話は微妙に昨日のエントリー(ぼくの妹)とつながる。つながりは見えにくいと思うが、わたしの中では確かにつながっている。
角川の「短歌」12月号に穂村弘氏のこんな歌が掲載されている。
髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌
この号のグラビアも同氏を前面に出していて、その写真ページにもこの歌が出ているので、まあご本人としても自負のある作品であり、雑誌サイドとしても評価をされているものなのだろう。傑作と評しておられる方の意見も見た。
しかし、一読、わたしは嫌な気持ちを覚えた。
ダルフールの人々を、イラクを、パレスチナを、などとは言わない。わたしだってそんな世界のことはほんとうには知らないし、そういうアプローチで歌を批判することは公平ではないと思っている。自分のささやかな身体感覚を大切にして、そこから世界を見るということが、わたしたちにできることであり、そういう感覚の方がむしろ大切だとわたし自身思っている。
しかし、この歌を何回読んでも、自分自身の快不快への鋭敏な感覚以外に何も見えない。他人への思いやりや、共感につながるような回路がどこにもあるように思えない。
それでいいんだよ。いまはそういう時代なんだから、と言うならば、そうではないよ、と答えたい。
同号の穂村氏の歌をあげてみよう。
同きゅう生のみんなよ ぼくはいまひ行きのなかでおしっこをしているぞ
射精って想像つくんじゃないですか おんなのひとの耳に尋ねる
デジタルの時計を巻きつけてみたい山中智恵子の左手首に
よさがわたしにはまったくわからない。肥大した自意識と背中合わせの無神経。子供の感覚には美しいものもあるが、そのまま醜いものもある。第一、穂村氏はもう四十以上の人である。最後のデジタル時計の歌については、藤原龍一郎さんも辛辣な批判をしておられるのを目にしたが、当然だと思う。
最後に、口直しをしておこう。
穂村氏の揶揄の対象にされた山中千恵子さんの歌。同じ「短歌」の特集「今年出会った一番の歌」で前川佐重郎さんがこれをあげておられる。同氏の鑑賞もまた説得力があった。
あをく老ゆるねがひこそわが一生つらぬきとめぬいのちなりける
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