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2005/12/27

カバ・コンドルは飛んでゆく(承前)

樺山伯爵邸をめぐる話の続き。
今回の内容は、ほとんどネット書友のかねたくさんが、以前、わたしの掲示板に書き込んでくださったものを、ログから掘り起こしたものであることを最初にお断りしておきます。ここであらためてお礼を申上げます。

前回、白洲正子の言明にもかかわらず、樺山伯爵邸をコンドル設計とするには問題があると書いた。じつは、この樺山邸については山下洋輔さんの『ドラバダ門』のなかに、山下さんの祖父である山下啓次郎設計であることがあきらかにされているのですね。(以下引用部分はすべて数年前のかねたくさんの文章です)

山下家に啓次郎さんの手帳が保管されていて、そこに明治25年に同邸を設計したことに対する報酬がメモされているのだそうです。
これを目にした藤森さんが「樺山邸の設計者は長らく謎だったけれど、やっとこれでわかった」とその手帳を取り上げてしまうという楽しいエピソードが付いています。

では山下啓次郎とはいかなる人物か。

山下啓次郎は漱石たちと同じ慶応3年(1867)生まれ。帝大建築科で辰野金吾に学んでおり、同期には伊東忠太(築地本願寺などを設計)がいます。つまりコンドルの孫弟子に当たります。
樺山邸が着工されたのは明治25年(1892)9月。同年7月に帝大を卒業したばかりの啓次郎にとって卒業後の第一作ともいうべき作品なのです。
啓次郎の父山下房親は維新のときに西郷の下で働き、のち川路利良の下で警察官僚になっています。
いうまでもなく樺山資紀は同じ薩摩人で、世代的には房親と同じなのでしょう。
樺山家のほうで山下啓次郎設計を隠してコンドルだと主張する必要性があったのかどうか。
『ドバラダ門』では、樺山資紀が房親に、「あなたの子どもさんに私の家を設計していただきたい」という要請をしたのではないかと、そのやりとりがフィクションとして再現されています。

どうやらこれで見ると、樺山伯爵邸がコンドル設計ではなく山下啓次郎設計であることは確実らしく思えます。

ところで、話がこんがらがってしまうのですが、雑誌『東京人』1997年7月号に特集「コンドルさんの謎」というのがあり、そこに串田孫一が「僕の家はコンデルさんが作った。」というタイトルで寄稿しています。場所は、神田駿河台、現在山の上ホテルがある付近。関東大震災で焼失、串田一家が住んだのはたった三年半だったとのこと。

ここが、ややこしい。よく読まないとこんがらがってしまうけど、ここで串田が書いている「ぼくの家」は今回のお話の樺山伯爵邸のことではありませんよね。まず第一に住所が全然違う。(永田町と神田駿河台)震災で焼失したというのもあきらかに違う物件であることを示している。(樺山伯爵邸は前回書いたように吉田茂の手に渡り戦災で焼失したわけですから)

時系列にこの間のことを書くとこうなります。

1892年  山下啓次郎、樺山伯爵邸(以下甲)設計
1920年  コンドル設計の串田萬蔵邸(以下乙)竣工
1923年  関東大震災により乙焼失
1929年頃 串田萬蔵が甲購入
1941年頃 吉田茂が甲購入
1945年頃 戦災により甲焼失

なお、上記の乙物件であるところの串田萬蔵邸の竣工は1920年4月で、コンドルはそれから二ヶ月後に亡くなっていますので、最晩年の作品だったことになります。串田孫一が、ぼくの家はコンドルがつくったというのは事実で、また串田孫一が樺山伯爵家のお嬢さんのベッドを譲り受けたというのもたぶん事実なのですが、そのふたつの家は違う家だったということになるようです。

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