澤寅右衛門、青山吉良

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