カバ・コンドルは飛んでゆく
旧い表示で麹町区永田町一丁目十七番地。現在は自由民主党本部があるあたりにその洋館はあった。持ち主は伯爵、樺山資紀(すけのり)。後年、孫娘の白洲正子は自伝に次のように書いた。
永田町の邸は、鹿鳴館などを建てたコンドルさんの設計によるもので、あまり大きくはないががっしりした洋館であった。(新潮文庫p.87)
三菱の岩崎邸などに比べるとあんまり小さい家なので、自分のところはほんとうに貧乏なのだと子供心に思っていたという。なんだかなあ、ではありますが、参考までに岩崎邸の写真をご覧ください。
樺山邸の写真は見たことがないけれど、まあ、これに比べれば貧乏だと思ったのも仕方がないかもしれない。(笑)
さて、ここに出てくるコンドルさんというのは、ジョサイア・コンドル(Josiah Conder/1852-1920)のことで、白洲正子が書いているように鹿鳴館の設計者だが、ほかにも帝室博物館、東京帝国大学講堂、ニコライ聖堂などの設計で知られる。(ちなみに写真の岩崎邸もコンドル作品である)帝国大学で建築を教え(当時は造家学科と称した)日本の建築学の基礎を築いた。第一号の門下生が東京駅を設計した辰野金吾である。
ただし、樺山伯爵邸がコンドル設計であるかどうかは、白洲正子の言明にもかかわらず、問題がある。あとで、このことにはもう一度ふれます。
この樺山邸は世界大恐慌(1929)後に、当時三菱銀行会長であった串田萬蔵の手に渡りました。萬蔵の息子である串田孫一の「古風な洋館」(『串田孫一集』第5巻、築摩書房)にこの家のことがでてくるそうです。(数年前にYoさんに掲示板で教えていただいた。わたし自身はこれは未読)串田孫一は樺山伯爵家のお嬢さんのベッドに寝ていたとか。
さらに日米開戦の頃、この家は吉田茂の所有になります。敗色濃厚の戦争末期、憲兵隊が踏み込んだのはこの家であった。当然、子供部屋をつかっていたのは吉田健一。
ということで、白洲正子、串田孫一、吉田健一という三人の文章家を育てた洋館がどのようなものであったのか興味が尽きないのですが、残念ながら敗戦時にこの屋敷は焼失してしまいました。たぶん、どこかに写真があると思うのですが、いまのところ、わたしは目にする幸運に浴しておりません。後述しますが、樺山邸の着工は明治25年(1892)です。焼失が昭和20年(1945)だとすれば、まさに明治、大正、昭和の大日本帝国の興亡の半世紀を生き抜いたという感がありますね。
この樺山伯爵邸をめぐっては、さらにこんがらがった話がありますが、とりあえず今日はここまで。続きはまた明日。
(註)
写真の旧岩崎邸は「郷愁百景」さんのところからお借りしました。クリックするときれいな拡大写真を見ることができます。ありがとうございました。
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