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2005年12月

2005/12/29

2005年

2005年の拙ブログの実態をとりまとめておきます。
まずカテゴリー別に何本の記事を書いたか。

(1)書評       26
(2)本の頁から    55
(3)俳句       19
(4)短歌       12
(5)国際・政治・経済 15
(6)サイエンス     5
(7)映画・テレビ   18
(8)コンピュータ   11
(9)その他      36
TBポリシー他     2

        計 199

これらの記事に対して頂いたコメントは管理人のものもふくめて394。
トラックバックは71。
dog_2006
我ながら結構マメに書いていたんだな、と思いました。
これもひとえに、ご来訪いただいたみなさまのお陰であります。
本年の御礼を申上げ、来年もまたよろしくと御願い上げ奉ります。

1週間ばかり完全にオフラインになります。
どうぞ、みなさま、よいお年をお迎えください。

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12月に読んだ本

『旅は驢馬をつれて』スティヴンスン/小沼丹訳(みすず書房/2004)
『池内紀の仕事場 8 世間をわたる姿勢』(みすず書房/2005)
『世界を騒がせたスパイたち〈上〉』N. ブランデル, R. ボア/ 野中千恵子訳(現代教養文庫/1990)
『戦争を知るための平和学入門』高柳先男(ちくまプリマーブックス/2000)
『世界を騒がせたスパイたち〈下〉』N. ブランデル, R. ボア/ 野中千恵子訳(現代教養文庫/1990)
『わが青春の台湾 わが青春の香港』邱永漢(中央公論社/1994)
『プロポ〈1〉』アラン/山崎庸一郎訳(みすず書房/2000)
『綾とりで天の川』丸谷才一(文藝春秋/2005)
『マンスフィールド短編集』安藤一郎訳(新潮文庫/2000)
『胸にこたえる真実』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/2000)
『ヨットクラブ』デイヴィッド・イーリイ/白須清美訳(晶文社ミステリ/2003)
『地中海4 出来事、政治、人間 1』フェルナン・ブローデル/浜名優美訳(藤原書店/1994)
『岸本尚樹の俳句一問一答』(日本放送出版協会/2005)
『セレクション歌人30 横山未来子集』(邑書林/2005)

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12月に観た映画

レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語 (2004/アメリカ)
監督: ブラッド・シルバーリング
出演: エミリー・ブラウニング、リアム・エイケン、カラ&シェルビー・ホフマン、ジム・キャリー、メリル・ストリープ

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2005/12/27

カバ・コンドルは飛んでゆく(承前)

樺山伯爵邸をめぐる話の続き。
今回の内容は、ほとんどネット書友のかねたくさんが、以前、わたしの掲示板に書き込んでくださったものを、ログから掘り起こしたものであることを最初にお断りしておきます。ここであらためてお礼を申上げます。

前回、白洲正子の言明にもかかわらず、樺山伯爵邸をコンドル設計とするには問題があると書いた。じつは、この樺山邸については山下洋輔さんの『ドラバダ門』のなかに、山下さんの祖父である山下啓次郎設計であることがあきらかにされているのですね。(以下引用部分はすべて数年前のかねたくさんの文章です)

山下家に啓次郎さんの手帳が保管されていて、そこに明治25年に同邸を設計したことに対する報酬がメモされているのだそうです。
これを目にした藤森さんが「樺山邸の設計者は長らく謎だったけれど、やっとこれでわかった」とその手帳を取り上げてしまうという楽しいエピソードが付いています。

では山下啓次郎とはいかなる人物か。

山下啓次郎は漱石たちと同じ慶応3年(1867)生まれ。帝大建築科で辰野金吾に学んでおり、同期には伊東忠太(築地本願寺などを設計)がいます。つまりコンドルの孫弟子に当たります。
樺山邸が着工されたのは明治25年(1892)9月。同年7月に帝大を卒業したばかりの啓次郎にとって卒業後の第一作ともいうべき作品なのです。
啓次郎の父山下房親は維新のときに西郷の下で働き、のち川路利良の下で警察官僚になっています。
いうまでもなく樺山資紀は同じ薩摩人で、世代的には房親と同じなのでしょう。
樺山家のほうで山下啓次郎設計を隠してコンドルだと主張する必要性があったのかどうか。
『ドバラダ門』では、樺山資紀が房親に、「あなたの子どもさんに私の家を設計していただきたい」という要請をしたのではないかと、そのやりとりがフィクションとして再現されています。

どうやらこれで見ると、樺山伯爵邸がコンドル設計ではなく山下啓次郎設計であることは確実らしく思えます。

ところで、話がこんがらがってしまうのですが、雑誌『東京人』1997年7月号に特集「コンドルさんの謎」というのがあり、そこに串田孫一が「僕の家はコンデルさんが作った。」というタイトルで寄稿しています。場所は、神田駿河台、現在山の上ホテルがある付近。関東大震災で焼失、串田一家が住んだのはたった三年半だったとのこと。

