峰の嵐か松風か
平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)が高倉天皇のもとに入内したのは承安元年(1171)のこと。徳子十七歳、高倉天皇は十一歳でありました。
高倉天皇はわずか七歳ばかりで帝位につき退位して上皇となったのが二十歳そこそこというお方だが、平家物語のなかでは仁徳すぐれた主上として描かれています。しかし、その治世は父である後白河法皇と岳父である平清盛の間にはさまれて神経をすり減らす毎日であった。
やがて父、後白河は平家打倒の密議のかどで鳥羽離宮(現在の地名では伏見区中島)に幽閉される。鳥羽離宮、別名「鳥羽殿」──とくれば、俳句好きの方は当然
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分哉 蕪村
を思い浮かべなくてはいけない。
さて、ここで、高倉天皇の年表をつくってみます。
1161年 誕生、後白河天皇の第四皇子
1168年 即位
1171年 平清盛女徳子入内
1172年 徳子中宮に
1178年 言仁親王(安徳天皇)誕生
1179年 後白河の鳥羽殿幽閉
1180年 退位、安徳即位
1181年 崩御
御歳わずかに二十一で薨去なされた、なんとも痛ましいような生涯である。
この高倉天皇、平家物語で有名なのが小督の局との悲恋。
年表で言うと、中宮徳子が安徳を生む前のあたりのこと。徳子のお付きの女房に仕える葵前(あおいのまえ)という少女に高倉は恋をします。しかしあまりの身分の違いから、葵前は宮中を去りやがて儚くなってしまう。その悲しみを癒すためにお側に上がったのが琴の名手で絶世の美女であった小督(こごう)でありました。ところが、小督にはそのとき通ってくる男がいたのでありますね。冷泉隆房(たかふさ)といいます。しかしすでに小督は帝の寵愛を受ける身となったわけですから、隆房はいさぎよく身を引くべきなんですが、そこが未練でありまして(なにしろ当時の宮中一の美女であった)文を届けてくるから小督も困って、その文を見ないまま庭に投げたりなんかする。隆房の嘆きは深い。
ところが、困ったことにこの冷泉隆房という公達はたまたま平清盛の女婿であったのですね。清盛からすれば、高倉天皇もむすめ婿、冷泉隆房もむすめ婿であります。ふたりを迷わすような小督などいっそ殺してしまおうと決心した。
それを知った小督はひそかに宮中を去ると嵯峨野あたりに身を隠すのです。
というところで、長くなったので続きは明日。(たぶんね)
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