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2005/12/15

水谷砕壷のこと

黒田杏子さんが聞き手をつとめた『証言・昭和の俳句』(角川書店/2002)のなかで、桂信子が俳誌「旗艦」のことをこんなふうに語っている。学校を出て俳句の実作をはじめたのだが、昭和10年頃の大阪の有名な俳人は松瀬青々とか青木月斗なんて人たちで、古くさくっていやだなあと若き桂信子は感じた。

もうやめようと思っていたころ、ある日、阪急の店頭で「旗艦」を見つけてページを開いたら、詩集のような俳誌で、句が一行にサーッと組んである。とってもきれいな紙を使ってあって、いいなあと思ってね。巻頭が鈴木清子でした。早速それを買って帰りました。もう、ここに決めたって。それが草城先生の「旗艦」だったんです。
そのころの「旗艦」は同人の平均年齢が二十五歳くらいで、若い人の集まりでしたね。八幡城太郎、安住敦、水谷砕壷とか。

ここに名前がでてくる水谷砕壷(さいこ)のことが、たまたま今日、手にした大阪俳句史研究会*の『俳句史研究』第13号(2005年)に書かれていた。
「水谷砕壷——人と作品」という題名で、ご子息の水谷春樹氏という方が、お話しになった内容を書き起こしたような体裁となっている。どうやら、坪内さんがインターネットを通じて水谷砕壷のご遺族の談話を聞かせてほしいと書き込んでいたのが縁となったらしく、はじめ水谷春樹氏は俳句のことはまったくわからないのでと固辞されたとのことだが、砕壷の人物像を知りたいとの慫慂に応じられたもののようだ。

水谷砕壷(本名、勢二)は昭和2年関西学院高商部卒業。学生時代は剣道と俳句にうちこんだ。当時、関学の俳誌「新月」の指導を仰いでいたのが日野草城で、「草城の提唱する新興俳句運動に賛同、心酔」し、草城に師事することとなった。
卒業と同時に大阪ガスに入社。昭和8年に大阪ガスの本社ビルとして、いわゆる「ガスビル」が竣工すると、このモダンな建物は一躍、大阪の文化人の活動拠点となり、砕壷もこれに大いに関わったらしい。当時のことを伊丹三樹彦さんは「ガスビルは新興俳句の砦でもあった」とのちにNHKの番組で語っているとのこと。
さて、砕壷は上記の桂信子の証言にもあるように、「旗艦」のメンバーだったわけだが、どうやら実質的な発行にかかわった人であったようだ。新興俳句運動が当局ににらまれたために自宅を編集室にして発行したこともあったらしい。戦後は「太陽系」の創刊を行い、四散した仲間を結集できたことを喜んだ。
昭和23年頃に「太陽系」も終刊となり、砕壷もまた大ガスの全額出資会社の経営者となったため仕事が多忙となり、俳句の世界からは引退した。
日野草城は「太陽系」誌上で砕壷についてこんな文章を書いた。

地味な縁の下の力持ち的な甚だ割りの悪い仕事を恰も天職であるが如く甘んじて引き受けてくれた。

ご子息も、父親の俳句についてはわからないとしたうえで、こんな風に語っておられる。
しかし俳句の制作以上に雑誌を毎号途切れることなく完成さすことに、責任感と達成感を満足させ、より大きな喜びがあったように私には思われます。

これもまた新興俳句運動を支えた一人というべきだろう。

砕壷の句をいくつか書き写しておこう。

 灰色の挽歌の冬は去りゆけり
 かりがねや鏡の指紋拭きおれば
 蟻の意志青炎の天にのぼりゆく
 街の上炎暑の空のにごりなし

*註
大阪俳句研究会は、代表理事が茨木和生さん、理事・編集が坪内稔典さんで、関西の俳句史の資料蒐集などの地道な活動をされている会であるらしいが、もちろんわたしは部外者なのでくわしいことは知らない。

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