ここが、ややこしい。よく読まないとこんがらがってしまうけど、ここで串田が書いている「ぼくの家」は今回のお話の樺山伯爵邸のことではありませんよね。まず第一に住所が全然違う。(永田町と神田駿河台)震災で焼失したというのもあきらかに違う物件であることを示している。(樺山伯爵邸は前回書いたように吉田茂の手に渡り戦災で焼失したわけですから)

時系列にこの間のことを書くとこうなります。

1892年  山下啓次郎、樺山伯爵邸(以下甲)設計
1920年  コンドル設計の串田萬蔵邸(以下乙)竣工
1923年  関東大震災により乙焼失
1929年頃 串田萬蔵が甲購入
1941年頃 吉田茂が甲購入
1945年頃 戦災により甲焼失

なお、上記の乙物件であるところの串田萬蔵邸の竣工は1920年4月で、コンドルはそれから二ヶ月後に亡くなっていますので、最晩年の作品だったことになります。串田孫一が、ぼくの家はコンドルがつくったというのは事実で、また串田孫一が樺山伯爵家のお嬢さんのベッドを譲り受けたというのもたぶん事実なのですが、そのふたつの家は違う家だったということになるようです。

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2005/12/26

カバ・コンドルは飛んでゆく

旧い表示で麹町区永田町一丁目十七番地。現在は自由民主党本部があるあたりにその洋館はあった。持ち主は伯爵、樺山資紀(すけのり)。後年、孫娘の白洲正子は自伝に次のように書いた。

永田町の邸は、鹿鳴館などを建てたコンドルさんの設計によるもので、あまり大きくはないががっしりした洋館であった。(新潮文庫p.87)

三菱の岩崎邸などに比べるとあんまり小さい家なので、自分のところはほんとうに貧乏なのだと子供心に思っていたという。なんだかなあ、ではありますが、参考までに岩崎邸の写真をご覧ください。coder_0
樺山邸の写真は見たことがないけれど、まあ、これに比べれば貧乏だと思ったのも仕方がないかもしれない。(笑)

さて、ここに出てくるコンドルさんというのは、ジョサイア・コンドル(Josiah Conder/1852-1920)のことで、白洲正子が書いているように鹿鳴館の設計者だが、ほかにも帝室博物館、東京帝国大学講堂、ニコライ聖堂などの設計で知られる。(ちなみに写真の岩崎邸もコンドル作品である)帝国大学で建築を教え(当時は造家学科と称した)日本の建築学の基礎を築いた。第一号の門下生が東京駅を設計した辰野金吾である。
ただし、樺山伯爵邸がコンドル設計であるかどうかは、白洲正子の言明にもかかわらず、問題がある。あとで、このことにはもう一度ふれます。

この樺山邸は世界大恐慌(1929)後に、当時三菱銀行会長であった串田萬蔵の手に渡りました。萬蔵の息子である串田孫一の「古風な洋館」(『串田孫一集』第5巻、築摩書房)にこの家のことがでてくるそうです。(数年前にYoさんに掲示板で教えていただいた。わたし自身はこれは未読)串田孫一は樺山伯爵家のお嬢さんのベッドに寝ていたとか。

さらに日米開戦の頃、この家は吉田茂の所有になります。敗色濃厚の戦争末期、憲兵隊が踏み込んだのはこの家であった。当然、子供部屋をつかっていたのは吉田健一。

ということで、白洲正子、串田孫一、吉田健一という三人の文章家を育てた洋館がどのようなものであったのか興味が尽きないのですが、残念ながら敗戦時にこの屋敷は焼失してしまいました。たぶん、どこかに写真があると思うのですが、いまのところ、わたしは目にする幸運に浴しておりません。後述しますが、樺山邸の着工は明治25年(1892)です。焼失が昭和20年(1945)だとすれば、まさに明治、大正、昭和の大日本帝国の興亡の半世紀を生き抜いたという感がありますね。

この樺山伯爵邸をめぐっては、さらにこんがらがった話がありますが、とりあえず今日はここまで。続きはまた明日。

(註)
写真の旧岩崎邸は「郷愁百景」さんのところからお借りしました。クリックするときれいな拡大写真を見ることができます。ありがとうございました。

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2005/12/25

Yonda? リストウォッチ

PICT0002.JPG

いつの間に50冊分も集めたんだ?

