川の司祭 十二の塔の物語
『川の司祭 十二の塔の物語』池内紀(マガジンハウス/1999)は装幀が洒落ている。ちょっと変わったサイズだが、あるいはドイツなどにはこういう版型があるのかも知れない。文字の印刷は濃いめの茶色で統一されている。副題のとおり十二の短編からなっているが、すべて同じ中欧の街の物語で、登場する人々も微妙に重なり合う。池内さんご自身が翻訳したベーツァ・カネッティの『黄色い街』(法政大学出版局/1999)の様式を借りたものだろう。登場人物の性格付けにもどこか通じるものがある。
池内さんの書くものには、いつも、知らなくても別に困らないけれど、知っていることで多少は人生が豊かになったような錯覚をおぼえるような「トリヴィア」がある。たとえば、こんな感じ。
リンツからチェコ国境はすぐである。国境近くにフライシュタットという町があった。「自由都市」といった意味で、ドナウの河船で富をためこんだ商人たちが、独立した町をつくった。十四世紀の塔がそのままのこっている。聖母教会のステンドグラスがみごとだった。
国境を越えると、ドナウ河の支流にそってクルマウの町がある。画家エゴン・シーレは、親戚がいたのでよくやってきた。いくつもの「クルマウ風景」をのこしている。さらに行くとブドヴァイスだ。古くからビールの生産で知られ、名前だけがアメリカへ渡り、バドワイザーとして世界を征服した。
あるいは、こういう一節もある。
シュルツ氏は酒を飲まない。だから酒場へ出かけていって歌ったり、酒場女とふざけたりもしない。無意味なムダごとだと思っている。シュルツ氏によると、たしかに「酒と女と歌を愛さぬ者は生涯の痴れ者」とルターはいった。しかし、世の人は忘れているが、ルターはつづいてこうもいったのである。「女と歌と酒瓶の友であろうと、だからといって利口とはかぎらない」。世の人は都合の悪いことを、なんとやすやすと忘れることだ。
| 固定リンク
「c)本の頁から」カテゴリの記事
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
本当ですか?こんな迷言は聞いたことないですね。
- 「だからといって利口とはかぎらない」
ベーツァはエリアスの奥さんですね。知りませんでした。勉強になりました。
投稿: pfaelzerwein | 2005/10/14 02:18
はは、さすがですね。
おっしゃるとおりこの「迷言」は、かなり怪しい。
『川の司祭』は小説ですから、池内先生も少々悪戯をされているようです。
ほんとうは、この一節は、『リヒテンベルク先生の控え帖』(池内紀訳)では——
周知のとおり、ルターはいった。
「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯の痴れ者」
つづいてつけ加えるのを忘れていた。
「女と歌と酒瓶の友であろうと、だからといって利口とはかぎらない」
ということで、あとの「迷言」の方は、リヒテンベルクの創作のようであります。もっとも、池内先生も、「シュルツ氏によると」とちゃんと逃げは打ってありますね。ぺろっと舌を出しておられるのではないか、ト。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2005/10/14 21:51