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2005/10/27

高野素十のでんぐりがえり

ああ、つまらん日本シリーズ。(笑)
ということで、今日の話は野球と俳句の話。

「野球の命名者は子規──というのはガセ」と、先日「トリビアの泉」でやっていた。まあ、実際はガセというほどのことでもない。子規という人はたくさんの雅号をつくった人で、その号のひとつに「野球」というのがあり、これは自分の名前の升(のぼる)にかけて「のボール」と洒落ていたのであります。つまり子規の「野球」は単なる号で、ベースボールの訳語として「野球」を提唱したわけではないから、これを使うと、緒川たまきちゃんに「ウ・ソ・つ・き」と言ってもらえるらしい。
いいなあ(笑)

でも、子規が野球を好んでいたのは事実であるから、野球という号にかれがベースボールの意味をかけていなかったとはかぎらない。なにも中馬某にそこまで義理立てすることもあるまい。野球の命名者は、すなおに正岡子規でいいんじゃないかとわたしは思う。

さて、昭和初期の俳壇にホトトギスの四Sというのがある。
水原秋櫻子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝の四人の俳号のイニシャルをとって四S。(これは「しいエス」と読むのだと山本健吉がたしか書いていたように記憶する。「よんエス」と読んでは、おめえ俳句に暗えなと言われるよ)まあ、ホトトギス四天王みたいなものだと思ってください。
この時代の俳人は、十代のころからなんらかのかたちで俳句の手ほどきをうけていることが多いのですが、この四Sの一人である高野素十(すじゅう)は三十くらいまで俳句にはぜんぜん興味のないお方であったようです。

じつは、高野素十(本名/与巳:よしみ1893-1976)は東京大学医学部に新設された三田定則教授の血清化学教室で水原秋櫻子(本名/豊:ゆたか1892-1981)と一緒になるのですが、当時東大の医局は教室毎にチームをつくって野球の対抗戦をやっておりました。で、血清化学教室は、高野素十が投手、水原秋櫻子が捕手というバッテリーを組んだのであります。(トーナメントで優勝した)
すなわち、ふたりは野球選手であったのです。

秋櫻子は、はじめ短歌を窪田空穂に、のちに俳句を松根東洋城の「渋柿」(そのころの俳号は水原静夏といいます)に学び、やがてこれにあきたらず虚子の「ホトトギス」に移って新進作家として注目を浴びるようになった人でした。
これに対して、高野素十の方は、非常な秀才でやんちゃなスポーツマンといったタイプだったようですね。お前ら俳諧なんかやってるから空気がしめっぽくなるんだ。さあ、野球やろうぜ。さっさとグラウンドで出た出た。なんてやってたらしい。「お前ら」と素十が言ったのは、秋櫻子の他に緒方春桐という、やはり東洋城系の俳句をやってた男がいたからで、この人がチームの主将、三塁手であった。
ところが、どういう風の吹き回しか、あるときおれにも俳句を教えてくれと秋櫻子に言ってきたから人生は面白い。なにをやらしてもそこそこは出来てしまう秀才の一時の気まぐれかと、秋櫻子は思ったが、意外なことに素十は真剣だった。

素十の「ホトトギス」初出は大正12年(1923)の12月号。この年は9月の関東大震災で俳誌はもちろん多くの出版物が一時的な発行中止を余儀なくされたが、虚子の陣頭指揮のもと、「ホトトギス」は毎号の発行を行った。(このあたりが虚子のすごいところ)
当時、虚子が選をした雑詠欄の清書は、池内たけし(虚子の甥)がやっていたので、その月の巻頭が誰であるか、だれが何句とられているかは、かれが真っ先に知ることになった。秋櫻子は「ホトトギス」が印刷に回される前にたけしからその情報を聞ける立場にいた。すると、驚いたことに、はじめて「ホトトギス」に出句した素十が四句とられているという。当月の順位は、巻頭が大阪の藤田耕雪、ついで秋櫻子、花蓑と続き素十はいきなりの十位である。秋櫻子は耳を疑った。
このあたり、俳句をなさらない方にはいまひとつぴんと来ないだろうが、当時、ホトトギス雑詠欄の上位に名前が出るということは、これはたいへんなことでありまして、多くの俳人がこれに一喜一憂したのであります。そのありさまは、ちょうど天徳歌合で、平兼盛の「しのぶれど」に敗れた「恋すてふ」の壬生忠見が食が細って死んでしまったようなものでしょうか。(笑)