カミさんが新潮社の「Yonda? CLUB」の時計をゲットしていた。
ブックオフでも新潮文庫はカバーに三角コーナーが残ってるかどうか確かめるのは、テキながらあっぱれ。わたしもそうだけど、みんな、めんどくさいからあんまり切り取ったりしないんだよね。

「あげないよ」と言われてしまったが、ちょっとうらやましいかも。(笑)

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2005/12/22

アランとヘーゲルと吉田健一

丸谷才一さんの『綾とりで天の川』(文藝春秋/2005)を読んでいたら、アランについて書かれた話があった。青土社の清水康雄さんから聞いた話だという。

清水さんは哲学が好きで、それで「現代思想」といふ雑誌を出したりしたわけだが、あるとき吉田健一さんといつしよに歩いてゐて、かう訊ねたのださうだ。
「先生、アランのことを教へて下さい」
ここで、話せば長くなる、なんてことは吉田さんは言はない。一言かうおつしやつた。
「あれはヘーゲルを読んだ人ですね」
清水さんは答へた。
「あ、それでわかりました」
全部わかつちやつたのである。まるで剣の奥義を伝授する、剣豪小説の一場面みたいだが、わたしはアランといふ名を見かけるたびにこの一挿話を思ひ浮べる。そして、何となく楽しくなる。

はは、さすがに「あ、それでわかりました」という風には行かないが(当たり前だ)、『プロポ』のなかに、ヘーゲルについてこんな言及がある。
この点、わたし自身ながいあいだ思い違いをしていた。わたしは、ある観念にたいする反論はちょうどその観念に等しい価値しか持たないことがなかなか理解できなかったのだ。いや、こう言ったほうがいい。観念への反論とその観念自体は、つねにおなじ観念であると。この点わたしはヘーゲルに賛辞を捧げる。
『プロポ 1』アラン/山崎庸一郎訳(みすず書房/2000)p.311

うーん。こっちも、「あ、それでわかりました」とは行かないか。(笑)

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2005/12/20

耐震詐欺事件の解明を望む

青木玉さんの『底のない袋』(講談社/2004)を読んでいたら、こんな一節が。

むかしの人は夜、寝しなに、
「寝るぞ根太、頼むぞ垂木、梁、柱、なにごと有れば起こせ屋の棟」
と家中の要所要所に我が身を守れと言葉をかけて横になる慣わしを持つ人があったそうだ。
10年前の震災のとき、わたしのところは震度4にすぎなかったが(*)、それでもマンションの中にいて、これはやばいかも、と一瞬思った。単純に縦や横に揺れるのではない。マッチ箱をイメージして、それぞれの柱の対角線がねじれるように揺れるのだ。ミシミシという不気味な音をたてながら。あのときほど鉄筋コンクリート造の建築物に柱があるということを意識したことはなかった。むかしの人ではないが、頼むぞ柱、なんとか持ちこたえてくれ、と祈った。

今回の耐震強度偽装事件は「頼むぞ垂木、梁、柱」というごくふつうの人々の日々の祈りを踏みにじり、嘲りながら、利益だけを追求したということで、平成ニッポンの代表的な風景となったようにわたしには思える。この時代の日本人の顔はあの総合経営研究所の内河健なる男によって代表されることになるだろう。品性もなく、公共心もなく、下劣で、醜い、金儲けの達人のかれら、「勝ち組ニッポン人」。


(註*)
その後いまにいたるまで、地震のたびにテレビを見ると地図の上に震度4の表示があることは何度かあったが、あれほど激しい揺れではない。震度はあまりあてにならないと思う。

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2005/12/15

水谷砕壷のこと

黒田杏子さんが聞き手をつとめた『証言・昭和の俳句』(角川書店/2002)のなかで、桂信子が俳誌「旗艦」のことをこんなふうに語っている。学校を出て俳句の実作をはじめたのだが、昭和10年頃の大阪の有名な俳人は松瀬青々とか青木月斗なんて人たちで、古くさくっていやだなあと若き桂信子は感じた。

もうやめようと思っていたころ、ある日、阪急の店頭で「旗艦」を見つけてページを開いたら、詩集のような俳誌で、句が一行にサーッと組んである。とってもきれいな紙を使ってあって、いいなあと思ってね。巻頭が鈴木清子でした。早速それを買って帰りました。もう、ここに決めたって。それが草城先生の「旗艦」だったんです。
そのころの「旗艦」は同人の平均年齢が二十五歳くらいで、若い人の集まりでしたね。八幡城太郎、安住敦、水谷砕壷とか。

ここに名前がでてくる水谷砕壷(さいこ)のことが、たまたま今日、手にした大阪俳句史研究会*の『俳句史研究』第13号(2005年)に書かれていた。
「水谷砕壷——人と作品」という題名で、ご子息の水谷春樹氏という方が、お話しになった内容を書き起こしたような体裁となっている。どうやら、坪内さんがインターネットを通じて水谷砕壷のご遺族の談話を聞かせてほしいと書き込んでいたのが縁となったらしく、はじめ水谷春樹氏は俳句のことはまったくわからないのでと固辞されたとのことだが、砕壷の人物像を知りたいとの慫慂に応じられたもののようだ。

