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2005/11/24

十一月二十五日のこと如何に

 「無言」
 虚子に問ふ十一月二十五日のこと如何に   川崎展宏

『第一句集を語る』で川崎がこの句の背景をこう説明している。

文献書院という俳句関係の専門店が大塚にありまして、森さんと二人でそこに行っていたとき、店番をしていた奥さんが「三島由紀夫が割腹自殺」というニュースを伝えてくれました。森さんが「なんじゃっ」と言って不機嫌になりましてね。「何歳かね。四十五歳か。いい年歳(とし)じゃないな。老いの皺腹掻き切ってならまだまし」と。やはり森さんはちゃんと言うべきことを言った、と今では思います。しかし、私は(三島を)愛読してましたし、そのときは、なぜ森さんはそんなことを言うのかなあと思いました。落ち着いてから、虚子なら何て言うかなと聞いてみたくなりました。無論、虚子はこの世におりませんが——。一句は森さんの言葉の、私の胸の中の反響でもあるんです。
ここにでている森さんは、俳人の森澄雄のことである。
もうひとつ、こちらはご本人の文章を引用しておこう。ジェームス・ディーンを論じた文章である。「夭折の資格に生きた男」という題名だ。
それにしても公衆の心理とはふしぎなものである。公衆は今まで無数の「新鮮なアイドル」をその手で汚し、葬つてきた。ディーンがなほ生きてゐたら、確実に彼を汚したであらう人たちが、彼の死後一年たつて、まだ熱狂的に彼の死を哀惜してゐるのである。彼らは自分の手が彼を汚しえなかつたことがそれほど口惜しいのであるか?ディーンが賢明にも先手を打つて、自分を汚しにかかる公衆の手のとどかぬところへ飛翔したことが、それほど口惜しいのであるか?公衆はいはば残酷に経過する時間の本質を象徴しており、それ故いつも公衆は絶対の勝利を占めてきたので、たまさかのかうした敗北がめずらしく、うれしく、貴重で、自分の敗北の思ひ出を忘れることができないのである。

こちらのブログにも触れてあるが、【ここ】三島由紀夫はイロジカルだ。丸谷才一も同じことを言っている。『思考のレッスン』にこうある。
ぼくが三島由紀夫の文章が気に入らないのは、レトリックはたいへん派手だけれども、ロジックが通ってないことが多いからなんです。だからある程度以上の読者の心には訴えない。
まったくそのとおりなんだが、それでも、ミシマのことを考えるときに、「自分を汚しにかかる公衆の手のとどかぬところへ飛翔したことが、それほど口惜しいのであるか?」という哄笑が聞こえるようで、(それがまた例のウソくさい豪傑笑いだから)ますます腹が立つのでありましょう。森澄雄が不機嫌になり、丸谷才一が「気に入らない」のもむべなるかな。こうなると、たしかに虚子に聞いてみたいような気がするな。大悪人虚子よ如何に、如何に。

 初空や大悪人虚子の頭上に  虚子

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コメント

本当に、もうあれから35年たつのですね。
私もあの日のことは、残念ながら、よく覚えています。
三島の若い頃の小説は好きだったけど、あの人は次第にうす穢くなっていった。世間や公衆に汚されたのではなく、自分で自分を汚し、最期が一番醜かった。市ヶ谷での姿は「無様」という以外にない。
多くの人が三島のことを忘れ、何世紀かたって若い頃の小説だけが辛うじて残る、というのが望ましいことでしょう。
我善坊

投稿: 我善坊 | 2005/11/26 09:34

もし三島が生きていればいま80歳になりますね。あのときわたしは高校の1年生でした。先生が、「いいか、檄の文章がどうあれ、これは政治的な行動とはまったく無関係だ。あくまであの男のブンガクの延長だ」といった内容の話をしておられたように覚えております。あれから35年とはほんとうに早いものです。

投稿: かわうそ亭 | 2005/11/26 18:31

かわうそ亭 様 こちらにも出張ってきました。ご寛恕のほど。
 私は三島の読者などと呼べる代物ではありません。小学校のときに『潮騒』の焚き火シーンに感動(何に感動したんだか(-_-;)して以来、何度か読み返したり、『文章読本』を幾度か読んだりはして、細く長く付き合ってきた程度です。今、中年になり、マンスフィールドやロレンスの短編を読み始めて、三島に何が欠落していたのか私なりに得心できたような気がしています。貴記事を読み、久しぶりに『潮騒』を読んでみようかとふと思う自分に、なぜか面映い心持ちです。

投稿: renqing | 2005/12/03 00:55

阿部昭の『短編小説礼讃』、『マンスフィールド短編集』(パーカーおばあさんの人生)、『ロレンス短編集』(菊の香)など、おかげさまで読みたい本のリストができました。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2005/12/03 21:22

 「プラトニック・ラブ」で、平岡公威に触れてなかったのは片手落ちでした。次の機会を待ちます。マンスフィールドもロレンスも泣けますよぉ。特に、前者。ハンケチか、ティッシュをご用意ください。(^^ マンスフィールドは、「子供らしいが、とても自然な」もいいですね。黒井千次「春の道標」に似た愛の喪失感が味わえます。

投稿: renqing | 2005/12/05 06:55

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