このとき虚子がとった四句は次の通りでした。
 
 せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ   素十
 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
 門入れば竃火見えぬ秋の暮
 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

このうち、「くわらんと」の句は元は「がらんと」であったものを、秋櫻子が直してやったものだと言いますね。

秋櫻子は、素十の家へ駆けつけた。以下は村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)より——

玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、
「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。
「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。
P.210

はは、素十のこういうあたりが、やはり虚子に愛されたのではなかろうか。
のちに秋櫻子は虚子に弓引く奴と嫌われ、素十はホトトギスの客観写生の正しい継承者と認められるが、それはまだまだ先のオハナシ。

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コメント

最近、明治期の野球についてふれた小文をいくつか読んだのですが、何の本だったのか思い出せません。心当たりをひっくり返してみたら一つ見つけました。
『藤村随筆集』(岩波文庫)でした。「学院時代の戸川秋骨君」という追悼文中に、明治学院時代の思い出――明治二十年代のことになるでしょうか――として「ベエス・ボオルの運動」をやったことが書かれていました。

この随筆集格別おもしろいものではない(?)のですが、ところどころに、立ちどまらせ考え込ませるせるものがあります。「鴎外漁史」の結語部分は、とても印象深いものでした。

〔やはりパソコンは買い替えでしょうか?。今日など、変換に気の遠くなるような時間がかかって、いやになってきます。〕

というわけで引用あきらめました。パソコンの動きの良いときにあらためて拙日記に・・・。

追記:先日読んだ明治野球話題、千代田区発行の『おはなし千代田』に「最初の野球」という項でした。神田錦町にあった「大学南校(開成学校)の運動場」が、野球発祥の地であるとかないとかいう話でした。

投稿: かぐら川 | 2005/10/29 15:53

かぐら川さん こんばんわ。
戸川秋骨という名前にわたしはなじみがなかったので、さっそくググって見たところ、明治学院大学のサイトに行き当たりました。全然知らなかったんですが、明治学院大学というのは、もとをたどるとあのヘボン先生にまで溯るんですね。高橋是清、林董、益田孝なんて名前がヘボン塾の関係者に出てくるのが面白い。こちら↓
http://www.meijigakuin.ac.jp/information/history.html
島崎藤村は明治学院大学の第一回卒業生で、ほかにかぐら川さんもご紹介の戸川秋骨や馬場狐蝶なんて名前が見えます。馬場狐蝶といえば樋口一葉とも親しかった人ですよね。いや、勉強になりました。

投稿: かわうそ亭 | 2005/10/29 21:02

高岡の古書店で、素十の全集やら自選句集や研究本が並んでいました。どななか俳句をたしなんだ方が手放されたようなのです。かわうそ亭さんの素十に関する記述をいくつも思いだして、自選句集は、書き込みがなければ買おうかと思ったのですが、とりあえず断念しました。
とりあえずの報告でした。

投稿: かぐら川 | 2008/11/30 12:21

古書店に同じ方のものと思われる蔵書の山があったりすると、ちょっと切ない気持ちになりますね。本の蒐集家にとって汗牛充棟は夢であり理想ですが、家族にとっては本だらけの家なんてほんとうは大迷惑。もううちの人も逝っちゃったんだもの、ぜーんぶ処分しちゃって、わたし好みのインテリアにしちゃうんだもん、るんるん。というようなことも、まあ、あんまり非難もできないだろうなあ。
いや、素十を蒐めておられた方のところがそうだっただろうというわけでもないのですが。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2008/11/30 22:34

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