水谷砕壷(本名、勢二)は昭和2年関西学院高商部卒業。学生時代は剣道と俳句にうちこんだ。当時、関学の俳誌「新月」の指導を仰いでいたのが日野草城で、「草城の提唱する新興俳句運動に賛同、心酔」し、草城に師事することとなった。
卒業と同時に大阪ガスに入社。昭和8年に大阪ガスの本社ビルとして、いわゆる「ガスビル」が竣工すると、このモダンな建物は一躍、大阪の文化人の活動拠点となり、砕壷もこれに大いに関わったらしい。当時のことを伊丹三樹彦さんは「ガスビルは新興俳句の砦でもあった」とのちにNHKの番組で語っているとのこと。
さて、砕壷は上記の桂信子の証言にもあるように、「旗艦」のメンバーだったわけだが、どうやら実質的な発行にかかわった人であったようだ。新興俳句運動が当局ににらまれたために自宅を編集室にして発行したこともあったらしい。戦後は「太陽系」の創刊を行い、四散した仲間を結集できたことを喜んだ。
昭和23年頃に「太陽系」も終刊となり、砕壷もまた大ガスの全額出資会社の経営者となったため仕事が多忙となり、俳句の世界からは引退した。
日野草城は「太陽系」誌上で砕壷についてこんな文章を書いた。

地味な縁の下の力持ち的な甚だ割りの悪い仕事を恰も天職であるが如く甘んじて引き受けてくれた。

ご子息も、父親の俳句についてはわからないとしたうえで、こんな風に語っておられる。
しかし俳句の制作以上に雑誌を毎号途切れることなく完成さすことに、責任感と達成感を満足させ、より大きな喜びがあったように私には思われます。

これもまた新興俳句運動を支えた一人というべきだろう。

砕壷の句をいくつか書き写しておこう。

 灰色の挽歌の冬は去りゆけり
 かりがねや鏡の指紋拭きおれば
 蟻の意志青炎の天にのぼりゆく
 街の上炎暑の空のにごりなし

*註
大阪俳句研究会は、代表理事が茨木和生さん、理事・編集が坪内稔典さんで、関西の俳句史の資料蒐集などの地道な活動をされている会であるらしいが、もちろんわたしは部外者なのでくわしいことは知らない。

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2005/12/13

もしもしQさんの生い立ち

『わが青春の台湾 わが青春の香港』邱永漢(中央公論社/1994)を読んで、邱永漢さんの実母が日本人だったことをはじめて知った。

邱さんの母親、堤八重は久留米生まれの日本人。彼女が邱永漢さんの父親である邱清海と同棲を始めたとき、四十前だった邱清海にはすでに妻がいた。名前を陳燦治という。たまたま邱清海と陳燦治との間には子供がなかった。こういう場合は古い妻を離縁して新しい妻を迎えるというのが日本的な考え方なのかもしれないが、台湾人を含めて中国人一般は、そういう風には考えない。いったん縁のあった女は一生面倒見るというのが人間らしいやり方だというのだ。そうかも知れない。(このあたり以前紹介した三木武吉のエピソードを彷彿とするな。【ここ】
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もちろん、八重にしてみれば面白くはなかっただろうが、当時の日本の戸籍法と台湾の戸口法の間には相互をつなぐ規定がなく、日本人戸籍を有する人が植民地の人と夫婦の契りを結んでも法律上は夫婦として認められないのだった。まあ、そんなわけで、いわゆる妻妾同居の暮らしのなかで邱永漢さんは生まれた。1924年のことである。かれの上に姉が一人おり、長男として邱永漢さん、そして妹と弟がそれぞれ四人ずつ続いた。十人兄弟姉妹である。

先述したように、当時の両国の法律上の問題で、両親は戸籍上は夫婦ではないので、生まれた子供はどちらかの子供として届け出る必要がある。しかし、これがむつかしい問題をはらんでいる。父親の籍に入れれば(つまり邱清海と陳燦治の子供として)もちろん邱家の相続人とすることができるが、当時台湾は植民地であるからその後は台湾人として教育上も差別をうけるし社会に出ても苦労するだろう。一方、母親の籍に入れれば、日本人になるが、私生児(なにしろ法律上は父親はいないのである)として届け出なければならない。
結局、両親は、姉と邱永漢さんだけを台湾人とし、八人の妹弟は私生児として日本は久留米の母親の戸籍に入れた。

