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2005/11/10

詩人の昭和史

naka_syowa『私の昭和史』中村稔(青土社/2004)は、二〇〇二年一月号から二十八回にわたって「ユリイカ」に連載されていたもの。430ページの大部になる本だが、昭和二十年八月の敗戦で一応、擱筆されている。中村さんは昭和二年(1927)一月十七日のお生まれだから、昭和の年数から二を引いた数が年齢となり、敗戦のとき中村さんは十八歳だった。
遠い記憶を丹念に呼び起こし、さまざまな記録を丹念に再構成した上で、戦前の時代精神を静謐な筆致であきらかにしておられる。あらためて深い尊敬と感銘を覚えた。

いろいろな感慨をもったが、戦争末期のエリート学生がどのようなものであったかということが興味を覚えたことのひとつだ。
中村さんが学生時代を過ごされた東京府立五中、第一高等学校は表面的にはやむを得ず軍部の圧力に屈していたが、その本質はリベラルであったことが本書によってよくわかる。

しかし、それが他の場所では無慈悲に行われた過酷な弾圧とならなかったのはなぜか。

みもふたもなく言ってしまえば、かれらが、各界の指導層たるべく、国家が選別し育成している「虎の子」の人材であったからだろう。世の中からみれば、一高の学生さんは別格であった。
また、かれらの側に、かかる扱いを受けて当然とする驕りがあり、世の中に対する甘えがあったという見方もできるかもしれない。
おそらく、エリートとはそういうものだろう。いまでも、同じようなことはある。
しかし、この戦争末期にあっては、そのような別格の扱いもいわば「執行猶予」に過ぎないことは学生もよくわかっていた。昭和十八年秋のいわゆる学徒出陣により戦地に赴いた学生たちは、多くの戦死者、戦病死者を出した学年組である。

本書の記述によれば徴兵年齢の繰り下げなどの措置により、中村さんが「簡閲点呼」と呼ばれる実質的な徴兵検査を受けたのは最後の昭和二十年六月(ただしこのあたりの正確な記憶はお持ちではないらしい)頃と思われる。敗戦は必至と予想する軍人も少なからずいただろう。中村さんの友人にも、あきらかに間違った(好意的な)診断で、軍医に即時帰郷を命じられた学徒兵もいた。こんな学生を死地にやるに忍びないと考える軍人もいたわけだ。中村さんの学年の一高生で実際に戦病死したのはお一人だけだという。ソ連参戦の直前に満州で現地招集され、捕虜としてシベリアに抑留され収容所で亡くなった。もちろん、非難の意味はないが、このお一人を除いて、その学年の一高生全員が生きながらえて終戦を迎えたことは、同世代の若者たちが消耗品の如く南方や大陸に投入されそこで死に追いやられたことを考えるとき、やはり感慨なきにしもあらずである。
戦後のこの人々の生き方を考えるとき、このような「負債」がやはり大きな意味をもっていたのではないかとあらためて考える。
この時代の人にはやはりかなわないという思いがあるな。

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