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2005/12/10

穂村弘と山中智恵子

話は微妙に昨日のエントリー(ぼくの妹)とつながる。つながりは見えにくいと思うが、わたしの中では確かにつながっている。

角川の「短歌」12月号に穂村弘氏のこんな歌が掲載されている。

 髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌

この号のグラビアも同氏を前面に出していて、その写真ページにもこの歌が出ているので、まあご本人としても自負のある作品であり、雑誌サイドとしても評価をされているものなのだろう。傑作と評しておられる方の意見も見た。
しかし、一読、わたしは嫌な気持ちを覚えた。

ダルフールの人々を、イラクを、パレスチナを、などとは言わない。わたしだってそんな世界のことはほんとうには知らないし、そういうアプローチで歌を批判することは公平ではないと思っている。自分のささやかな身体感覚を大切にして、そこから世界を見るということが、わたしたちにできることであり、そういう感覚の方がむしろ大切だとわたし自身思っている。
しかし、この歌を何回読んでも、自分自身の快不快への鋭敏な感覚以外に何も見えない。他人への思いやりや、共感につながるような回路がどこにもあるように思えない。
それでいいんだよ。いまはそういう時代なんだから、と言うならば、そうではないよ、と答えたい。

同号の穂村氏の歌をあげてみよう。

 同きゅう生のみんなよ ぼくはいまひ行きのなかでおしっこをしているぞ

 射精って想像つくんじゃないですか おんなのひとの耳に尋ねる

 デジタルの時計を巻きつけてみたい山中智恵子の左手首に

よさがわたしにはまったくわからない。肥大した自意識と背中合わせの無神経。子供の感覚には美しいものもあるが、そのまま醜いものもある。第一、穂村氏はもう四十以上の人である。最後のデジタル時計の歌については、藤原龍一郎さんも辛辣な批判をしておられるのを目にしたが、当然だと思う。

最後に、口直しをしておこう。
穂村氏の揶揄の対象にされた山中千恵子さんの歌。同じ「短歌」の特集「今年出会った一番の歌」で前川佐重郎さんがこれをあげておられる。同氏の鑑賞もまた説得力があった。

 あをく老ゆるねがひこそわが一生つらぬきとめぬいのちなりける

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コメント

詩歌の世界は、門外漢ですが、およそ芸術表現というのは昇華の一形式だと思います。剥き出しの感情というのは、鬼面人を驚かすことはあっても感動を湧き上がらせることはないでしょう。手を加えない食材をいきなり皿に盛られて出されたときに覚える感覚に近いものがあります。

投稿: 烏有亭 | 2005/12/11 18:31

こんばんわ。コメントありがとうございました。
「シンジケート」の穂村弘を惜しんでいるのかなあ。かれの、たぶん名作にはこういうのがあります。

「酔ってるの?わたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

投稿: かわうそ亭 | 2005/12/11 22:38

この山中智恵子さんの歌、いいですね。うん、うん。

投稿: なぎ | 2005/12/14 10:52

なぎさん、どうもです。この歌に対する前川佐重郎さんの鑑賞の一部をついでにご紹介しますね。
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「おを」は青であり、藍であり、碧であり、ときに緑であったりもする。そこから発せられる「ねがひ」のイメージもさまざまであろう。しかし、そうした言葉の多義性や多様性にもかかわらず、一首の結ぶ像はたとえば山中智恵子の裡なる瑞々しい巫女のイメージでもいい。また青衣を纏った若い聖女のような姿であってもいい。

投稿: かわうそ亭 | 2005/12/14 19:42

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