こうして邱永漢さんは、同じ屋根の下に実母と法律上の母のふたりの母親がいるというちょっとかわった育ち方をされた。
ところが面白いのは、血のつながっていない陳燦治の方が、実母の八重より邱永漢さんにとってはいわゆる「お母さん」であったことなんだなあ。
本書で、ちょっと胸がつまるのは、東大に合格して日本に旅立つ「息子」のために、何十年も家から出たことのなかった陳燦治が纏足のよちよち歩きで基隆港までついて行き、岸壁で内台航路の船をいつまでも見送っていたというところ。東大在学中にこの母は亡くなり、邱永漢さんは二度と再びこの世で相見えることはなかった。生みの母親のときは泣かなかったが、この育ての親の訃報にはどうしても涙をとめることができなかったと書いておられるのが印象に残った。

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2005/12/11

諜報機関の甘い罠

冷戦華やかなりしころ、西であれ東であれ、政府の高官や政治家が売国奴になったり外国のスパイの手先になりさがる動機は、その人物のイデオロギーや信念によるという高尚なものもあれば、自分を冷遇した組織や国家への復讐という人間くさいものもあった。情けないことながら、カネや贅沢な生活にあこがれてなんて卑しい動機も少なくはなかった。しかし、もっともありふれた転落の始まりは──

『世界を騒がせたスパイたち(上・下)』N.ブランデル,R.ボア/野中千恵子訳(現代教養文庫/1990)には、ずばり「セックス」という独立した一章がある。

あなたのセックスの夢が、ある日、叶えられる。

堅物の役人には、なぜか自分好みの顔立、服装の若い女が、どうぞあなたの好きにして、と耳元で囁く。
変態の政治家には倒錯プレイを提供してくれる夢のような美女が現れる。
誰にも告げたことのないホモ趣味に悩む公安担当者には、アドニスのような少年が保護を求めてアパートに飛び込んでくる。
なんてツイているんだろう、こんなことがわたしの人生におこるなんて、と幸運を神に感謝したのもつかのま、数日後、あなたのもとに謎の訪問者がやってくる。
大型のマニラ封筒を差し出され、なかをあらためると、あなたの顔がはっきり写った、人にはとても見せることができない写真。真っ青になったあなたに謎の訪問者が告げる。
じつはちょっとしたアルバイトをお願いしたのです。なに、あなたのデスクに回ってくる政府部内の書類をちょっとコピーしてくれればいいんです。まさか嫌とはおっしゃらないと存じますが・・・・。

スパイという稼業は人類最古の職業と同じくらい古い歴史を有しているそうだから、冷戦が終わっても、いまもどこかで同じことは行なわれているだろう。

しかし、この手がきかなかった大物政治家もいた。上記の本に紹介されている一昔まえの話。日本の政治家やお役人も、某国の罠に落ちたときはぜひこの手で対応していただきたいが、無理だろうなあ。
この大物、モスクワを訪ねたときに、ソビエト側の罠にかかり、ホテルのスイートに送り込まれた数人の美女との交歓シーンをフィルムに撮られてしまったというのですね。やれやれ。しかし、KGBの係官がこのフィルムを見せて脅しにかかろうとしたら、驚いたことにこの人物、国に持ち帰ってみんなに見せたいから、ぜひフィルムのコピーをくれと言い出した。そして「わが国民はきっと私を誇りに思うだろう」と付け加えたのだそうであります。
さすがのKGBも、こいつのスパイ採用はあきらめたとか。

誰あろう、インドネシア初代大統領スカルノ閣下であったそうな。

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2005/12/10

穂村弘と山中智恵子

話は微妙に昨日のエントリー(ぼくの妹)とつながる。つながりは見えにくいと思うが、わたしの中では確かにつながっている。

角川の「短歌」12月号に穂村弘氏のこんな歌が掲載されている。

 髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌

この号のグラビアも同氏を前面に出していて、その写真ページにもこの歌が出ているので、まあご本人としても自負のある作品であり、雑誌サイドとしても評価をされているものなのだろう。傑作と評しておられる方の意見も見た。
しかし、一読、わたしは嫌な気持ちを覚えた。

ダルフールの人々を、イラクを、パレスチナを、などとは言わない。わたしだってそんな世界のことはほんとうには知らないし、そういうアプローチで歌を批判することは公平ではないと思っている。自分のささやかな身体感覚を大切にして、そこから世界を見るということが、わたしたちにできることであり、そういう感覚の方がむしろ大切だとわたし自身思っている。
しかし、この歌を何回読んでも、自分自身の快不快への鋭敏な感覚以外に何も見えない。他人への思いやりや、共感につながるような回路がどこにもあるように思えない。
それでいいんだよ。いまはそういう時代なんだから、と言うならば、そうではないよ、と答えたい。

同号の穂村氏の歌をあげてみよう。

 同きゅう生のみんなよ ぼくはいまひ行きのなかでおしっこをしているぞ

 射精って想像つくんじゃないですか おんなのひとの耳に尋ねる

 デジタルの時計を巻きつけてみたい山中智恵子の左手首に

よさがわたしにはまったくわからない。肥大した自意識と背中合わせの無神経。子供の感覚には美しいものもあるが、そのまま醜いものもある。第一、穂村氏はもう四十以上の人である。最後のデジタル時計の歌については、藤原龍一郎さんも辛辣な批判をしておられるのを目にしたが、当然だと思う。

最後に、口直しをしておこう。
穂村氏の揶揄の対象にされた山中千恵子さんの歌。同じ「短歌」の特集「今年出会った一番の歌」で前川佐重郎さんがこれをあげておられる。同氏の鑑賞もまた説得力があった。

 あをく老ゆるねがひこそわが一生つらぬきとめぬいのちなりける

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2005/12/09

ぼくの妹

内閣府が毎年行っている「心の輪を広げる体験作文」(ここ)のうち各部門の佳作以上が冊子になって発行されている。ごく短いものだし、政府の広報活動なんだから、いっそのことウェブにも載せればもっと多くの人が目にすることもできるのにと思うが、上記の内閣府のサイトにも作文そのものは出てはいないようだ。
実は、素敵なものがあったので、どこかに掲載されていれば、リンクを貼ろうと思ったのだ。
優秀作ではなく佳作だから、もしマスメディアへの転載があっても、こぼれてしまうかもしれない。しかし、とてもいい作文なんだよね。もちろん、わたしになにがわかるかと問われれば一言もない。ただ一人の親として、何度も読んで心を動かされたとだけ書いておく。ということで、みなさんもぜひご一読を。(原文には都道府県と具体的な小学校の名前がありますがそこだけ外しました)

小学生部門 ◎佳作

ぼくの妹   小学校四年 長谷川瞬

 ぼくには、二つ下の小学二年生の妹がいます。妹は、体の中のせん色体の一本が、ぼく達より一本多いと、お母さんから聞きました。その時、ぼくは、不思ぎに思いました。妹はぼくより、歩くのがおそかったし、七才の今も、話ができないので、ぼく達家族と会話もできません。けれども、妹は、自分の気持を、手や顔の表情で教えてくれます。例えばおなかがすいた時は、左手をお皿にして、右手で、はしを持つまねをして、合図をしてくれます。ごはんを食べている時に、おいしいなぁと思ったら、首を少しかたむけ、右手の人差し指を、ほっぺに当てて教えてくれます。
 そして、妹は、色々な物に、きょう味があるので、ぼくのまねをよくします。だから、お母さんは、
「妹は、いい事も悪い事もするので、悪い事はしないで」
 と言います。ぼくが学校で使っているランドセルを、かたにかけたり、ヘルメットをかぶって遊んだりするので、妹は、ぼくといっしょの学校に、行きたかったのかなと思う時があります。
 また、大事な物も勝手に、さわったりするので、ぼくが使おうと思うと、大事な物がなくなっている時があります。必死にさがして見つからない時は、妹に聞くと、ポケットの中から、出してきたり、かばんの中から、とり出して来たりして、思わぬ所から見つかる事があります。そんな時は、はらが立つけど思わず笑ってしまう事もあります。
 外へ出かけた時は、いつも走って行ってしまうので、必ずお母さんは、手をつないでいます。時々、お母さんが、妹を見ていられない時は、ぼくに見ててね。と言うので、ぼくは、妹と手をつないで面どうを見ます。たまに(面どくさいなぁ。ぼくだって、遊びたいのに)と思う時があります。けれども、ぼくの妹だから、しょうがないのかなと思います。
 ある時、公園で遊んでいたら、一人の男の子が、妹に向かって
「こいつ変なやつ。何もしゃべらん」
 と言いました。
「だれの妹やと思っとるんや。ぼくの妹だぞ。病気だからしょうがないだろ」
 と言うと、男の子は
「病気なら、死ねばいいのに」
 と言われ、(ぼくの大事な妹なのに。同じ人間に生まれて来たのに、どうして、そんな事を言われなければ、いけないのか)と思い、とても悲しい気持ちとくやしい気持ちになりました。家に帰ってから、お母さんに、その事の話をすると
「瞬ありがとね。妹を守ってくれて」
 と言って、悲しそうな顔をしていました。
 妹と生活している中で、他の人が妹の事をじろじろと見たり、いやなことを平気で言ったりするけど、ぼくにとってはたった一人の妹で、大切な妹です。ぼくが、言葉を教えてあげて、いつか、ぼくと会話ができることを望んでいます。

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2005/12/08

プロテイン・イズモ

以前、イモリの生殖フェロモンの名前が万葉集に由来するという話を紹介した。(「イモリは見ずや君が袖振る」)今回も、それにやや似たようなオハナシだが、ことが人間にかかわることだからあまりお気楽に終始できるかどうかはわからない。

雑誌『生物の科学 遺伝』の11月号を新しくできた奈良県立図書情報館(これはたいへんよい施設)でぱらぱら眺めていたら、こんな短いコラムが目に止まった。
動物の受精メカニズムで長い間謎だった精子側の因子が、このほど日本の研究チームによって突き止められた。この因子であるタンパク質は縁結びの出雲大社にかけて「Izumo」と名づけられた。研究チームは『Nature』に発表、とある。
ほんとかね、と念のため『Nature』のバックナンバーをあたってみたら、ちゃんとありましたね。(10. March 2005/ No.7030)

なんでも、このタンパク質は精子と卵子が結合した後の受精の最終段階であるところの融合メカニズムを制御するらしい。せっかく卵子に辿り着いた精子も、このタンパク質を生成できないと最終的に生殖に失敗するわけだ。細胞レベルでの縁結びを最後に可能にする因子だということで、イズモという命名になったのでしょう。縁結びと子授けとは、神様の方の業務分担が違うような気もするが、まあいいか。

これが実用化できればふたつの使い道がありますね。
ひとつはイズモを促進させて不妊治療に用いること。
もうひとつは逆にイズモを遮断するかたちの新しい避妊方法。

しかし避妊に使うとなると、精子は苛酷な競争をくぐりぬけて卵子に巡り合い、結合を果たし、いざ融合しようとしたところで失敗するわけですよね。最後の最後で騙まし討ちみたいな感じでどうも寝覚めがよくないような。(笑)

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2005/12/07

俳壇を背負って立つ人々

haiken0512「俳句研究12月号」の特集は恒例の年末の俳人アンケート。
お気に入りの俳人の今年の自選句や「ひと言」などをぱらぱらと拾い読みする。全部で二百十数名がアンケートに答えておられるのだが、その中に「注目する俳人2名」という項目がある。「注目する」という意味はなんだろう。なかには森澄雄とか金子兜太なんて名前を挙げている人もいるが、まあ、ごく素直に考えれば「中堅の俳人で今後の俳壇を背負って立ってもらいたい人」というようなニュアンスではないかと愚考する。もちろんこれはわたしの勝手な解釈で、そんなつもりで選んではいませんよ、と言われるかもしれないけれど。

二百人以上が答えている(もちろんこの項目は無回答というひともいらっしゃるが)ので、かなりの名前が挙がっており、わたしの存じ上げない俳人も多い。
ぼんやり眺めているうちに、句会ではないが、どなたが一番多く選ばれているのだろうと知りたくなった。どこかに書いてないかとざっと調べたが、わからないので休日の暇にまかせて自分で数えてみた。

さて俳壇には結社というものがあり、これは相撲部屋ではないが、こういうアンケートで人選をする場合には微妙に影響をするだろう。同じ結社からはあえて選ぶのを遠慮するという場合もあるだろうし、なんとしてでも同じ結社の俳人をこういう機会に知ってもらたい、と考える人もいるかも知れない。
しかし、まあ、二百人以上の人が選んだ結果は、それなりに俳壇の「世論」を反映しているような気もする。

結果はこんな感じだ。

1位  小川軽舟 (29票)
2位  櫂未知子 (18票)
3位  石田郷子 (17票)
4位  長谷川櫂 (16票)
5位  片山由美子(14票)
6位  宇多喜代子、小澤實、高柳克弘(13票)
9位  茨木和生、今瀬剛一、小澤克己、鍵和田ゆう子、鷹羽狩行(8票)
14位 池田澄子(7票)
15位 高山れおな(6票)
16位 今井聖、大木あまり、筑紫磐井、廣瀬直人、正木ゆう子、八田木枯(5票)

4票以下は省略
なんとなく世代交代が見えて面白い——ような気もする。
ただし、この順位にこだわるのは愚かだろうし、この人々だけが俳壇を背負って立つという意味でもないだろう。まあ、軽いお遊びということで。
ちなみに1位、2位の小川軽舟さんと櫂未知子さんはそれぞれ1961年、60年生まれである。

一言コメントの中では、佐々木六戈さんの以下の発言に共感。

井の中の俳句はそれ自体の水位を上昇させる以外に他の文芸と交差する方法を持たない。ときに井水を溢れせしめ、俳句らしからぬ俳句の出現を待望してやまない。

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2005/12/06

stay hungry, stay foolish.

話はいささか旧聞に属する。
今年の6月にスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式に招かれて祝辞を述べた。そのスピーチがウェブ上で映像や録音で公開されている。これがとても素晴らしいので、一頃、話題になっていたらしいのだが、世事に疎いわたしはつい最近まで知らなかった。いや、じつは先日スタンフォード大学のサイトで、このジョブズのスピーチだけでなく、いろんな講演や講義が無料公開されているということを知った(*註1)ときも、実際にダウンロードしたのはダライラマの長い講演シリーズ(この話はまた書くかもしれないが、今回はパス)なんかで、ジョブズのスピーチは「ま、いいでしょ」という感じであえて無視していた。
なぜかと言うと、わたしはこんな風に勝手に思ったのですね。

ああ、ジョブズってスタンフォード大学のOBだったのか、へえそうなんだ。でも、金持ちの息子が行く名門大学を出て、大成功をおさめた人の演説なんか別に聞きたいとは思わないね。

もちろんわたしも日は浅いけれど、一応はアップルのユーザーだから、ジョブズが一度は自分の立ち上げたアップルを追われたことも、先年、膵臓ガンを克服したことも知ってはいた。しかし、知っているのはそれくらいだったんだな。
ふと、思いついて、実際にこのスピーチを聴いてみたら、みなさんのおっしゃるとおり素晴らしい内容で感動した。やはり、よく知りもしないことを勝手に決めつけたりしてはいけないな、と反省。

Jobsジョブズのスピーチは、じつはわたしは大学を出ていないので、という具合に始まる。全然、わたしが思っていたような人ではなかった。
もしまだご存知でない場合は、下にリンクを書いておきますのでぜひどうぞ。オススメです。

わが英会話の先生とこのスピーチの話をしたら、かれが、うんジョブズがここで話している三つのストーリーって、結局全部一緒のことなんだよね、と言った。たしかにそうかも知れない。

・スピーチの入手場所(ポッドキャスティングの利用者用)
http://itunes.stanford.edu/
 ダウンロードの仕方
  (1) Open Stanford on iTunesをクリック
  (2) アプリケーション(iTunes)を起動
  (3) Heard on Campusをクリック
  (4) Interviews and Speechesのタブをクリック
  (5) "Steve Jobs' 2005 Commencement Adrress"をダウンロード

・スピーチ書き起こし(英語)
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html

・同上の翻訳
PLANet blog.

・「ホール・アース・カタログ」最終号のバックカバー
aki's STOCKTAKING

*註1
Fixing A Holeさんの記事のおかげです。どうもありがとう

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2005/12/04

遊びをせんとや

解説はとくにしません。最近、ときどきあそんでいます。このなんともユルい感じが心地よい。
まだご存じない方は適当にはまってください。とろぴぃ、というCGI。
(ここ)

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「正しい」TBは正しいのかね

ココログ・フリーの発表にタイミングを合わせたような、ココログに対するサイバー攻撃については、まあ、偶然なんでしょ、ということでパスするが、@ニフティにはTBスパムへの対策を早急に行い、利用者(ブログライターもその読者も含めて)が不快な思いをすることのないように全力をあげていただきたい。

さて今回の騒動がきっかけで、トラックバック(TB)に対するユーザーの考えや対応がいろいろ表明されているようだ。
いろんな考え方があっていいし、それぞれが自分の方針で対応すればいいことだ──と言ってしまえばそれまでなので、ひとつだけ違和感を覚えたことを書いておきたい。

それは、TBの「正しい」使い方は「引用通知」である、というもっともらしい解説だ。つまりトラックバックを送る場合は、自分の記事の中に相手へのリンクがあるか、相手の記事への言及があるかが基本的に必要だという考え方だ。わたしはあなたの記事を読んで、こんな記事を書きましたよ、というのがTBの「正しい」使い方で、単に似たようなテーマの記事を書きましたので読んで下さいね、というようなTBは好ましくないというのがこの意見の人たちの立場らしい。

だが、わたしはこの意見に与しない。

気持は分からないでもない。
わたしにも覚えがないわけではない。いい本を読んだなと思って自分のブログに感想を書く。その感想にTBをもらったので、リンクを辿って相手のブログに行ってみたら、ただのアフィリエイト馬鹿が、(ここからアマゾンに注文して下さいねと)その本を単に陳列しているだけだったりすれば、そりゃ、まあがっかりするわな。(笑)

しかし、相手の記事のなかに自分への言及がないことがそんなに問題なんだろうか。
わたしは、同じ本を読んだ人、同じ映画を観た人が書いた文章にはとても興味がある。TBを辿って行った先にその人の言葉でなにかが書かれていれば十分に満足だし、TBくれてありがとうと素直に思う。自分の記事への言及はまったく不要だし、むしろない方が照れくさくなくてありがたいと思うね。

トラックバックについては、「絵文録ことのは」さんのエントリーを参考にするのが定番なんじゃないかな。(ここ)
2年も前のエントリーだが、これ以上付け加えることもないし、その後、ここにある考えを超えるようなものもないように思う。

ということで、サイドバーのカテゴリーにTBポリシー他というのを設けて、「かわうそ亭」のTBポリシーを、以下に書いておきます。

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